僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

 オトメスゴレンにならって、ソーセージの気になるコト9パターンのタイトルを考えてみた。

先日ツイッターを見ていると、どなたかのリツイートによってオトメスゴレンなるサイトに掲載されている、とある記事を読んだ。

 

その記事タイトルは「彼氏が困惑する質問9パターン」というもので、なるほどそんな事まで記事になるのか、インターネットとはなんとも広大なものであり様々な需要があるのだなと1人で深くうなづいたのだけれど、そもそもオトメスゴレンという言葉はどこで区切るのだろうか、という疑問のほうが僕の中では大きくあった。

 

個人的になんとなく心地のよい区切りで、勝手にオト/メス/ゴレンと読んでいたのであるが、よくよく考えてみるとその言葉の意味がよく分からない。

 

その音通りに考えるなら、音、雌、五連。

 

「アン!アン!アン!アアアン!アン!」と、女性が読みながら性本能を刺激されてオーガズムが五回連続で続くような過激サイトなのかとも思ったけれど、どうやらそうでもなさそうである。

 

他の記事を読んでみると主に女性をターゲットにしているらしいのに、なぜ女性の侮蔑的な呼称でもあるメスという言葉を入れたのか、と首をひねってしまう。更に言えばこのゴレンも意味が分からない。本当に五連でいいのか。

 

よく分からないものを勝手に判断してしまうというのは素人には良くある事で、もしかしたら実際はナシゴレンやミーゴレンのように東南アジア系のなにかの言葉なのかもしれないと思いゴレンで調べてみても、やはりナシゴレンとミーゴレンしかでてこない。

 

けれどいくつかの記事を読み進めるうちに、元々はスゴレンというサイトがあって、その派生としての女性向けスゴレン、つまりは乙女スゴレン→オトメスゴレンなのだと理解した。

 

やはり自分の思い違いであった。

 

ちなみにではあるが、僕はハリウッドザコシショウもハリウッド/ザ/コシショウだと長い間思っており、それを妻にハリウッド/ザコ/シショウだと教わった過去がある。

 

「ちょっとまってください。ザコとシショウで区切るんですか」

 

「そうらしいよ。ザコ師匠なんだって。っていうか逆に聞くけどコシショウって何?」

 

「そりゃああの見た目からわかるでしょう。小さい師匠のことですよ。あの方、太った小豆洗いみたいじゃないですか。なので小師匠感があるなと思っていたのです。それよりもザコ師匠のほうが意味が分からない。師匠とはそもそも偉いもので、ザコという小物を表す言葉とは正反対に位置するのではないでしょうか」

 

「小師匠だって意味分からないんだけど」

 

「いや、それはまあ、うん。ですがその前についているのが、ハリウッドという外国語であり、これはもうザはtheでしかないと僕は思っていたのです。そのザコ師匠、本当に間違いではないんですか?」

 

「どう思うのは貴方の自由だけれど、本人がザコ師匠を名乗っていたんだから貴方がどれだけ熱弁しようがザコ師匠はザコ師匠であり、ザコ師匠のほうが正しいのよ」

 

「なるほどそれはごもっともです。僕だって、本当は『ゲロ去り・晩鐘』なんでしょう?と聞かれても違うと答えますから。なんですか、ゲロ去り・晩鐘って。それはあれですか、ゲロがなくなって代わりにミレーの名画が飾られるというマルセル・デュシャンの劣化オマージュみたいなものですか?馬鹿ですか?となりますね」

 

「それはよく分からない」

 

と、言ったように、妻の見識はいつも僕に正しい知識を与えててくれる。

 

さて話はオトメスゴレンにもどるのだけれど、今回たまたま見た「彼氏が困惑する質問9パターン」の他にも、「『友達もカレのことが好き?!』と気づいたときの対処法9パターン」や「結局そんな人?元カレの結婚相手にモヤモヤした理由9パターン」など、とても豊富かつ本当に需要があるのか?と思えるような様々な9パターン展開がなされていて、もしかしたら僕のブログの閲覧者数が増えないのはこの展開にのっていないからなのか、とも思ってしまうほどの9パターン押しだった。

 

ではそれに倣い、ソーセージで展開するのであればどんな9パターンがあるのかを9パターン考えてみたのが以下の通りだ。

 

・その羊腸、貴方の恋愛感と同じように絡まってない?羊腸塩抜きのコツ9パターン

 

・やだ!望まないのにやぶけちゃった!腸詰め作業にありがちな失敗9パターン

 

・ひき肉にしたいのは豚肉?それともカレシ?ミンチ用器具、ミンサーの用途9パターン

 

・香水なんてもう古い?カレをトリコにしちゃう燻製の香り9パターン 

 

・ボイドタイムよりボイルタイム!月の満ち欠けで変わるソーセージの茹で方9パターン

 

・あそこに入れてジンジンしたい!ソーセージに入れたいハーブ9パターン

 

・ああ!私が求めていた太さはこれ!ソーセージの太さ別ケーシング9パターン

 

・やだ、いつのまにか濡れちゃってる……?肉汁が漏れちゃう瞬間9パターン

 

・ 男性が思わず舐めたくなっちゃう!ソーセージにおすすめのケチャップ&マスタード9パターン

 

どうでしょうか。この中に読んでみたくなる記事タイトルはあったでしょうか。

 

自分でも何を書いているのか分からないのですが、本当はソーセージはハーブのセージをメインに使うからソーセージなんだよ、ソー/セージの区切りなんだよ、みたいな話をしたかったのです。

 

ですが脱線してしまった上に、めんどくさくなったのでここで終わります。

 

 

 

 

はてなブログチャレンジというものにそそのかされ、昔飼っていた猫の写真をアイキャッチにしたけれど

もし猫の話を期待してこのブログを読んで下さる方がいたら申し訳なく思う。

残念ながら今回は猫の話は出てこないし、今後も出てくるとしてもその頻度は低いだろう。

 

なぜならば、猫の話を書く時というのは、ネタが無いときだからだ。

 

むしろ猫自体は毎日僕に何かしらのネタをくれるし、僕も実際のところ猫の事を書きたいと思ったりもするのだけれど、しかし例えば「夜にゲームしてるとちび猫(カツ子/生後4ヶ月)が膝の上にのってきてくれて今日はとても嬉しくてそれはそれとして毎日可愛い」なんていうことを書いたとしても、それは僕自身が嬉しいだけでそれを読まされた人間は「何や自慢かええかげんにせえしばきまわすぞ」となることは間違いなく、またそこに「膝の上にのってきているちびの上にまた別のちび(丼ベエ/生後4ヶ月)がのってきて今日はなお幸せでエブリデイ可愛い」なんて書こうものなら「こらおまえ画像もはらんとちび猫2匹の話なんぞしくさって逆にエブリデイいてまうぞワレ阿呆ボケかす」なんてコメントが記載されたりするかも知れず、僕は恐怖のあまりそのコメントを普通に承認にしてしまい、さらにはそのコメントにいいね☆をつけてさらに炎上。

 

もう1つついでに書くと「あのね、我が家の長女猫ちゃんは注射器に入れたお湯を赤ちゃんが哺乳瓶からミルクを飲むかのように飲むからその姿を夫婦で見ながら赤ちゃんですねえ赤ちゃんですねえなんて言うんですオホホ」なんてことも書きたくなり、そうなるともうブログの中に嫉妬と魔性と我欲から生み出される狂った果実が実りまくることになり、石原裕次郎もビックリするような毎日毎晩の酒池肉林フェスティバルとなりそのあとこのブログは狂い咲きサンダーロードとなること確実であるし、読んでくれた人はみんな太陽族となるであろう。

 

だからこそ僕は猫のことはあまりかかず、猫の次に好きなソーセージのことを書いている。

  

さて、このように文章をインターネットで公開している以上、拙い文章であっても色んな人に読んで欲しいと思ってはいるのだけれど、その為に考えてやっていた事がことごとく外れている気がする。

 

このブログを立ち上げた当初、ソーセージ作りについてより深い説明や考察を書いて、世のソーセージフリーク達をあっと驚かせ、ソーセージ作りにこのブログありというような崇拝の的になりたかったのだけれど、いつの間にかソーセージ作りがないがしろになっているのはおろか、週末という貴重な自由時間をソーセージ作りに割り当てもせずゼルダの伝説神々のトライフォース-と魂斗羅スピリッツの2人に強引にレイプされているような状態であり、3Pという僕自身初めての経験によって右脳と左脳はあり得ないほどの快楽に溺れて汁をドバドバと垂れ流してしまっている。

 

それだけの快楽を感じている裏にあるのは、ソーセージという人生を添い遂げることを誓った相手がいるにも関わらず、世界を守る為に立ち向かうマッチョでちょい悪な親父に心を奪われたり、光と闇の世界を交互に行き来したりするボーダー系メンヘラのようなあやうい魅力を持ったゲームの誘惑に勝てず、淫らでふしだらな関係に身体を許してしまうという背徳的な関係性に魅力を感じてしまっていることに他ならず、しかしこれは裏を返すとソーセージ作りにゲーム以上の魅力を感じなくなってしまっているということでもある。

 

しかしこれは不倫もしくは浮気をしている人に散見される「普段と違う事をしている特別感」があるからこそ高揚してしまい、日常の中に訪れる非日常であるがゆえに普段なら3くらいの楽しさしかないことを10にも20にも感じてしまうことに他ならず、それはひとえにスーパーファミコンミニという非日常が僕の日常を支配してしまったことが起因となっている。

 

そしてそれは、ソーセージ作りという今まで非日常に感じていたことが日常になってしまったことでもあり、俗にいう「あいつは空気の様な存在」状態に陥ってしまっているのだ。

 

しかし普通の生活をしていると空気を消耗することはあまり意識しないけれど、では今の自分はそんな空気のようにソーセージを摂取及び消耗しているのかといえばそうとも言えず、例えば先週食べたソーセージを振り返ると1度として自作のものを食べておらず、食べたソーセージといえばいかりスーパーで買ったポークウィンナー、関西スーパーで買ったえびの高原粗挽きポークウインナーのみであり、前者は初めて食べたものなので一応味の研究という名目はあったものの後者は完全に慣れ親しんだ味、これはすなわち怠惰の上になりたつ「ああ、手軽においしいウィンナーが食べたい」という、いうなればマンネリ化したセックスのようなもので、そんなものに手を伸ばしてしまっているのはソーセージの事をないがしろにしている愚かな人間の成れの果てである。

 

ではどうすればいいのかと考えた結果出てくるのは相も変わらず逆転の発想と言うもので、すなわちソーセージがある日常というものが非日常になればよいと、言うはやすし行うはがたし。とりあえずソーセージが家に無い状態を作ればいいのだと一念発起し、妻にお願いしてしばらくはソーセージを買わない宣言を一緒に守ってもらう事にしたのだけれど、しかし何かしらの依存症を患っている方であればご理解いただけるのであろうがこの何かを断つということはとても精神に負担がかかり、普段なら気にも留めないようなことでも気に障る。

 

例えば僕はアルコールを嗜み煙草も喫するのだけれど、普通に生活している際には3時間4時間煙草を吸わないこともあるが、何の因果か急に禁煙するといきり立ったことがあり、よっしゃこれ吸い終わったら煙草を辞めてやる!と自分勝手に憤慨して残りの煙草をゴミ箱に入れた瞬間もう煙草を吸いたくなり、10分後にはゴミ箱から煙草を取り出して吸っている始末。かたやアルコールのほうでもよし今日はとりあえず飲まないでおこうと考えたところ既に手にはビールの缶が握られており、そうだこの一本だけにしようとプルタブをあけるといつの間にか手に持っている缶はハイボールに進化している。おお、これが噂のダーウィンの進化論かなんて言っている間に夜も更けていき、フシギダネなんていってたらフシギソウな顔が窓に映り、これもいつの間にか二日酔いと添い寝をしながら朝を迎えているのが常である。

 

そのような精神薄弱者である僕がソーセージを断とうとしてもことさら無理な訳で、妻にソーセージを買わないようにと依頼したその次の食事から「ソーセージがない」「ソーセージがない」と荒廃した町を朦朧とした姿で歩き回るゾンビのような様相で妻に問いただしたりもするけれど、それを優しく受け流し「もう忘れたの。ソーセージは我慢するんでしょ」とボケた志村けんを優しく諭す優香のように僕を嗜めてくれる妻には頭があがらない。けれどどれだけ妻に感謝したところで食卓の上にソーセージはなく、もちろん冷蔵庫にも冷凍庫にもソーセージはなく、僕は無事に当初考えたようにソーセージが無い状態を日常として置き換えられたのだけれど、もう脳みそは我慢の限界を超えており、茶色い猫のしっぽを見るだけでソーセージが喚起されてしまう始末で、ああなぜ僕はこんな必死な思いをして間でソーセージを断っているのだ、これほど苦しいならばゲームを我慢する、我慢するからソーセージを作らせてくれと全知全能の神に頼み込み、茶猫のしっぽをしゃぶりしゃぶりしてソーセージを我慢し、今週末にはソーセージを作る事にします。

 

でもそれはそれとしてとりあえず週末までは暇だから今日の夜も明日の夜もゼルダ魂斗羅との3Pで。

 

そこにしっぽの湿った猫も加わって我が家は軽いハプニングバー状態で。

 

 

 

ソーセージのレシピを書いたからってほとんどの人は作らないし、ソーセージを作っているほとんどの人は自分の哲学をすでに持っている。

今週のお題「得意料理」

 

今、自分の心の狭さを痛感し、深く落ち込みながらも半ば諦めた境地にいる。

 

なぜそんな精神状態になってしまったのかと言えば、先日作ったソーセージがとても美味しかったからだ。

 

ただし美味しいソーセージを作れた事と心が狭いという事には、直接的な関係はない。

 

というかもしそんな相関関係があれば日本ハム伊藤ハム、えびの高原やプリマハムで働いている人達は心が狭いということになってしまうし、先日食べたあのあまり美味しくないソーセージ、カリーブルストになってしまったあのソーセージの会社(あえて名前は出さないが)の人達は逆説的ではあるが心が広いという事になってしまう。

 

僕の良心、デカルトのいうところの「ボン・サンス(良識)」もしくは「ルーメン・ナトゥラーレ(自然の光)」はこのとても美味しく出来たソーセージの比率を誰かに教えたいと訴えているが、僕の中のソクラテス的否定心は、「それを教える事で一体どうなるというのだ。世の中の知識人は知識を求めているのではなく、知識を持っている自分もしくは自分の持っている知識を愛している。だからお前のレシピを受け入れる事無く否定するかもしれず、すなわちお前が自分で得た知識をばらまくという行為は別の否定を生み出す事になり、結果として無駄に終わるのだ」と僕の良心を否定しようとしている。

 

しかしこのブログにおいて、僕は勝手ながらソーセージ作りの普及に勤めるというシャルキュトリ(食肉加工品全般のこと)の布教という立場にあり、普段ソーセージを作ることはない人にぜひともソーセージを作って欲しいという願いを持って今も丁寧に気持ちを込めて一文字一文字を打っている。しかもこれらは別に誰かに強制されているわけでもなく、布教したからといって誰からも褒められる訳でもない。

 

そんな心の中の葛藤、文頭で書いた心の狭さこそが、僕を落ち込ませるのだ。

 

しかし、僕はそれでもソーセージ作りをもっと沢山の人に味わって欲しいと思う。

 

キング牧師は、あの有名な演説の中でこう言った。

 

私には夢がある。それはいつの日か、この国が立ち上がり、「全ての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子達とかつての奴隷所有者の息子達が、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

 

私には夢がある。それはいつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼け付かんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

 

それにならって、僕も言わせてもらおう。

 

私には夢がある。それはいつの日か、この国が立ち上がり、「全てのソーセージは平等に作られているのは自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

 

カルパスだって、サラミだって、立派なソーセージだ。駄菓子ではない。小さいからって、差別するな。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、尼崎の僕の家で、かつての沖縄のアグー豚とかつての宮崎県のプレミアムポーク、かつてのスペイン産イベリコ豚が、ソーセージとして同じテーブルにつくという夢である。

 

ブランド豚は美味しいけど高い。でもその分やっぱり美味しいから仕方ない。でも一気に買えないから特別な時に取り寄せする。1度でいいから全部一緒に食べ比べしてみたいという願望。

 

私には夢がある。それはいつの日か、ボイルとフライパンの炎熱で焼け付かんばかりのソーセージでさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

 

茹ででから焼いたソーセージが一番美味しいのではないか、というのを複雑にかくとこうなる。

 

 

私にはソーセージがある。それは、いつの日か、ソーセージの4人の幼いソーセージたちが、ソーセージの色によってではなく、ソーセージそのものによって評価される国に住むという夢である。

 

この辺は僕にも意味がわからない。 

 

 

とまあ、このように、ソーセージ作りにかける情熱を溢れさせたブログを続けているのだから、もうここまできたら恥も外聞もなく素直にレシピ出しちゃいなよ。ほら、ジャンプしてみろよ。小銭の音がするんだろ。という、なんだかかつあげみたいな心の声に従ってそろそろそのレシピを出したいと思うのだけれど、心の奥の方にまだ少し痛みのようなものを感じている。

 

それは別に中学2年の時に実際にかつあげにあったことを思い出したからでもなく、電車でスリにあって13,000円を取られたのを思い出したからでもなく、ただ自分で美味しいと思った物が本当に人に受け入れてもらえるかどうかという、料理を作る人間なら誰しもが思うことなのだけれど、しかしそんな事を気にしていてはソーセージ作りを普及させる事は難しく、となればもう自分を信じ、自分が美味しいと思ったレシピをぜひとも紹介したうえで、1人でも多くの人にソーセージを作ってもらうことが無情の喜びだと思わなければならず、このお気に入りのレシピをここに公開するという事はある種の踏み絵であるともいえる。

 

遠藤周作の書いた小説、沈黙に出てくるセバスチャン・ロドリゴが感じた痛みはこんなものの比ではないと自分を落ち着かせながら今からレシピを書くのだけれど、これだけ自分で無駄にハードルを上げた事を早くも後悔している。

 

なぜならば、自分が普段用意している食材を書くだけの文章で無駄に2000文字も費やした挙げ句その中身は殆どないという、これがソーセージであれば水増し甚だしく、肉に対してそれ以外のものが50%以上入るとそれはソーセージを名乗れないのだけれど、それどころかこの記事のなかで情報に当たるのは下記の100文字足らずなので水増率は200%を越え、このままでは訴えられるもしくは農林水産省から勧告を受けてしまうような行為をしているからである。

 

しかしせっかくここまで読んでくれた人がいるのであれば、その方の努力に報いるのが人としての努めである。

 

なので、ここに、今までで一番美味しく出来たときのレシピを書いておきます。

 

豚肉小間切れ            700g

豚バラ肉              600g

すりおろしにんにく         3片

すりおろしたまねぎ1/2個+白ワイン  150cc

塩                 25g

砂糖                5g

氷                 6〜7個

セージ               5g

コショウ              4g

ナツメグ              3g

羊腸                4m

 

薫製用さくらのスモークウッド

薫製用の段ボールなど

 

作るとき以外のコツを上げるとすれば、

 

パリッと感を出すために燻製する前に冷蔵庫で一晩干すこと。

燻製をする時には低温の方が脂が流れずにいい感じになる。

温燻じゃないから90分くらいは燻製した方がいい。

ボイルの時の温度は、70℃を超えないように。63〜68℃が適温。

冷凍すると、1週間くらいでスモークの香りが感じられなくなってくる。

 

これくらいだろう。

 

ああ、ついに僕は踏み絵を踏んだ。

こころの中のキチジローがこちらをちらちらと見ている気がする。おいおい、世間の料理ブログを開設している人達は常日頃からこんなプレッシャーに晒されているのか。凄いよ。父親の趣味の雑誌の中に、友人から頂いた緊縛写真集を隠していたのがばれ、お前はこんな趣味があるのかと家族皆の前で公開羞恥プレイを受けた時のことを思い出してしまった。

 

あなた方こそが真の宣教師、フェレイラだ。

 

もしこのブログを読んでソーセージを作ってみた、という人がいれば、ぜひ一緒に酒盛りをしたいと思うので、知らせてくれたらうれしい。母親から「あんた、縛ったり縛られたりするんの何が楽しの」と言われ、どのように説明したとしても明るい未来の見えない窮地を経験した僕の過去と出来立てのソーセージを肴に、お酒を飲もうではないか。

 

ああ、誰か僕と一緒に、ソーセージを作ってくれないか。