僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

イマジネーションをクリエーションすることでエモーションがどうたらこうたらで結果的に局部にローション。

お腹が出ている。これ以上ないくらいにお腹が出ている。

 

出ているものはお腹だけではなく、胸も出てきている。妻がいうには「そろそろブラジャーが必要なのでは」という程度のものである。気のせいかもしれないけれど、乳の肥大に伴って母性も芽生えているかもしれない。

 

母乳は今のところでていないけれど、それも時間の問題かもしれない。猫を抱っこする時にも、今までは可愛いと思っているだけだったのが愛おしいと思う様になりいつの間にか過保護な親のようになり、あなたたちは競争社会で身を削る必要なんてないのよ社会の荒波から私が守ってあげるからね食べたいものはいつでもあげるわ布団にオシッコをしても怒らないわと思う様にもなっている(でも現実に彼ら彼女らは家から出ずにずっと寝ているか飯を食っているかだけなのでこれは杞憂である)。

 

そんな日常のささやかなやりとりの後、妻がダイエーに向かいてその後に百均に行くというので僕も同行しつつ、百均に向かった妻を見送り店内を適当にぶらぶらしていた。

 

そろそろ本当にブラジャーが必要なのか、否、まだそこまでではないはずだ、などと心の中で考えていたからなのか、足が自ずと女性向け下着売り場へと向かい、そこに並ぶ華美な下着を見ながら、それにつけてもレース付きのブラジャーはなんとなく気恥ずかしいなあ、どうせ付けるならスポブラかなあ、なんてイマジネーションを繰り広げながらアンダーウェアを眺めていたら、売り場の女性店員さんに変な目で見られていた。

 

「別に僕は変な目で見ていません!自分用です!」と弁明の為に言おうとしたけれど、考えてみればその方が変だったので僕は黙って下着売り場を出たのであります。

 

しかしまあ母性もそこまで行き着くと結果的に1人で母乳プレイが出来る、言うなれば極私的なクリエーションを堪能できるので喜びもひとしおだけれどもそうなってしまっては大黒柱としての権威が失墜し今ですらこれだけ愛情を振りまいているにも関わらず猫達から蔑まれているような状態であり、これ以上どうしようもない醜態を晒すと猫どころか妻に愛想を尽かされるかもしれないと思う。

 

でもそれはもう本当に当たり前のことで、僕だっていい歳をしたおっさんが自分の乳首を吸いながら「母乳おいちい母乳おいちい」と言いつつちんこを触っていたら愛想を尽かすどころかまず人として見下すし通報するしできれば近所に住んでいて欲しくはないのでなんとかして視界に入らない様に腐心するのだけれど、実際それが僕自身であるともうこれは如何ともしがたく出来ることなら分裂したのちもう1人の自分を抹殺するほか解決策が見当たらない。もしくは彼を内包したままでの自害。

 

なのでとりあえず自害する前にできることとして、痩せる為に運動することにした。しかもなんの因果か週末には健康診断も控えている。

 

健康診断というのはいつもの不摂生が数値に表れるものであり、普段から意識的に不摂生している僕は受ける前から実感として悪い数値を突きつけられているようなものなので健康診断を受ける前から多大なストレスがかかっており、いつだってエモーション。

 

現状のままで健康診断を受けるとなるとその不安から自分の行動を制御する自信がなく、このままでは不安を感じすぎて受診しながらであるにも関わらず安心感を求める為に無意識に自分の乳首を吸って「母乳おいちい母乳おいちい」と連呼してしまう懸念があり、そうなるといつものクセでちんこを触ってしまうことも可能性としては多分にあり、いくら血液検査の結果が悪くなくても医者の前で急に乳首を吸いながらちんこを揉むというのは別の病院に入院をすすめられるであろうことは想像に難くないのでやはりというかなんというか、健康に近づく為の努力、すなわち運動不足の解消及びストレスの発散は人生においての必須項目となりうる。

 

そこで僕がまずすべきは運動で、その内容として選んだのはずばりダイエットの定番ランニングである。

 

ランニングを選んだ理由は手軽であること、さらにいうと今の自分という醜態の塊を人様に見られるのは気が引けるのでジムにはいけない、などというのがあげられ、また極度の人見知りである僕はこの腐った肉体が他人に目にさらされると混乱して自分の乳首を吸い「母乳おいちい母乳おいちい」と連呼してしまうかもしれず、そうなるとまたトレーニングしながらちんこをいじってしまうかもしれず、皆様が筋肉のパンプアップしている最中僕だけが海綿体のパンプアップ、しかしそれでもヒョロヒョロとしたものにしかならないとなり自信喪失ののちジム通いを諦めることになるのは必然なので我がの身体を人の目にあまりふれないようにする必要があった。

 

また、普段から僕と妻は同じ家から出て同じ職場にて仕事をし、また同じ家へと帰っていくのであるが、これを少し変更するだけでいつもの通勤経路がランニングに向くのでは、という事実から導きだされたものでもある。

 

今まではお互いに自転車で駅へと向かい電車にのっていたのであるが、これを1台の自転車に変更。朝、妻にバスで駅へと向かってもらい、帰りに僕が走り、妻が自転車にのって僕を追いかける、もしくは自転車に乗っている妻を追いかけるということにすれば、通い慣れた帰り道がおのずとランニングコースへと変貌するのだ。

 

これはなんとも本当に合理的であるなあとこの一連の行動を発明した自分を褒めたくもあるけど、この夫婦揃っての帰宅時ランニングをしているとなんとなく昔を思い出して悲しくもある。

 

その昔の思い出とは、かつて自分が「ごまめ」であったころの記憶である。

 

どうやらごまめは関西圏の特に下町の方言らしいので少し説明するけれど、年長の子供たちの遊びに混ざる年少の子供を指す言葉である。公園での鬼ごっこなどでタッチされても鬼にはならず、阿呆みたいに嬌声を撒き散らしながらただ漠然と逃げる存在、それが「ごまめ」であり、幼少期の僕でもある。

 

兄やその友人たちは最初はまあ仕方なしで受け入れてくれたけれど、これが段々と年齢があがり少年たちの移動の手段が徒歩から自転車に進化する際、ごまめの存在はどうでもいい存在から疎ましい存在へと変化していく。

 

今までは公園という限られた範囲での遊びだったものが自転車での行動が主になると、自転車にのれないごまめもしくは自転車を持っていない存在はただの足手まといでしかなく、そうなるとごまめとして無邪気に走り回っていた僕は無邪気な存在から邪魔な存在にランクアップ、いうなればキャタピーからトランセルへと進化してしまい、例えば兄が友達と遊んでいるところに参加したとしてもしびれをきらした兄とその友達が自転車で僕をまこうとし、僕はその兄と友人の背中を必死で追いかけ、先に兄たちが曲がった曲がり角まで走っていくともうそこには誰もおらず、誰もない道、2人の愛を確かめたくってもそれすら叶わず、途方にくれながら自らの呼吸音と心拍を感じるのである。もうそれは悲しき蛹そのもの。得意技は「固くなる」のみ。

 

その哀愁と息切れこそが、「ごまめ」の本質なのである。

 

しかしながら妻は兄もしくは兄の友人と違ってとてもやさしく、僕の走るペースに合わせて自転車のスピードを緩めてはまた少し早めを繰り返し、さらにそのつど僕の呼吸が荒くなりすぎていないかチェックするために会話を挟み、と致せり尽くせりの伴走をしてくれるポケモンマスターの鏡であるので最近は哀愁を感じる間がなく少々の不整脈じみた心拍を感じるのみであり、また僕の股間に居を定めているトランセルも間もなくバタフリーへと進化することだろうし、昔覚えてから未だに使い続けている「固くなる」も陽の目を見ることが出来るだろう。。

 

しかし。

 

実はこのランニングにおいてもネックはあり、それは雨が降ると走れないというのがネックの本質であり神髄なのだけれど、そうなると早々に家に帰って家の中で運動をするのが解決策となるが、我が家には結構な数の猫がおり、例えば室内で昇降運動をするといつ猫のしっぽや足を踏んでしまうかわからず、自分の身体を養生する為にほかの動物の健康を害するというのは私の信条に反するのでこれは断念、では上半身を鍛える為に腕立てはというとこれもまた猫が顔の下を通ってしっぽを僕の顔に当てたのちにこちらを横目でみて満足そうな顔をするのであるが、僕はそうなると猫の毛で顔がかゆくなってしまい思わず手で顔をかくけれども腕立てというシステムは腕に体を支えてもらうことで成立するシステムであるので、こうなるともう顔から落ちて前歯が欠けたり唇をきったりしてしまう。

 

なので家の中での運動はなかなかどうにもと考えていたおり、インターネットで激しい動きをしなくてもお腹が凹むという運動を知った。それは片足で立ち、もう片方の足の膝を直角に曲げた状態で一定時間キープするのだ、というものだ。

 

なるほどこれなら猫にも妻にも迷惑がかからないなと、こんな即戦力どこで見つけてきたんだと、ビズリーチより早く即採用。

 

しかしこのポーズというのはなかなかに厳しい姿勢で、気がつくと足が下に落ちている。中途採用の扱いにくいおっさんよろしくどうしたものかと家の中をウロウロと歩き回り、何かちょうどいい高さのものがないのか検討した後一番ちょうどいい高さだったのが風呂がまのフチの高さである。

 

フチの高さがちょうど足をあげた時の高さと同じくらいであり、少しでも足がさがると風呂釜に足があたるので「あ、さがった」と瞬時に判断出来、そうなるときちんと自分を追い込むことができるようになった。

 

しかしこれだけでは有酸素運動にならぬ、出来れば室内でも有酸素運動をと思いながら日々暮らしていると、そう言えばあの作業はランニングと同じような行動を組み込めるのでは、と、ひらめいた。

 

その作業とは、猫がおしっこしたラグの下洗いである。

 

我が家の猫のなかの1人はトイレでオシッコをせずに床に落ちている布におしっこをするという困った性癖を持つので定期的にラグを洗うハメになり、そのさい湯船の中に湯を貯めてラグを沈め木の棒で撹拌して下洗いするのだけれど、この作業とランニングを組み合わせてみようと思い立ったのだ。

 

思い立ったが吉日だしちんぽをたてたがオナニー日和。僕は全身に纏っている衣服を脱ぎ散らし、風呂場に湯を貯めラグを放り込み一心不乱にラグをふみふみ。熱めのお湯で処理することでねこのおしっこの成分が早く流れるうんたらかんたらというので、その熱気で早くも汗をかくこと滝のごとし。

 

ああ、人のお腹でふみふみする猫達もこんな気持ちなのかなあなんてすこしセンチメンタルになりながら作業に勤しんでいた。普通のランニングよりも早く汗が噴き出すしいい感じに足に負荷もかかってこれは以外と外を走るよりもいいんでないか、なんて考えたのだけれど、しかしこれは継続には向かないと判断した。

 

その判断理由は簡単で、だれも見ていないが故にサボってしまうからである。

 

そもそも猫は「ふみふみしたい」ということが目的なので飽きずにふみふみするけれど、僕はふみふみが目的なのではなくこれはあくまでも手段のひとつであり、この時の僕の目的は痩せること及びラグを綺麗にすることなので、この目的が達成されたと思った瞬間にふみふみをやめてしまい、また痩せたいという気持ちはそもそもが見た目に関すること、いうなれば対外的な感情がメインを占めるので、ということは観客がいないこともサボる原因になり、どちらかといえばこっちのほうが問題かもしれないなと冷静に自分を分析出来る僕はマジ天才。

 

なのでまた妻を呼び出し「僕がラグをふみふみしているところを見てくれないかなあ」なんて聞いてみたのであるが、このとき僕は全裸で汗だく、かたや妻は衣類着用のもと涼しげな顔。これが格差社会か。なんてことを思いながら返答を待っていると「え、なんで見なあかんの?」というこれもまた格差社会の弊害でありまた資本主義社会の負の元凶でもある利益至上主義ともとれる答えが返ってきた。

 

 これのどこが利益至上主義なのかと問われると思うが、これは妻の発言が僕を見るためにはなにかしらのメリットがないと見ないというのと同義語であるがため「なぜ見なければいけないか?」という疑問はすなわち裸の僕のふみふみはまったくもって見る価値がなく、価値がないどころか時間の無駄であるとも取れる返答であるからこれはまったくもって間違いなく利益至上主義の弊害であろう。そのように論理立て、僕自身は僕が間違っていないとは思わないのだけれど多分他の人からみたら僕が間違っているのも知っているからどうか僕を責めないでください。

 

しかしこれ、実際には本当にメリットがあり、そのメリットとは見てもらうことで僕が興奮するというのと、人の裸の画像には何かしらの使用用途がある、というものだ。

 

 考えても見て下さい。

 

僕が、全裸で、汗だくで足踏みしているという、これ以上ないくらいの無防備な姿。

 

その姿を見せるということは、もちろん撮影許可もあるということであり、これを妻が携帯を持ち出して映像に収めれば、妻のオナニーのおかずにも脅迫の材料にもなりうるということだ。もちろん前者には「全裸で足踏み運動をしている僕に興奮するのならば」という注釈がつくが。

 

しかしこれはまさに僕を奴隷として使える、いうなれば最後の切り札を最初から無償で提供しようという、神をも恐れぬガンジーすらも一目置く奉仕福祉の精神であるが、その奴隷根性をチラ見せしたかいもなく妻はお風呂場より撤退していった。

 

風呂場で汗だくの奴隷でありガンジー以上神以下の僕は喉が渇いたのでとりいそぎ汗をシャワーで流し、汗だくでない風呂場にいないガンジー以上神以下となったのだけれどなんとなく釈然としない気持ちをかかえていたのだけれどそういった類いの気持ちは暴力に繋がるのでガンジー未満であることに気がつき、そうなると必然的にただのおっさんになりさがった。

 

また極度に汗をかいたので冷蔵庫へと向かいビールを飲み、1本のビールではもちろん喉の乾きは満たされず追加でハイボールを飲み、そうなるとつまみが欲しくなるので冷蔵庫にあるものを適当に調理しながら妻とそれを食べてまた追加のハイボールなんてことを繰り返し、美味しいね、美味しいね、と頷き合いながら気がつけばゴルゴンゾーラと粉チーズを使ってパスタ何ぞをつくり、ああお腹がイッパイだなんていいながら腹をさすっていると少し前よりお腹が出ているのではないか、なんて思って体重計にのってみるとさすが、お腹周りと体重計はウソをつかない。明らかに先週よりも太っているではないか。

 

結局人は簡単に痩せられないのだなあ、と思いながら、最後の手段にとっておいたセックスで痩せるという方法に取りかかろうと思って隣にいる妻に声をかけると、いつの間にかすやすやと夢モード。

 

しかたねえなあ、と思いながらタオルケットをかけてやり、机の上に置かれた皿を台所のシンクに持っていき、綺麗になった机の上にティッシュとローションを出し、さあてコレでちょちょいと頑張れば最低でも精子3億個分の体重は減るんでないかね、なんていいながら僕はイヤラしいビデオを再生するんです。

 

幸いにも最近は胸が大きく育ってきてるもんで「左手が寂しくなることもないねえ、今日は両手が大活躍だねえ」なんていいながら、よっしゃこれから出すんだぜって瞬間に「あ、これ明日の尿検査でタンパク出ちゃうんじゃねえの?」なんていう気付きがあって、ああ、これでまた明日の検査でテンパってしまい「母乳おいちい母乳おいちい」の発作がでるかも知れねえなって。

 

そんな日常。

 

 

 

 

 

 

 

まだ眼鏡のつる2本で生活してるの?

生活に余計なものはいらないよねつってミニマリストの門戸を叩く人はおおいけれど、僕に関しては昨日から眼鏡のつるすら1本でいいかって感じ。

 

そもそも眼鏡のつるが2本も必要なんだっていうのは僕にとってすごいくだらない常識のなかの1つで、 眼鏡っていうのはレンズこそが本体だからそれさえしっかりしてればそれ以外は自由なわけ。

 

それが今の時代、ティアドロップだのボストンだのオーバルだのと偉そうに形をアッピールしているけど、僕からすればフレームの有無から問いたいよねってこと。

 

そんなことを偉そうに語って、じゃあお前は今どんな眼鏡をしてるのかって聞きたいんでしょ?まあ、ここから先は本来であれば有料の記事にしてもいいくらいの本当に大切な情報なんだけど、今回は特別ってことで書いちゃうけれど、眼鏡のつるは1本。

 

右のつるだけ。

 

左のつるはっていうと、家。

 

折れちゃったから。昨日の夜飲み過ぎて記憶飛ばして踏んづけたのかそれとも眼鏡したまま寝ちゃって折れちゃったのかはわかんない。

 

でも現実問題として、今僕の眼鏡のつるは右側1本。

 

それでも一応眼鏡としての機能は損なわれていないし、逆にいえば本当に眼鏡のつるって左右両方いるのかなって気付きを得れた時点でもうこれは儲け物だと思うし、サロンを開いてもいいかなって思ってる。

 

眼鏡のつる1本サロンって、面白いと思うんだよね。将来性もあるし、興味ある人も多いと思うし。

 

まあサロン作るのも最近の流行だし、無料でするか有料にするかはまたおいおい考えていくとして、やっぱ面白いものには面白いと感じられる時に飛び込んでおきたいし。

 

ま、最近の僕はそんな感じ。

 

 

ウソだよ。くそ不便だよ。仕事終わったら眼鏡買いにいくんだよ。こんな状態で人前になんか出られないから今日の予定全部キャンセルしたよ。なにがまだ眼鏡のつる2本で生活してるの?だよ。1本で支えきれないし不便なんだから普通に2本いるだろ。考えなくても分かるだろ。殺すぞ。

 

料理の写真を撮るブロガーはハメ撮りも得意なのでは、という勝手な決めつけ。

人は見た目で選んではいけないというけれど、大半の人は物を見た目で選ぶ。

 

だからこそ物を作る時にはディレクターが大衆に選ばれるような方向性を決めてデザイナーがよいと感じられるデザインを作り出すという流れが存在するし、そうしなければ実際によい物であったとしてもなかなか売れない。漫画だって内容がよくても絵柄が好みじゃないと見ないなんて人もいる。

 

これは食事に関してもそうで、いくら味がよくても盛り付けが汚いとそれを食べるのを躊躇するし、どれだけ美味しいといわれても虫を食べる人は未だ少ない。僕に限って言えば、節足のものはなんとか食べられるけれど幼虫系は苦手であるが、では好んで昆虫を食べるのかと問われれば好んでは食べないけれど海老蟹シャコ類は好物であり、幼虫は苦手であるけれどホタルイカやナマコ、牡蠣などは見るだけで涎を垂らしてしまう。

 

その選択は今までの生活基盤に根付いたものであることも重々承知しているけれど、やはりどう考えても、どれだけ美味しいといわれても幼虫系を率先して食べる日が訪れるとは思えない。 

 

そう言えばまったく関係ないけれど、この間常温で数時間放置していた海老を食べたらなんとなく顔がひりひりとしてかゆくなったので多分何かしらに当たったのだと思う。冷蔵庫は偉大だし、困った時には医大

 

このようにどれほどきれいごとを並べたとしても、実際問題として視覚による選別というものはどのような対象であっても存在するし、たとえば同じ味であったとしても見た目が汚いものよりも綺麗な方を選ぶだろうし、まず見た目が綺麗でなければ選ばれないということでもある。

 

また、人は見た目と中身が違うことにある種の拒否反応を示すこともある。

 

パッケージ写真にイチゴが乗っているにもかかわらずイチゴの味のしないチョコレートがあれば誇大広告だとされて通報されるし、パネルでは細身でメリハリがあって黒髪だったにも関わらず実際に入ってきた人が太ましくあまりメリハリもなく金髪に近い茶髪だったりすると顔で笑って心で泣くだろう。

 

そこからどんなプレイが繰り出され官能の渦に巻き込まれたとしても、心と身体の乖離は免れない。あそこがいくら起っていて先走り汁が溢れ出ていたとしても、心の中では涙が溢れ出るのだ。気持ちいいのに悲しくもある、新たな性癖への入り口がもしかしたらそこにあるのかもしれないが、それはまた別の話である。

 

また機能美という言葉もあるように、その機器の目的にそってシンプルに突き詰めていくとその佇まいは美しくなる、なんてこともある。消しゴムの角が丸くなって使いづらくなるのを解消したカドケシグッドデザイン賞を取ったりニューヨーク近代美術館のデザインコレクションに選定されたりもしているが、それは世の中に存在するものも、その見た目の中に本質を忍ばせている場合がある、ということの証左でもある。 

 

さて、話は変わるが僕は普段から良く料理をする。我が家では夕食はほぼ僕が作り、昼食は妻が作るのが通常のスタンスとなっている。

 

毎日ご飯を作るとなると、レパートリーの限界を感じるようになるのだけれど、そう言った時に助かるのが様々な料理ブロガーの方たちの写真付きブログである。材料から調理過程、出来上がりに至るまで、とても細かく配慮に満ちた記事がいたるところにあるので、何を作るか迷ったらそういったブログを参考に料理をつくることも多い。

 

そんなこんなで常日頃から料理ブロガーの方々には尊敬の念を抱いているのではあるが、そんな生活を続けているとふつふつ沸いてくる気持ちがあり、それは「 普段の食事をそれだけ美しく撮れるのならば、ハメ撮りも綺麗に撮れるのでは?」という疑問である。

 

余計なお世話だ、と思われるかもしれないけれど、これはきっと仮説でありながらまちがいなく立証されるであろう説だと自信を持って提唱するものである。

 

しかしこの説を立証させる為には著名な料理ブロガーにハメ撮りを依頼するしか方法がないのだけれど、

 

「いつもブログを拝見させていただいています。綺麗な写真と美味しそうな料理で勉強させていただき(実際につくっても美味しいものばかりです!)ありがとうございます!ところで今度ハメ撮りを撮ってもらえませんか?」

 

という質問を送ったところでよくて無視、悪くて通報またはsnsで晒されるまたはブログの運営会社から強制退会をさせられるなんてことになり、そうなると僕はもうハメ撮りどころの話ではなく、得られる結果は立証ではなく失笑なんてことになりうる。

 

なのでそこのところは適当に濁しながら、しかし料理を綺麗に飾れる人というのはこれはやはり才能というものがあるとも思われ、そうなると人を撮る場合にもその才能はいかされ、ひいてはハメ撮りを撮るときであってもやはり美しいハメ撮りが撮れるのではないかと思い悩むこと数時間。

 

その時の僕は海外のエロいものが見れるサイトなどを巡回し、「beautiful hamedori」などと豊富な英語能力を駆使して検索をしながらも結局出てくるのは妙齢のパツキン女性で彼女が「オーイエアハーーン」とバンプオブチキンが歌う様な声をあげながら午前二時に黒人の望遠鏡を口にくわえて見えないものを見ようとして天体観測からぬ生態観測している動画を見てしまい何となく悲しい気持ちになったのは僕のものが望遠鏡ではなく土産物屋で売っている様な万華鏡の大きさしかないから。その後にティッシュという名の天の川を泳ぐ億千万の輝ける生命達の輝きはダイヤモンドのそれ。

 

でもいくら自分の万華鏡をいじっくてみても亀頭の先がこんにちはさようならを繰り返すだけの見慣れた風景しかみえないし、万華鏡という言葉には「マンゲ」という素敵なものが入っているなあなんて小学生しか喜ばないことを考え、またその言葉から「餃子一日百万個」という王将のCMが思い出されて百の万個って凄いなあなんて涎を垂らして分身を弄っていた過去の記憶がフラッシュバック。

 

延々と同じことを繰り返すその様はまるでこれもまた万華鏡のようだなあなんてキラキラ輝いていた過去の僕を思い出そうとしてみても輝いていた過去なんて1回もなかったし卒業アルバムに写っている僕はどの写真も短パンからトランクスの生地がはみ出していた。

 

そこで考えてみたのは、等式というものがこの世にあるという事実。

 

A=BならばB=Aであり、その逆もしかり。

 

では綺麗なハメ撮りをしている人が料理を綺麗に撮れるのかと考えたとき「そりゃあお前さんセックスの上手い人が料理が上手いのかいっていやあそんなはずはねえわなあ、そんなこといってたらあよお、栗原はるみちゃんが床上手ってことになっちゃうねえ、上沼恵美子ちゃんの寝技は黒帯級だなんて夢が広がるねえ」なんて江戸っ子が勝手に話の結着をつけてしまい、そうなると料理がうまい人がハメ撮りが上手いっていう説もまたしかりであり、料理上手がハメ撮り上手だっていう説はやっぱり僕の思い過ごしになるし、何事も勝手に決めつけるのはよくないねって反省して僕は今から週刊少年ジャンプを読みます。

 

でも僕は個人的に料理と性戯が混同されてもいいと思うし、料理本コーナーに四十八手の本が並んでいても別にいいとも思います。なぜならば今我が家のコンロの上ではお玉とお鍋がくんずほぐれつしていて洗い場では菜箸とトングが松葉崩しをしたかと思えば引き出しの中ではスプーンとしゃもじが鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)。お茶碗とガラスの平皿が碁盤攻め。ねえねえ、シックスナインって四十八手の中じゃ椋鳥(むくどり)っていうんだよ。

 

とまあジャンプにはまず出てこないようなことを最後に書いたのは、最近台所が汚れているなあなんて思ったのとそれを文章にしてもどうしようもないしなあ、なんてことを考えていたからです。なんて素敵なDDK48(台所四十八手)。

 

そんな我が家の乱れた台所は今でもずっと汚いままです。そろそろ掃除をしなければなりません。あと、料理は本当に盛りつけが難しいです。栗原はるみの今日の料理と上沼恵美子のおしゃべりクッキングSODクリエイトを見てもっと盛りつけの勉強します。僕は靴下を履いたままの行為は好きですが、アクセサリーがじゃらじゃらついたギャルものはあまり好きではありません。何事もシンプルが一番です。

 

終わり。