ソーセージと乳幼児で韻が踏める気がしたのは気のせい。

幼女にソーセージを食べてくれとお願いするのはモラルの欠如

 

昔、小学生だった時の宿題で「将来の夢」という文章を書かされたことがある。

 

その時に書いたのは、適当な事をつらつらと並べ、最後に「朝起きるとそれは夢だった」という愚にもつかないような文章なのだが、僕ともう一人同じ様な作文を書いていた奴がいた。

 

お互い先生に書き直しを命じられ、2人放課後の教室で居残りをしながら何の夢も希望もない将来の夢の作文をでっち上げた。

 

その時一緒に作文を書いたのはH君という人間で、後年になってから「俺は150㎝以下で貧乳の女性しか愛せない。だから本当に残念なんだけど、女性がある程度の年齢を超えてしまうと興味が持てないんだ」と、とても夢のある言葉を悲しい表情で言い放った人間でもある。

 

例えばそんなH君が、幼女に向かって「僕のソーセージを食べてくれないか」と言うと今のご時世ではすぐに通報され、彼の所有する個人的かつ有用な資産は警察の資料として保管されてしまうことになり、その言葉は夢の国(a.k.a刑務所)への片道切符になってしまう懸念がある。

 

ではその一言が夢の国へのチケットではなく日常的に使える定期券として存在し、捕まったり通報されたり異常者扱いされないただ1つの方法があるとすれば、それは実際にソーセージを作る事である。

 

早々にそのことに気がついた僕は、今までのブログで書いてあるように何度かソーセージを作っている。

 

しかし実際のところ僕はHくんとは違って幼女に興味はないのでただソーセージを作る機械と化しているのだけれど、子どもはなんにせよ素直な存在なので、例えば何かを作ったときにその評価をしてもらうにはとても都合のよい存在でもある。

 

先日妻の友人が、夫、子ども(雄/4歳)と共に我が家に遊びにきた。

 

その子ども(雄/4歳)がなんのためらいもなく急に僕の妻の胸を触ったり、歌詞が全部うんこの歌を歌い出したりするのを傍観していると、小さき人はやはり自分に正直で何とも面白いものだという気持ちと、僕も昔はこんな風に自分に正直に生きていたのにいつの間にか大きい人となり、人の顔色ばかり伺って生きるようになってしまったのだあという、なんとも複雑な感慨深さを感じてしまった。

 

しかし僕はそんなマイナスの感情を誰に伝える事もなく、冷静な面持ちでその名もなき感情を台所の三角コーナーにかなぐり捨てた。迷路のように入り交じった複雑すぎる気持ちを誰かに伝えられる術を持っていなかったからだ。たとえそれがどれだけ愛おしい感情であったとしても、伝える事が出来なければ意味はない。壊れるほど愛しても三分の一も伝わらない感情なんていうのは、持っていても無駄である。男はいつだって頬に傷のある流浪人なのだ。

 

そんな矮小な感情の機微を理解してもらうより、もっと大切な事がある。銀杏ボーイズの峯田さんは十七歳の中でこう叫ぶ。

 

「あいつらが簡単にやっちまう30回のセックスよりも、『グミ・チョコレート・パイン』を青春時代に1回読むってことの方が僕にとっては価値があるのさ」

 

 

そうさ、大槻ケンヂの名作を読む方が、幼児という立場を傘にきて簡単に初対面の女性の胸を30人分揉む事よりもいいのさ。いやむしろ、一生懸命作ったソーセージの味の評価を1度してもらうことのほうが、僕にとっては価値があるのさ。

 

そう思った次第である。

 

でもやっぱりおっぱいがいっぱいがいい

 

偉そうに言ったが、よくよく考えるとソーセージの評価よりも初対面の女性のおっぱいを揉める方がいいに決まってる。当たり前だ。

 

しかし、なぜおっぱいに対し、「ソーセージチェックなんてどうでもいい」と思えるほどの愛を持ってしまうのかを考えると、いつでも手に入るものよりもなかなか手に入らないものの方が大切に思えるからであろう。 

 

僕にはソーセージはあるが、おっぱいはない。だからこそ、おっぱいがほしい。

 

「いやいや、男の胸にもあるではないか。『雄っぱい』という言葉を知らんのか、この白痴が」

 

と、言いたい人がいる事は想像するまでもなく、そしてそう言いたくなる気持ちは十分に分かる。僕の胸にも申し訳なさそうに付いているもの、すなわち乳首があるし、舐められるとそれなりに気持ちがよい。ビクビクしちゃう。

 

なのでその言い分は充分に理解しているつもりだ。理解し、さらには快楽まで享受している身分ではあるのだが、それをふまえた上で言いたいのだ。僕についているこのスイッチは、おっぱいとは言いがたい、と。もしそれでもこの突起をおっぱいと言い張る人間がいるとしたら、それは僕の考えるおっぱいの本質を見誤っているのではないか。

 

ここまで書いたところで気がついたのだけれど、僕の僕による僕の為のおっぱい概論を書いていなかった。

 

すなわち僕の手落ちである。

 

このまま話を続けてしまっては本質を伝えるどころか相互理解が進まず、むしろ誤解が生まれてしまうのは必定である。ただでさえ戦争・論争の種になってしまうおっぱいに関わる事だからこそ、僕は脱線を覚悟し、概論を書いていきたいと思う。いつまで経っても察してちゃんでは大人にはなれないのだ。

 

おっぱいとは、感情交換装置である

 

「頭のいい人の話は結論が先にくるのだ」と、どこかで耳にした事もあり、頭がいいと思われたい言われたいと常々考えている僕は先に結論を書くだけに飽き足らず、見出しにもするという暴挙に出た。

 

なのでここから下の文章は読まなくても良いくらいなのだけれど、自分の頭の中の整理も兼ねて一応書いておく。

 

そもそも、僕は小さい胸が好きである。AでもAAでも拒むどころかウェルカムであるというか好物であるし、Bなんていうのは「愛でたい」と「目出たい」が交差する人間交差点だ。これ以降、Cは果たして大きいサイズか小さいサイズかという議論や、さらに上のDという人智を越えた大きさに関する記述は余計な軋轢と幾多の死者を生み出す結果しか見えないのでここでは語らない。おっぱいは戦争の道具ではないのだから。ただ、大きな胸を拒否する訳ではないことだけは断っておく。大きくても小さくても、おっぱいは偉大なのだ。

 

 世に生息している男には、だれしもが「譲れない願い」を持っている。しかも2つ。女性諸君、もしくは田村直美からはなんて欲張りなんだろうと思われるかもしれないが、これは生態に近いものであり、取り扱い説明書に類するものだと思ってくれても差し支えない。

 

西野かなの「トリセツ」は演奏時間4分21秒の超大作であるが、かたやこの男のトリセツはものの2行でカタがつく。

 

その2つとは

 

・胸に顔を埋めて窒息したいという気持ち

・側溝に憧れて生まれ変わったら道になりたいと思う気持ち

 

以上である。

 

その2つはどんな男でも共通して持っているものなのだ。ユングは「人類には共通する深層心理がある」と提唱したが、男のみに共通する深層心理こそが、乳房窒息と側溝同化なのだ。

 

さて、前置きが長くなってしまった。

 

おっぱいが感情交換装置だからこそ手に入れる事が出来ずにその入手困難さがあるがゆえに(いわゆる超レア)僕は好きだ、と書いたが、果たして感情交換装置とはどういうことかを説明したい。まあ、説明が不要なくらい簡単なことだとは思うけれど、一応。

 

そもそも妊娠した女性の胸からは母乳が出るように、妊娠していない女性のおっぱいからは母乳の代わりに愛が溢れてくる。そして両方の乳房から溢れでた愛は交互に僕を、言うなれば1発目のおっぱいは僕の眼球に命中して頭蓋骨を飛び越えて僕の胸に届き、2発目のおっぱいは僕の鼓膜を突き抜けてそれも僕の胸に届く。

 

おっぱいを吸うとき、いつでもどんな時でもスイッチが入る。そしてその時は必ず14才になっているのだ。

 

そして14才になった僕は2発のおっぱいを受け止め、その衝撃を身体に通過させた後、下半身から別の形の愛を発射する。欲望という名の戦車に付いた砲台は、いつでも目の前のものを狙い撃ちするのだ。そしてその弾、いや、玉から生み出された僕の愛が、さきほど愛を発射したばかりのおっぱいに到着したとき、そのおっぱいは僕の温もりに包まれることになる。

 

おっぱいから生まれた愛が僕の中を通過し、新たな愛となってまたおっぱいに帰っていく。その崇高な交換行為はまるで小学生時代に行われたクリスマス会のプレゼント交換のようにも思えるではないか。

 

これほどまでに崇高な存在であるおっぱい=感情交換装置だからこそ、簡単に手に入るものではないがゆえに僕はおっぱいを強く求めてしまうのだ。

 

かたや僕についているいわゆる『雄っぱい』は愛を生み出さないし、僕の身体をビクビクさせるだけのスイッチとしてしか意味をなさない。狭い世界で完結しているだけのピタゴラスイッチでしかないのだ。流石の佐藤雅彦も、男の雄っぱいだけはどうにもできなかったのだ。だから、僕はおっぱいを持っていない、と胸を張って言えるのである。

 

話はそれるが、電車内で泣いている乳幼児に対してウルサイだとか迷惑だとかの文句を言う人がいるけれど、それに対して、心がせまいだとかお前もかつては赤ちゃんだっただろうが、とか言って非難するのは少し間違っていると僕は思う。

 

そもそも彼らは実際問題として、電車の中で泣く乳幼児がうるさいから怒っているのではない。

 

泣くだけでおっぱいを吸わせてもらえるという、乳幼児の立場が羨ましくて怒るのだ。羨ましくて妬ましくて吸いたくて吸いたくて会いたくて会いたくて震えてしまう、でもそれが叶わないと知っているから、ああいう風な怒りを周囲にぶちまけているのだ。

 

そりゃあ泣くだけでおっぱいを吸わせてもらえるのならば、僕だって人前で泣くくらいのことはします。駄々もこねます。でもね、電車の中で僕が泣いても喚いても、誰もおっぱいを吸わせてくれないのは明白じゃないですか。多分乳幼児に怒っている人というのは僕と同じように羨ましさと妬ましさが化学反応の起こし、結果として乳幼児に文句を言うようになるのですよ。もうほんとうに乳幼児が羨ましいですよ。女性専用車両に対して男性専用車両が欲しいと常々思っていましたが今はそれよりも大人専用授乳車両が欲しいくらいですよまったく。

 

だからそういう人に対しての正しい処法として、謝ったりする必要はもちろんなく、乳幼児を泣き止ませることも全然必要じゃなくて、優しい笑顔で哺乳瓶の口、もしくはおしゃぶりを怒っている人に与えてあげる。これに尽きる。現に今も僕はおしゃぶりを咥えながらこの文章を書いている。凄い安心する。

 

さて。

 

理性こそが動物と人間を隔てるものだ、と誰かが言っていたが、それに倣うのであれば、おっぱいに母乳を求めるという本能の赴くままに生きている赤ちゃんおよび小さき人が動物的で、おっぱいという存在を母乳生産装置ではなく感情交換装置として認識できるほどの理性を持って愛を求めるのが人間もしくは大人だ、ということにならないだろうか。

 

なるね。うん。なる。

 

となると、すなわち初対面の女性のおっぱいを揉みたいという感情は極めて理性的な感情であると言えるのではないか、とも言える。

 

だから、僕は人間として、いや、極めて理性的な人間として、おっぱいが揉みたいと常々考えている。

 

僕が解決したって言ったらそれは解決したことになるだろ?

 

しかし、気になる事もある。

 

おてての皺と皺を合わせると『幸せ(皺合わせ)』が生まれるのならば、僕の手の皺とおっぱいが合わさると『失敗(「し」わとお「っぱい」)』が生まれてしまう懸念があることだ。

 

なんとも不吉なこの組み合わせは、至る所で散見される。電車内で他人のおっぱいを触ってしまう事はもちろん失敗を意味するし、ビクビクしたいからといって人前で雄っぱいを弄ってしまうとこれもまた人としての道を踏み外す事になる。いくら小さき人の憧れてその真似をしているのだと説いたとしても、良い大人が何をしている、と冷たい目で見られてしまうことは必定なのである。

 

だからこそ、おっぱいの話はここで〆たい。着地点が自分でもよく分からなくなってきてしまった。

 

話を戻そう 

 

 常日頃からソーセージ作りに没頭している僕は、折角我が家を訪ねてくれた妻の友人の子ども(雄/4歳)に、僕の作ったソーセージを食べてくれないかとお願いした次第である。

 

勢い良く頷いてくれたのはとても有り難く、僕はすでに製作し終わって冷凍していたソーセージを冷凍庫から取り出し、フライパンで焼きながらその焼いている男らしい背中を見せつけた。その日までに何度かの試し焼きを経ていた僕は、弱火のフライパンでしばらく焼いた後に魚焼き用グリルで焼くと皮目の食感が良くなることを発見していたので、自分の中でもベストと言えるくらいの焼き加減に仕上げることが出来たのである。

 

「おやおや、こんな大きな大人の背中を見せてしまったら、彼のお父さんの威厳を台無しにしてしまうではないか」と優越感に浸りながら、ちょうど良い焦げ目具合になったソーセージを皿に盛った。

 

 そのソーセージをテーブルに持っていき「さあどうだ。これが僕のソーセージだ。肉汁たっぷりだ」と彼の父の威厳をぶちこわすほどのドヤ顔で差し出した。

 

しかし子ども(雄/4歳)の興味というのは山の天気よりも移ろいやすく、結局僕の雄大な背中はおろか焼き上がったソーセージに目を向ける事すらせず、我が家の猫と戯れていたので、彼(雄/4歳)は僕の作ったソーセージを食べる事はなかった。

 

無邪気とは、邪気が無い事などではなく、無心の状態で邪気を放つ事であることなのだなあと、その時に深く痛感した。

 

そんな、猫よりも魅力の少ない僕のソーセージを、そろそろ誰か食べてくれないか。