僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

「ここに記す」と書くだけで、くだらないことでも仰々しく感じられるという気付き。

手羽をご存知だろうか。

 そう、その手羽で間違いない。甘辛く焼けばおつまみになり、フライにしてもマジ美味いあの手羽だ。

 

そしてこの世の中には手羽にまつわるいい話や格言がいくつもあるのだけれど、まず手始めに僕が一番好きなものをあげさせていただきたい。

 

熟慮された思考を煮詰め続けても何も産まれないが、手羽は煮詰めれば煮詰めるほどによい出汁がでる。

 

これは秦の時代の中国に生まれた言葉なのだけれど、元になった漢詩

 

熟慮更加熱何不産有

手羽煮込追熱味更深

 

 

というものである。

 

と書くと何やら本物っぽく見えるけれどこれは全てでたらめである。ともすれば熟慮は煮詰めればもっといい考えが出るかもしれず、さらに言えば熟慮できる人達が集まればもっといいアイデアが生まれたりもする。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、深く考えることは何にもおいてすばらしいものである。

 

また手羽に関しては煮詰めれば煮詰めるほどいいものが出来るという訳でもなく、煮詰め過ぎれば味がくどくなり過ぎるのでやはり加減が必要である。

 

ではなぜ最初に書いた様なでたらめをでっち上げたかというと、それはもう子供が蟻の触覚をちぎってしまうのと同じように理由はなく、ただ名言じみたものを書いてみたいあわよくば哲学者と呼ばれたい単に頭がいいと思われたいという承認欲求のなせる技である。

 

しかしこのようなでたらめを書いた背景にはもちろん週末に手羽を使って出汁を取っていたことがあり、その時「ちょうどいい出汁加減とは一体なんだ」という終わりの見えない疑問をもったからでもある。そう、それが僕たちのおわりなき旅であり仁義なき戦いで。

 

できることならば手羽ではなく岩下志麻から出た出汁を飲みたい。頬を赤らめながら「そんなとこ、舐めたらいかんぜよ」って言われたい。ずっと我慢している僕に対して、いたずらっぽい笑顔で「あほんだら!撃てるもんなら撃ってみい!」って言ってほしい。まあそんなシチュエーションになれば言われるまでもなく撃っちゃいますけれども。あほんだらでもなんでもいい。

 

とここまで書いて少し岩下志麻のことを調べてみたら仁義なき戦いには出ていなかったことがわかり、また「なめたらいかんぜよ」は鬼龍院花子の生涯における夏目雅子の台詞であり岩下志麻夏目雅子の養母役だったし、さらに「あほんだら〜」は極妻の台詞であった。僕としては「なめたら〜」から岩下志麻を勝手に想像していたのだけれどそれがそもそもの間違いで、仁義なき戦いから岩下志麻を勝手に想像して股間を膨らませていたのだけれどそれもまた間違い、そもそも僕という人間には記憶という概念が欠落しているのだという事実だけが残った。

 

まあそんな感じで岩下志麻に思いを馳せながら週末に手羽で出汁を取ろうと思ったのは、もちろん手羽のガラが安かったからである。1㎏の手羽が200円で販売されていたのだ。g当たり20円、破格である。

 

しかし実は今に至る人生の中で手羽ガラで出汁をとったことがなく、これもまた今までの人生と同じように手探りでの作業になったのだけれど、ちょうどいい案配の出汁が出来たので、ここに記す。

 

と書いて気がついたのだけれど「ここに記す」と書くだけで本当に下らない様なことでもなんとなく凄いことに感じられ、そうなるとその凄いものを書いた自分が凄い人に思えるからなんとも面白い。

 

路上で明らかに人糞だと思われるウンコを見たので、その詳細をここに記す。

階段を上るときに前にいた女性の臀部を無意識で見てしまっていた経緯を、ここに記す。

いい歳をして未だジャンプを読んでいるのかと馬鹿にされた時のことを、ここに記す。

 

このように語尾に「ここに記す」と書くだけでどれほどくだらないことでも仰々しく感じられ、またそこに記された文章が重要に思われる。なんともすばらしいことではないか。

 

では翻ってなぜそう思ってしまうのかを考えたいのだけれど、まずそもそも人は重要でないことやルーティン化されてているようなこと、当たり前のことを文章化しないことがあげられるだろう。

 

帽子は頭にかぶるものです。

ズボンの下にはパンツを履きましょう。

炭酸を一気飲みしてからゲップをせずに山手線の名前を全部言えます。

 

こういったことは、基本的に共通認識として万人にとっての当たり前であり、わざわざ文字にするべきことではない。もしそれらの共通認識がなければ、言葉や文章は肥大化してしまう。

 

例えば川端康成の雪国の冒頭である「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」という文章。無駄な言葉が排除され、端麗な比喩が情景を活かしているが、この言葉の排除も比喩も、共通認識がなければ成立しないものでもある。

 

もしこの文章を当たり前のことでも当たり前のこととせずに書き記すとなると、まず国境という言葉がわからないかもしれないので、ここは群馬と新潟の間と言わねばならず、トンネルを知らない人もいるかも知れないのでその説明も必要で、雪を知らない人は雪国の想像もできずに夜の底とは一体なんだ、それが白いとはどう言うことだという疑問にも答えなければならない。しかもこの中に電車という言葉も出てこないのでその解説も入れなければならず、またなぜ車や徒歩ではなく電車なのだという説明も必要かもしれない。

 

それをふまえて当たり前を当たり前としないことにした文章にすると、

 

「まず行き帰がしやすい様に山の中に掘った穴をトンネルといいますが、山がおおきければすそ野も長くなるので、それに比例してトンネルも長くなるということを理解しておいてください。すそ野というのは山の下の部分のことをいい、山とは土が盛りあがったものであり、その土とは地球の表面を覆うものであり、これらはひっくるめて地面とも呼ばれます。地球とは私たちが暮らすこの場所ですがその私たちが暮らす地球の中でも島と呼ばれるものがありその島とは周りを海という塩水で囲まれた土を意味するんですけれど今回の話はその島の中でも日本と呼ばれる国で、その国というのは1つの政府の元で暮らす人々の集まりであり、政府というものは人々が暮らしやすくなるように考えるその人々の代表でありますが、その国のなかでもまた細かく別れていて日本にもいくつか細かい呼び名があり今回は新潟と呼ばれる場所と群馬と呼ばれる場所の間にあるトンネル、そう、最初に説明しましたが、そのトンネルを通ることから始まります。ああ、説明というのはものごとを分かりやすくするということでありまして、そのトンネルを抜けると雪国があって、この雪国というのは雪と国をあわせた言葉で国は先ほど説明しましたが雪というのは空気中の水分が空の上で冷えて固まったものなのですがそれは冷たくて地面、これも先ほど説明しましたね、そう、地面の上に積もったりするのですが、その雪のよくつもる地域のことを雪国と申しまして、新潟と群馬の間には長いトンネルがあり、群馬では雪が積もっておらず、トンネルを抜けた先の新潟では雪が積もっていた、という風景描写でございます。夜の底、というのは、比喩表現、これはたとえと呼ばれるもので、よく似たものを並べることでその場所や物事を知らなくても読んだ人が分かりやすくなるように使われるものでございますが、夜というのは一日という区切りの中で世が暗くなる時間をさし、夜のあとには朝が、続いて昼が、さらに夕暮れと続き、また夜がきます。そしてその夜の底、という表現に関しては、底というのは一番下に位置するものという意味があり暗い夜のなかでももっとも暗いという意味合いを持たせており、そんな真っ暗な夜をも白く染めるほどの雪があったということで、これはまた窓の外に見える風景が上は真っ黒で下は真っ白というものも合わせて説明されております。ここで窓と書きましたが窓とは閉じられた場所と外部を繋ぐための設えであり、電車には外の空気をいれたり外の風景をみられるように取り付けられております。そういえば本来であればどなたでも分かりやすいように、電車で、という記載を入れるべきなのですが、一応注釈として書かせてもらいますと、長いトネンルを抜けるのは電車であると相場が決まっており、その相場というのはいわば共通認識を示す言葉であり、この共通認識というのは別に言わなくても察してくれるよねという感情なのですが、たとえば車専用の長いトンネルだってあるではないかと思われるかも知れませんがそれは確かにそうであり、電車と書かなかったのは私の怠慢でありますが、この時代には旅といえば電車だという共通認識に則り省いてしまった次第です。」

 

というような文章になってしまう。これはいけない。

 

しかしでは短くすればいいのかと問われると省き過ぎるのも問題であり、たとえばまた同じように雪国の冒頭をさらに省いてしまうと、

 

「長めのトンネルのち深夜の雪国@新潟」

 

 みたいになり、風情もクソもあったもんじゃない。ブロガーの書いた記事タイトルみたいなノリになってしまう。目指しているのはきっと温泉じゃなくてラーメン屋だ。

 

なのでやはり共通認識は必要だなあと痛感するのであるが、 この共通認識というものがあるからこそ、先に書いたように「ここに記す」という言葉が高尚なイメージをもつものとして成立すると考える次第である。

 

この世界に存在する「ここに記す」の記載がある文章は、大体が何かしらの珍しい発見について書かれていたり、著者がこれだけは残しておきたい、と感じたものを後世に残す為にわざわざ注釈的に書いていることが多い。逆に言えば、別に記さなくてもいいものにはそんなことは書かないと皆が知っているのだ。

 

 なのでこれを分かりやすい様に数式に当てはめてみると

 

X(何か適当な文章)+A(ここに記す)=B(重要な文章)

 

となるが、これが公式として人類の共通認識にあるので、このXには何を入れてもBが変わることがないのである。

 

いわばこれは形式的なものに対して何かしらの意味を見いだしてしまうといったような思い込みの弊害でもある。

 

その弊害をあえて悪用すること、すなわち「「ここに記す」と書かれていればそれは重要なものなのだ」という思い込みにつけ込むことで、 どんな駄文でも仰々しく仕立て上げることができるのだ。

 

そう、これがライフハックというものである。

 

さて、本題に話を戻そうとおもうのだけれど、本題は確か手羽ガラの出汁に関してだったと思うけれど僕には基本的に記憶力というものが欠落しており、もうすでにレシピは覚えておらず、なんとなく美味しかったという記憶しかないのだけれどそれも怪しい。うっすらと鍋にした記憶はあるのだけれど、〆は雑炊だったのか麺だったのかもあやふや。

 

まあ、別にいいか。

 

というようなよしなしごとを、ここに記す。

 

 

 

 

 

猫のことを考えると家に帰りたくなる。

今週のお題「ねこ」

 

何か文章を書こうと思ってこのページを開くのだけれど、上手く書けない。

その理由は分かっている。

 

画面の左上に浮かんでいる「【お題】ニャン・ニャン・ニャン」

 

という文字が目に入ってしまい、集中出来ないからだ。

 

別にそんなもの気にせずに書けばいいではないか、と思うかもしれないけれどそうはいかない。

 

なぜならば、僕は猫が好きだからだ。

 では猫の話を書けばいいではないかと思われるだろうが、それは出来ない。

なぜならば、今僕は職場でこの文章を書いているからだ。

 

そして僕が猫の文章を書こうとすると、決まって起こる現象がある。

 それは猫を抱っこしたいという気持ちと早く家に帰りたくなるという気持ちが合わさっての爆発である。

 

猫に対する愛情がエモーションとなり僕の心も身体も頭も心臓の肺も膀胱もキンタマも猫を求めて爆発してエクスプロージョンしてしまうからだ。 

 

猫を抱きたい猫を愛でたい猫をくわえたい猫を持ちあげてほおずりしたい猫と並んで窓の外にくる雀をみて一緒にぐるうるるるるるるううううと言いたい猫と同じ布団に入って猫がオマタの間に入ってくるまでじっとしていたい猫の前足をくわえてああ苦いといいたいみたいな気持ちが暴走してもう仕事なんか出来ないしこんな文章を書いている時点ですでに仕事なんてしていないしはやく帰りたい。

 

でももし会社の中で膀胱がエクスプロージョンしてしまうと猫が好きだ嫌いだ以前の問題であり社会的にどうにかなってしまうし、これ以上にどうしようもなくなってしまう。みだりに尿を撒き散らすのはうちの猫達だけで充分だ。

 

なので取り急ぎ机の前にはってある家の猫達の顔でもみて落ち着こうとおもうのだけれどその中には一昨年なくなった猫もいてなんだか泣けてきてしまう。

 

 とここまで感情に任せて思いつくままに気持ちをつづったのだけれど、エクスプロージョンの意味を曖昧にしか知らなかったので取り急ぎ調べてみる。

 

爆発、爆音、破裂、爆発的増加などなど。

 

よかった。合っていた。なんとなくニュアンスで書いたので不安だったのだけれど、猫と書いた時点で僕の猫に対する気持ちは爆発していたし爆音で猫の鳴き声が聞こえていたような気もするし猫に会いたい思いも破裂していたし家の猫の数も爆発的に増加していたので間違いはない。

 

 さて、今家には7匹の猫がいて別にこんなニャンニャンニャンの日だとかいわなくても毎日がニャンニャンニャンの日なのだけれど、翻って僕と妻のニャンニャンの日はもうそれは遠い日の花火であるのは間違いないけれどそれはこの際横に置いておこう。

 

だから我が家では玄関空けたら2分でご飯はおろか家に帰れば2秒で猫なのであり、まただいたいどの部屋にも猫がいて家に帰れば次に家を出るまではだいたい猫と過ごせるので早く家に帰ればだいたい問題は何もない。しかし仕事がある以上定時までは会社に待機する必要があるのはもう動かしがたい事実でもうこれは仕方がない。

 

そういえば僕は妻と同じ会社で働いており妻がお昼ご飯を作ってくれるのだけれど、そのご飯の中にたまに猫の毛が混ざっていることがある。そしてその毛を2人で眺めながらその毛の持ち主が誰かを当てるゲームに興じるのだけれど、それだけでだいたい5分くらい過ぎてしまうくらい愛おしい。

 

だいたいそれくらい猫が好きなのだけれど、実際問題としてこのような気持ちを他人に話すことは皆無だ。

 

たとえばビジネスでは政治と野球と宗教の話をしてはいけないと良く言われるが、こと動物についてもそれは同列にあると思っている。

  

言ってしまえば猫が好きだという気持ちは宗教的だからだ。

 

そして更に言えばこの世は猫教と犬教に大分類されてしまう。

 

 ニャンニャンニャンに触発されて僕と同じ様な文章を書いている人が世界中に五万とおると思うけれど、それと同じ様にニャンニャンニャンを憎む同数の犬原理主義者が存在することを忘れてはならない。

 

そういう人達はワンワンワンワンの日にこぞって暴れだすし、2月22日より11月11日の方が数字の数が1つ多いなどといって猫教に対してマウンティングしてくる(犬だけに)ことが多いのだけれどこれを期に言わせてもらうけれど11月11日は犬の話をしている人よりもポッキー&プリッツの話をしている人の方が絶対多いと思うからお前らはエグザイルよりも認知度は下だしどれだけ犬が可愛かろうが新垣結衣の可愛さには勝てないって言ってやろうと思うんだけれど、ここにおいてまたひとつの問題点が浮かび上がってしまう。

 

その問題点というのはもちろん、犬だって猫に負けず劣らず可愛いのだということだ。むしろガッキーよりも犬の方が可愛くもあるしエグザイルの数より犬の数の方が多いしその分繁殖の歴史もあるから三代目どころではない。明らかに犬の方が上。

 

 そういえば僕の働いている事務所の近くに黒芝を飼っているおばちゃんがいて、このおばちゃんも何とも愛らしいのだけれど黒芝がそれに輪をかけて愛らしい。

 

ツンデレは猫の本領だなんて言うけれどもその黒芝はまさにツンデレの権化であり、目が合った瞬間に僕たちの方に駆け出してくるのにも関わらず(デレ)目の前まできたら急ブレーキをかけて立ち止まりやがる(ツン)。それでももう見た目がムチムチしていて本当に可愛らしいので「おお、おはようございます今日も本当に可愛いですよね」と言いながら手を差し伸べると少しだけ匂いを嗅いで(デレ)そっぽを向く始末(ツン)。しかし妻がひざまずいて頭を撫でようとするともう妻の太ももに前足をのせて(デレ)唇を奪おうとするその様(デレ)をみて僕は嫉妬に狂うけれど(ツン)とりあえず一応は人様の犬ちゃんなので言葉少なに「その唇も太ももも本来は僕が独占すべきものなのですよ」とこころの中で呟くのだけれど(デレ)きっと犬はそういう所まで透かし見ているから僕に対して冷たいのだろう(ツン)。

 

なんて事を書いていると今度は猫至上主義先進派から「ニャンニャンニャンの日の犬の話をするとは何事だ」つって脅迫メールや苦情電話、不幸の手紙の類いが届くかもしれず、 今会社の電話の回線を切断した。やぶさかではない。ましてやこんな日に電話になんかでれるか。今日が2月23日で一日遅れだということは重々承知しているがそんなことは別に問題ですらない。今このとき僕は仕事よりも猫大切なのだという気持ちを伝えたいだけだ。

 

今日はなんといっても華の金曜日通称華金であり、会社帰りに浮かれた人達がやれ居酒屋だやれキャバクラだやれホストだとキグルイする日であるのだけれど、僕たちはそんなことに浮かれない。なぜならば、家でKAWAI子ちゃんたちの接待が待っているからだ。

 

早くエサをくれとせがむその姿はまるでお釈迦様のたらした蜘蛛の糸に群がる魑魅魍魎、せっかく用意したそのご飯が気に食わないと器の横で砂をかくという反逆の仕草は飼い主の神経を逆撫でし、トイレ掃除をしたそばから砂の上にかりんとうのようなウンコをトッピングして発狂したバイキングの様に部屋の中を破壊しまくる。脱糞王に俺はなる!!!!その見事な脱糞に満足したからかどうかは知らないが急に部屋のなかを走り回る。しかしその姿をよく見ていると肛門からウンコの粒がぶら下がっている。これはいけないとティッシュペーパーを持って追いかけるとそれを遊びの一環としてみたのか、さっき以上にはしゃぎ回ってうんこを付けたまま洋服棚へと隠れようとする。危機一髪のところで捉まえたと思いお尻にティッシュをあてるといつの間にかウンコは消滅しており「あれ、超能力?テレポーテーション?」なんて考えてると捉まえたはずの猫はもうおらず、一張羅のジャケットに消えたはずのウンコがついている。

 

そんな接待が毎日のようにあって気が狂いそうになるのだけれど、しかしそれでも毎日楽しいのは彼らの可愛さによるものであり、どれだけ布団にオシッコされようがこんな顔でこちらを見られてしまうともう全て許してしまうよねってことです。

 

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ねこ万歳。犬も万歳。鳥も豚も羊も万歳。爬虫類だって魚類だってみんな可愛い。皆長生きすればいい。

 

あー、はやく帰りてえ。接待してえ。

低温調理は確かにヤバい。

手を出すまいと決めていたものがいつの間にか手に入っていたときに人は狂うけれど、今の僕はもうとりあえず狂っている。朝起きてから寝るまでの間、基本的に考えていたことと言えば「ねえねえ奥さん、今日こそは僕の息子を舐めてくれないかなあ」というものなのだけれど、最近はそんなことを考える暇もないくらい別のことを考えている。その別のこととはもう最初からいっちゃうと塊肉のことなのだけれど、僕がなぜ塊肉のことを考え続けているのかといえばそれは妻にanovaを買ってもらったからである。今のところフェラーリ<肉塊。もしくはエロ本<anova。それくらいにヤバい。もうストロングゼロとか目じゃないくらいにヤバい。基本的に毎日お酒は飲むしたとえばanovaは2万弱くらいするんだけれど、多分量販店ならその金額でストロングゼロが200本くらい買えるんだろうけれど、それはケースで言えば24本で割ればいいからanova1つのお金でストロングゼロを8ケースとちょっとくらい買えるんだけれど、今の僕に言わせればそれなら絶対にanovaを買った方がいいレベル。ストロングゼロ文学なんてくそくらえでマジで日常を忘れたいならアルコールじゃなくてanovaに酔え。anovaを手に入れた僕はオナニーを覚えた猿がちんこをずっと弄り続けるのと同じようにずっとanovaを弄り続けているし、手でのオナニーに飽きたらオナホとローションに移行するようにもうanovaの低温調理だけに空き足らず低温調理した肉を炙る為にキッチン用のバーナーも買ったしそうなるとスーパーで時間が起ちすぎて半分ひからびて半額になった寿司でさえもそれを買って炙るだけでもうエジプト人がミイラ作るときみたいに脳みそがトロけて鼻の穴から出てくるし、それをアテにしながらビールを飲んで事前に低温調理した豚肉をまたバーナーで炙ってスパイスソルトをかけて食べれば口の中に入る肉の量と同じくらいの涎が出てきてホントにもう外食で肉なんか食べてらんねえなあっつってまたスーパーに戻ってグラム98円のカナダ産三元豚の肩ロースとこれはもう少し高いけれどグラム150円くらいの欧州産の牛の肩ロースの塊を買ってきてまた低温調理。牛の方は常温に戻して56℃で2時間で豚の方は61℃で10時間。その間は別にビールで酔おうがハイボールに溺れようがきちんと定温を保ってくれるから好きに出来るしタイマーで出来上がりも教えてくれるからそのまま永続的にオナニーしてたって別にいい。下味さえきちんとつけてたらもう何の考えなくていい。とにかくもう手元に2万円の猶予があるなら僕はanovaを買うことを進めるし、それ以外に何かいいものがあるかって聞かれたら取り合えずインターネットで評価のいい風俗にでも行けばいいと思うけれど身体が解けるほどのフェラよりも今のところ脂の溶ける定温調理された肉の塊を欲しているよね僕ってば。こうなるとやっぱり調理器具っていうのは沼だし肉も沼。これなんとかしてソーセージに戻らないとダメだなって思っているんだけれどまあそれはそれ、これはこれ。こんなうまいもん食べてたら将来のこととか考えられないし、とりあえず肉食べてウィスキー飲んでまた気絶でもしてれば明日もきっと楽しいだろう。えへへ。