とどのつまり、僕は餃子が好きです。
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餃子、知ってる?
そう、その餃子であってる。
いやいや、爆発しない方、そう、そっちだ。
違うって、だからそっちじゃない。背中には張り付かないし、宙にも浮かない。
白いかって?
うん、それは合ってる。
帽子?
だからそっちじゃない。
ひだのある、ニラとニンニクとひき肉と小麦のやつ。
完全栄養食。
そうそう、その餃子の話がしたいんだ。
言い争いはしたくない。
俺は別に君たちと戦いたいわけじゃない。
だからタレの比率についても語ったりはしない。
タレだけで食べようがタレ7割ラー油3割で食べようがラー油7割タレ3割で食べようがお酢に胡椒たっぷりで食べようがおのおのが美味しいと思う方法で食べてくれたらそれでいい。
それでいいんだ。
みんなが美味しいって方法で食べたらみんなそれぞれ幸せになれるんだから。
餃子って、ハッピーな食べ物だからよ。餃子メイクスオールウェイズハッピー、いうなればタカノリ・メイクス・レボリューションの精神だよ覚えとけクソやろう。な、ダイスケ的にもオールオーケー?
そんな博愛きわまりない俺でもな、これだけはゆるせねえってことがあるんだよ。
あれだ。な?
もう分かるだろ?
幸せになれねえ餃子の使い方をしている奴らのことだよ。
分かんねえか?じゃあビシっと言ってやるよ。
「初めてのデートで王将に連れて行った時の彼女の反応で付き合うかどうかを決めるんだ」ってえらそうに講釈たれてるお前のことだよ。
なにが偉そうに彼女の反応だよ。
そんなことで人を判断するお前の浅ましさがまずゆるせねえ。そんなやつはさ、鼻から胡椒突っ込まれてもしかたがねえんだ。
な、お前の涙を誘発してその涙を空に撒いて大きな虹をかけよう。そしたらこの世界も少しは綺麗になるだろ。
なあ、お前の本心はアレだろ?餃子をゆるしてくれる女がいいんじゃなくて、金のかからねえ彼女が欲しいって言う一点だけだろ。
ほら、図星だろ、じゃあ素直にそう言えよ。
「俺はお金がないので2人で餃子2人前とラーメン2杯と酢豚をお腹いっぱい食べて大瓶ビール2本も飲んで3,088円(税込み)の王将にしかつれて来れないド底辺かつ浅ましく厚かましい男ですがどうですか」って問えよ。自分に素直になれよ。
間違っても餃子を試金石に使うなよ。
餃子はな、石は石でも試金石なんて誰かを不幸にする石じゃねえんだよ。石は石でも、それを見た誰もが笑顔になる光り輝く石、つまりはダイヤモンドなんだよ。わかるか?餃子は人を幸福へ導く羅針盤なんだよ。他人の良心を計る為のものじゃあねえんだよ。そこんとこ分かってる?リャンコーテル?
いいかげん大人になれよ。そんなことじゃあ誰もハッピーになれねえんだよ。
いいか。おれが本当の餃子を教えてやるよ。
あのな、まず餃子が食べたいときっていうのはな、心に穴が空いてる時なんだ。
しかもその穴をよく見るとな、ちゃんと餃子の形をしてんだよ。
仕事で疲れ、家庭に追われ、時間に苦しみ、人に傷つけられた時、心を見つめたら「穴」が空いしまっているだろう。
その穴をじっくりと見つめるんだ。そしたらどうだ、そのシルエットがホントに餃子の形をしているんだ。
ほんでな、その餃子の形をした穴にはな、もちろん羽なんかついてないし一口サイズでもないし、プルプルした水餃子でもないんだ。
焼き餃子の、しっかりと「焼き目」のついた餃子の形をしてるんだよ。焦げ付いた心にしっかりと馴染むような「焼き」がうっすらと見えてるんだよ。
そんでさ、その穴はさ、他のもので埋めようとしても埋まらねえんだよ。その穴を埋められるのは餃子しかないってコト。
スピードを求めるものがハードラックとダンスっちまうように、餃子の形にあいた穴は餃子でしか埋められねえんだ。だからさ、例え同じ様な食材を使ったものを食べても埋まらねえんだ。ニンニクとひき肉とニラを炒めたものを食べてもよ、その穴の空いちまった心は満足出来ねえんだよ。
どっちかっていえばさ、餃子を食うってのは、初恋の人との思い出と同じ様なもんなんだよ。汚れちまった悲しみに、今日も小雪が降り掛かるつって。中也関係ねえな。どれだけ色んな人と付き合っても、最初にしたウブで不器用なキスが忘れられない。どれだけ風俗で上手なフェラされても、初めて好きな人とベッドの中で裸で抱き合った感動を超えられない。それと同じ様なものなんだ。
な、分かるだろ?焼き餃子じゃなけりゃあ、この「穴」は埋められないんだよ。なんていうか、心の穴を埋めるものこそが「焼き餃子」なんだよ。これが真理だ。
焦げついた穴にぴったりと餃子がハマるだろ?そしたらビールを流し込むんだ。そのビールがボンドの様に心の穴の隙間と餃子を埋めるんだよ。平穏がさ、甦るんだよ。
そしたらだ、またびしばし身体を痛めつけることができるんだ。餃子とビールが、俺の心を支えてくれてるからよ。心の中でダイヤモンドが輝いてっから、多少の傷が身体についたって全然気にならねえんだよ。回転寿しじゃ、こうはいかねえよ。ベルトコンベアにならんでる寿司が自分に見えて来てしかたがねえからな。回れ回れメリーゴーラウンドじゃねえっつって。俺は久保田利伸でもないし、母ちゃんの奴隷でもねえっつうの。
そんでさ。
この世界で生きてたらさ、誰もがみな、ああ、このまま倒れてしまうんじゃないかって思う瞬間があるんだ。
もうダメだって倒れ込んで、このまま楽になりてえなって目をつぶって、後は諦めることさえできれば試合終了って瞬間がある。
ああ疲れたなあ、俺にしてはよく頑張ったなあ、お母ちゃんありがとうなあ、でももう無理かもしんねえなつって、目をつぶるんだ。
でもな。
そんな時、なぜかあの赤い看板と白い文字がまぶたの裏に思い浮かぶんだ。
稲妻の入ったロゴが、俺の心を立ち上がらせるんだ。
心が震え上がるんだ。
ああ、俺はまだ戦えるかもしんねえって。
まぶたの裏にその看板が見えた瞬間にさ、俺の手は地面をしっかりと掴んでゆっくりと立ち上がって、俺の足は崩れそうな身体をしっかりと支えて、1歩目を踏み出してしてるんだ。
その足の向かう先は、もちろん俺らの為の理想郷(ユートピア)だ。
這々の体で辿り着いたその先で、意識だってギリギリだ。
そしたらよ、そんな俺の状態を知ってか知らずか、椅子に座ったとたん目の前に一杯の水がおかれるんだ。
ああ、これがかの命の水、アクアビットなのかって思うほどに透き通ってるんだ。グラスの周りもさ、スワロフスキーが散りばめられたみたいに、キラキラ光ってるんだ。名中の水を一口含むとさ、さっきまで霞んでた目が見える様になるんだよ。そしたら視界も広がってさ、もう何も聞きたくないって思ってた耳にも言葉が入ってくるんだ。
「リャンコーテル、イーヤナギ、エンザーキー!」ってな。
ああ、天使が囁きってこんなにも胸に沁みるんだなあって思いながらさ、もうダメだ疲れた死んでやるって叫び過ぎて嗄れてしまった、もう使い物にならなくなったはずの喉を振り絞ってこう言うんだ。
「あ、先に瓶ビールもらっていいですか」って。
そしたらさ、無愛想なおっさんや無駄に化粧のこいヤンキーみたいな姉ちゃんが「ドンッ」つって音たててさ、ビールとグラスを脂ぎったテーブルにおくんだよ。
でもここで勘違いしちゃいけないんだ。
その音にきちんと耳を傾けると、ああ、これは無愛想や雑な仕事のせいなんかじゃなくって、「意識をしっかり持てよ」って応援の意味をこめた「ドンッ」だったんだな、いわば尾田栄一郎的な「ドンッ」なんだなって、なぜか分かるんだよ。それはきっとあれだよな、何がいいのかは口でぜんぜん説明出来ないんだけど、その演奏を聞く度になぜか泣きそうになるペルーからきて駅前で民族音楽演奏している人達の故郷を思い出すからだろうな。
そんでさ、エルコンドルパサー、コンドルが飛んでいくが頭の中で流れながらさ、ビールをグラスにゆっくりと注ぐんだ。手は震えてる。なんてたって極限だからな。ナミナミまで注いでさ、それが溢れない様に顎がテーブルギリギリまでくっつくようにしてそれを飲むんだ。それみたことか。喉が復活するんだよ。さっきまではサハラ砂漠みたいな乾きをしていた喉がさ、アマゾン河みたいに潤うんだ。これがイムジン河とかになると、余計な軋轢が生まれるかもしれないからアマゾン河がいいんだ。な?それに俺はこれからピラニアの様に餃子を食うんだから、アマゾンでまちがいない。イーーーーッ!!!!
ビールで喉が潤ったら、やっと食うもんの注文。苦悶と拷問に耐えた末のライドン(ride on)。
基本的に餃子と酢豚が俺の正義だけれど、正義っていうもんは1つじゃない。正義っていうのは夜空に瞬く星みたいなもんだっていってたのはアルスラーン戦記のナルサスだったっけ?まあ、今は関係ない。ただただ自分が食べたいものを選ぶのがいいさ。
あとはもう、待つだけだ。餃子が来る前にタレの調合をしたっていい。料理が来るまでにビールを飲み終えたっていい。そうすればまた追加すればいいだけだ。なにせ餃子2人前ラーメン2杯酢豚1皿大瓶ビール2本を飲んだって3,088円(税込み)なんだから。
そう、コレこそがユートピアのユートピアたる由縁だ。もし食べるのに疲れ果て、安心感に浸ってしまい、疲れてしまったら座ったままで寝てしまってもいい(店員さんに注意されたら起きようね、お兄さんとの約束だぞ?)し、隣のおっさんと盛り上がったっていい。皆それぞれに弧独を抱えているんだから、その孤独を互いの優しさで埋め合ったっていいんだ。
でも忘れないでくれ、それはあくまでも仮の安らぎだ。いくら幸せなユートピアであっても、俯瞰的に眺るとそこは弧独ではなく壺毒、つまりは殺し合いの世界でもあるってことだから。
さあどうだ、ここまで読んでくれたやつなら、分かり合えるよな?
餃子って奴は、いつだってお前のそばにいるんだって、お前を支えてくれる存在なんだって。
お前とおったらおもろいわって、どこのどいつもかなわんわって。100年でも200年でもいく年が過ぎても餃子だけはそばにおってくれるって。
まあ、そんなこんなで、俺は今日も大将にいく。
だって、王将こそが、俺が生きていく為の道標なんやから。めちゃくちゃ好きやっちゅうねん。
だからもし、こんな俺と王将に行ってくれる様な女がおったら、一生一緒にいてくれや。
ええかげんそうな俺でも、しょうもない裏切りとかは嫌いねん。
尊敬してくれる相手と、共に成長したいねん。
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以上が、先週疲れた時に妻と餃子を食べにいった時のレポートです。
終わり。
手作りマスタードをおすすめするだけの無駄に長い文章。
ふと、「ああ、そういえばこのブログはソーセージに関するブログだったんだなあ」と思い出したので、表題の件について書きたい。
まあブログのタイトルが僕のソーセージを食べてくれないかっていうくらいだから当然と言っちゃ当然なんだけれどそれもダブルミーニングなので別に食べるソーセージのことでも食べないソーセージのことでもいいんだろうけれど、でもまあプレイの一環でソーセージを口に含んじゃうこともあるだろうし僕はそれらのオーラルプレイが大好きだし僕はいつだって妻の赤貝をベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロベロしたい。舐め専。
だからまあ間違いではないっていうかなんというか。
そんなことを書いていたらまた脱線して別の方向に行ってしまいそうなので、今回はもう普通に、極めて普通にソーセージに関することを書いていきたい。
さて、ソーセージの自作における最大の興奮点は作る手間とそれに比例する味わいであるが、実際に作るとなるとその手間がネックになってなかなか手を出しづらいものでもあるし、また季節によって作りにくいというものでもある。
夏の最中である今は本当にソーセージ作りにむいていないし、屋外での燻製も菌の繁殖が怖いのでお勧め出来ない。基本的に保存用の食肉加工は冬に限る。
なので僕は最近もっぱら市販のソーセージを食べている身ではあるのだけれど、自作の美味さを知ってしまっているうえ、自作の為の研究で色んなソーセージを食べてしまってもいるので(赤貝はいつも1つだけれど!)生半可なソーセージでは感動出来なくなってしまった不幸な身の上でもある。
このような食に関する悩みは上流階級の人達しか持ち得ないと思っていたのだけれど下流も下流の僕にも贅沢な悩みはあるんだぜってつって、まあそれはそれとしておいといてソーセージが食べられないなら餃子を食べればいいじゃないと言って銃で撃たれたのはかの大阪王将の社長であるが、そんな現代のマリー・アントワネットに断固として抗っていきたい今日この頃である(実際のところ大阪王将の社長はそんなこと言っていないし僕は餃子フリークでもある。大阪王将も京都王将も大阪王もチャオチャオも珉珉も天平も大好きだしみんな違ってみんないいしマジ餃子最高!昨日の夜に飲んだ水餃子の出汁に飛び込んで浮き輪を浮かべる水餃子よりの使者だぜ俺は)。
さて話を戻してそんな現代における難病の1つ、「どんなソーセージにも心から満たされない病」の患者である僕は美味しいけれどなんだか物足りないという気持ちを抱えながら朝のソーセージロケーション、昼のソーセージオーガナイゼーション、夜のソーセージマスターベーションを繰り返しながらパソコンを眺めていたのだけれど、深夜の僕の1つの天啓が降り注いできた。
その天啓とは
「ソーセージが無理なら、別のものを自作すればいいのでは?」
というものだ。
コレを分かりやすく言えば、セックスが出来ないのであればオナニーがいいし、オナニーが満足出来ないのであればオナホを使えばいい。ということだ。
そう、食用ソーセージにおけるオナホ、すなわちマスタードの自作である。
ソーセージとマスタードはちんぽと金玉のように切っても切れない存在であり、例え短小であったとしても金玉が大きければそこで作られる精子が多くなりそうなると発射される快感も増幅されることにもなり、すなわちそれはソーセージに満足出来なくてもマスタードに満足出来ればもうそこは極楽浄土に至るほどの快楽であるということだ。
これは経験があれば分かると思うんだけれど、4回目の出たんだか出てないんだかわからないものより3日間我慢した後焦らしに焦らしてからの「あっ!ダメメっっっ!!!ティッシュ間に合わないっ!突き破っちゃうぅぅぅぅっっっ!!!」の方が断然気持ちいいとかいうあれで、ある。
なので僕は出来る限り簡単なマスタードの作り方を検索し、合間にエロ動画をみては他人のソーセージを拝見してまたマスタードにかける情熱を燃やし、赤貝を舐めたくなりそれを我慢してまたレシピを見ていたのであるが、そう言えばたまに見かける無修正動画の中にはちんぽにゴツゴツとした異物を埋め込んだものが散見されるのであるが、それを味わった女の人はもうその感触から離れられなくなるなんてことを言うらしい。
さてこれになぞらえて言えば、マスタードに重要なものが何かと問われた場合、、僕もそのちんぽを味わった女性と同じ様なものだ、そう答えるだろう。セリフ調で言わせてもらうと、
「あのプツプツが忘れられないのううううううぅううううぅぅぅぅっっっっっう!!!!!!!」
こうなる。
という訳でもう僕はプツプツたっぷりのマスタードを作ろうと決心したのだけれど、そうなると思い出すのは海ぶどう。美味しいよね、海ぶどう。ポン酢とかかけてさ。つるっと。でもね、ここでは本当に関係ないから思い出しただけにとどめとく。
で、レシピ検索していたら本当に簡単に作れそうなレシピがあり、僕はそのままスーパーへと向かって必要な材料を買いにいったのだけれど、マジでこれが簡単でしかもほぼほぼ家にある材料で出来るのでまず以下に必要な食材を書き出します。
・ホールマスタード(黄色)
・白ワインビネガー
・はちみつ
・塩
以上。マジで簡単。ブラジャー外すときよりも簡単。っていうかこれは本当にただの愚痴なんだけれど、結婚して何が悲しいのかっていうとブラジャーを外す行為がなくなってしまうこと及びブラジャーを含めた下着姿を見る回数が極めて低くなってしまうこと。
これがとても本当に極めて真っ当に悲しい。僕はセックスがしたいのはもちろんのこと、まず大前提として「下着姿を愛でた」後に行為をいたしたいのであるけれど、最近の妻はもうユニクロのあの名前はよくわからないんだけどキャミソールとブラジャーのパッドが一体になったようなやつを愛用しているからもうほんとに嫌になっちゃうからそろそろユニクロの株主になってあの服撲滅し隊を結成したいと考えているので同じことを思っている人は是非ともDMでご連絡ください。不毛で不可能な議論に花を咲かせようではありませんか。むしろ同じ考えの人が何億人かいれば柳井さんの総資産超えれるんじゃないかな。何十億の金があればなんとかなる。草の根運動であれ潰す。
つって、また脱線しかけたので話を戻すのだけれど、その食材が揃ったら保存用の容器を用意してアルコール消毒しておきましょう。せっかく菌の繁殖に気をつけてるのにここで気を抜いたら本当に悲しくなるから。オナホがあるのにローションがなかったら、オナニーなんてできないのと一緒。何事にも下準備が大切。
で、アルコール消毒できたらそこにホールのマスタードシード一瓶入れて、それが浸るくらいプラス1センチの白ワインビネガーを入れて冷蔵庫に放置する。
2日間くらい放置したら海綿体と同じくらいの勢いでマスタードシードがビネガー吸って膨らむから、もうそうなったら出来たも同じ。拝み倒してラブホに入った状態。生かすも殺すもお前次第。
あとはハチミツと塩を味見しながら足して、味が馴染むまで1日置いておくだけ。
それでできる。まじ簡単。
オナ禁してるくらいの期間でできるし、これがソーセージと組み合わさったときの爆発力はエックスビデオで好みの動画見つけた時のオナニーよりも凄いから一度試してみてほしい。
ほんと、シモネタ書かねえって思ってたはずなのにほとんどシモネタ。バカじゃねえの。
でもまあ、そんな感じで本当に試してみて欲しいので是非どうぞ。少し高いマスタード買うよりも安いしなにより自家製って響きがいい。素人物とかの騙しじゃなく、本物とのハメ撮りみたいなものだから。
じゃあの。
「何を言ったかより、誰が言ったか」を重要視するこの世界はきっと正しい。という気付き
誰がいったか知らないが「人は何を言ったかより、誰が言ったかを重要視する」というような言葉をよく目にする。
まあなるほどなと思う反面、なんとなく納得がいかない気もしていたのだが、最近とある出来事によってとてもスッキリとしたのでその顛末を記したいと思うのだけれど、これがまあ下品きわまりないので別に読まなくてもいい気もする。
そもそもそのスッキリの大元は性的欲求の解消という別のスッキリの為の行為から始まったのだけれど、僕は常日頃からツイッターのエロアカウントを徘徊しながらの自家発電によるスッキリを求めている。
そんなおり、たまたま見つけたアカウントのプロフィール欄に「人妻/自撮り/屋外露出/乱交/スカトロ」などの魅力的な言葉が鎮座していたので、なるほどこれはよろしいのではないか、たえず僕の魂が求め続けていたものではないか、僕の極楽とんぼもスッキリするのではないか、僕の愚息を水戸黄門に例えるならば左右を支えるキンタマたち、いうなれば黄門様(ちんこであるにも関わらずこうもんとはこれいかに)の右に仁王立ちする助さんと言う名の加藤、左に鎮座する格さんである山本に相談した結果「スッキリ!!」という天の声とともに「熱盛!」という叫び声も聞こえてきたのでその声に従い発見したアカウントのツイート履歴を逆のぼって見たのであるが、なにはどうあれとても綺麗な下着姿や淫らな写真の数々があげられ、ああ、こんなアカウントが凍結もせず存在しているなんてなんて素敵な世界でないかといたく感動し、天まで立ち上る印籠を猫たちに見られないように拝見していたのであるが、ある一枚の画像から目が離せなくなってしまった。
その画像とは、なにを隠そう便器に排出されたうんこの画像である。
目が離せなくなったと書いたのだけれど、別にその写真がおかしいとは思わないで欲しい。なぜならばちゃんとbio欄にスカトロと記載されているのだから。
素敵な女性の排泄物というのはもう本当に素敵なものであり、どれだけお願いしても手に入らない類のもの、いわば高尚な美術品と同じようなものである。モナリザ、ミロのヴィーナス、木の葉天目茶碗、美女のうんこ。
あなたがもしバンクシーの作品を手に入れたいと思っても気軽に手に入らないように、美女の排泄物をゲットするのはミュウツーを捉まえるよりも難しいのは周知の事実だ。誰彼構わず気軽に、ZOOの歌にのせて、「愛をください」「やっぱりオシッコをください」「それよりうんこをください」といえるような世界であればいいのだけれど、今の世界は残念なことにそうではない。それも全部辻仁成のせい。
そのような背景からして、例えこれは画像だけでもこれはもう額に入れて飾るべきものなのであり、この画像は私の美術館のギャラリーに永久保存されてしかるべきものでもあるのだけれど、一つの懸念がそれを押しとどめるのだ。
その懸念とは「はたしてこれは本当に美女のうんこなのか?」という疑問である。
はからずも画面に映っていたのは、便器とうんこのみである。そこにコメントとして「出したてです」という文章もあったのだけれど、しかしこれはいうなれば茶碗における外箱と同じ様なものであり、それは複製可能なものでもあり、また突きつめていくとこのアカウントの運用者が本当に美女なのか、という疑いまででてきてしまう。
はたして今僕がみつめているものは本当に美女がつくった排泄物なのだろうか。もしかしてたまたま公衆便所で流し忘れていたうんこを撮ったものではないだろうか。そもそも美女のうんこというものは存在しないのだろうか。
そんな感情が入り交じり、僕は止まってしまっていた。
そして、話は最初に戻るのだ。
「人は何を言ったかより、誰が言ったかを重要視する。」
そう、うんこというものの本質は変わらない。それはあくまでも排泄物であり、人体に必要なものを吸収した後の不要なものである。
不要なものでありながら、それが美女のからだから出たものだというだけで、国宝ともなってしまうのだ。なのでこれを言い換えると、何を出したかよりも誰が出したかが最重要事項になるということである。
僕は美女のうんこを求めているけれど、おっさんのうんこは求めていないしそんなものはむしろ迷惑であり、公衆トイレにおいては前任者の残り香ですら嫌な気持ちになってしまうのは誰しもが理解出来るものであろう。
という訳で、同じうんこでもおっさんの出したうんこは嫌だし美女の出したうんこは喜ばしいと結論づけられ、すなわち「何を言ったかより、誰が言ったか」が重要視されるというのは、正しいのである。みたいな話です。
終わり。