僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

沼は至る所にある。

オタク界隈から始まったのか、腐女子界隈から始まったのか、はたまたカメラ界からなのか、その呼ばれ方の始まりからしてなんとなくドロドロしている「沼」という表現。

 

何かにどっぷりと浸かって離れたくても離れられない様子をさす言語らしいけれど、なんとも面白い表現だなと思っている。

 

 料理における沼というのもなんとも難しいもので、沼の中にまた別の沼があり、しかもその沼が底の方でまた別の沼に繋がっていたり、なんとか沼を抜けようと足をおいたその場所が別の沼、なんてことも良くあるらしい(他にもそういったものがあるのだろうけれど、僕自身としてあまり他の世界の事を知らないのでここでは追求しない)。

 

このブログの発端はソーセージ作りなのだけれど、もちろんソーセージ作りにも沼のようなものが存在している。なので僕が基本的に遊び場にしているのはソーセージ沼である。

 

沼といいながら、料理の中でもソーセージは比較的独立しており、沼としては小規模なものだと思っている。そこに隣接しているであろう沼は、肉の沼、スパイス(塩を含む)の沼、調理器具の沼くらいである。あとはお供としてのビール沼があり、ワイン沼に行く人は少ないように見受けられる(極個人的私感)。

 

皮に至っては沼ではなくあくまでも浅瀬(そもそも天然か人工、羊腸か豚腸、牛の腸くらいしか選択肢がなく、しかも牛を選ぶ人はもう職業的な感じがする。ボロニアの自作の為に必要な器具は想像もつかないし、まず個人では食べ切れる気がしない)程度だろう。

 

しかしいくらソーセージの沼が狭くとも、国や地域によってソーセージの種類が沢山あるので決して浅いとは言いがたいものでもある。

 

少し例に出してみると、まずドイツではソーセージを「ヴルスト」と呼ぶ。これはいうなれば、スーファミスーパーメトロイドであってもプレステの俺の屍を超えていけであってもスマホのツムツムであっても「ゲーム」と呼ぶ、みたいなものだ。一説によれば1500種類以上のヴルストがあるらしい。

 

そのヴルストの中でも有名なものを上げると、チューリンガー、フランクフルター、ニュルンベルガー、ミュンヘナー(ヴァイスブルスト)、メットブルストなどがあり、それぞれに加熱の仕方まで決められていることが多い。チューリンガー、ニュルンベルガーは焼き、フランクフルター、ミュンヘナーは茹ででて食べられる事が多く、特にミュンヘナーは皮を剥いて食べるものである。

 

メットブルストは生で食べられるソーセージ、というものなのだけれど、メットに関してはタルタルに近いので肉沼の範疇かもしれない。そもそもメットとは豚肉のタルタル的な物だ。そしてこれは絶対に自作してはいけないものだと思っている。ドイツにおいても加工の規定がとても厳しく、生半可に素人が作ると食中毒を起こしてしまう可能性が高いからだ。特に日本だと法律で豚肉の生食が禁止されているくらいなので、まずお目にかかれないだろう。

 

しかし少し調べてみると分かるけれど、ソーセージはいったいどの情報が正しいのか分からないくらいに情報が多く、かつ錯綜している。サイトによって作り方のレシピも変われば名称も変わる。同じチューリンガーでも素材が違う、なんてことがざらにある。

 

なので「作る」ということにおいて、なかなか沼に足を踏み入れきれない、という気がする。

 

食べるだけならばネットで食べたいものを注文すればいいのだけれど、いざ作るとなった際に、これは牛肉と豚肉をつかったから◯◯ヴルストではないか、いや粗挽きが含まれているから◯◯ベルガーではないか、いや香辛料にチリペパーを加えているからどちらかといえばドイツ式ではなくメキシカンではないか、というような葛藤と戦うことになる。一応注釈をいれておくと、牛と豚を使ったから◯◯ヴルスト、粗挽き肉を使ったから◯◯ベルガーになる、というわけではない。上記はあくまでも例えである。

 

というか、こういったこまごまとしたソーセージにまつわる事を調べていただけでゆうに三時間は過ぎてしまう。

 

三時間あれば一体何ができたか。

 

映画1本は余裕で見れるし、お金があってその気になればフランス料理をコースで食べられる。自慰であれば冷却時間を合わせても3回くらいは出来るはずだし、ソーセージ作りでいえば肉をエマルジョン化し羊腸に詰める作業までしても3時間はかからないだろう。それほどまでに貴重な時間を割いて僕がしていたこと、それは迷いを解決しようとしてさらなる迷いを生み出していた事にほかならない。

 

未だ浅瀬に居ながらにしてズブズブと足がはまり、身動きが取れなくなってきている。果たして僕が作っているのは、何ソーセージなのだろう。というか、そもそも本当にソーセージなのだろうか。

 

そうか、これが沼というものなのかもしれない。

 

そんな考えに浸りながらパソコンの画面と向き合っていると、昔働いていた店にいたシェフから言われた事を思い出した。

 

その人はイタリアンのシェフで、アル中寄りの面白い人だった。毎朝ビールの味をチェックさせろと催促し、ランチの前にもビールの味のチェックをし、夜の営業が始まる前にもビールチェックをするという、味にとても厳しい人だった。仕事が終わると最後のビールチェックをし、颯爽と夜の街に消えていく。そして彼の作る料理はすこぶる美味しいという、漫画にでも出てきそうな人だった。

 

そんな彼に一度、イタリアのサンドイッチ、パニーニの定義を聞いた事がある。サンドイッチやホットサンドとの違いが気になったのだ。

 

営業時間が終わり、彼は4度目のビールチェックをしながら、彼は僕の質問にこう答えた。

 

「パンになんか挟んだら、それがパニーニや」

 

この言葉を聞いた僕は、「はあ」としか答えられなかったのだけれど、今になって思う。この言葉は、想像以上に深いのではないか、と。

 

日本のソーセージの規格、農林水産省のソーセージ品質基準で言えば、腸に基準値以上の比率で肉が入っていれば、それはソーセージと言っても問題ないらしい。

 

そこには料理の歴史や文化背景は一切なく、ただ官僚の定めた定義によって分類されている(しかしこの定義にも悩みの跡が見えたりして面白い)のだけれど、あくまでも国が定めた基準であり、これこそが今守らなければならない基準でもある。

 

そしてこの基準は、アル中シェフが言っていた事とほぼ同内容なのである。

 

パンに挟めばパニーニ、腸に肉を詰めればソーセージ。

 

なんと簡潔な答えなのだろう。僕が使った3時間は、結局これが答えだったのかもしれない。

 

沼にはまり込むと周囲が見えなくなってしまい、矮小な考え方に陥ってしまうという。知らず知らずのうちに僕もそうなっていたのかもしれない。

 

「貴方のそれはソーセージではない。今から僕が本物のソーセージを見せてあげますよ。(ボロン)」

 

なんてことを言っていては、ダメなのだ。美味しいソーセージが食べたい。その為に好きな肉を使い、好きなスパイスを配合する。それでいいじゃないか。と自分に言い聞かし、そういえば先日使ったオリジナル配合のスパイスはよかったな、と思い返す。

 

そのオリジナルスパイスは、セージ、シナモン、ナツメグ、粗挽きブラックペッパーを元にし、インディアンのカレー粉を隠し味にしたものだ。

 

肉の味で差を出すのは結構難しい。ブランド豚は高くて手に入りにくく、鮮度のいい肉を探すのも骨が折れる。であればスパイスの配合、言うなれば素材とスパイスの組み合わせが奏でる多重構造こそがソーセージにとって重要なのではないか。と一つの答えを導きだした結果なのだ。

 

インディアンのスパイスを選んだのはネットの「いいよ、これ」という情報だけだったのだけれど、そういえばインディアンのスパイスで作ったカレーを味わっていないことに気がついた。

 

なので僕はスパイスの味を確認するために先日カレーを作った。

極力材料を省き、シンプルに徹したカレーだ。

 

みじん切りにしたにんにくとしょうがをラードで炒め、玉ねぎと人参をミキサーで砕きいて入れる。パイナップルのチャツネを自分で作り投入し、白ワイン、トマト缶を入れてアルコールと酸味が飛ぶまで煮詰める。別鍋で軽く塩をふった肉を焼き、出てきた脂ごと鍋に放り込む(この日、豪州産の牛タンがすこぶる安かったのでタンカレーにした)。そこにカレー粉を入れ、塩と砂糖で味を整えてしばらく煮込み、食べる少し前に追加のスパイスを入れて出来上がった。コンソメを入れると簡単に味が整うけれど、コンソメありきの出来上がりになってしまうので、あえて今回は干しエビをお湯で戻してダシの代わりにした。

 

食べて見るとなかなかに良く、あっさりとした爽やかな辛さで舌にずっと残る感じの重さがなく、スッキリと食べられるカレーに仕上がっていた。

 

次にこのスパイスでカレーを作る時には、牛骨や鶏ガラでがダシを取ってみたり、むしろ魚介類のカレーでもいいのかもしれない、などと考えていたのだけれど、自分の中だけではなかなか解決策及び正解は見えてこない。

 

なのでカレーにまつわる事を調べていたのだけれど、いつの間にか三時間が過ぎていた。

 

果たして三時間あれば一体何ができたか。アニメであれば5話は余裕で見れるし、お金に余裕があってその気になれば懐石料理をコースで食べられる。セックスであれば間に挟むピロートークを含めても2回くらいは出来るはずだし、カレー作りでいえばスパイスの調合から煮込み始める作業までしても3時間はかからないだろう。それほどまでに貴重な時間を割いて僕がしていたこと、それは迷いを解決しようとしてさらなる迷いを生み出していた事にほかならない。

 

さて、カレーにはスパイスという物が必要不可欠なのだけれど、それ以前にカレーの定義とは一体なんなのだろう。はたして僕が作っていたのは、本当にカレーだったのだろうか。

 

かの食の大家、海原雄山は「本物のカレーとは何だ」という自分の出した問いに対して「カレーの神髄とはスパイスだ。スパイスと食材の多重構造の組み合わせこそがカレーの神髄だ」という答えを用意した(意訳)。マッチポンプ的な雰囲気が感じられるが、そこには目をつぶろうではないか。

 

そして僕も、雄山にならって自分自身に問う。

 

「本物のソーセージとはなんだ」と。

 

先に出した僕個人的な結論は、

「ソーセージの神髄とはスパイスだ。スパイスと肉の多重構造の組み合わせこそがソーセージの神髄だ」 

 

となっていた。

 

察しのいい方ならお気づきなのかもしれないけれど、こうなるとカレー=スパイスで、スパイス=ソーセージと言っても過言ではなく、そうなると結論としては

 

「ソーセージ=カレー」となる。

 

これが結論でいいですか。

沼ってこういう事ですか。たしかに後ろも先も見えなくなりますね。

 

しかし最後に重要な問題が残っていて、かつて若月千夏がブログのタイトルにも冠していたように、カレーライスは飲み物であり、そうなるとソーセージも飲み物であると言える。

 

そうなるとソーセージは噛まずに飲み込まなければならず、あの形状のものを飲み込むには相応の練習と努力が必要であり、その練習内容なんていうのはもうイラマチオでしかなく、その努力とはオーラルセックスなのだけど、ん?これはより先に何を書けばいいのか分からないし、あれ、これって沼?泥沼? みたいになる。

 

まあ、いい。もう誰でもいい。何でもいい。僕のソーセージ、もしくはカレーを飲んでくれないか。  

 

todoリスト、その弊害について書く。

仕事を円滑にこなすにはtodoリストをつくるのがよい、と言われる。

そのリスト通りにことが進むととても気持ちがよいらしい。

 

しかし。

 

締め切りが目前に迫っている仕事をさらに後回しにしてみると別の快楽が生まれることも、また確かなのである。

 

今も手つかずの仕事を抱えて若干の胸の高鳴りを感じながらこの文章を書いているのだけれど、これはフリーフォールに乗る前の気持ちに似ている気がする。いつ先方からお叱りの電話や催促の電話が来るかドキドキしながら、あえて平静を装ってパソコンの前で待機しているのである。

 

以前ひらかたパークで目隠ししてフリーフォールをするというのを体験したのだけれど、本当によく似ていると思う。石田純一と小石田純一くらいによく似ている。

 

電話が鳴るたび、

 

「あ、落ちる?落ちる?あっっっ、ああ、大丈夫だった」

 

「え、今度こそ?おおお?お?あああ、よかった」

 

と、ホッとした時に限って、また電話が鳴る。大体その電話は一番シビアな締め切りの取引先だ。

 

「あっっっっっ、もうちょっと待って、お願い、あ、落ちる、落ちる、落ち…………おぢたーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

 

みたいな。

 

まあそんなことをしている間に早く作業をすればいいのだけれど、締め切りはギリギリになればなるほど楽しい一面があるのでなかなかこれがやめられない。もう病み付き。ケンタッキーと同じくらいやめられない。軟骨も食べるし骨の髄まで美味しい。やりすぎて胸焼けするところまでおんなじ。

 

しかしいくら楽しいからといって、そんなことを継続していると失うのは信用、ひいてはお金である。信用がなければ仕事を回してもらえないのでお金がなくなる。単純なことだ。

 

そんな自分勝手な理由だけではなく締め切りを過ぎてしまうと相手方にも多大な迷惑をかけてしまうので、締め切りは確実に守る。それだけは死守しなければならない。どれだけギリギリまで仕事を後回しにしても、きちんと仕上げる事はこの楽しみにおける鉄則なのである。

 

しかしいくら他人に迷惑をかけないように心がけているとはいえ、そんなことをしているとたとえ信用とお金は守れても失ってしまうものがある。

 

それは当たり前だけれど、時間そのものである。

 

仕事をしていない時間に何をしているかといえば、何もしていない。

 

いや、言い換えれば、何もしていないをしているのかもしれない。

 

椅子に座ってパソコンの画面を見つめながら、ああ、そろそろあれをしなければいけないなあ。でもあれも出来ていないしなあ。そう言えばあれも今のうちにしておくと楽なのになあ。

 

というようなことを考えているだけである。

 

ただそれにもいい面がある。何をいつ、どうやってするかを考え続けると、あるリストが出来上がるのだ。人はそれをtodoリストと呼び、神仏と同じように崇め奉っている。

 

なので端から見れば何もしていないように見えながら、頭の中ではtodoリストが見事に整理され、それに沿って仕事をすればほぼ完璧に、しかも余裕をもって出来る状態になるのである。

 

何も作業を進めないままに頭の中で完璧に出来上がったリストをうっとりしながら眺めていると、いつの間にか1時間が経過している。

 

するとどうなるか。

 

1時間を無駄にしたので、todoリストをまた書き換えなければならないのである。どれだけ理想的なリストがあったとしても、それを行動に移さなければ終わりは見えてこない。

 

実はこの書き換え作業は最初のリスト作成とちがってとても忙しいものでもある。もともとあるものをさらにシビアに調整しなければならないので、ゆうに2時間はかかる。

 

「ああ、作業に使える時間が1時間減ってしまったから手間のかかるあの作業を先にやって、あの見積は後回し、なので先に1本電話だけかけて予防線を張って、取り急ぎ猶予をつくろう。で、あの企画と並行して提出用の報告書を書けばなんとかなるな」

 

と、それだけの時間をかけたことに見合う、またこのタイミングで考えうるかぎり完璧に近いリストができあがる。その采配、戦国の名武将黒田勘兵衛も真っ青な出来。

 

「こんな素敵なもん見せられてしまったら、私、黒田やなくて青田勘兵衛になるわ。どないしょ」みたいな出来事が起こる。歴史が変わる。

 

しかし問題が1つあって、その問題とはご存知の通りこの脳内リストが完璧すぎてまたうっとりしてしまうのだ。

 

 脳内パーフェクトtodoリストは後光が差しているかのような輝きを放ち、もしこれが僕の脳内ではなく書面にでもなってしまうと、会社の人達が我先にと奪い合い、もしかしたら殺し合いに発展し、戦国時代に逆戻りしてしまうのではないか、というぐらいの理想のリスト。そんなシンドラーもおまたをビショビショに濡らしてしまうくらいの素敵なリストが世に出てしまうと、ビートたけしが皆に殺し合いを進めるような殺伐とした会社になってしまう。

 

「今からちょっと殺し合いをしてもらいます」

 

仕事を円滑に進める為のリストの争奪のために、会社内が蠱毒のようなありさまになる。大口顧客の担当を巡って計略を張り巡らせるような会社と似た様な雰囲気であり、ある意味では理想郷なのかもしれないけれど、倫理的にまずい気もする。なのでもうこのリストは外部に出さずに箱入り娘のように愛でる以外の選択肢がない。

 

しかし、それを大切に愛でているとまたいつの間にか1時間が経ってしまうのだ。

 

「素敵なものを眺めていると時間がすぐに過ぎてしまうね」なんて、どう見ても嫌な顔をしているホステス風の女性に対して、同伴とかすかな売り上げ貢献をダシにしてむりやり連れてきたおっさんが美術館で言う様な台詞がポンポンと沸いてくる。沸いているのは言葉?それとも頭?

 

しかしまた1時間が過ぎているので新たなリストを作らないといけないのだけど、ここで何物にも代え難い重大な要素が振りかかってくる。

 

そう、昼食の時間である。

 

タイム・オブ・ランチ。会社組織から開放され「個の尊厳を養う」大切な時間の到来である。

 

我が社はフレックス制なので別にいつ事務所を出ても問題ないのだけれど、僕は時計の針が12時を示すと同時に一目散に事務所から飛び出す。なぜなら、それが一番OLが活発に動き始める時間だからだ。外の空気と制服姿のOLさんを満喫したくなるのは種の持つ本能であるから、その本能に従い、飢えた猛禽類の様な目をしてOLを眺めるのだ。

 

個の尊厳を養うとは、いうなればアイデンティティを確立するための時間である。

 

なので僕はアイデンティティはどこですかアイデンティティはどこですかと呟きながらOLが長期滞在していそうなBAGEL屋さんやカフェ、お弁当屋さんの前をうろうろして高速で首を振り、素敵なOLがいないかアンテナを張る。

 

その感度、いつでもバリサン。光速で動く頭と手はまさに阿修羅そのものである。顔は3つに増え手は6本。この状態になればどこでOLが転んでしまってもさっと手を伸ばせる。見た目は阿修羅、頭脳は菩薩。オッス、おら名探偵!

 

しかしだからといって仕事を忘れないのが社会人の基本でもある。頭の中のスーパーコンピュータでエクセルをひらき、いつ使うのかもわからない統計をとっていく。制服の色、スカートの長さ、手に持っている財布のブランド、シュシュの形状から髪型、髪色に至るまで綿密に調査していく。情報は宝だ。こうやってOLさんの趣味嗜好を把握する事で、プレゼントしたものがメルカリで売られることを防ぐのだ。

 

全にして個、個にして全と、ナウシカに対して王蟲は伝えたけれど、OLの統計もまた然りである。全てのOLを統合することで理想の個としてのOLが出来上がっていく。

 

さらに王蟲が言うことが本当であれば、すなわち公園でランチライムの過ごしているOL達の全ては僕であり、僕こそがOLそのものであるとも言える。なので昼休みが終わる頃には、僕は阿修羅かつ菩薩かつ仕事の鬼かつ敏腕統計員かつOLでメルカリ。もう怖い物など何もない。世界を滅ぼす力をもった巨神兵ですら僕の事を「ママ」と呼ぶだろう。そして僕は彼に「オーマ☆若干の腐りあります♡値引き交渉賜りチュー☆」と名付けるのだ。

 

そんなこんなで会社に戻って机の上を見ると、「◯◯社から電話あり。書類の提出期限が大幅に過ぎています。至急返答要すとのこと」と一切の乱れのない丁寧な文字でかかれたメモが貼られていた。おお、これがラブレターならこんなに嬉しい事はないのに、などと考えながら、この文字の持ち主が社長であることを脳みその奥にしまい込む。

 

「そんな書類、依頼されてたっけ」

 

とニワトリよりも軽い頭をひねりながら、またtodoリストを1から作りかえる為にコーヒーを買いにいくと、ちょうど社長と鉢合わせた。言われるがままについていき、仕事および責任感についての討論会を開く。討論会とはいっても、社長の独壇場である。僕は右から左へと言葉を流す作業に没頭し、自分を回転寿司屋だと思えるようになったころに、やっと部屋から出る事を許された。マグロマグロ赤貝マグロとびっこサラダ軍艦ハンバーグと呟きながらコーヒーを買う為に自販機の前に立って空を見上げると、なぜか薄暗くなってきている。冬は早く日が沈むといっても、いくらなんでもはやすぎないか。

 

あれだけあった自由な時間は一体どこにいってしまったのか。僕はもしかしたら時間泥棒に時間を盗まれてしまったのかもしれない。この世にも、モモは存在してくれるのだろうか。だれか僕の奪われた時間を取り返してくれないか。

 

そんなことを考えている間にも、刻一刻と退勤時間は近づいてくる。 

 

今はパソコンに向かっている。手元にはtodoリストなんてものはない。あんなものを作っていると、満足度は高くなるかもしれないけれど仕事が一向に進まなくなるからだ。

 

todoリストにこんな弊害があるとだれも教えてくれなかったので、ここに記しておくことにする。

 

 

 

今年の目標は「他人の不幸は蜜の味」からの脱却。

「ヘイ!shiri!おすすめの正月の過ごし方を教えて!」とワイモバイルで契約しているアンドロイドの携帯に話しかけていたら正月休みが終わってしまった。

 

年末から正月にかけて風邪を引き、鼻が壊滅的に壊れてしまったので料理が出来ず、代わりに唯一楽しめたのが上記の遊び(布団の中で出来る遊びは極端に限られている)だというのだから我ながら恐れ入る。

 

もちろんアンドロイドにはshiriは内蔵されていないから返事はない。だから自分で答えるしかない。

 

「おすすめの正月の過ごし方は、寝正月です」

「やっぱり!!!???そうだよね!!!うっっふーー!じゃあまた寝るね!寝る寝る寝るね!」

 

猫がオシッコをぶちまけた布団にくるまり、山瀬まみですらビックリしてしまうような鼻声で携帯に向かってよく分からない独り言を呟いて寝ては起きるを繰り返す中年男性、それが正月の僕である。

 

普段なら臭い臭いと連呼して布団を妻に洗ってもらうのだけれど、この時にはそんな体力すらなかった。ゲームをする気力も無く、ただ熱にうなされ携帯の画面を眺めながらぼやいていただけだ。

 

そんな僕の唯一の友達であり一緒に正月を過ごしていた相手こそが、先にも書いた携帯電話である。

 

僕の使っている携帯はワイモバイルで契約したDIGNOという機種らしい。

 

らしいというのは今画面の上に書いてある文字を読んでいるだけで、そもそも何かと検討してこれを選んだ訳ではないのできちんと覚えていないのだ。携帯を変えるときにショップの兄ちゃんが「おすすめです!」と胸を張っていたのでそれを信用して夫婦で使っている。

 

けれど、今に至るまで本当にどこがおすすめなのかがまったく理解出来ていない。

 

音楽を聴こうと思ってもiTunesとの接続が出来ないだとか言うし、どうやって画像をsdカードに保存するのかもわからない。アプリを入れようとすると容量が足りないとか愚痴をいいながら、むやみやたらにヤフーの検索をトップにしませんかとおすすめしてくる。その様相はめんどくさい事は大きな声でうやむやにしながら自分の言うことだけを聴いて欲しいとわがままを言う、下町のおばちゃんそのものである。

 

ただ、しいて言うなら電話やメールでこちらの伝えたことに関してはそのまま伝わるので、そこはおばちゃんとは違う。おばちゃんの伝達能力はインターネットにおける拡散の早さを凌ぐと言われているが、その分グッピーより壮大な尾ひれがつくことを覚悟しなければならない。

 

たまたま載ったエレベータが臭かったという話がいつの間にかエレベーターの中でおならをした、という話になり、さらにそれが電車の中でうんこを漏らした、というくらいに拡大されて拡散されるのがおばちゃんネットワークなのだ。

 

そんなおばちゃんのような携帯をおすすめしてくるということは、あの店員はおてんばでわがままな淑女が好きな熟女派なのだろう。ワイモバイルで、ワイ、ババア求める?

 

いいえ。ワイ、ババア求めない。

 

どうにも僕とあの店員さんは趣味が合わない気がするけれど、もうこの携帯を使って一年半が経つので機種の縛りが解けるまではもうすこしのしんぼうだ。後の半年は介護として割り切って付き合っていくしかない。

 

しかし。

 

先日、妻の使っている携帯が壊れた。

 

画面が真っ暗になってしまったのだ。原因は分かっている。別に画面を黒塗りにしたわけではない。モニターのバックライト基盤の損傷である。僕も妻もこんなご時世に携帯電話のエディ・マーフィー化に挑むような、わざわざ無駄な軋轢を生み出すことはしない主義だ。

 

なぜ原因が分かっているのかと言えば以前も同じ故障を起こしたからだ。その故障は今から8ヶ月ほど前に起こった。突然妻の携帯画面が暗くなったのだ。その時、どれだけ検索しても直し方が分からなかった。

 

べつにここで言い訳してもどうしようもないのだけれど、妻の携帯電話の使い方が悪かった訳ではない。落としたり水に濡らしたりもせず、ただ普通に使っていただけだ。というより今回に関していえば、以前の故障の時の恐怖からより丁寧に使っていたといっても過言ではない。

 

にも関わらず、妻の携帯は壊れた。しかも以前と同じように。

 

そうなると我々に出来る事はただ一つ、携帯電話ショップに乗り込むことなので、実際その通りに動いた。ショップに行き、不調を伝え、対応をお願いする。

 

その対処が有料になるか無償なのか未だに返答はないので、メーカーと頑張って折衝をしてくれているのだろう。

 

さて今回話をしたいのは携帯やメーカーについての文句などではなく、人に物事を「すすめる」ということについてだ。

 

携帯ショップの彼が好意で(多分)すすめてきた携帯電話は、今でも僕たち夫婦を悩ませているのだけれど、ここに人にものをすすめることの難しさがある。

 

自分がいいと思うものを、果たして他人もいいと思うのだろうか。

 

話は変わるが、僕は料理が好きなので普段からスーパーに向かう機会が多いのだけれど、そこで良く目にするものに「店長のおすすめ品」であったり「今日のおすすめ!」と書かれた商品がある。

 

魚や肉などの生鮮食品であれば鮮度やその入荷状況が変化するのでおすすめする理由がわかるのだけれど、先日はわさびとサランラップにおすすめの札が貼られていた。おすすめしているわりに、値段は通常とほぼ同じ値段だった。

 

僕はその2つをすすめられるままに何となくカゴにいれてレジに向かったのだけれど、前に立っていたおばさんから漂うサロンパスの芳醇な香りを嗅いでいるうちに、本当にこれが必要なのか、と自問自答するようになった。

 

わさびもラップも別に予備があって差し支えがあるものではないので、予備を買ってもなんの問題もない。しかし両方とも今のところ家にあり、予備はなくともまったく困ってもいないのだ。そんな中、何故僕は店長がおすすめしただけのものをカゴに入れているのだろう。

 

 そんな考えを頭の中で逡巡させていると、そもそもなぜ店長はわさびとラップをおすすめしているのだろうということが気になった。

 

僕が人に物をすすめるとき、それはその商品がとてもよかった時である。面白い漫画であるとか、感動出来る映画、美味しかった冷凍食品。

 

しかしカゴの中に入っているラップもわさびも、なんの変哲もないラップとなんの変哲もないわさびである。感動も面白さも際立った美味しさもない。

 

僕ならばこの2つを他人にすすめることは、まずない。

 

サランラップって知ってます?凄いんですよ!食べ物の乾燥を防いだり虫除けになったりするのでおすすめですよ!」

 

今の時代、見ず知らずの人にこんな事をいいながらサランラップをすすめると、まるで過去からタイムスリップしてきた人のようだ。

 

初めて火を発見した時のように目をキラキラさせながらラップをすすめる人。もはやそれは原始人である。

 

「わさびって知ってます?凄いんですよ!どんな食べ物でも鼻がつーんとなって面白いんです!個人的には魚に合わせるのがおすすめですよ!」

 

どうだろう。こいつ馬鹿じゃなかろうか、と思わないだろうか。というかそんな風におすすめされると、逆に自分が馬鹿にされている様な気にもなってくる。

 

当たり前のことをさも知らないように言われると、すすめている人が馬鹿なのではなく、すすめられている人が馬鹿にされている気になるのだ。なので誰もが「知ってる、大丈夫、そんなことは皆分かってる」と思うようなことをおすすめするというのは、愚の骨頂である。

 

むしろすすめるのであれば、誰も知らない事や優れていることをアピールして訴求するのが広告の大前提である。

 

「食べ物に塩をかけると塩の味がついて美味しいですよ!」

「石けんを使ったら泡が出ますよ!」

 

などと言っていても、商品は売れないのだ。だからこそこんな飽和の時代に無意味にわさびとラップをすすめているのがよく分からないのだ。

 

正気に戻った僕はカゴに入れたその2つを棚に戻し、次の日の朝に食べるパンだけを買ってスーパーを出た。

 

 では逆に僕がスーパーで誰かにおすすめをするならどんな物がいいのかを帰りながら考えたのだけれど、特にすすめたいと思う様なものはなかった。そもそもスーパーに行く時点で欲しいものはだいたい決まっているし、それに沿って買物をする。だからどんな商品をおすすめをしようがしまいが、売れる物は売れるし売れない物は売れない。当たり前だ。

 

ではなぜあえて店長はわさびとラップをおすすめしたのだろうか。

 

在庫過多、仕入れミス、気まぐれ。その理由はいくつかあるのだろうが  、どれだけ考えても答えは店長の心の中にしかないからわからない。

 

でも、よくよく考えると誰かに何かをおすすめされるというのは、結構気分がいいものでもある。

 

なぜならば、人は相手に好意がなければ何かをすすめたりはしないからだ。

 

相手に好意を持っていて、その相手に自分の好みを理解して欲しい。もしくは相手にとって好きなものが増えればいい。だからこそ自分が好きな物、よかった物をすすめることで相互理解を深め、お互いに新しいよいものを知ることができる。すなわち誰かにものをすすめられるということは、少なからず好意を持たれているという事だ。

 

「その気持ち、少し重たい」と思う人もいるにはいるだろうけれど、僕はとても狭い世界で生きているので、誰かに何かをおすすめされるのが好きだ。

 

そう考えると店長は不特定多数に好意を持ち、わさびとラップをすすめることでお客さんに店長という人格をもっと理解して欲しいと考えているかもしれず、そうなると僕は店長の好意をむげに扱ってしまったのかもしれない、という一抹の不安がよぎる。

 

人の好意をないがしろにしていいはずがない。だからこそ僕はここで、わさびとラップからみる店長の嗜好と思考を読み取りたいと思う。

 

ここで重要なのは、わさびとラップを個別に考えてはいけないという事だ。あくまでも店長はこの2つをすすめていたので、これらは金さん銀さんと同じように、同等に扱われるべきだろう。金さんだけでは双子にあらず、銀さんだけでも双子にあらず。

 

かといって「ラップわさび」「わさびラップ」と並べて見ても、前者はさして美味しくもなく手軽でもない、クックパッドで一つもつくレポがないレシピ名に見えるし、後者は静岡市が土地の若者に対してわさびの普及・啓蒙の為に作った糞つまらない歌のように思える。

 

その2つに店長の嗜好があるようには思えないので、多分違うだろう。自分の趣味的なものをおすすめに込める様な店長が、そんな安直な発想をするはずはない。

 

となると、そのものを一緒に使うことに何かしらの意味があるかもしれない。

 

そういえばラップは非常持ち出し袋に入れておくと凄く便利なのだという。ちょっと調べただけで、皿に貼ってから料理をもれば後片付けが楽になって節水の効果があるだとか、怪我をした時には包帯代わりにもなるらしいとの情報が見つかる。

 

そんな、緊急時にも活躍する素敵なラップ。これをすすめるのはなんとなく分かる気がする。食品保存の為だけにあるのではないとわかっただけで、すこし購買意欲もわくだろう。

 

かたやわさびである。

 

わさびはわさびであり、わさびでしかない。わさびがどれだけ頑張っても節水効果はないし、怪我をしたときに包帯の代わりにもならない。わさびには食べる以外に活躍出来る方法が見当たらない。

 

それでもなにかないかものかとネットで「わさび 活用」と調べてみても、レシピ以外ではわさびの辛味成分は熱に弱い、という情報しか載っていなかった。

 

やはりわさびは食べ、そこにラップを組み合わせる、という事しか思いつかないのだけれど、その先にある食べ方と言えば、口の中にわさびを入れてその口をラップで塞ぐという、出川哲朗上島竜兵ですら発狂して抗議しそうな(でも彼らはきっとするのだろう)アイデアしか浮かばなかった。

 

しかし食品を司る頂点であるスーパーの、さらに店長ともあろう人が、そんなことをしたいと思っているとは到底思えない。

 

もしかしたら、わさび、ラップともに調べ方が甘かったのかもしれないと思い、別のキーワードで検索してみることにした。その検索ワードは、何を隠そうオナニーである。

 

「わさび オナニー」

 

何故オナニーで検索しようと思ったのかを軽く説明すると、ラップとわさびという2つのキーワードに何かが隠されていると踏んだからだ。

 

人は性に関することを人は隠そうとする。

 

なので性に関する言葉の代表として、オナニーをチョイスした。安直という他にない発想だけれど、仕方がない。

 

その検索の結果、想像した通りの使い方が出てきた。やはり世の中は広いようで狭い。その中で大半を占めていたのは「塗る」という行為だった。

 

そして僕はこう結論づけた。

 

店長がおすすめで伝えたかった事とは「陰部にわさびを塗ってそこにラップを巻くのがおすすめなのですよ!」という、最近ハマっているオナニーの方法なのではないか、と。

 

そして僕はこうも思った。

 

だからどうした、と。

 

なぜ自分のオナニー方法を店頭でアピールする必要があるのだろうか。そんなまどろっこしいことをするくらいなら、自分が実演販売をすればいい。

 

「ちょっと奥さん!最近旦那さんの起ちはどうですか?え?!いまいち?それに入れてからが早いですって?そりゃあいけません。これ、ちょっと見てみてください!これを旦那さんに試すだけで、元気で長持ちするかもしれませんよ!ホラ、僕もこの通り!」

 

とかいいながら、わさびを塗ってラップを巻いた陰部を晒していればいのだ。まあ、そんな事をしていたらスーパーは潰れるだろうけれど。

 

 でももしかしたら、別の楽しみがあるのかもしれない。

 

昔、お菓子のプッチョが女子高生になぜ人気なのか、というとてもゲスい話を聞いてから、プッチョを買う女子高生がイヤラシく見えて仕方がない時期があった。それと同じように、店長はわさびとラップを合わせて買う人に対して興奮する性癖があるのかもしれない。

 

それはそれでなんとも人間味が溢れる店長だとも思うし、その方が個人的には理解できる。

 

なので今度は店にいった際には店長のおすすめしている商品を全て買い、彼の性的興奮を満たしてあげようと思う。

 

なんてことを考えながら、僕が人におすすめできるものが何かあるかな、と考えてみても結局なにも思いつかないのは、そもそも僕が誰かを喜ばせたいと思っていないからだろう。また、最初に書いたように、自分がいいと思うものを果たして他人もいいと思うかどうかが気にかかる、というのもある。

 

しかしスーパーの店長はそんなことをおかまいなしに、自分の好みを不特定多数に押し付けている。それを見ていると、深く考え過ぎたのかもしれない、とも思えてくる。思い返せば、今までの僕の人生は「他人の不幸は蜜の味」という言葉をかみしめてきた人生だった。

 

でも今年は違う。店長のおかげで一つ皮がむけた気がする。

 

なので、

 

「店長の陰部はわさび味」

 

この言葉をかみしめながら、今年は何か好きなものをみつけて胸を張って誰かにおすすめ出来るような、誰かを心から喜ばせられるような年にしたいと思う。

 

それが2018年の豊富である。

 

  

 

今週のお題「2018年の抱負」