僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

手作りマスタードをおすすめするだけの無駄に長い文章。

ふと、「ああ、そういえばこのブログはソーセージに関するブログだったんだなあ」と思い出したので、表題の件について書きたい。

 

まあブログのタイトルが僕のソーセージを食べてくれないかっていうくらいだから当然と言っちゃ当然なんだけれどそれもダブルミーニングなので別に食べるソーセージのことでも食べないソーセージのことでもいいんだろうけれど、でもまあプレイの一環でソーセージを口に含んじゃうこともあるだろうし僕はそれらのオーラルプレイが大好きだし僕はいつだって妻の赤貝をベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロしたい。舐め専。

 

だからまあ間違いではないっていうかなんというか。

 

そんなことを書いていたらまた脱線して別の方向に行ってしまいそうなので、今回はもう普通に、極めて普通にソーセージに関することを書いていきたい。

 

さて、ソーセージの自作における最大の興奮点は作る手間とそれに比例する味わいであるが、実際に作るとなるとその手間がネックになってなかなか手を出しづらいものでもあるし、また季節によって作りにくいというものでもある。

 

夏の最中である今は本当にソーセージ作りにむいていないし、屋外での燻製も菌の繁殖が怖いのでお勧め出来ない。基本的に保存用の食肉加工は冬に限る。

 

なので僕は最近もっぱら市販のソーセージを食べている身ではあるのだけれど、自作の美味さを知ってしまっているうえ、自作の為の研究で色んなソーセージを食べてしまってもいるので(赤貝はいつも1つだけれど!)生半可なソーセージでは感動出来なくなってしまった不幸な身の上でもある。

 

このような食に関する悩みは上流階級の人達しか持ち得ないと思っていたのだけれど下流下流の僕にも贅沢な悩みはあるんだぜってつって、まあそれはそれとしておいといてソーセージが食べられないなら餃子を食べればいいじゃないと言って銃で撃たれたのはかの大阪王将の社長であるが、そんな現代のマリー・アントワネットに断固として抗っていきたい今日この頃である(実際のところ大阪王将の社長はそんなこと言っていないし僕は餃子フリークでもある。大阪王将京都王将も大阪王もチャオチャオも珉珉も天平も大好きだしみんな違ってみんないいしマジ餃子最高!昨日の夜に飲んだ水餃子の出汁に飛び込んで浮き輪を浮かべる水餃子よりの使者だぜ俺は)。

 

さて話を戻してそんな現代における難病の1つ、「どんなソーセージにも心から満たされない病」の患者である僕は美味しいけれどなんだか物足りないという気持ちを抱えながら朝のソーセージロケーション、昼のソーセージオーガナイゼーション、夜のソーセージマスターベーションを繰り返しながらパソコンを眺めていたのだけれど、深夜の僕の1つの天啓が降り注いできた。

 

その天啓とは

 

「ソーセージが無理なら、別のものを自作すればいいのでは?」

 

というものだ。

 

コレを分かりやすく言えば、セックスが出来ないのであればオナニーがいいし、オナニーが満足出来ないのであればオナホを使えばいい。ということだ。

 

そう、食用ソーセージにおけるオナホ、すなわちマスタードの自作である。

 

ソーセージとマスタードはちんぽと金玉のように切っても切れない存在であり、例え短小であったとしても金玉が大きければそこで作られる精子が多くなりそうなると発射される快感も増幅されることにもなり、すなわちそれはソーセージに満足出来なくてもマスタードに満足出来ればもうそこは極楽浄土に至るほどの快楽であるということだ。

 

これは経験があれば分かると思うんだけれど、4回目の出たんだか出てないんだかわからないものより3日間我慢した後焦らしに焦らしてからの「あっ!ダメメっっっ!!!ティッシュ間に合わないっ!突き破っちゃうぅぅぅぅっっっ!!!」の方が断然気持ちいいとかいうあれで、ある。

 

なので僕は出来る限り簡単なマスタードの作り方を検索し、合間にエロ動画をみては他人のソーセージを拝見してまたマスタードにかける情熱を燃やし、赤貝を舐めたくなりそれを我慢してまたレシピを見ていたのであるが、そう言えばたまに見かける無修正動画の中にはちんぽにゴツゴツとした異物を埋め込んだものが散見されるのであるが、それを味わった女の人はもうその感触から離れられなくなるなんてことを言うらしい。

 

さてこれになぞらえて言えば、マスタードに重要なものが何かと問われた場合、、僕もそのちんぽを味わった女性と同じ様なものだ、そう答えるだろう。セリフ調で言わせてもらうと、

 

「あのプツプツが忘れられないのううううううぅううううぅぅぅぅっっっっっう!!!!!!!」

 

こうなる。

 

という訳でもう僕はプツプツたっぷりのマスタードを作ろうと決心したのだけれど、そうなると思い出すのは海ぶどう。美味しいよね、海ぶどう。ポン酢とかかけてさ。つるっと。でもね、ここでは本当に関係ないから思い出しただけにとどめとく。

 

で、レシピ検索していたら本当に簡単に作れそうなレシピがあり、僕はそのままスーパーへと向かって必要な材料を買いにいったのだけれど、マジでこれが簡単でしかもほぼほぼ家にある材料で出来るのでまず以下に必要な食材を書き出します。

 

・ホールマスタード(黄色)

・白ワインビネガー

・はちみつ

・塩

 

以上。マジで簡単。ブラジャー外すときよりも簡単。っていうかこれは本当にただの愚痴なんだけれど、結婚して何が悲しいのかっていうとブラジャーを外す行為がなくなってしまうこと及びブラジャーを含めた下着姿を見る回数が極めて低くなってしまうこと。

 

これがとても本当に極めて真っ当に悲しい。僕はセックスがしたいのはもちろんのこと、まず大前提として「下着姿を愛でた」後に行為をいたしたいのであるけれど、最近の妻はもうユニクロのあの名前はよくわからないんだけどキャミソールとブラジャーのパッドが一体になったようなやつを愛用しているからもうほんとに嫌になっちゃうからそろそろユニクロの株主になってあの服撲滅し隊を結成したいと考えているので同じことを思っている人は是非ともDMでご連絡ください。不毛で不可能な議論に花を咲かせようではありませんか。むしろ同じ考えの人が何億人かいれば柳井さんの総資産超えれるんじゃないかな。何十億の金があればなんとかなる。草の根運動であれ潰す。

 

つって、また脱線しかけたので話を戻すのだけれど、その食材が揃ったら保存用の容器を用意してアルコール消毒しておきましょう。せっかく菌の繁殖に気をつけてるのにここで気を抜いたら本当に悲しくなるから。オナホがあるのにローションがなかったら、オナニーなんてできないのと一緒。何事にも下準備が大切。

 

で、アルコール消毒できたらそこにホールのマスタードシード一瓶入れて、それが浸るくらいプラス1センチの白ワインビネガーを入れて冷蔵庫に放置する。

 

2日間くらい放置したら海綿体と同じくらいの勢いでマスタードシードがビネガー吸って膨らむから、もうそうなったら出来たも同じ。拝み倒してラブホに入った状態。生かすも殺すもお前次第。

 

あとはハチミツと塩を味見しながら足して、味が馴染むまで1日置いておくだけ。

 

それでできる。まじ簡単。

 

オナ禁してるくらいの期間でできるし、これがソーセージと組み合わさったときの爆発力はエックスビデオで好みの動画見つけた時のオナニーよりも凄いから一度試してみてほしい。

 

ほんと、シモネタ書かねえって思ってたはずなのにほとんどシモネタ。バカじゃねえの。

 

でもまあ、そんな感じで本当に試してみて欲しいので是非どうぞ。少し高いマスタード買うよりも安いしなにより自家製って響きがいい。素人物とかの騙しじゃなく、本物とのハメ撮りみたいなものだから。

 

じゃあの。

 

 

 

 

 

「何を言ったかより、誰が言ったか」を重要視するこの世界はきっと正しい。という気付き

誰がいったか知らないが「人は何を言ったかより、誰が言ったかを重要視する」というような言葉をよく目にする。

 

まあなるほどなと思う反面、なんとなく納得がいかない気もしていたのだが、最近とある出来事によってとてもスッキリとしたのでその顛末を記したいと思うのだけれど、これがまあ下品きわまりないので別に読まなくてもいい気もする。

 

そもそもそのスッキリの大元は性的欲求の解消という別のスッキリの為の行為から始まったのだけれど、僕は常日頃からツイッターのエロアカウントを徘徊しながらの自家発電によるスッキリを求めている。

 

そんなおり、たまたま見つけたアカウントのプロフィール欄に「人妻/自撮り/屋外露出/乱交/スカトロ」などの魅力的な言葉が鎮座していたので、なるほどこれはよろしいのではないか、たえず僕の魂が求め続けていたものではないか、僕の極楽とんぼもスッキリするのではないか、僕の愚息を水戸黄門に例えるならば左右を支えるキンタマたち、いうなれば黄門様(ちんこであるにも関わらずこうもんとはこれいかに)の右に仁王立ちする助さんと言う名の加藤、左に鎮座する格さんである山本に相談した結果「スッキリ!!」という天の声とともに「熱盛!」という叫び声も聞こえてきたのでその声に従い発見したアカウントのツイート履歴を逆のぼって見たのであるが、なにはどうあれとても綺麗な下着姿や淫らな写真の数々があげられ、ああ、こんなアカウントが凍結もせず存在しているなんてなんて素敵な世界でないかといたく感動し、天まで立ち上る印籠を猫たちに見られないように拝見していたのであるが、ある一枚の画像から目が離せなくなってしまった。

 

その画像とは、なにを隠そう便器に排出されたうんこの画像である。

 

目が離せなくなったと書いたのだけれど、別にその写真がおかしいとは思わないで欲しい。なぜならばちゃんとbio欄にスカトロと記載されているのだから。

 

素敵な女性の排泄物というのはもう本当に素敵なものであり、どれだけお願いしても手に入らない類のもの、いわば高尚な美術品と同じようなものである。モナリザ、ミロのヴィーナス、木の葉天目茶碗、美女のうんこ。

 

あなたがもしバンクシーの作品を手に入れたいと思っても気軽に手に入らないように、美女の排泄物をゲットするのはミュウツーを捉まえるよりも難しいのは周知の事実だ。誰彼構わず気軽に、ZOOの歌にのせて、「愛をください」「やっぱりオシッコをください」「それよりうんこをください」といえるような世界であればいいのだけれど、今の世界は残念なことにそうではない。それも全部辻仁成のせい。

 

そのような背景からして、例えこれは画像だけでもこれはもう額に入れて飾るべきものなのであり、この画像は私の美術館のギャラリーに永久保存されてしかるべきものでもあるのだけれど、一つの懸念がそれを押しとどめるのだ。

 

 その懸念とは「はたしてこれは本当に美女のうんこなのか?」という疑問である。

 

はからずも画面に映っていたのは、便器とうんこのみである。そこにコメントとして「出したてです」という文章もあったのだけれど、しかしこれはいうなれば茶碗における外箱と同じ様なものであり、それは複製可能なものでもあり、また突きつめていくとこのアカウントの運用者が本当に美女なのか、という疑いまででてきてしまう。

 

はたして今僕がみつめているものは本当に美女がつくった排泄物なのだろうか。もしかしてたまたま公衆便所で流し忘れていたうんこを撮ったものではないだろうか。そもそも美女のうんこというものは存在しないのだろうか。

 

そんな感情が入り交じり、僕は止まってしまっていた。

 

そして、話は最初に戻るのだ。

 

「人は何を言ったかより、誰が言ったかを重要視する。」

 

そう、うんこというものの本質は変わらない。それはあくまでも排泄物であり、人体に必要なものを吸収した後の不要なものである。

 

不要なものでありながら、それが美女のからだから出たものだというだけで、国宝ともなってしまうのだ。なのでこれを言い換えると、何を出したかよりも誰が出したかが最重要事項になるということである。

 

僕は美女のうんこを求めているけれど、おっさんのうんこは求めていないしそんなものはむしろ迷惑であり、公衆トイレにおいては前任者の残り香ですら嫌な気持ちになってしまうのは誰しもが理解出来るものであろう。

 

という訳で、同じうんこでもおっさんの出したうんこは嫌だし美女の出したうんこは喜ばしいと結論づけられ、すなわち「何を言ったかより、誰が言ったか」が重要視されるというのは、正しいのである。みたいな話です。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このブログは目覚ましテレビに紹介されていません。

事実と真実は違う、なんてことをいうけれど、では真実が事実でないのかといえばそうでもなく、また真実でありながらもそれが事実でもあるということもある。しかし別の視点で見れば事実であるものが真実ではないなんてこともざらにあり、では真実の定義を定めたとき、その定義は事実として成立しているのかなんてことを考えると今度は事実と真実との関係性に真実を見いだすことが難しくなる。

 

まったくもって何をいっているのか分からないかもしれないけれど、それは僕にも分からないのだけれど、しかしこの文章では少しいいたいことがあって、それは

 

「このブログが目覚ましテレビに紹介されました!」

 

と書くことと、

 

「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません!」

 

という2つの言葉の違いについてだ。

 

まず、このブログが「目覚ましテレビ」に紹介されたという事実はない。

 

なのでこのブログが目覚ましテレビに紹介されたと書いてしまうとその言葉はウソでしかなく、そのままでは読者が怒り狂い「このくそ野郎がウソをつきやがってしばくぞぼけダボが」となることは目に見えているし真実を伝えているとは言いがたいしというかまったくもって伝えていない。

 

しかし後者の「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」というのは本当に紹介されたことがないので事実、これを書いたからといってウソをついたことにはならないのは明白である。

 

が、実はここでこの「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」という文章を書いたとき、読んだ人の中で別ベクトルの化学反応が起きることはあまり知られていない。

 

その化学反応とは先ほど書いたような嘘に対して産み出されてしまう怒りとはちがい、「わざわざ紹介されていないことを書くということは、別のサイトか何かでこのブログが目覚ましテレビに紹介されていたと書かれたのでは?」「それを否定する為にこの記事を書いたのでは?」という思考がいつの間にか芽生える、というものである。

 

火のないところに煙は立たぬ、という諺があるが、その諺になぞらえれば「目覚ましテレビに紹介されていない」という煙は、誰かが書いたであろう「目覚ましテレビに紹介されていました」という火を見なければ生み出されないはずの煙である、となる。

 

だがしかし僕はまったく持ってそんな火を見たこともないので、これはただ勝手に煙だけを気ままに生み出しているということであるが、それがどう言うことかというと、誰1人として「このブログが目覚ましテレビで紹介されていた」なんてことを書いていないのに「そう言えばこのブログは目覚ましテレビに紹介されていないなあ」と僕が勝手に思い、紹介されていないことを書こうと思って書き始めただけのことなのだ。

 

しかしお気付きの通りここに逆転の発想の原点があり、実際には火の大きい小さい関係なしに、というか火がまったく燃えていなくても煙を勝手にたてることが出来ることの証左である。

 

なのでこの「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」という他にも、「今日はスパーリングをしませんでした」と書くと普段は格闘技をしてると思ってもらえるはずであり、「そういえば今日は新垣結衣に逢えなかった」と書くと一度も逢ったことがないのに普段からガッキーと逢っていると思われることになり、また会うを逢うと書くとキャバクラのきもいおっさん客みたいにも思えるし、「今日の小泉今日子小泉今日子で合ってるんだけど一昨日の小泉今日子は小泉一昨日子(こいずみおとついこ)なのかなあ」と書いてみたはいいけれど彼女の名前は本当にこの漢字で合っているのかなと調べてみたら所属事務所が「明後日(あさって)」だったことを知ってやっぱり今日子は一歩先をすすんでるなあ、今日子の事務所が明後日だなんて素敵だなあ明日を超えてるんだもんなあなんて思い、「そういえば最近おすぎとピーコは元気にしているのかなあ」と書くとあの2人と過去に交流があったように思われるだろうことは想像に難くない。

 

そうなると普段から格闘技をしていて常日頃から新垣結衣と逢う様なキャバクラ好きのおっさんでかつ恒常的に小泉今日子の心配及び感心を胸に秘め昔交流があったであろうおすぎとピーコの現状を心配するという1つの人格が生み出されることになるのだが、実際にはそんな人格は存在しない。

 

なぜならそれは読んでいる人が勝手に生み出した虚像だからだ。

 

そもそもが裏のない言葉であるにも関わらず、その裏を勝手に想像したが故に生まれた悲しい人格、哀愁のコピーロボット、いうなればジキルにおけるハイドやおすぎにおけるピーコはこのようにして人々の誤解から生み出されるのである。

 

 また話を戻すと、このブログは目覚ましテレビには紹介されておらず小泉今日子も一昨日子ではなくガッキーを目にしたことはもちろんなくキャバクラも未経験でおすぎとピーコは今日も元気に生きているし、格闘技にはあまり興味のないという虚像の大本である僕のこのブログは今、混乱の渦中にいる。

 

この混乱の元凶は、果たしてこのブログのメインであるソーセージ作りは一体どうなってしまったのかというものなのだけれど、これだけ暑くなると菌の繁殖が気になって燻製も出来ないしエマルジョン化もすすまないしそれよりも低温調理の方が今の時期は安心して料理出来るなって思いながら最近はゴルゴンゾーラのスパゲティをあえて生クリームを使わずに豆乳であっさりとかつブルーチーズ特有の香りがもっと立つ様に、夏に食べたいゴルゴンゾーラパスタなんてものを考えたりしています。

 

ネットで検索しているとパスタのブランドはディチェコが一番だのバリラがおすすめだの業務スーパーのトルコ産のパスタはおいしくないだのと色々な意見が散見されるので、これは自分の舌で確かめてみねえとなっつって色々味見してみたけれど結局何がどれで誰がどこで美味しいってなんだっけ歯ごたえってこんなだっけみたいに混迷を極めている。

 

そしてその探求の様子がたまたまテレビディレクターの目に留まっていつの間にか情熱大陸に出演が決まってそれをみた目覚ましテレビのスタッフが僕をスパゲティの権威として取り上げ、僕の店が有名になり、そうなるとこのブログが目覚ましテレビなんかに取り上げられたりもするはずなのだけれど、結局未だにこのブログは取り上げられていないことはおろかそもそも店すら出していませんし味比べをしてもこまかい味の違いがわかりませんし、そうなるといつも通りオナニーしてふて寝することになる。

 

なので今ここにある事実としては、オナニーをして寝たことだけが事実であり、真実としては僕のオナニーを見ていた人及び僕がふて寝しているところを見た人がいないので僕は存在していないということになり、それはそれでまあ仕方ないのだけれど、そもそもこんなことをたらたら書く切っ掛けになったのは、何を隠そうaikoの「ストロー」という曲である。

 

最初僕はこの歌を「幸せなカップルの歌」だと思っていたのであるが、妻が「いや、なんか不穏な感じのする歌やで」と言い出したので歌詞をじっくりを眺めながら思案していると、なんとなく不穏な感じが僕にも感じ取れ、そもそも「赤いストロー」とは何を意味するのか、これは「赤いチャンチャンコ」などと同じ様な怪談に近いものではないのか等という憶測が2人の間で流れ、歌詞はまったく持って変わっていないにも関わらず僕たちの受け取りかたでずいぶんと世界観が変わるねえ、なんて言いながら、今週も頑張って生きていきましょう。

 

君にいい事があるように 赤いチャンチャンコ着せてあげる。

 

なんてね。

 

うっさい。ただの還暦やないか。しばくぞ。