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嫌われたくないと思った時点で、多分嫌われている。

愚痴とか、希望とか、思い出とか、好きな物とか、そんなものの寄せ集め。テリーヌみたいなもん。違うか。

G戦場へヴンズドアの話。

いや、ブログなんか書いている場合じゃないんだけれども。

見積も送んなきゃいけないし、メールも送りかえさないかん。

でもな、そんなん放置するんじゃ。

そんなんしとる場合じゃないんじゃ。

本棚に並んでた日本橋ヨヲコの「G戦場へヴンズドア」読んでしもたさかいにな。

 

 

 初めて日本橋ヨヲコを知ったのは、

コミックIKKIだった。

 

「コミックは未だ黎明期である」

 

IKKIのそのあおり文句は僕を痛く感動させた。

そう、「甚く」でなはい。「痛く」感動させたのだ。

簡単にいえば、とてもかっこ良かった。

 

黎明期。

新しい時代・文化などが起ころうとする時期。萌芽期。三省堂大辞林より。

 

山川惣治武内つなよし水木しげる白土三平手塚治虫藤子不二雄赤塚不二夫さいとう・たかを梶原一騎原哲夫鴨川つばめ小池一夫つげ義春本宮ひろ志小山ゆう萩尾望都あだち充大友克洋鳥山明丸尾末広浦沢直樹山本直樹上條淳士岡田あーみん松本大洋井上雄彦…。

 

当たり前だけれど、ここには書ききれないほどの、収まりきらないほどの偉人たちがマンガの歴史を紡いできた。

おのおのが力の限り戦い、盛り上がっては廃れ、また立ち上がり、廃れては盛り上がりを繰り返した。

波乱に満ち、試行錯誤の末に、傷つきながらも荒野を切り開いてきた先人達が築いたマンガの世界。

そこにはもう足跡がついていない場所などないのではないかと僕は思っていたし、現に1990年代のマンガ家や編集者達は、未開の荒野を探すのに疲れていたんじゃないかとも思った。

 

そんな時代において、コミックは未だ黎明期である、と言い切ったIKKIに痛いまでのかっこよさ。

 

IKKIが掲げたその言葉は、荒野を切り開いた先人達を否定しているのではない。

切り開かれた荒野は、すでに荒野ではなく肥沃な大地である。だからこそ、その叡智の結晶がちりばめられた大地から芽吹いてくる、すばらしいモノを探すのだという、編集者達の信念みたいなものを僕は感じた。

「既に誰かが立ち入った場所だから面白くないでしょ」みたいな、そんな考えではなく「コレだけすばらしい土壌があって、面白い物が生まれないはずないだろう。あきらめたらそこで試合終了だよ」という、問いかけなのだ。

 

連載されていた作品群も、たった1つの煌めきがあれば10の不足なんて関係ない。そんな雑誌だったと僕は思う。

 

 そして、その幾つもの煌めきの中に、日本橋ヨヲコがいた。

 

大分前置きが長くなってしまった。

 

このG戦場ヘヴンズドアは、 マンガ家を目指す二人と、それを取り巻く人間達の群像劇である。

いや、主人公がはっきりしているので群像劇っていってしまうと語弊があるかも知れない。

 

でも、それでも僕はあえて群像劇と呼びたい。もちろん脇役である他のキャラが立っていて、それぞれに作者の愛情を感じるから、というのも理由の1つであるが、それはマンガ家であれば至極当然のことなのだ。

それよりも、だ。

このマンガが努力友情勝利ありきの王道と呼ばれるマンガではなく群像劇たる所以は、本当の主人公はマンガ家を目指す二人ではなく、「二人を取り巻く環境や、それを作り上げた人々」なのではないか、と思ったからだ。

 もちろんこのマンガにも努力友情勝利は各所に散りばめられてあり、読んでいる人間に高揚感を与えるのは確かだ。しかし、その奥に、日本橋ヨヲコの本質が垣間見え、そこにこそ煌めきが存在する。

 

二人のうちの一人である長谷川鉄男は、

父親である元マンガ家の編集者、阿久田と母親の呪縛(のちに分かるが、これは愛情なのだが)により、周囲の期待に応え続けなければならない、精神的に満たされない孤独な生活を送る。

もう一人の堺田町蔵は父親が人気マンガ家であり、町蔵はその事を周囲に隠し、またマンガを憎んでもいる。

そんな二人が出会い、マンガを介して協力し、マンガを通じて葛藤し、マンガ家故に反発し、マンガ家であればこそ理解し合い、マンガの垣根を超えて戦友として支え合う。

 

ストーリーで言えばこんな感じ。

そのストーリーのどこに煌めきがあるのだ、と言いたくなるだろう。

有り体と言えば有り体で、僕の文章だけで読みたくなる人なんていないかもしれない。

だけど、ぜひとも読んでほしい。

G戦場ヘヴンズドアには 全編通して煌めきしかねえよ。

不足してる所なんて見当たらねえよ。余計な部分もありもしねえよ。

 

つって。

 

以下、若干のネタバレあります。

 

このマンガは、マンガとは何か、なぜマンガを描くかを模索している。

 

ヒロインである久美子の父親の言葉に

「マンガで人が救えるのか?」

というものがある。

久美子の父親が医者であることが、なおさらこの言葉を生かしている。

 

多分この言葉は、日本橋ヨヲコが、というよりも、マンガ家だけではなく、建築家でもいい、デザイナーでもいい。料理人でも小説家でも、ぬいぐるみ作家でもなんでもいい。きっと、モノを創造することに携わる人間のほとんどが生涯抱えていく、もしくは目指していくものなのだろう。

 

しかしこの後、猪熊宗一郎は言う。

マンガ家とは「本気でうそをつく仕事なのよ」と。

 

さらに、鉄男の父、阿久田はこうも言っている。

「マンガは練習するもんじゃない。覚醒するものだ」

 

マンガに人を救えるのか。

マンガはうそをつく仕事。

マンガは覚醒するもの。 

 

作中で語られる、マンガに対する強烈な、軽蔑、侮蔑、尊敬、信頼、愛情、憎悪。

正しいものはいったい何か。

 

否。

 

何が、どれが正しいのではなく、人間が持っているそれらの感情全てを内包しているものこそが、本物のマンガなのだ。

感情全てを内包する、それはすなわち、自分の中にある感情を全て紙面に出し切るということであり、だからこそ、町蔵の師匠である町田都が言ったように、マンガ家に一番必要なものが「人格」なのだろう。

その人格こそが才能なのだ。

 そしてここで僕は、日本橋ヨヲコはとてつもない課題を自分に課していることに気がつく。

マンガ家自身が、自分の作品のなかでこれほどまでにマンガのハードルをあげているのだ。

 このG戦場へヴンズドアにおいて、日本橋ヨヲコはそのハードルを見事に飛びこえていた。だからこそ、全編を通して煌めいているのだ。

 呉智英はだしのゲンのあとがきで、「何かを訴えるということは、評価の基準にならない。人間を描けているか、人を感動させるかが作品を評価する基準になるのだ。」と述べている。

 G戦場へヴンズドアでは、人間が見事に描かれている。

きれいごとだけではない、すれ違いや挫折や諦め、そして再生。

「つくりもの」でしかないマンガの中の「つくられたキャラクター」。

しかし、彼らの口から出る言葉は決してつくりものではなく、敢然と心に残っていく真実なのだ。

 マンガに人生を救われた人間は少なくないと僕は思う。僕もその一人で、読んできたマンガに救われ、今でも何かしんどい事があればマンガに手を伸ばす。

それを現実逃避だと言うのかもしれないけれど、そうじゃない。

現実ときっちり向き合う為に、マンガが必要なのだ。

 マンガを読み、現実と向き合う事でそのつらさを乗り越えられた時、本気の嘘で創られた真実が、見事に現実を凌駕しているではないか。

それこそが、人が救われるマンガ、日本橋ヨヲコが描きたかったマンガなのかもしれない。と、勝手に考えている。

 主人公に対して感情移入することで感動できたり、興奮できたりするマンガは多い。しかし、ここまで人と人との繋がりを痛切に描いたマンガがあっただろうか。

このマンガを読み終わってから思い返してみて欲しい。

登場人物の誰かに感情移入していたのではなく、いつの間にか自分自身が、G線上のどこか一部で共にアリアを奏でていたんじゃないのか、と。

ま、それをどう感じるのかも読者次第といってしまえばそうなのだけれど。

 少なくとも僕はこのマンガを読みながら、登場人物に対して「共感」しているではなく、登場人物の有り様を「共有」していると感じていた。

それはつまり、紙の上の世界がいつのまにか僕の実世界とリンクしていたということだ。だからこそ、このG戦場へヴンズドアは、マンガの形を借りた、環境が主人公の群像劇なのだ。

  鉄男も町蔵も久美子も大蔵も石波修高も、心の底から求めていたのは、愛情や友情や信頼ではなく「受容」だった。

 ただ、自分を受け入れてほしかった。

それだけの為に、みんな、自分の人生を懸けた。

「そんな事に人生を懸けるなんて、どうかしてる」

そう思える人は、ある意味で幸せであり、ある意味では不幸でもある。

 受容される。

それは本当に簡単な事ではない。血の繋がった親子ですら、一筋縄でいかないものだ。そこに命をかけるなんてどうかしてると思っている人間は、表層でしか他人との関係性を築けていないと僕は思う。自分を自分で受け入れる事ですら難しいのに、他人を受け入れるなんていうのは、苦悩でしかない。

その苦悩は時に誰かを傷つけ、不幸にもする。傷つくのが自分である場合だってもちろんある。 

苦悩を感じなければ幸せでいられるし、誰かを傷つけることもない。

しかし裏を返すと、成長することもないのだ。

どちらを選ぶかは個人の自由じゃないか、という意見もあるだろうが、実際はそう簡単じゃない。

環境が強制的に選ばせるのだ。

そして、その苦悩を乗り越えた先にしか、人間同士の魂の交流はないのだ。

そして、その交流こそが、本当の優しさであり、ぬくもりである。

これの優しさやぬくもりを味わえない事、これはとてつもなく不幸なことだ。

 

これほどまでに真剣に人生を突き詰めていく物語は、読み続けていくと不意に心苦しくなる瞬間がある。それでも安心して読み続けられるのは、登場人物全てが自分の行動や信念に責任を持ってるからだ。

責任。

それこそが、このマンガの中に脈々と流れる『本気の嘘』を『現実』に変換する 

キーワードなのだ。

だからこそ、読み進める中でどれだけ心苦しくても読者は安心して追いかけ、物語に同調していけるのだ。

 

日本橋ヨヲコの、G戦場ヘヴンズドアの本質は、この「責任」に集約されているのではないだろうか。

それは、マンガが描けなくなってしまった鉄男の代わりに、町蔵が続きを作るところに顕著に表れている。

知り合いのマンガ家に手伝いをお願いし、マンガ家のプライドがないのかと問われた町蔵は、

「ありますよ、そんなもん。あるからこそどんな汚い手段使っても完成させますよ。」と頭を下げる。

この言葉の裏側に、どれだけの悩みや愛が溢れているかは、これを読んだ人にしかきっと分からないだろう。

ネタバレをここまで書いておいて申し訳ないし、多分読んだ人は各々で色々考えるだろうからこの文章は本当に意味がないのかもしれない。

だけど、僕はどうしてもこの気持ちを書きたくなったのだ。

ただここからの流れはもう書けない。なぜならば、思い出すだけで泣けてしまうから。

そして今日も僕は仕事に向かい、また書きたい文章を書く。身体や心が疲れたら、本棚に手を伸ばす。

その手の先に、煌めきを放つ背表紙が幾つも並んでいる幸せを噛み締めながら。