僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

出世だとか気にするタイプではないのだけれど。

魚には出世魚と呼ばれるタイプのものがいる。

 

たとえば鰤。漢字で書くと「鰤」となりなかなかにカッコいい佇まいだけれど、カタカナになった途端「ブリ」となり、なかなかに下品な印象を与える出世魚である。ブリが2本並ぶだけで食卓には子供の笑顔が広がるだろう。もちろん僕だって笑顔になる。

 

そんな可愛いブリであるが、実は関西と関東で出世途中の名前が変わるので、なんともめんどくさく感じる魚でもある。

 

少し話は変わるけれど、めんどくさくて可愛いといえば、筆頭に挙げられるのはアジャコングではなかろうか。

 

彼女の本名は宍戸江利花というのだけれど、その本名がまず可愛い。プロレスラーのヒール役だったにも関わらず今はWAHAHA本舗に所属しているのも可愛い。でもその理由がいまいちよく分からないのはめんどくさい。でもそこも可愛い。

 

そんなアジャコングの名前の由来は北斗晶により「アジャ」と名付けられ、その後団体のお偉いさんに「ブラック・サンデー」と命名されそうになり、別のお偉いさんから「いやいや、『ザ・アジャ』のほうがいい」と言われ、それは響きが悪いからと「アジャ宍戸」となり、その後体重増加にともない「キングコング・アジャ」へ、でも女性だからと「クイーンコング・アジャ」にチェンジし、でも長いからという理由で「コング・アジャ」となっていざ試合をしてみたらアナウンスしにくいので逆にしましょうよ、というアナウンサーの助言で最終的に「アジャ・コング」になったという。

 

これはもう可愛いとかめんどくさいを通り越しているし、結局女性だからクイーンとかいう配慮も長いという理由で一蹴されたり最終的に名前を決めたのはアナウンサーじゃねえか、みたいなアハ体験も感じられて本当に面白い。

 

あれだけ厳つい外見でありながら名前を巡る一連の流れに身を任せてしまうところも本当に可愛い。美空ひばりでなくとも「アジャの流れのように」と思わず口ずさんでしまうくらいだ。

 

話を戻す。

 

 鰤はアジャ・コングと同じように名前を色々と変えていく出世魚だけれど、関西では小さい方からツバス、ハマチ、メジロ、ブリとなり、関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ブリとなるらしい(もし間違っていたら僕ではなくウィキペディアを責めてほしい。世の中にある責任の所在は全て僕以外にあるというのが僕の持論だ)。

 

なのでたとえばスーパーなどの鮮魚スペースで「ハマチ」として並んでいれば、その魚のあげられた港及び捌いた調理人は関西であるはずなので、脂のノリもお笑いに対するノリもいいはずだ。

 

なのでハマチを見つけたらすかざず、「おっちゃん、このハマチ、ハウマッチ!」と勢いよく聞けばよい。

 

そんなあなたの革新的なボケに対して鮮魚コーナーの人はこう言うだろう。

 

「うるさいボケしばくぞコラしょうもないこと言うとったらぶちのめすぞ店員に迷惑かけんとさっさと買いさらせクソが」と。関西人は基本的にイラチなのだ。

 

間違っても「お客さん、ノリがいいねえ、海苔だけに!うーん、そいつはイクラでしょうかね?お、よく見りゃお客さん、そこの鰤よりラブリーだね、だから鯛でもおまけしてあげたいねえ!」なんて返してはくれないし、もしこういった返しをしてきてもクソつまらないのできっとそいつは関西人ではない。自分で文章を打ちながら寒気がする。

 

さて、出世魚ほどではないけれど肉に関しても年齢で変化することがある。

 

羊がその最たるものだろう。たまに羊肉をひとくくりにしてラム肉と呼んだりする人を散見するが、そもそもラムとは生後1年未満の羊の肉のことを指す。1年以上2年未満の羊肉はホゲット、2年以上のものをマトンと呼ぶのだけれど、これもいうなれば出世肉となるのではないだろうか。

 

ちなみにこれらの見分け方は年齢とは別に歯でも決められてしまうらしい。永久歯が生えていないのがラム、生後1年未満でも下あごに2本以上の永久歯が生えればホゲットとなるのだ。

  

しかしよくよく考えると、これは出世魚というよりアイドルに近いものなのかもしれない。

 

なぜならば、年齢が低ければ低いほどに人気が出てくる、すなわち高値がつくからだ。

 

若い肉のほうが柔らかくクセも少ない。しかも身体が小さいのでとれる肉の量も少なく流通量も限られるので、需要に対して供給が追いつかない。

 

アイドルもそうだろう。若いうちは歌がヘタでも踊りがむちゃくちゃでもその新鮮さによってちやほやされるが、20歳を超えてしまうと仕事が減り、まだ若いのにおばはんだと罵られ、いい歳をしてぶりっ子だなんだと文句を言われ、段々と需要が無くなっていく。悲しい物語ではないか。

 

しかしここまで考えながら、僕は少し憤りを感じた。

 

たとえば成人男性が若い女性を求めるとロリコンだのなんだのと罵られ、逆に年上の人を求めると尊敬されるような風潮がある。年上女房は素敵だとか、フランス人は女性を年齢で見ないだとかそういう話題は掃いて捨てるほどある。

 

しかし高年齢こそがすばらしいというのであれば、肉に関しても若いものよりも加齢の進んだものを好む方が尊敬されるべきであるが、どの料理店でも幼い肉の方が良く売られているし実際に人気もある。

 

先にあげた羊でもラムよりも若いミルクだけで育ったアニョー(ミルクラム)というものもありその低年齢化には空恐ろしいものを感じ、一昔前にあったとある漫画ではアイドルの低年齢化に伴ってそのうち卵子を崇め奉るなんていうギャグがあったのだけれど、それを彷彿とさせる。羊の卵子のソテーなんていうのは、奇人達の晩餐会でも出てこないのではないか。

 

翻って僕自身に関して言えば基本的に年上好きであり、また年齢がいった肉のファンでもある。

 

ラムカレーよりもマトンカレーの方が滋味深くて好きだし、骨付き鳥の名店、一鶴にいっても頼むのはいつもひなどりではなく親鳥であるし、最近人気のある若い女優さんたちよりも杉本彩贔屓であるし竹内涼真よりも竹野内豊に抱かれたい。

 

では逆に年を取れば取るほどに価値もあがるものといえば何があるかといえば、肉とも相性のいい飲みもの、ワインである。

 

特定の年代に作られたワインは高値がつき、古いものであってもこぞって欲しがられるお酒界の熟女部門である。 

 

かの開高健も、ロマネ・コンティ・一九三五なんて短編を書いているが、同じ年代に生まれた有名人といえば浜村淳(映画のネタバレで有名)、畑正憲(ムツゴロウさんで有名)、美輪明宏(携帯の待ち受けにすると運気があがるので有名)、ダライ・ラマ14世(よくわからないけど有名)、朝丘雪路(未だ公共交通を利用出来ないことで有名)などがあげられ、彼ら、彼女らも今なお第一線で活躍し、求められている人々である。

 

さてそのようにワインというものは長きによって熟成され、時間との繋がりがとても強いものだと再確認するが、実際僕の舌は年代の違いによる細かい味を見分けることができないし、僕の鼻は芳醇な香りの中に花を見つけたり果実を感じるような機能もついていない。悲しい。

 

なのでここからは僕が唯一見分けられるお酒について書きたい。それはワカメ酒と口噛み酒である。

 

見分けられる、とかいたけれど、上記に書いた様に糞みたいな鼻と舌を持っているので実際問題としてその味で見分けることは出来ない。

 

なのでその見究めを勉強するために両方ともに出来立てを所望したいというのが目下の希望であるが、そもそもそんな物を求める様になってしまったのは宮崎駿のせいである。

 

僕がジブリ作品の中で一番好きなものは「耳をすませば」なのだけれど、シーン別でいうのであれば、その最高峰のシーンは「もののけ姫」に出てくるサンがアシタカに何か固い板状のもの(多分ジャーキー的なものだろうけれど)を口移しで食べさせるシーンである。

 

なので僕は駿に性癖を定められたといっても過言ではないし、それ以外に僕の性癖嗜好に影響を与えたものは路上に落ちていたSM系のエロ本くらいで、もう本当に妻はもっと僕のことを罵ってほしいし、おしっこのことをご褒美って言い換えてほしい。

 

しかしまあ最近はそういった欲望の類いが表面上に出てくることがなかったのだけれど、少し前に「君の名は」をテレビで拝聴し、そこに出てきた口噛み酒にいたく興奮してしまった。

 

ああいいなあ、妻に口噛み酒を作って欲しいなあ、なんてことを考えながら生活している次第なのだけれど、いやはやここまでくると別に出世魚や肉の話やアジャやお酒の話なんていうのはどうでもよくなってきているし、なんなら食欲と性欲がごちゃ混ぜになっているからもうこの感情を抱えたままで女体盛りを食べたいなあ、妻の胸に刺身を乗っけてワカメ酒飲ませてくれねえかな、なんて考えているのだけれど実際には口には出せず、そんなことを考えていただけでいつの間にか週末が終わっていたからこれもまた悲しい物語だし、こんなことを考えているだけで週末を潰してしまう僕のような人間は鰤やアジャとは違って出世出来ないんだろうな、とも思いました。

 

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。そういえば僕も自慢のイチモツをまたぐらに挟んで正座すれば、ワカメ酒が作れます。それを頑張ってストローで吸えばなんとセルフワカメ酒ができ、最近お腹が出てきているのでそこに刺身でもなんでも盛れそうですし、そうなれば見た目はどうであれ女体盛りに近しいものもできるやも知れず、身の回りのものでこれだけ代替案が提案出来るような人間は出世が見込めるかもしれません。

 

まあ、とりあえず色々と頑張ります。

「ここに記す」と書くだけで、くだらないことでも仰々しく感じられるという気付き。

手羽をご存知だろうか。

 そう、その手羽で間違いない。甘辛く焼けばおつまみになり、フライにしてもマジ美味いあの手羽だ。

 

そしてこの世の中には手羽にまつわるいい話や格言がいくつもあるのだけれど、まず手始めに僕が一番好きなものをあげさせていただきたい。

 

熟慮された思考を煮詰め続けても何も産まれないが、手羽は煮詰めれば煮詰めるほどによい出汁がでる。

 

これは秦の時代の中国に生まれた言葉なのだけれど、元になった漢詩

 

熟慮更加熱何不産有

手羽煮込追熱味更深

 

 

というものである。

 

と書くと何やら本物っぽく見えるけれどこれは全てでたらめである。ともすれば熟慮は煮詰めればもっといい考えが出るかもしれず、さらに言えば熟慮できる人達が集まればもっといいアイデアが生まれたりもする。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、深く考えることは何にもおいてすばらしいものである。

 

また手羽に関しては煮詰めれば煮詰めるほどいいものが出来るという訳でもなく、煮詰め過ぎれば味がくどくなり過ぎるのでやはり加減が必要である。

 

ではなぜ最初に書いた様なでたらめをでっち上げたかというと、それはもう子供が蟻の触覚をちぎってしまうのと同じように理由はなく、ただ名言じみたものを書いてみたいあわよくば哲学者と呼ばれたい単に頭がいいと思われたいという承認欲求のなせる技である。

 

しかしこのようなでたらめを書いた背景にはもちろん週末に手羽を使って出汁を取っていたことがあり、その時「ちょうどいい出汁加減とは一体なんだ」という終わりの見えない疑問をもったからでもある。そう、それが僕たちのおわりなき旅であり仁義なき戦いで。

 

できることならば手羽ではなく岩下志麻から出た出汁を飲みたい。頬を赤らめながら「そんなとこ、舐めたらいかんぜよ」って言われたい。ずっと我慢している僕に対して、いたずらっぽい笑顔で「あほんだら!撃てるもんなら撃ってみい!」って言ってほしい。まあそんなシチュエーションになれば言われるまでもなく撃っちゃいますけれども。あほんだらでもなんでもいい。

 

とここまで書いて少し岩下志麻のことを調べてみたら仁義なき戦いには出ていなかったことがわかり、また「なめたらいかんぜよ」は鬼龍院花子の生涯における夏目雅子の台詞であり岩下志麻夏目雅子の養母役だったし、さらに「あほんだら〜」は極妻の台詞であった。僕としては「なめたら〜」から岩下志麻を勝手に想像していたのだけれどそれがそもそもの間違いで、仁義なき戦いから岩下志麻を勝手に想像して股間を膨らませていたのだけれどそれもまた間違い、そもそも僕という人間には記憶という概念が欠落しているのだという事実だけが残った。

 

まあそんな感じで岩下志麻に思いを馳せながら週末に手羽で出汁を取ろうと思ったのは、もちろん手羽のガラが安かったからである。1㎏の手羽が200円で販売されていたのだ。g当たり20円、破格である。

 

しかし実は今に至る人生の中で手羽ガラで出汁をとったことがなく、これもまた今までの人生と同じように手探りでの作業になったのだけれど、ちょうどいい案配の出汁が出来たので、ここに記す。

 

と書いて気がついたのだけれど「ここに記す」と書くだけで本当に下らない様なことでもなんとなく凄いことに感じられ、そうなるとその凄いものを書いた自分が凄い人に思えるからなんとも面白い。

 

路上で明らかに人糞だと思われるウンコを見たので、その詳細をここに記す。

階段を上るときに前にいた女性の臀部を無意識で見てしまっていた経緯を、ここに記す。

いい歳をして未だジャンプを読んでいるのかと馬鹿にされた時のことを、ここに記す。

 

このように語尾に「ここに記す」と書くだけでどれほどくだらないことでも仰々しく感じられ、またそこに記された文章が重要に思われる。なんともすばらしいことではないか。

 

では翻ってなぜそう思ってしまうのかを考えたいのだけれど、まずそもそも人は重要でないことやルーティン化されてているようなこと、当たり前のことを文章化しないことがあげられるだろう。

 

帽子は頭にかぶるものです。

ズボンの下にはパンツを履きましょう。

炭酸を一気飲みしてからゲップをせずに山手線の名前を全部言えます。

 

こういったことは、基本的に共通認識として万人にとっての当たり前であり、わざわざ文字にするべきことではない。もしそれらの共通認識がなければ、言葉や文章は肥大化してしまう。

 

例えば川端康成の雪国の冒頭である「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」という文章。無駄な言葉が排除され、端麗な比喩が情景を活かしているが、この言葉の排除も比喩も、共通認識がなければ成立しないものでもある。

 

もしこの文章を当たり前のことでも当たり前のこととせずに書き記すとなると、まず国境という言葉がわからないかもしれないので、ここは群馬と新潟の間と言わねばならず、トンネルを知らない人もいるかも知れないのでその説明も必要で、雪を知らない人は雪国の想像もできずに夜の底とは一体なんだ、それが白いとはどう言うことだという疑問にも答えなければならない。しかもこの中に電車という言葉も出てこないのでその解説も入れなければならず、またなぜ車や徒歩ではなく電車なのだという説明も必要かもしれない。

 

それをふまえて当たり前を当たり前としないことにした文章にすると、

 

「まず行き帰がしやすい様に山の中に掘った穴をトンネルといいますが、山がおおきければすそ野も長くなるので、それに比例してトンネルも長くなるということを理解しておいてください。すそ野というのは山の下の部分のことをいい、山とは土が盛りあがったものであり、その土とは地球の表面を覆うものであり、これらはひっくるめて地面とも呼ばれます。地球とは私たちが暮らすこの場所ですがその私たちが暮らす地球の中でも島と呼ばれるものがありその島とは周りを海という塩水で囲まれた土を意味するんですけれど今回の話はその島の中でも日本と呼ばれる国で、その国というのは1つの政府の元で暮らす人々の集まりであり、政府というものは人々が暮らしやすくなるように考えるその人々の代表でありますが、その国のなかでもまた細かく別れていて日本にもいくつか細かい呼び名があり今回は新潟と呼ばれる場所と群馬と呼ばれる場所の間にあるトンネル、そう、最初に説明しましたが、そのトンネルを通ることから始まります。ああ、説明というのはものごとを分かりやすくするということでありまして、そのトンネルを抜けると雪国があって、この雪国というのは雪と国をあわせた言葉で国は先ほど説明しましたが雪というのは空気中の水分が空の上で冷えて固まったものなのですがそれは冷たくて地面、これも先ほど説明しましたね、そう、地面の上に積もったりするのですが、その雪のよくつもる地域のことを雪国と申しまして、新潟と群馬の間には長いトンネルがあり、群馬では雪が積もっておらず、トンネルを抜けた先の新潟では雪が積もっていた、という風景描写でございます。夜の底、というのは、比喩表現、これはたとえと呼ばれるもので、よく似たものを並べることでその場所や物事を知らなくても読んだ人が分かりやすくなるように使われるものでございますが、夜というのは一日という区切りの中で世が暗くなる時間をさし、夜のあとには朝が、続いて昼が、さらに夕暮れと続き、また夜がきます。そしてその夜の底、という表現に関しては、底というのは一番下に位置するものという意味があり暗い夜のなかでももっとも暗いという意味合いを持たせており、そんな真っ暗な夜をも白く染めるほどの雪があったということで、これはまた窓の外に見える風景が上は真っ黒で下は真っ白というものも合わせて説明されております。ここで窓と書きましたが窓とは閉じられた場所と外部を繋ぐための設えであり、電車には外の空気をいれたり外の風景をみられるように取り付けられております。そういえば本来であればどなたでも分かりやすいように、電車で、という記載を入れるべきなのですが、一応注釈として書かせてもらいますと、長いトネンルを抜けるのは電車であると相場が決まっており、その相場というのはいわば共通認識を示す言葉であり、この共通認識というのは別に言わなくても察してくれるよねという感情なのですが、たとえば車専用の長いトンネルだってあるではないかと思われるかも知れませんがそれは確かにそうであり、電車と書かなかったのは私の怠慢でありますが、この時代には旅といえば電車だという共通認識に則り省いてしまった次第です。」

 

というような文章になってしまう。これはいけない。

 

しかしでは短くすればいいのかと問われると省き過ぎるのも問題であり、たとえばまた同じように雪国の冒頭をさらに省いてしまうと、

 

「長めのトンネルのち深夜の雪国@新潟」

 

 みたいになり、風情もクソもあったもんじゃない。ブロガーの書いた記事タイトルみたいなノリになってしまう。目指しているのはきっと温泉じゃなくてラーメン屋だ。

 

なのでやはり共通認識は必要だなあと痛感するのであるが、 この共通認識というものがあるからこそ、先に書いたように「ここに記す」という言葉が高尚なイメージをもつものとして成立すると考える次第である。

 

この世界に存在する「ここに記す」の記載がある文章は、大体が何かしらの珍しい発見について書かれていたり、著者がこれだけは残しておきたい、と感じたものを後世に残す為にわざわざ注釈的に書いていることが多い。逆に言えば、別に記さなくてもいいものにはそんなことは書かないと皆が知っているのだ。

 

 なのでこれを分かりやすい様に数式に当てはめてみると

 

X(何か適当な文章)+A(ここに記す)=B(重要な文章)

 

となるが、これが公式として人類の共通認識にあるので、このXには何を入れてもBが変わることがないのである。

 

いわばこれは形式的なものに対して何かしらの意味を見いだしてしまうといったような思い込みの弊害でもある。

 

その弊害をあえて悪用すること、すなわち「「ここに記す」と書かれていればそれは重要なものなのだ」という思い込みにつけ込むことで、 どんな駄文でも仰々しく仕立て上げることができるのだ。

 

そう、これがライフハックというものである。

 

さて、本題に話を戻そうとおもうのだけれど、本題は確か手羽ガラの出汁に関してだったと思うけれど僕には基本的に記憶力というものが欠落しており、もうすでにレシピは覚えておらず、なんとなく美味しかったという記憶しかないのだけれどそれも怪しい。うっすらと鍋にした記憶はあるのだけれど、〆は雑炊だったのか麺だったのかもあやふや。

 

まあ、別にいいか。

 

というようなよしなしごとを、ここに記す。

 

 

 

 

 

猫のことを考えると家に帰りたくなる。

今週のお題「ねこ」

 

何か文章を書こうと思ってこのページを開くのだけれど、上手く書けない。

その理由は分かっている。

 

画面の左上に浮かんでいる「【お題】ニャン・ニャン・ニャン」

 

という文字が目に入ってしまい、集中出来ないからだ。

 

別にそんなもの気にせずに書けばいいではないか、と思うかもしれないけれどそうはいかない。

 

なぜならば、僕は猫が好きだからだ。

 では猫の話を書けばいいではないかと思われるだろうが、それは出来ない。

なぜならば、今僕は職場でこの文章を書いているからだ。

 

そして僕が猫の文章を書こうとすると、決まって起こる現象がある。

 それは猫を抱っこしたいという気持ちと早く家に帰りたくなるという気持ちが合わさっての爆発である。

 

猫に対する愛情がエモーションとなり僕の心も身体も頭も心臓の肺も膀胱もキンタマも猫を求めて爆発してエクスプロージョンしてしまうからだ。 

 

猫を抱きたい猫を愛でたい猫をくわえたい猫を持ちあげてほおずりしたい猫と並んで窓の外にくる雀をみて一緒にぐるうるるるるるるううううと言いたい猫と同じ布団に入って猫がオマタの間に入ってくるまでじっとしていたい猫の前足をくわえてああ苦いといいたいみたいな気持ちが暴走してもう仕事なんか出来ないしこんな文章を書いている時点ですでに仕事なんてしていないしはやく帰りたい。

 

でももし会社の中で膀胱がエクスプロージョンしてしまうと猫が好きだ嫌いだ以前の問題であり社会的にどうにかなってしまうし、これ以上にどうしようもなくなってしまう。みだりに尿を撒き散らすのはうちの猫達だけで充分だ。

 

なので取り急ぎ机の前にはってある家の猫達の顔でもみて落ち着こうとおもうのだけれどその中には一昨年なくなった猫もいてなんだか泣けてきてしまう。

 

 とここまで感情に任せて思いつくままに気持ちをつづったのだけれど、エクスプロージョンの意味を曖昧にしか知らなかったので取り急ぎ調べてみる。

 

爆発、爆音、破裂、爆発的増加などなど。

 

よかった。合っていた。なんとなくニュアンスで書いたので不安だったのだけれど、猫と書いた時点で僕の猫に対する気持ちは爆発していたし爆音で猫の鳴き声が聞こえていたような気もするし猫に会いたい思いも破裂していたし家の猫の数も爆発的に増加していたので間違いはない。

 

 さて、今家には7匹の猫がいて別にこんなニャンニャンニャンの日だとかいわなくても毎日がニャンニャンニャンの日なのだけれど、翻って僕と妻のニャンニャンの日はもうそれは遠い日の花火であるのは間違いないけれどそれはこの際横に置いておこう。

 

だから我が家では玄関空けたら2分でご飯はおろか家に帰れば2秒で猫なのであり、まただいたいどの部屋にも猫がいて家に帰れば次に家を出るまではだいたい猫と過ごせるので早く家に帰ればだいたい問題は何もない。しかし仕事がある以上定時までは会社に待機する必要があるのはもう動かしがたい事実でもうこれは仕方がない。

 

そういえば僕は妻と同じ会社で働いており妻がお昼ご飯を作ってくれるのだけれど、そのご飯の中にたまに猫の毛が混ざっていることがある。そしてその毛を2人で眺めながらその毛の持ち主が誰かを当てるゲームに興じるのだけれど、それだけでだいたい5分くらい過ぎてしまうくらい愛おしい。

 

だいたいそれくらい猫が好きなのだけれど、実際問題としてこのような気持ちを他人に話すことは皆無だ。

 

たとえばビジネスでは政治と野球と宗教の話をしてはいけないと良く言われるが、こと動物についてもそれは同列にあると思っている。

  

言ってしまえば猫が好きだという気持ちは宗教的だからだ。

 

そして更に言えばこの世は猫教と犬教に大分類されてしまう。

 

 ニャンニャンニャンに触発されて僕と同じ様な文章を書いている人が世界中に五万とおると思うけれど、それと同じ様にニャンニャンニャンを憎む同数の犬原理主義者が存在することを忘れてはならない。

 

そういう人達はワンワンワンワンの日にこぞって暴れだすし、2月22日より11月11日の方が数字の数が1つ多いなどといって猫教に対してマウンティングしてくる(犬だけに)ことが多いのだけれどこれを期に言わせてもらうけれど11月11日は犬の話をしている人よりもポッキー&プリッツの話をしている人の方が絶対多いと思うからお前らはエグザイルよりも認知度は下だしどれだけ犬が可愛かろうが新垣結衣の可愛さには勝てないって言ってやろうと思うんだけれど、ここにおいてまたひとつの問題点が浮かび上がってしまう。

 

その問題点というのはもちろん、犬だって猫に負けず劣らず可愛いのだということだ。むしろガッキーよりも犬の方が可愛くもあるしエグザイルの数より犬の数の方が多いしその分繁殖の歴史もあるから三代目どころではない。明らかに犬の方が上。

 

 そういえば僕の働いている事務所の近くに黒芝を飼っているおばちゃんがいて、このおばちゃんも何とも愛らしいのだけれど黒芝がそれに輪をかけて愛らしい。

 

ツンデレは猫の本領だなんて言うけれどもその黒芝はまさにツンデレの権化であり、目が合った瞬間に僕たちの方に駆け出してくるのにも関わらず(デレ)目の前まできたら急ブレーキをかけて立ち止まりやがる(ツン)。それでももう見た目がムチムチしていて本当に可愛らしいので「おお、おはようございます今日も本当に可愛いですよね」と言いながら手を差し伸べると少しだけ匂いを嗅いで(デレ)そっぽを向く始末(ツン)。しかし妻がひざまずいて頭を撫でようとするともう妻の太ももに前足をのせて(デレ)唇を奪おうとするその様(デレ)をみて僕は嫉妬に狂うけれど(ツン)とりあえず一応は人様の犬ちゃんなので言葉少なに「その唇も太ももも本来は僕が独占すべきものなのですよ」とこころの中で呟くのだけれど(デレ)きっと犬はそういう所まで透かし見ているから僕に対して冷たいのだろう(ツン)。

 

なんて事を書いていると今度は猫至上主義先進派から「ニャンニャンニャンの日の犬の話をするとは何事だ」つって脅迫メールや苦情電話、不幸の手紙の類いが届くかもしれず、 今会社の電話の回線を切断した。やぶさかではない。ましてやこんな日に電話になんかでれるか。今日が2月23日で一日遅れだということは重々承知しているがそんなことは別に問題ですらない。今このとき僕は仕事よりも猫大切なのだという気持ちを伝えたいだけだ。

 

今日はなんといっても華の金曜日通称華金であり、会社帰りに浮かれた人達がやれ居酒屋だやれキャバクラだやれホストだとキグルイする日であるのだけれど、僕たちはそんなことに浮かれない。なぜならば、家でKAWAI子ちゃんたちの接待が待っているからだ。

 

早くエサをくれとせがむその姿はまるでお釈迦様のたらした蜘蛛の糸に群がる魑魅魍魎、せっかく用意したそのご飯が気に食わないと器の横で砂をかくという反逆の仕草は飼い主の神経を逆撫でし、トイレ掃除をしたそばから砂の上にかりんとうのようなウンコをトッピングして発狂したバイキングの様に部屋の中を破壊しまくる。脱糞王に俺はなる!!!!その見事な脱糞に満足したからかどうかは知らないが急に部屋のなかを走り回る。しかしその姿をよく見ていると肛門からウンコの粒がぶら下がっている。これはいけないとティッシュペーパーを持って追いかけるとそれを遊びの一環としてみたのか、さっき以上にはしゃぎ回ってうんこを付けたまま洋服棚へと隠れようとする。危機一髪のところで捉まえたと思いお尻にティッシュをあてるといつの間にかウンコは消滅しており「あれ、超能力?テレポーテーション?」なんて考えてると捉まえたはずの猫はもうおらず、一張羅のジャケットに消えたはずのウンコがついている。

 

そんな接待が毎日のようにあって気が狂いそうになるのだけれど、しかしそれでも毎日楽しいのは彼らの可愛さによるものであり、どれだけ布団にオシッコされようがこんな顔でこちらを見られてしまうともう全て許してしまうよねってことです。

 

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ねこ万歳。犬も万歳。鳥も豚も羊も万歳。爬虫類だって魚類だってみんな可愛い。皆長生きすればいい。

 

あー、はやく帰りてえ。接待してえ。