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嫌われたくないと思った時点で、多分嫌われている。

愚痴とか、希望とか、思い出とか、好きな物とか、そんなものの寄せ集め。テリーヌみたいなもん。違うか。

G戦場へヴンズドアの話。

いや、ブログなんか書いている場合じゃないんだけれども。

見積も送んなきゃいけないし、メールも送りかえさないかん。

でもな、そんなん放置するんじゃ。

そんなんしとる場合じゃないんじゃ。

本棚に並んでた日本橋ヨヲコの「G戦場へヴンズドア」読んでしもたさかいにな。

 

 

 初めて日本橋ヨヲコを知ったのは、

コミックIKKIだった。

 

「コミックは未だ黎明期である」

 

IKKIのそのあおり文句は僕を痛く感動させた。

そう、「甚く」でなはい。「痛く」感動させたのだ。

簡単にいえば、とてもかっこ良かった。

 

黎明期。

新しい時代・文化などが起ころうとする時期。萌芽期。三省堂大辞林より。

 

山川惣治武内つなよし水木しげる白土三平手塚治虫藤子不二雄赤塚不二夫さいとう・たかを梶原一騎原哲夫鴨川つばめ小池一夫つげ義春本宮ひろ志小山ゆう萩尾望都あだち充大友克洋鳥山明丸尾末広浦沢直樹山本直樹上條淳士岡田あーみん松本大洋井上雄彦…。

 

当たり前だけれど、ここには書ききれないほどの、収まりきらないほどの偉人たちがマンガの歴史を紡いできた。

おのおのが力の限り戦い、盛り上がっては廃れ、また立ち上がり、廃れては盛り上がりを繰り返した。

波乱に満ち、試行錯誤の末に、傷つきながらも荒野を切り開いてきた先人達が築いたマンガの世界。

そこにはもう足跡がついていない場所などないのではないかと僕は思っていたし、現に1990年代のマンガ家や編集者達は、未開の荒野を探すのに疲れていたんじゃないかとも思った。

 

そんな時代において、コミックは未だ黎明期である、と言い切ったIKKIに痛いまでのかっこよさ。

 

IKKIが掲げたその言葉は、荒野を切り開いた先人達を否定しているのではない。

切り開かれた荒野は、すでに荒野ではなく肥沃な大地である。だからこそ、その叡智の結晶がちりばめられた大地から芽吹いてくる、すばらしいモノを探すのだという、編集者達の信念みたいなものを僕は感じた。

「既に誰かが立ち入った場所だから面白くないでしょ」みたいな、そんな考えではなく「コレだけすばらしい土壌があって、面白い物が生まれないはずないだろう。あきらめたらそこで試合終了だよ」という、問いかけなのだ。

 

連載されていた作品群も、たった1つの煌めきがあれば10の不足なんて関係ない。そんな雑誌だったと僕は思う。

 

 そして、その幾つもの煌めきの中に、日本橋ヨヲコがいた。

 

大分前置きが長くなってしまった。

 

このG戦場ヘヴンズドアは、 マンガ家を目指す二人と、それを取り巻く人間達の群像劇である。

いや、主人公がはっきりしているので群像劇っていってしまうと語弊があるかも知れない。

 

でも、それでも僕はあえて群像劇と呼びたい。もちろん脇役である他のキャラが立っていて、それぞれに作者の愛情を感じるから、というのも理由の1つであるが、それはマンガ家であれば至極当然のことなのだ。

それよりも、だ。

このマンガが努力友情勝利ありきの王道と呼ばれるマンガではなく群像劇たる所以は、本当の主人公はマンガ家を目指す二人ではなく、「二人を取り巻く環境や、それを作り上げた人々」なのではないか、と思ったからだ。

 もちろんこのマンガにも努力友情勝利は各所に散りばめられてあり、読んでいる人間に高揚感を与えるのは確かだ。しかし、その奥に、日本橋ヨヲコの本質が垣間見え、そこにこそ煌めきが存在する。

 

二人のうちの一人である長谷川鉄男は、

父親である元マンガ家の編集者、阿久田と母親の呪縛(のちに分かるが、これは愛情なのだが)により、周囲の期待に応え続けなければならない、精神的に満たされない孤独な生活を送る。

もう一人の堺田町蔵は父親が人気マンガ家であり、町蔵はその事を周囲に隠し、またマンガを憎んでもいる。

そんな二人が出会い、マンガを介して協力し、マンガを通じて葛藤し、マンガ家故に反発し、マンガ家であればこそ理解し合い、マンガの垣根を超えて戦友として支え合う。

 

ストーリーで言えばこんな感じ。

そのストーリーのどこに煌めきがあるのだ、と言いたくなるだろう。

有り体と言えば有り体で、僕の文章だけで読みたくなる人なんていないかもしれない。

だけど、ぜひとも読んでほしい。

G戦場ヘヴンズドアには 全編通して煌めきしかねえよ。

不足してる所なんて見当たらねえよ。余計な部分もありもしねえよ。

 

つって。

 

以下、若干のネタバレあります。

 

このマンガは、マンガとは何か、なぜマンガを描くかを模索している。

 

ヒロインである久美子の父親の言葉に

「マンガで人が救えるのか?」

というものがある。

久美子の父親が医者であることが、なおさらこの言葉を生かしている。

 

多分この言葉は、日本橋ヨヲコが、というよりも、マンガ家だけではなく、建築家でもいい、デザイナーでもいい。料理人でも小説家でも、ぬいぐるみ作家でもなんでもいい。きっと、モノを創造することに携わる人間のほとんどが生涯抱えていく、もしくは目指していくものなのだろう。

 

しかしこの後、猪熊宗一郎は言う。

マンガ家とは「本気でうそをつく仕事なのよ」と。

 

さらに、鉄男の父、阿久田はこうも言っている。

「マンガは練習するもんじゃない。覚醒するものだ」

 

マンガに人を救えるのか。

マンガはうそをつく仕事。

マンガは覚醒するもの。 

 

作中で語られる、マンガに対する強烈な、軽蔑、侮蔑、尊敬、信頼、愛情、憎悪。

正しいものはいったい何か。

 

否。

 

何が、どれが正しいのではなく、人間が持っているそれらの感情全てを内包しているものこそが、本物のマンガなのだ。

感情全てを内包する、それはすなわち、自分の中にある感情を全て紙面に出し切るということであり、だからこそ、町蔵の師匠である町田都が言ったように、マンガ家に一番必要なものが「人格」なのだろう。

その人格こそが才能なのだ。

 そしてここで僕は、日本橋ヨヲコはとてつもない課題を自分に課していることに気がつく。

マンガ家自身が、自分の作品のなかでこれほどまでにマンガのハードルをあげているのだ。

 このG戦場へヴンズドアにおいて、日本橋ヨヲコはそのハードルを見事に飛びこえていた。だからこそ、全編を通して煌めいているのだ。

 呉智英はだしのゲンのあとがきで、「何かを訴えるということは、評価の基準にならない。人間を描けているか、人を感動させるかが作品を評価する基準になるのだ。」と述べている。

 G戦場へヴンズドアでは、人間が見事に描かれている。

きれいごとだけではない、すれ違いや挫折や諦め、そして再生。

「つくりもの」でしかないマンガの中の「つくられたキャラクター」。

しかし、彼らの口から出る言葉は決してつくりものではなく、敢然と心に残っていく真実なのだ。

 マンガに人生を救われた人間は少なくないと僕は思う。僕もその一人で、読んできたマンガに救われ、今でも何かしんどい事があればマンガに手を伸ばす。

それを現実逃避だと言うのかもしれないけれど、そうじゃない。

現実ときっちり向き合う為に、マンガが必要なのだ。

 マンガを読み、現実と向き合う事でそのつらさを乗り越えられた時、本気の嘘で創られた真実が、見事に現実を凌駕しているではないか。

それこそが、人が救われるマンガ、日本橋ヨヲコが描きたかったマンガなのかもしれない。と、勝手に考えている。

 主人公に対して感情移入することで感動できたり、興奮できたりするマンガは多い。しかし、ここまで人と人との繋がりを痛切に描いたマンガがあっただろうか。

このマンガを読み終わってから思い返してみて欲しい。

登場人物の誰かに感情移入していたのではなく、いつの間にか自分自身が、G線上のどこか一部で共にアリアを奏でていたんじゃないのか、と。

ま、それをどう感じるのかも読者次第といってしまえばそうなのだけれど。

 少なくとも僕はこのマンガを読みながら、登場人物に対して「共感」しているではなく、登場人物の有り様を「共有」していると感じていた。

それはつまり、紙の上の世界がいつのまにか僕の実世界とリンクしていたということだ。だからこそ、このG戦場へヴンズドアは、マンガの形を借りた、環境が主人公の群像劇なのだ。

  鉄男も町蔵も久美子も大蔵も石波修高も、心の底から求めていたのは、愛情や友情や信頼ではなく「受容」だった。

 ただ、自分を受け入れてほしかった。

それだけの為に、みんな、自分の人生を懸けた。

「そんな事に人生を懸けるなんて、どうかしてる」

そう思える人は、ある意味で幸せであり、ある意味では不幸でもある。

 受容される。

それは本当に簡単な事ではない。血の繋がった親子ですら、一筋縄でいかないものだ。そこに命をかけるなんてどうかしてると思っている人間は、表層でしか他人との関係性を築けていないと僕は思う。自分を自分で受け入れる事ですら難しいのに、他人を受け入れるなんていうのは、苦悩でしかない。

その苦悩は時に誰かを傷つけ、不幸にもする。傷つくのが自分である場合だってもちろんある。 

苦悩を感じなければ幸せでいられるし、誰かを傷つけることもない。

しかし裏を返すと、成長することもないのだ。

どちらを選ぶかは個人の自由じゃないか、という意見もあるだろうが、実際はそう簡単じゃない。

環境が強制的に選ばせるのだ。

そして、その苦悩を乗り越えた先にしか、人間同士の魂の交流はないのだ。

そして、その交流こそが、本当の優しさであり、ぬくもりである。

これの優しさやぬくもりを味わえない事、これはとてつもなく不幸なことだ。

 

これほどまでに真剣に人生を突き詰めていく物語は、読み続けていくと不意に心苦しくなる瞬間がある。それでも安心して読み続けられるのは、登場人物全てが自分の行動や信念に責任を持ってるからだ。

責任。

それこそが、このマンガの中に脈々と流れる『本気の嘘』を『現実』に変換する 

キーワードなのだ。

だからこそ、読み進める中でどれだけ心苦しくても読者は安心して追いかけ、物語に同調していけるのだ。

 

日本橋ヨヲコの、G戦場ヘヴンズドアの本質は、この「責任」に集約されているのではないだろうか。

それは、マンガが描けなくなってしまった鉄男の代わりに、町蔵が続きを作るところに顕著に表れている。

知り合いのマンガ家に手伝いをお願いし、マンガ家のプライドがないのかと問われた町蔵は、

「ありますよ、そんなもん。あるからこそどんな汚い手段使っても完成させますよ。」と頭を下げる。

この言葉の裏側に、どれだけの悩みや愛が溢れているかは、これを読んだ人にしかきっと分からないだろう。

ネタバレをここまで書いておいて申し訳ないし、多分読んだ人は各々で色々考えるだろうからこの文章は本当に意味がないのかもしれない。

だけど、僕はどうしてもこの気持ちを書きたくなったのだ。

ただここからの流れはもう書けない。なぜならば、思い出すだけで泣けてしまうから。

そして今日も僕は仕事に向かい、また書きたい文章を書く。身体や心が疲れたら、本棚に手を伸ばす。

その手の先に、煌めきを放つ背表紙が幾つも並んでいる幸せを噛み締めながら。

 

思い切って「でんでん」というカテゴリーをつくった話。

でんでん

思い切る方向を思い切り間違えた。

でも、それでいい。

やっぱりでんでんには人を殺してほしい。

しかも笑顔で。

指示をだすのでもいい。

思いっきり残虐な方法で。

しかも笑顔で。

 

いや、役柄としてね。

っていうか、僕がでんでんにそれだけのイメージを持っているのは

冷たい熱帯魚」のせいなんだけれど。

 

それ以前に出てたドラマや映画ではやっぱり人のいいおっちゃんだし、

やさしそうだし、面白いし、

高校時代の社会科の先生に似ている。

うん、これは関係ない。

 

でもやっぱり冷たい熱帯魚以降、

ただ人のいい感じだけじゃなくて、

裏のある役が多くなってきている気がする。

ゆとりですが、でも、最初はいい人だったけど、

平気で裏切る感じもあるし。

 

うん。やっぱり、でんでんの二面性は面白い。

それ引き出したのも、園子温の凄さか。

 

 

足と心が痛くなった話。

日々の小言

趣味はなんですかと聞かれると、返答に困る。

 

履歴書にはいつも読書と映画鑑賞と書いていたけれども、

実際のところ読書家といえるほど本を読んでいるわけでもないし、

自慢できるほど映画を見ているわけでもない。

好きな作家は町田康中島らも開高健伊丹十三隆慶一郎とディックフランシスとっちゅうて会話がそこまで広がるとは思えんし、

天使にラブソングを2を14回見たというのは映画好きじゃなくて

ただの天使にラブソングを2のファンだっていうだけだし。

エーイノーマーウンテンハーイヤー!

漫画も読むけれど自慢できる程読んでるかっていえばそうでもない。

購読しているのはジャンプだけだし、集めている漫画の種類も少ない。

じゃあメジャーな漫画が好きなのかと聞かれれば、

そこも何となくうまく返事ができない。

マイナーな漫画でも好きものもあるし、かといってそれこそ熱狂的に好きなものがあるわけでもない。

ゲームもしているけれど未だにスーパーファミコンとプレステ1しかしていないし、

やっているソフトはファイナルファンタジーの5、6と俺の屍を超えていけくらいだし、かといってやり込んだりもせず、ただ夜の限られた時間を無駄にしているという贅沢感を味わいたいだけでコントローラーを握っている。

 

で。

 

他に趣味と言えて、かつ人に話しても引かれず、かつ会話を生み出せるものはなんだっちゅうて。

 

趣味ってのは自分の好きな事なんだから好きにすりゃあいいいじゃんってなもんで、

贅沢に時間使えてるんならそれはそれで立派な趣味だけれども、やっぱり人と話すときに会話が広げられないとそれは趣味と言えないのでないのかという葛藤と格闘。

 

ほんで僕がたどり着いた、今考えられるなかでのベストオブ趣味。趣味インザ趣味。

 

それが、散歩。

 

そう、散歩なんだけれども。

ほら、なんかバランスいい感じがするでしょ。

散策みたいな特別気取った感じもなくて、

ランニングみたいになにかに追いつめられている感じもなくて、

人間観察みたいに斜に構えた感じもない。

 

凄い趣味っぽい。

 

散策なんか、軽井沢だとか京都だとか、なんか特別な場所じゃないとできない感じあるじゃん?

ランニングだと皇居か大阪城公園にいかなきゃダメな感じあるじゃん?

人間観察が趣味っていう人、普通に話してても観察されてそうな感じあるじゃん?

 

で。

 

休日を利用して、散歩に行って。

これ、散歩の楽しみ方は人それぞれだと思うんだけど、

僕個人的な楽しみ方としては、何かに沿って歩くこと。

 

問題は何に沿うのかってことなのですが、

僕のおすすめはだんぜん川。

 

もうね、川楽しい。

昨日は猪名川っちゅう川を歩いてね。

 

亀とゴミと飛行機とゴミと鯉とゴミと蛍とゴミ。

川面を見つめて歩いてたら、

結局13kmほど歩いた。

ゴミと川を見ながら。

蛍がいるぐらいこの川の水綺麗ですよって書いてある看板の横にゴミ。

 

だからポイ捨てがダメなんだよ、ってわけではなくて、

いや、もちろんポイ捨てはダメなんだけど、

いくらダメだっていったところでポイ捨てはなくならないし、

痴漢アカンっていうても痴漢はなくならない。

 

だからもう愛でるしかないよね。

ゴミも、痴漢も。風景の一部だもん。

 

夢の国でゴミを拾ってるキャストが素敵みたいな話もあるけど、

実際夢の国でポイ捨てしてるやつがいるからそうなるんでしょ。

対処は確かにすばらしいけれど、あれだけ愛されてるはずの場所で、

ポイ捨てする人間がいるんだもん。

そういう人間は多分ポイ捨てするのが標準装備なんだよね、昨今のカーナビみたいに。

俺がポイ捨てするからこそ、あの人たちが活躍できるんだよ、みたいな事平気で言うでしょ。そんな人間に、どうやってポイ捨てをやめさせればいいのか分かんないもん。

 

だから受け入れるしかないんじゃないかって思って、僕。

 

サーカスを見るように、ポイ捨てする人を見る。

スポーツを見るように、ポイ捨てする人を見る。

 

華麗なポイ捨てには拍手と賛美を。

「すばらしい捨てっぷりだ!芸術的だね!どこでそのポイ捨て技術を?いやー、今まで見た中で一番素敵なポイ捨てだったよ!ハハ!」

 

恥ずかしそうにポイ捨てする人には、労いと助言を。

「どうした!頑張ってるじゃん!頑張って捨てられたじゃん!折角ポイ捨てできたんだから、もっと胸はって!頑張れよ!恥ずかしがんなよ!拾っちゃだめだよ、折角ポイ捨てしたんだから、ほら、ゴミ箱なんか探すなって!」

 

つってね。

ゴミが風景の一部なら、ゴミを生み出す人も風景の一部だから。

あそこのお寺は紅葉が綺麗っていうように、

あの駅周辺はポイ捨ての名人がいるっつって。

 

そうなれば、こう、夢の島も観光名所にって、違うか。

 

あかん、散歩の話や。

趣味の話や。

 

 ほんで今日、超足痛い。

 

少し話が変わるのだけれど、

阪神電車には武庫川駅という駅がある。

これが変な駅で、

川の上にある。

比喩でもなんでもなく、川の上の橋に駅がある。

 

で、その駅は武庫川の上にあって、

ある日の僕はそこから武庫川に沿って歩いていって、

西宮名塩に到達したんだけれど、

実はその西宮名塩から武田尾が有名なハイキングコースで、

でも西宮名塩についた時には日も暮れてたし、小雨も降っていたのもあって、

その日は電車で帰ってきました。

 

こないだ取引先の人に、

その話をしたら

「へー」

って言われてそこから無言で。

 

 

うんことサラリーマンの話。

思い出

よっしゃー!

暗い話書いてしもたから、次はうんこの話かくんや!

細かい事言うたらうんこの話というよりもうんこ成分をまき散らすサラリーマンに気をつけろって話や!

 さて。

この前電車に乗っていたら、

僕の前に一人のサラリーマンが乗りこんできた。

僕は奥さんと並んで立っていて、そのサラリーマンは丁度僕の目の前に立った。

車内は満員ではないがある程度混んでいて、

僕とそのサラリーマンの距離はちょうどキティちゃんと同じくらい離れていた。

林檎5個分。

 

で、僕は携帯を見ながらつり革につかまっていたんだけれど、

ふとそのサラリーマンの動きが気になって。

だってそのサラリーマン、かゆいのかなんなのかわかんないけど、

急にズボンの中に手を突っ込んで尻をかきだしたんだもん。

 

で、僕はこう思った。

「うわ、尻かいとる」と。

そりゃそうだ。だって尻かいてたんだもん。

 

で、まあそれだけなら僕ぁ文句言いません。誰だって尻が痒いこともある。

でもそのサラリーマン、その尻をかいた手でつり革につかまった。

がっつり。

サラリーマンの指についた尻成分がつり革に移った瞬間を僕はこの目でみたのだ。

当然僕ぁそのサラリーマンの行動から目が離せなくなった。

こいつの尻成分が僕たち家族に付着する事だけは防がなければならない。

これは、パンデミックの前兆だ、と。

 

で、僕が監視を始めて50秒後に、更なる悲劇の現場をみることになった。

つり革をつかんでいたその手が、また尻の方向へ向かっていったのである!

これは、また尻細胞が電車内に噴霧されてしまうのか!と身構え、手の行方を見ていると、

サラリーマンの手はベルトを通過し尻にたどり着いた。

身構える僕を無視するように、手の先が尻を超えてさらに奥まで侵入していく。

 

そう、穴だ。

 

彼の指先は、穴へ到達していた。


穴へとたどり着いた彼の左手の指は、穴をなだめるような、もしくは愛でるような動きを繰り返していた。

簡単に言えばギョウ虫検査の時みたいに、尻の穴あたりをグリグリするあの感じ。


ここまでくるともう前兆ではない。

パンデミックだ。


僕はそのサラリーマンから距離を取ろうと思ったが、彼の次の動きを見て体が動かなくなった。


尻の穴を愛でた左手はズボンから抜き出され、またつり革へと向かっていく。

尻の穴成分が車内に撒き散らされる。もし細菌を裸眼で見ることができる人間がいたとすれば、彼の左手の人差し指と尻の穴成分は、煌めくハレー彗星とその尾のように見えたことだろう。


しかし問題はそこではない。

いや、充分に問題なんだけれどもね。


そのサラリーマンはその左手を手すりに持っていくかと思いきや、いきなり自分の鼻の穴に持って行ったのである。

「穴to穴」

この時点で穴という漢字がゲシュタルト崩壊していることでしょう。

でもまだ続きます。


彼は、自分の尻の臭いを嗅いでいるのです。

電車の中で。

こんなもん、ワキガよりタチが悪い。

ここでこそ、この言葉が役に立つのでしょう。


「家でやれよ」


ね。尻の穴の臭いを嗅ぎたいなら家で嗅げよ。電車の中ですんなよ。そもそもなんで電車の中で尻の穴愛でて臭いかいでんだよ。臭い、皆伝、だよ。


つって。

僕はそのまま棒立ちで、その地獄の光景を見続けていました。


しかしそれでおわりません。

そうです。ご想像の通り、穴から穴へと飛び回ったハレー彗星は、そのままつり革へと向かうのでした。

結局、その後3駅ほどのあいだに、穴to穴withつり革が4度ほど繰り広げられたのを見てから今日に至るまでのあいだ、

僕はつり革には一度たりとも触れていないのでした。



話が通じない人間は、けっこう身近にいる話。

日々の小言

いろいろあって基地外ぶった人間とやり取りをしなければいけないことが最近多く。

いや、やり取りって書いてるけど、実際に僕がしているのは徹底的な無視なんだけれども。
 
基地外と相手をしなければいけないとき、行動を起こす前にまず考えなければいけないことがある。
それは相手が真性の基地外なのか、基地外ぶった人なのか見極める、という事だ。
これを見極めないと、対処が難しくなるどころか実害を被ることになる。
つって絡まれてる時点で充分に実害を受けているのだけれど。
 
真性でもぶってる奴でも、放置をしてはならないのが鉄則になる。
ただ、真性の方がたちが悪いっていうのだけは忘れちゃいけない。
ほっとくと家に火をつけにきたり、
それこそこっちを殺しにかかってくる。
ストッパーがないから。
だからもし真性に狙われたら、放置をせず、だからといって深入りもせず、適度に距離を保ったおつきあいが必要になってくる。
最近よくあるアイドルのストーカーがアイドル刺しに行ったりするのも、このケースが多いんでないか。
自分はアイドルのことを心から愛しているのに、アイドルからは何の連絡もない、自分のあげたプレゼントがむげな扱いされた、このまま誰かのものになるなら僕が手を下すことで僕だけのものにしよう、とかいって、殺しにいく。
だから、一度真性に気に入られたら、
まずは殺されないように付かず離れずを保つしかないのだ。
 
でもこれ、気に入ってる方は幸せだけど、気に入られた方はたまったもんじゃない。
だって自分の命を狙いに来てるやつと付かず離れずでいなきゃいけないんだもん。
そんなもんに耐えられ続けられんのなんて花の慶次前田慶次郎かヴィンランドサガのアシェラッドくらいしかいねーよ。
つって。
だから1番の対処は真性には好かれないようにって言うことしかないんだよな、結局は。
でも実際どれだけ気をつけてても奴らはくる。それが真性の真性たる所以なんだし。
じゃあ実際狙われたらどうしたらいいのかっていうと、ないんだな、これが。
 
本当に対処のしようがない。
 
警察や弁護士間に挟んだところで、相手は自分の正義に基づいて動いてるから悪いことしてるって感情なんかないし、むしろもっと寄ってくる。恋する2人の間には障害があるくらいがちょうどいいってな。この障害、僕ちん頑張って乗り越えるから、そしたら僕のこともっと好きになるでしょ!だから頑張る!ってなる。
アイドルを目指してる人は、こういうのとも向き合う覚悟がなきゃいけない。もしこんなのが来ても身を守れるくらい強いボディガードを24時間雇うか、慶次郎くらい強くなるかの覚悟。
 
で。
僕が最近相手にしてるのが基地外の振りをしている方ね。ぶった方。
これはね、もう自分との戦いになる。変な話だけど。
これね、どういうことかといえば、ぶった奴ってのはかまってちゃんが多い。
なんとかして相手に振り向いて欲しいから、狂ったふりをする。
んで、少しでもリアクションがあると喜んでまた色々仕掛けてくる。
 
ここが真性とぶってるのとの違い。
真性は、自分の本能に従って動く。
だから対処ができない。
ぶっているのは、相手の反応を伺う。
だから対処ができる。
でもまあ、できる対処っていっても無視するだけなんだけれども。
 
で。
なんで無視が1番なのかといえば、
ちょっかいをかけてくるときの、向こう心理を考えるのが必要になって。
 
上でも書いたとおり、かまって欲しいの。
だからこちらから何かしたりすると、例えそれが謝罪であってもこっちに対して行動を起こさせるきっかけになる。
謝ったってことは悪いと思ってんだろ、どうしてくれるんだ、とか言って。
で、逆に同じようなことをやり返したりしても、結果は同じ。
ようもやってくれたな、と。
で、今までも同じようなやり方で自分の都合通りに物事が進んだ経験があるから、
なおさらたちが悪い。
 
で、結果として、無視するのが1番の得策になる。
 
そこで、無視を続けるために、自分との戦いが必要になってくる。
 
あ、ここでも真性の時と一緒で、相手との連絡をカットしたりしちゃダメ。
もしするのなら徹底的にしないと、また相手に喜びの燃料を投下することになる。
バレないように仕事と家を変えて住所を辿れないようにして携帯をかえてっつって、
しかも新しい番号も誰にも教えたりしちゃダメで。
でもそんなの現実的じゃない。
 
だからこそ、相手からの情報は受信できるようにしといてモヤモヤさせる。
脅し、威嚇、馬鹿にする、色んな手段で自分に目を向けさせようとするから、
全部綺麗にスルー。
仕事場を知られていたら、仕事場にも連絡してくる。
そこまでされてなんで黙ってなきゃいけないの、と思うでしょ。でも黙ってなきゃいけない。
相手をすると、喜ばせるだけだから。
じゃあ何もしないかっていうとそうでもなくて、こっちはこっちで色んな場所に相談しておく。警察、弁護士、親、職場、友人。
もしなにかが合ったとき、スグに動けるように対処しておく。
そうする事で、自分の心の安定を得る事ができる。
これが大事。
 
でもここまで我慢しても相手はまず諦めないし、むしろ躍起になってもっとしてくる。
それでも無視すると今度は直接的な行動に出てくるんだよな。
 
でもこの直接的な行動っていうのも、自分に目を引かす為の行動でしかない。
僕がされたことでいえば、
•家の扉に張り紙
•大家や隣近所に悪評をばらまく
•会社に迷惑電話
•夜中に家を見回りにくる
 
こんな感じ。
これをしたら精神的に参るだろう、というような事を狙ってしてくる。
 
ぶってる奴は、ある意味で理性が働く。
どれだけ警察なんか気にしないだとか法律なんか関係ないだとか言ってたとしても、
いざ警察がくれば萎縮するし、法律に触れない程度の嫌がらせをしてくる。
だから、直接の嫌がらせもコレくらいなんじゃないかな。
もしこれ以上の嫌がらせを受けてる人がいたら、ごめんね。
僕には頑張れとしか言えない。
そして、その相手は多分とても真性に近いと思うから気をつけて。
 
で、話戻って。
 
ここまでくれば、
やられるほうも結構精神的に追い込まれるし、相手にしたくなってくる。
相談できるような相手がいないならなおさら。
だからこそ、相談できる相手を作るのが大切。
 
もし張り紙をされても、
先に周囲の人に変な人間につきまとわれてると言っとけば、
たとえ張り紙を見られても怖くないし悪評をばらまかれても問題ない。
会社に連絡がきても同僚が対処してくれたりもする。
警察に相談しておけば、
110番を押すだけで、家に緊急出動してくれるように自分の番号を登録してもらえたりもする。
 
こうやって、ある程度の準備だけしといてのらりくらりかわしていくのが一番いい。
 
で、ここまで読んでもまだ解決策でてこないじゃん。
何気取ってんだよ糞が、とか思ったでしょ。
僕だって思う。
色んなブログ読んでも、警察に相談だとか弁護士を間に入れてだとか、
そんなことしか書いてない。
実際されてみるとびっくりするぐらい精神を消耗するし、
早く解放されたいとも思う。
でも忘れちゃいけないのは、
ぶったやつはこれまで徹底的に無視された事がないから、不安になってきている。
ということだ。
これは間違いない。
だって、これだけの嫌がらせをしたにもかかわらず無視し続けられた経験がないんだから。
もともと我慢できる素養が無いから、嫌がらせで人の目を向けようとするの。
 
で、
ここからが本題なのだけれど。
こういう状況におかれてる人間って、
結局のところ、自分につきまとってきている奴をどうしたいのかを考えるしか、
答えの出しようがないってことをね、伝えたかったの。
 
相手がしばらくの間でも捕まってくれたらいいのか、
精神的負担を負ったから慰謝料が欲しいのか、
これ以上つきまとってほしくないのか。
 
多分、ほとんどの人間が最後を選ぶはず。
でもこれが一番むずかしい。
なにやったって、こっちにくるんだもん。
捕まってもしばらくしたら出てくるし、仕事もなくなってるだろうから逆恨みしてくるし、
慰謝料払わさせても反省なんかしないし、律儀に払うわけもないだろうし。
 
だからこっちにつきまとわれないようにするには、
相手の注意を自分以外に向けるしかないんだよ。結局。
そのために無視をしつづけるのが一番いい。
そして、相手を不安に陥れて自爆するのを待つ。ただひたすら待つ。
これ、忍耐力が必要かと思うだろうけど、
考え方次第で大分楽になる。
だって、何もしないでも無視するだけで勝手にダメージ受けてるんだもん。
毒と一緒。ポイズン。言いたい事も言えないこんな世の中。
 
ここからは僕の話になるけど、
現状は無視をいい感じに続けている。
携帯にくるメールを時系列で読んだら、向こうにも結構なストレスが溜まっているのが手に取るようにわかる。
 
このぶった基地外、もうブッタガイ、いや、もっとダサく、ブッタ害で
 
ブッタ害は、大きな声に弱い。
これだけ無視するのが一番っていいながら、
一回だけ相手をしてしまったことがある。
会社にしつこく電話してきた時に一度だけ怒鳴り返したのだ。
すると、しばらくの間なりを潜めた。
 
ブッタ害は怒鳴りなれてるが、怒鳴られることになれていない。
要するにとても幼稚。
 
たった1度の怒鳴りにビビる、見た目は大人!頭脳は子供!
その名もブッタ害!
 
つって。語呂とか全然あってないんだけれど。
 
とまあ、ここまで書いたけれど、
もし長いおつきあいを覚悟できるなら、
相手をしてあげるものいいかも知れない。
ブッタ害は、プライドが異常に高い。
もし付け入る隙があるとすればそこしかない。
こちらから母親や父親目線で話をするのだ。
ブッタ害は、あくまでも自分が上にならないと気が済まない。
マウンティングの成功こそが至高である。
そのマウンティング行為をやさしく諭されたら苛立ちのはけ口がなくなってしまい、
しばらく動けなくなるだよ。
 
ま、これをしてもしばらくすれば脳内で自分の都合のいいように
色々変換して、また難癖をつけてくるのだろうけれども。
 
つって、結局何も解決しなかった午後4時。
 
 
 
 
 
 
 

ゆとりですがなにかをみて考えた話。

でんでん
でんでんは、最終回までにきっと笑顔で猟奇的に人を殺してくれるはず。

500円の話。

思い出

仕事もせずに家でだらだらしていた頃。

家事をすることで母親にお小遣いをもらい、なんとか煙草とお酒を手に入れる生活をしていた。
25歳くらいでこんな生活してたんだから結構ダメだよな。うん。誰にも偉そうなこと言えない。
 
だから基本的にお金がなくて、買い物頼まれた時に自分のお酒と煙草を一緒に買ってたりした。黙って。
あと出かけたい時にオカンに500円もらってた。
あ、でもあれだよ。掃除洗濯食事の準備、忘れ物届けたりもしてたから家政婦を雇ってたと思えばまあいいんじゃないかな。うん。いいはず。
で、お金がないからどうやって暇潰そうってなって。
家からチャリで20分くらい漕いだら、天牛書店って古本屋があって、暇つぶしもかねてそこの本棚を眺めてるのが好きで。
天牛書店はいつも店先でワゴンセールをしてて、カバーのない文庫を1冊50円で売ってたのね。
ほんで、そこで適当に二三冊買って、酒屋で缶ビール買って、公園で本を読んでたりしてた。それだと500円も使わずに、4時間くらい平気で暇が潰せたりして結構楽しんでた。
 
で、今。
結婚してある程度仕事もちゃんとして、小遣い制だけど月になんぼか自由になるお金があって。
そんだけ余裕があってもあんまりお金は持たないところは変わってなくて、500円玉をポケットに突っ込んでコンビニにいく。
レジに向かって店員さんに番号を告げ、500円玉を渡す。40円のお釣りとマールボロのライトを手にとって、コンビニを出る。
コンビニの前の駐車場の端っこに置かれた灰皿の前で薄くて破りにくくなったビニールをはがして銀紙をむしり、一本取り出し火をつけながら、手のひらの40円を眺めてふと思う。
 
そういやあの時吸ってたセブンスターは300円で、500円で煙草も文庫本の古本も買えてたんだなーと。今このお釣りじゃなんも買えない。
あ、駄菓子とかは買えるけどな。
 
だからと言って煙草の値上げに悲観したりだとか、禁煙したいとか言う話ではない。
 
あの時の僕は確かに、仕事をしたいとか思っていたし、お金も欲しいと思っていた。
今その願いは見事に叶えられ、それどころか結婚までして妻と5匹の猫との楽しい時間を過ごしている。
 
しかし。
 
あの時感じていた、いいようのない不安も、仕事をしなくていい気楽さも、いつでも行きたい場所に自由に行ける(歩きか自転車に限るが)開放感も、お金を母親にせびる情けなさも、公園で1人でビールを飲む楽しさも、仕事が見つからない焦りも、自由に使えるお金が増えてきたことで、いつの間にか味わうとこが出来なくなってしまったことに気がついた。
 
これは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかはどうにも分からないけれど、その、もう味わうことができなくなった、幾つかの感情に想いを馳せながら吸う煙草の味は、いつもよりなんとなく苦かった。