僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

このブログは目覚ましテレビに紹介されていません。

事実と真実は違う、なんてことをいうけれど、では真実が事実でないのかといえばそうでもなく、また真実でありながらもそれが事実でもあるということもある。しかし別の視点で見れば事実であるものが真実ではないなんてこともざらにあり、では真実の定義を定めたとき、その定義は事実として成立しているのかなんてことを考えると今度は事実と真実との関係性に真実を見いだすことが難しくなる。

 

まったくもって何をいっているのか分からないかもしれないけれど、それは僕にも分からないのだけれど、しかしこの文章では少しいいたいことがあって、それは

 

「このブログが目覚ましテレビに紹介されました!」

 

と書くことと、

 

「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません!」

 

という2つの言葉の違いについてだ。

 

まず、このブログが「目覚ましテレビ」に紹介されたという事実はない。

 

なのでこのブログが目覚ましテレビに紹介されたと書いてしまうとその言葉はウソでしかなく、そのままでは読者が怒り狂い「このくそ野郎がウソをつきやがってしばくぞぼけダボが」となることは目に見えているし真実を伝えているとは言いがたいしというかまったくもって伝えていない。

 

しかし後者の「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」というのは本当に紹介されたことがないので事実、これを書いたからといってウソをついたことにはならないのは明白である。

 

が、実はここでこの「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」という文章を書いたとき、読んだ人の中で別ベクトルの化学反応が起きることはあまり知られていない。

 

その化学反応とは先ほど書いたような嘘に対して産み出されてしまう怒りとはちがい、「わざわざ紹介されていないことを書くということは、別のサイトか何かでこのブログが目覚ましテレビに紹介されていたと書かれたのでは?」「それを否定する為にこの記事を書いたのでは?」という思考がいつの間にか芽生える、というものである。

 

火のないところに煙は立たぬ、という諺があるが、その諺になぞらえれば「目覚ましテレビに紹介されていない」という煙は、誰かが書いたであろう「目覚ましテレビに紹介されていました」という火を見なければ生み出されないはずの煙である、となる。

 

だがしかし僕はまったく持ってそんな火を見たこともないので、これはただ勝手に煙だけを気ままに生み出しているということであるが、それがどう言うことかというと、誰1人として「このブログが目覚ましテレビで紹介されていた」なんてことを書いていないのに「そう言えばこのブログは目覚ましテレビに紹介されていないなあ」と僕が勝手に思い、紹介されていないことを書こうと思って書き始めただけのことなのだ。

 

しかしお気付きの通りここに逆転の発想の原点があり、実際には火の大きい小さい関係なしに、というか火がまったく燃えていなくても煙を勝手にたてることが出来ることの証左である。

 

なのでこの「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」という他にも、「今日はスパーリングをしませんでした」と書くと普段は格闘技をしてると思ってもらえるはずであり、「そういえば今日は新垣結衣に逢えなかった」と書くと一度も逢ったことがないのに普段からガッキーと逢っていると思われることになり、また会うを逢うと書くとキャバクラのきもいおっさん客みたいにも思えるし、「今日の小泉今日子小泉今日子で合ってるんだけど一昨日の小泉今日子は小泉一昨日子(こいずみおとついこ)なのかなあ」と書いてみたはいいけれど彼女の名前は本当にこの漢字で合っているのかなと調べてみたら所属事務所が「明後日(あさって)」だったことを知ってやっぱり今日子は一歩先をすすんでるなあ、今日子の事務所が明後日だなんて素敵だなあ明日を超えてるんだもんなあなんて思い、「そういえば最近おすぎとピーコは元気にしているのかなあ」と書くとあの2人と過去に交流があったように思われるだろうことは想像に難くない。

 

そうなると普段から格闘技をしていて常日頃から新垣結衣と逢う様なキャバクラ好きのおっさんでかつ恒常的に小泉今日子の心配及び感心を胸に秘め昔交流があったであろうおすぎとピーコの現状を心配するという1つの人格が生み出されることになるのだが、実際にはそんな人格は存在しない。

 

なぜならそれは読んでいる人が勝手に生み出した虚像だからだ。

 

そもそもが裏のない言葉であるにも関わらず、その裏を勝手に想像したが故に生まれた悲しい人格、哀愁のコピーロボット、いうなればジキルにおけるハイドやおすぎにおけるピーコはこのようにして人々の誤解から生み出されるのである。

 

 また話を戻すと、このブログは目覚ましテレビには紹介されておらず小泉今日子も一昨日子ではなくガッキーを目にしたことはもちろんなくキャバクラも未経験でおすぎとピーコは今日も元気に生きているし、格闘技にはあまり興味のないという虚像の大本である僕のこのブログは今、混乱の渦中にいる。

 

この混乱の元凶は、果たしてこのブログのメインであるソーセージ作りは一体どうなってしまったのかというものなのだけれど、これだけ暑くなると菌の繁殖が気になって燻製も出来ないしエマルジョン化もすすまないしそれよりも低温調理の方が今の時期は安心して料理出来るなって思いながら最近はゴルゴンゾーラのスパゲティをあえて生クリームを使わずに豆乳であっさりとかつブルーチーズ特有の香りがもっと立つ様に、夏に食べたいゴルゴンゾーラパスタなんてものを考えたりしています。

 

ネットで検索しているとパスタのブランドはディチェコが一番だのバリラがおすすめだの業務スーパーのトルコ産のパスタはおいしくないだのと色々な意見が散見されるので、これは自分の舌で確かめてみねえとなっつって色々味見してみたけれど結局何がどれで誰がどこで美味しいってなんだっけ歯ごたえってこんなだっけみたいに混迷を極めている。

 

そしてその探求の様子がたまたまテレビディレクターの目に留まっていつの間にか情熱大陸に出演が決まってそれをみた目覚ましテレビのスタッフが僕をスパゲティの権威として取り上げ、僕の店が有名になり、そうなるとこのブログが目覚ましテレビなんかに取り上げられたりもするはずなのだけれど、結局未だにこのブログは取り上げられていないことはおろかそもそも店すら出していませんし味比べをしてもこまかい味の違いがわかりませんし、そうなるといつも通りオナニーしてふて寝することになる。

 

なので今ここにある事実としては、オナニーをして寝たことだけが事実であり、真実としては僕のオナニーを見ていた人及び僕がふて寝しているところを見た人がいないので僕は存在していないということになり、それはそれでまあ仕方ないのだけれど、そもそもこんなことをたらたら書く切っ掛けになったのは、何を隠そうaikoの「ストロー」という曲である。

 

最初僕はこの歌を「幸せなカップルの歌」だと思っていたのであるが、妻が「いや、なんか不穏な感じのする歌やで」と言い出したので歌詞をじっくりを眺めながら思案していると、なんとなく不穏な感じが僕にも感じ取れ、そもそも「赤いストロー」とは何を意味するのか、これは「赤いチャンチャンコ」などと同じ様な怪談に近いものではないのか等という憶測が2人の間で流れ、歌詞はまったく持って変わっていないにも関わらず僕たちの受け取りかたでずいぶんと世界観が変わるねえ、なんて言いながら、今週も頑張って生きていきましょう。

 

君にいい事があるように 赤いチャンチャンコ着せてあげる。

 

なんてね。

 

うっさい。ただの還暦やないか。しばくぞ。

 

 

 

 

 

イマジネーションをクリエーションすることでエモーションがどうたらこうたらで結果的に局部にローション。

お腹が出ている。これ以上ないくらいにお腹が出ている。

 

出ているものはお腹だけではなく、胸も出てきている。妻がいうには「そろそろブラジャーが必要なのでは」という程度のものである。気のせいかもしれないけれど、乳の肥大に伴って母性も芽生えているかもしれない。

 

母乳は今のところでていないけれど、それも時間の問題かもしれない。猫を抱っこする時にも、今までは可愛いと思っているだけだったのが愛おしいと思う様になりいつの間にか過保護な親のようになり、あなたたちは競争社会で身を削る必要なんてないのよ社会の荒波から私が守ってあげるからね食べたいものはいつでもあげるわ布団にオシッコをしても怒らないわと思う様にもなっている(でも現実に彼ら彼女らは家から出ずにずっと寝ているか飯を食っているかだけなのでこれは杞憂である)。

 

そんな日常のささやかなやりとりの後、妻がダイエーに向かいてその後に百均に行くというので僕も同行しつつ、百均に向かった妻を見送り店内を適当にぶらぶらしていた。

 

そろそろ本当にブラジャーが必要なのか、否、まだそこまでではないはずだ、などと心の中で考えていたからなのか、足が自ずと女性向け下着売り場へと向かい、そこに並ぶ華美な下着を見ながら、それにつけてもレース付きのブラジャーはなんとなく気恥ずかしいなあ、どうせ付けるならスポブラかなあ、なんてイマジネーションを繰り広げながらアンダーウェアを眺めていたら、売り場の女性店員さんに変な目で見られていた。

 

「別に僕は変な目で見ていません!自分用です!」と弁明の為に言おうとしたけれど、考えてみればその方が変だったので僕は黙って下着売り場を出たのであります。

 

しかしまあ母性もそこまで行き着くと結果的に1人で母乳プレイが出来る、言うなれば極私的なクリエーションを堪能できるので喜びもひとしおだけれどもそうなってしまっては大黒柱としての権威が失墜し今ですらこれだけ愛情を振りまいているにも関わらず猫達から蔑まれているような状態であり、これ以上どうしようもない醜態を晒すと猫どころか妻に愛想を尽かされるかもしれないと思う。

 

でもそれはもう本当に当たり前のことで、僕だっていい歳をしたおっさんが自分の乳首を吸いながら「母乳おいちい母乳おいちい」と言いつつちんこを触っていたら愛想を尽かすどころかまず人として見下すし通報するしできれば近所に住んでいて欲しくはないのでなんとかして視界に入らない様に腐心するのだけれど、実際それが僕自身であるともうこれは如何ともしがたく出来ることなら分裂したのちもう1人の自分を抹殺するほか解決策が見当たらない。もしくは彼を内包したままでの自害。

 

なのでとりあえず自害する前にできることとして、痩せる為に運動することにした。しかもなんの因果か週末には健康診断も控えている。

 

健康診断というのはいつもの不摂生が数値に表れるものであり、普段から意識的に不摂生している僕は受ける前から実感として悪い数値を突きつけられているようなものなので健康診断を受ける前から多大なストレスがかかっており、いつだってエモーション。

 

現状のままで健康診断を受けるとなるとその不安から自分の行動を制御する自信がなく、このままでは不安を感じすぎて受診しながらであるにも関わらず安心感を求める為に無意識に自分の乳首を吸って「母乳おいちい母乳おいちい」と連呼してしまう懸念があり、そうなるといつものクセでちんこを触ってしまうことも可能性としては多分にあり、いくら血液検査の結果が悪くなくても医者の前で急に乳首を吸いながらちんこを揉むというのは別の病院に入院をすすめられるであろうことは想像に難くないのでやはりというかなんというか、健康に近づく為の努力、すなわち運動不足の解消及びストレスの発散は人生においての必須項目となりうる。

 

そこで僕がまずすべきは運動で、その内容として選んだのはずばりダイエットの定番ランニングである。

 

ランニングを選んだ理由は手軽であること、さらにいうと今の自分という醜態の塊を人様に見られるのは気が引けるのでジムにはいけない、などというのがあげられ、また極度の人見知りである僕はこの腐った肉体が他人に目にさらされると混乱して自分の乳首を吸い「母乳おいちい母乳おいちい」と連呼してしまうかもしれず、そうなるとまたトレーニングしながらちんこをいじってしまうかもしれず、皆様が筋肉のパンプアップしている最中僕だけが海綿体のパンプアップ、しかしそれでもヒョロヒョロとしたものにしかならないとなり自信喪失ののちジム通いを諦めることになるのは必然なので我がの身体を人の目にあまりふれないようにする必要があった。

 

また、普段から僕と妻は同じ家から出て同じ職場にて仕事をし、また同じ家へと帰っていくのであるが、これを少し変更するだけでいつもの通勤経路がランニングに向くのでは、という事実から導きだされたものでもある。

 

今まではお互いに自転車で駅へと向かい電車にのっていたのであるが、これを1台の自転車に変更。朝、妻にバスで駅へと向かってもらい、帰りに僕が走り、妻が自転車にのって僕を追いかける、もしくは自転車に乗っている妻を追いかけるということにすれば、通い慣れた帰り道がおのずとランニングコースへと変貌するのだ。

 

これはなんとも本当に合理的であるなあとこの一連の行動を発明した自分を褒めたくもあるけど、この夫婦揃っての帰宅時ランニングをしているとなんとなく昔を思い出して悲しくもある。

 

その昔の思い出とは、かつて自分が「ごまめ」であったころの記憶である。

 

どうやらごまめは関西圏の特に下町の方言らしいので少し説明するけれど、年長の子供たちの遊びに混ざる年少の子供を指す言葉である。公園での鬼ごっこなどでタッチされても鬼にはならず、阿呆みたいに嬌声を撒き散らしながらただ漠然と逃げる存在、それが「ごまめ」であり、幼少期の僕でもある。

 

兄やその友人たちは最初はまあ仕方なしで受け入れてくれたけれど、これが段々と年齢があがり少年たちの移動の手段が徒歩から自転車に進化する際、ごまめの存在はどうでもいい存在から疎ましい存在へと変化していく。

 

今までは公園という限られた範囲での遊びだったものが自転車での行動が主になると、自転車にのれないごまめもしくは自転車を持っていない存在はただの足手まといでしかなく、そうなるとごまめとして無邪気に走り回っていた僕は無邪気な存在から邪魔な存在にランクアップ、いうなればキャタピーからトランセルへと進化してしまい、例えば兄が友達と遊んでいるところに参加したとしてもしびれをきらした兄とその友達が自転車で僕をまこうとし、僕はその兄と友人の背中を必死で追いかけ、先に兄たちが曲がった曲がり角まで走っていくともうそこには誰もおらず、誰もない道、2人の愛を確かめたくってもそれすら叶わず、途方にくれながら自らの呼吸音と心拍を感じるのである。もうそれは悲しき蛹そのもの。得意技は「固くなる」のみ。

 

その哀愁と息切れこそが、「ごまめ」の本質なのである。

 

しかしながら妻は兄もしくは兄の友人と違ってとてもやさしく、僕の走るペースに合わせて自転車のスピードを緩めてはまた少し早めを繰り返し、さらにそのつど僕の呼吸が荒くなりすぎていないかチェックするために会話を挟み、と致せり尽くせりの伴走をしてくれるポケモンマスターの鏡であるので最近は哀愁を感じる間がなく少々の不整脈じみた心拍を感じるのみであり、また僕の股間に居を定めているトランセルも間もなくバタフリーへと進化することだろうし、昔覚えてから未だに使い続けている「固くなる」も陽の目を見ることが出来るだろう。。

 

しかし。

 

実はこのランニングにおいてもネックはあり、それは雨が降ると走れないというのがネックの本質であり神髄なのだけれど、そうなると早々に家に帰って家の中で運動をするのが解決策となるが、我が家には結構な数の猫がおり、例えば室内で昇降運動をするといつ猫のしっぽや足を踏んでしまうかわからず、自分の身体を養生する為にほかの動物の健康を害するというのは私の信条に反するのでこれは断念、では上半身を鍛える為に腕立てはというとこれもまた猫が顔の下を通ってしっぽを僕の顔に当てたのちにこちらを横目でみて満足そうな顔をするのであるが、僕はそうなると猫の毛で顔がかゆくなってしまい思わず手で顔をかくけれども腕立てというシステムは腕に体を支えてもらうことで成立するシステムであるので、こうなるともう顔から落ちて前歯が欠けたり唇をきったりしてしまう。

 

なので家の中での運動はなかなかどうにもと考えていたおり、インターネットで激しい動きをしなくてもお腹が凹むという運動を知った。それは片足で立ち、もう片方の足の膝を直角に曲げた状態で一定時間キープするのだ、というものだ。

 

なるほどこれなら猫にも妻にも迷惑がかからないなと、こんな即戦力どこで見つけてきたんだと、ビズリーチより早く即採用。

 

しかしこのポーズというのはなかなかに厳しい姿勢で、気がつくと足が下に落ちている。中途採用の扱いにくいおっさんよろしくどうしたものかと家の中をウロウロと歩き回り、何かちょうどいい高さのものがないのか検討した後一番ちょうどいい高さだったのが風呂がまのフチの高さである。

 

フチの高さがちょうど足をあげた時の高さと同じくらいであり、少しでも足がさがると風呂釜に足があたるので「あ、さがった」と瞬時に判断出来、そうなるときちんと自分を追い込むことができるようになった。

 

しかしこれだけでは有酸素運動にならぬ、出来れば室内でも有酸素運動をと思いながら日々暮らしていると、そう言えばあの作業はランニングと同じような行動を組み込めるのでは、と、ひらめいた。

 

その作業とは、猫がおしっこしたラグの下洗いである。

 

我が家の猫のなかの1人はトイレでオシッコをせずに床に落ちている布におしっこをするという困った性癖を持つので定期的にラグを洗うハメになり、そのさい湯船の中に湯を貯めてラグを沈め木の棒で撹拌して下洗いするのだけれど、この作業とランニングを組み合わせてみようと思い立ったのだ。

 

思い立ったが吉日だしちんぽをたてたがオナニー日和。僕は全身に纏っている衣服を脱ぎ散らし、風呂場に湯を貯めラグを放り込み一心不乱にラグをふみふみ。熱めのお湯で処理することでねこのおしっこの成分が早く流れるうんたらかんたらというので、その熱気で早くも汗をかくこと滝のごとし。

 

ああ、人のお腹でふみふみする猫達もこんな気持ちなのかなあなんてすこしセンチメンタルになりながら作業に勤しんでいた。普通のランニングよりも早く汗が噴き出すしいい感じに足に負荷もかかってこれは以外と外を走るよりもいいんでないか、なんて考えたのだけれど、しかしこれは継続には向かないと判断した。

 

その判断理由は簡単で、だれも見ていないが故にサボってしまうからである。

 

そもそも猫は「ふみふみしたい」ということが目的なので飽きずにふみふみするけれど、僕はふみふみが目的なのではなくこれはあくまでも手段のひとつであり、この時の僕の目的は痩せること及びラグを綺麗にすることなので、この目的が達成されたと思った瞬間にふみふみをやめてしまい、また痩せたいという気持ちはそもそもが見た目に関すること、いうなれば対外的な感情がメインを占めるので、ということは観客がいないこともサボる原因になり、どちらかといえばこっちのほうが問題かもしれないなと冷静に自分を分析出来る僕はマジ天才。

 

なのでまた妻を呼び出し「僕がラグをふみふみしているところを見てくれないかなあ」なんて聞いてみたのであるが、このとき僕は全裸で汗だく、かたや妻は衣類着用のもと涼しげな顔。これが格差社会か。なんてことを思いながら返答を待っていると「え、なんで見なあかんの?」というこれもまた格差社会の弊害でありまた資本主義社会の負の元凶でもある利益至上主義ともとれる答えが返ってきた。

 

 これのどこが利益至上主義なのかと問われると思うが、これは妻の発言が僕を見るためにはなにかしらのメリットがないと見ないというのと同義語であるがため「なぜ見なければいけないか?」という疑問はすなわち裸の僕のふみふみはまったくもって見る価値がなく、価値がないどころか時間の無駄であるとも取れる返答であるからこれはまったくもって間違いなく利益至上主義の弊害であろう。そのように論理立て、僕自身は僕が間違っていないとは思わないのだけれど多分他の人からみたら僕が間違っているのも知っているからどうか僕を責めないでください。

 

しかしこれ、実際には本当にメリットがあり、そのメリットとは見てもらうことで僕が興奮するというのと、人の裸の画像には何かしらの使用用途がある、というものだ。

 

 考えても見て下さい。

 

僕が、全裸で、汗だくで足踏みしているという、これ以上ないくらいの無防備な姿。

 

その姿を見せるということは、もちろん撮影許可もあるということであり、これを妻が携帯を持ち出して映像に収めれば、妻のオナニーのおかずにも脅迫の材料にもなりうるということだ。もちろん前者には「全裸で足踏み運動をしている僕に興奮するのならば」という注釈がつくが。

 

しかしこれはまさに僕を奴隷として使える、いうなれば最後の切り札を最初から無償で提供しようという、神をも恐れぬガンジーすらも一目置く奉仕福祉の精神であるが、その奴隷根性をチラ見せしたかいもなく妻はお風呂場より撤退していった。

 

風呂場で汗だくの奴隷でありガンジー以上神以下の僕は喉が渇いたのでとりいそぎ汗をシャワーで流し、汗だくでない風呂場にいないガンジー以上神以下となったのだけれどなんとなく釈然としない気持ちをかかえていたのだけれどそういった類いの気持ちは暴力に繋がるのでガンジー未満であることに気がつき、そうなると必然的にただのおっさんになりさがった。

 

また極度に汗をかいたので冷蔵庫へと向かいビールを飲み、1本のビールではもちろん喉の乾きは満たされず追加でハイボールを飲み、そうなるとつまみが欲しくなるので冷蔵庫にあるものを適当に調理しながら妻とそれを食べてまた追加のハイボールなんてことを繰り返し、美味しいね、美味しいね、と頷き合いながら気がつけばゴルゴンゾーラと粉チーズを使ってパスタ何ぞをつくり、ああお腹がイッパイだなんていいながら腹をさすっていると少し前よりお腹が出ているのではないか、なんて思って体重計にのってみるとさすが、お腹周りと体重計はウソをつかない。明らかに先週よりも太っているではないか。

 

結局人は簡単に痩せられないのだなあ、と思いながら、最後の手段にとっておいたセックスで痩せるという方法に取りかかろうと思って隣にいる妻に声をかけると、いつの間にかすやすやと夢モード。

 

しかたねえなあ、と思いながらタオルケットをかけてやり、机の上に置かれた皿を台所のシンクに持っていき、綺麗になった机の上にティッシュとローションを出し、さあてコレでちょちょいと頑張れば最低でも精子3億個分の体重は減るんでないかね、なんていいながら僕はイヤラしいビデオを再生するんです。

 

幸いにも最近は胸が大きく育ってきてるもんで「左手が寂しくなることもないねえ、今日は両手が大活躍だねえ」なんていいながら、よっしゃこれから出すんだぜって瞬間に「あ、これ明日の尿検査でタンパク出ちゃうんじゃねえの?」なんていう気付きがあって、ああ、これでまた明日の検査でテンパってしまい「母乳おいちい母乳おいちい」の発作がでるかも知れねえなって。

 

そんな日常。

 

 

 

 

 

 

 

まだ眼鏡のつる2本で生活してるの?

生活に余計なものはいらないよねつってミニマリストの門戸を叩く人はおおいけれど、僕に関しては昨日から眼鏡のつるすら1本でいいかって感じ。

 

そもそも眼鏡のつるが2本も必要なんだっていうのは僕にとってすごいくだらない常識のなかの1つで、 眼鏡っていうのはレンズこそが本体だからそれさえしっかりしてればそれ以外は自由なわけ。

 

それが今の時代、ティアドロップだのボストンだのオーバルだのと偉そうに形をアッピールしているけど、僕からすればフレームの有無から問いたいよねってこと。

 

そんなことを偉そうに語って、じゃあお前は今どんな眼鏡をしてるのかって聞きたいんでしょ?まあ、ここから先は本来であれば有料の記事にしてもいいくらいの本当に大切な情報なんだけど、今回は特別ってことで書いちゃうけれど、眼鏡のつるは1本。

 

右のつるだけ。

 

左のつるはっていうと、家。

 

折れちゃったから。昨日の夜飲み過ぎて記憶飛ばして踏んづけたのかそれとも眼鏡したまま寝ちゃって折れちゃったのかはわかんない。

 

でも現実問題として、今僕の眼鏡のつるは右側1本。

 

それでも一応眼鏡としての機能は損なわれていないし、逆にいえば本当に眼鏡のつるって左右両方いるのかなって気付きを得れた時点でもうこれは儲け物だと思うし、サロンを開いてもいいかなって思ってる。

 

眼鏡のつる1本サロンって、面白いと思うんだよね。将来性もあるし、興味ある人も多いと思うし。

 

まあサロン作るのも最近の流行だし、無料でするか有料にするかはまたおいおい考えていくとして、やっぱ面白いものには面白いと感じられる時に飛び込んでおきたいし。

 

ま、最近の僕はそんな感じ。

 

 

ウソだよ。くそ不便だよ。仕事終わったら眼鏡買いにいくんだよ。こんな状態で人前になんか出られないから今日の予定全部キャンセルしたよ。なにがまだ眼鏡のつる2本で生活してるの?だよ。1本で支えきれないし不便なんだから普通に2本いるだろ。考えなくても分かるだろ。殺すぞ。