僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージ作りとインターネットは意外と似ている。

雨にも負けず風にも負けないリハビリマン

 

ネットを徘徊していると、「リハビリがてらに適当に文章を書いていこうと思い、このブログorアカウントを立ち上げました」と言った記述を良く見かける。

 

そういった文面は主にプロフィール欄で見かけるのだけれど、書かれている記事を読んでみても何がどうリハビリになっているのかがよくわからない事が多い。

 

リハビリ中であるにも関わらずバリバリに盛った化粧のノリを気にしていたり、友人知人と大酒を飲んで楽しそうな様子の写真があがっていたりもする。もしかしたらそれらがリハビリの一環なのかと一応考えてもみるが、どうやらそんな様子もうかがえない。なぜならばリハビリにつきものの「悲壮感」が感じられないからだ。

 

例えば足の骨を折ると、当たり前だけれど痛い。痛みで動かせなくなるから筋肉が縮小してしまう。そのため骨がくっついてから、また普通に歩けるようになるように頑張って筋肉を元通りにするために必要なのがリハビリであり、それは痛みとの戦いでもある。

 

例えば鬱病になって精神的にしんどくなった場合、社会に復帰する為に心療内科に通ったり向精神薬等を飲むなどしてリハビリする。迫り来る不安との戦いはしんどくもあるし、先の見えない恐怖感と向き合うのもまた辛いものである。その為のリハビリの苦痛が外からは伺い知れないことも、その辛さに拍車をかけている。

 

しかし、ネットでみるリハビリ中アカウントには、そんな悲壮感が殆どといってもいいくらい見られない。

 

なんかもう、楽しそう。

 

阿呆みたいな顔を晒して呑気に暮らしてるのに、リハビリ中って書いてある。そうなると「ネットにおけるリハビリというのは、僕の知っているリハビリとはまったく違うものなのかも知れない」という一抹の不安がよぎる。

 

そもそもリハビリが必要になる為には、先に書いたように怪我や苦悩といったマイナス方面の衝撃が必須になる。マイナス、言うなれば辛い状況というのは誰も味わいたくないものではあるし、僕自身としてもできればそんな状況に陥りたくはないけれども、リハビリが必要な状況とは主にそういった場面なのだろう。

 

しかし視点を変えると、そのマイナスをゼロ、もしくはプラスに向ける、そして立ち直る為のリハビリというのは、それより下にいくことはない、上向きの状態だとも言えるかもしれない。

 

そうであれば「リハビリとは悲壮感が付随するもの」という考え方は実は僕が勝手に思っている一元的なものであり、もっと別の考え方が必要なのではないか、という気付きを得た。なぜならば低い場所から高い場所を目指す道のりは、苦しさももちろんあるが楽しくもあるからだ。

 

泥沼の状態において、手を差し伸べてくれるものがリハビリなのだとしたら、その手の持ち主は悲壮感ではなく、バットマンやスーパーマンのようなヒーローと同じ様なものなのかもしれず、もしその思考が正しいのであれば僕の思い違いで見ず知らずの他人様を貶めてしまっていることになるし、それはそれでとても恐ろしい事である。

 

だからとりあえず、誰かが困っていたら素敵な笑顔で手を差し出す魅惑のヒーローとしてのリハビリ、いうなればインターネットにおけるリハビリマンのことを想像してみたい。

 

20XX年。◯◯県▲▲市。

 

8階建てのマンション、最上階のベランダから、入れたてのコーヒーを片手に階下を見下ろす一人の男がいる。彼の名前はインターネットリハビリマン。ネットで困っている人がいれば手を差し伸ばし、傍に寄り添い共にリハビリに励み、その苦境から救い出そうとする。

 

しかし良い人というだけでは生活はできない。救った見返りに、ネットで全てを配信する了承を得る。その映像で皆を楽しませ、広告収入という莫大な稼ぎを得ているからこそこれほど優雅な生活ができるのだ。だれも彼を責めることは出来ない。なぜならば、彼こそがリハビリマンだからだ。リハビリという言葉を使っているかぎり、思想や行動が例えいびつであっても正当化されるのが世の真理である。

 

リハビリマンの朝は早い。どんな時間帯であっても困っている人はいるからだ。朝日を全身に浴び、エネルギーを充電しているその様はまるで太陽光発電パネルのようである。

 

リハビリマンは一体何をする人間なのか。本当に正義のヒーローなのか、実は悪の軍団ではないのか、いやいや目立ちたがりの一般市民なのか。その正体は分からない。ただ1つ分かっているのは、彼はリハビリが必要な人の元に駆けつける、ということだけだ。そしてその手には、いつでも画素数の高いスマホを持っている。

 

彼の行動原理はこうだ。

 

東に病気の子どもがいたら行って看病してやりながら写メを撮り、

西に疲れた母がいれば行ってその背負った稲の束をインスタにアップする。

南に死にそうな人がいたら行って怖がらなくてもいいとながらツイッターに晒し、

北に喧嘩や訴訟があれば、もっと!もっと!と動画を撮ってユーチューブに投稿する。

 

ほら、そんなことを解説していたらいつの間にかマンションの下の公園でおっさん同士が争っているではないか。足下には、ワンカップの空き容器がいくつか散らばっている。どうやら喧嘩の原因は、最後のワンカップをどっちが飲むかで揉めていると読んだがいかがかな。これは双方にリハビリが必要ではないか。

 

リハビリマンは着の身着のままマンションのエレベータに飛び乗る。クロックスが脱げても気にしない。全速力で公園へと向かう。すぐさま携帯を構え、ズーム機能を駆使して彼らを撮る。的確なカメラワークは後の編集作業を楽にする為にいつの間にか身についた高度な技能である。

 

「おい、お前なんや!こら!なに撮っとんねん!しばき回すぞ!」

 

そんなおっさん達の声にひるむリハビリマンではない。

 

「ゲッヘ!こわ!おっさんこわ!え!こんな朝早くから酔ってるん?ヤバない?俺よりヤバない?」

 

罵倒と罵倒が交差し、誹謗と中傷が錯綜する現場での撮影をつつがなく終えた彼は、自宅に戻って動画の編集作業に没頭する。それもすべては、リハビリの為なのだ。

 

「イエーーーイ!!!!リハビリマンどぅぇーーーーす!!!えっと、今日はマジでヤバい動画取れたから。喧嘩、マジ喧嘩。公園のど真ん中で殴り合いしてたからそれ撮って、当てレコしてみました!!!面白かったらチャンネル登録よろしくっすううう!!!」

 

そうやって今日もリハビリマンはネットの世界に笑顔を増やし続けている。

 

果たしてリハビリとは?

 

そもそもリハビリとは僕が思っていることで合っているのだろうか。

 

現実の世界とネットの世界の乖離がひどいと常々感じている僕は、まずリハビリという言葉をきちんと調べることにした。

 

リハビリ

リハビリテーションの語源はラテン語で、re(再び)+ habilis(適した)、すなわち「再び適した状態になること」「本来あるべき状態への回復」などの意味を持つ。また、猿人原人の中間に意味するホモ・ハビリス(homo habilis、「器用なヒト」)が、道具を使い人間にふさわしいという意味でも用いられ、適応、有能、役立つ、生きるなどの意味も含有し、リハビリテーションの語源ともいわれている。他に「権利の回復、復権」「犯罪者の社会復帰」などからの意味合いがある。なお、ヨーロッパにおいては「教会からの破門を取り消され、復権すること」も意味している。このように欧米ではリハビリテーションという言葉は非常に広い意味で用いられている。 

                         ウィキペディアより抜粋

 

どこにも悲壮感がない。

 

やはりリハビリに悲壮感が必要なのだというのは、僕の思い込みだったのかもしれない。思い込みで人の事をなじる事ほど、情けないものはない。そう思い、僕は反省の気持ちを込めてソーセージを作る事にした。

 

そう、この反省というマイナスの状態から、再び普段の生活を取り戻すために。

 

冷蔵庫から取り出したひき肉に塩と氷をボウルに入れてからよく捏ね、今度は冷凍庫で休ませる。ミキサーのガラスで出来た容器部分も一緒に冷凍庫に冷やしておく。

 

煙草を口にくわえ、台所の隅に置いていある小さな椅子に腰掛けた。百円で買ったBICのライターを手に持ったまま、さっきまでの自分を恥じて反省する。

 

しかしその反省している自分に、なんだか納得がいかないのも本心である。自分が間違っていたら謝るのは大人として当然の態度であるし、僕は一人で考えたのちに自分が悪いと悟り、恥じた。凄い大人な姿勢。素敵。そんな英国紳士然とした態度をとったにもかかわらずこんな気持ちになるのは、何故なのか。

 

どこに納得がいかないのか、重箱の隅をつつくように脳みその中を散歩してみたのだけれど、多分最初から間違っていたのかもしれない、とも思う。ソーセージとリハビリの話を無理矢理くっつけようとしたスタート地点から、そもそも間違っていたのだ。

 

正しい答えは正しい質問からしかでてこないとはよく言ったものだ。

 

間違った考え方から出てきたリハビリマンなんていう存在はただの腹が立つユーチューバーだったし、むしろ今現在の僕にはリハビリマンの存在に対してのいらだちが出てきてしまっている。なんだよアイツ。そのまま窓から飛び降りろよ。

 

でもまあ、最初に話をもどすと、ネットでのリハビリが必要になるということはそれこそネットにおいて怪我したり苦悩等を感じた経験があるからこそ、筆を折っていた時期があり、そこから復帰しようとしている過程にあるということなのだろう。

 

僕はもともとインターネットにズブズブなわけではないから、なぜわざわざそんな地雷原に舞い戻ろうとするのかは分からないけれど、あのリハビリ中の人達はそんな地雷の広がる原っぱのど真ん中で、雨の中でタップダンスを踏むジーン・ケリーのように「つらい場所であえて楽しそうに振る舞う事」がリハビリとなっているという可能性がある。

 

なんとなくその姿は、「リハビリ」の為であるにもかかわらず「泥沼に足を突っ込んでいる」気がしてならないのだけれど、仕事で忙しいにも関わらず睡眠時間を削ってまでソーセージを作っている自分も、もしかしたら同じ様なものなのかもしれない。

 

そんなことを考えていると、いつの間にかうとうとしてしまっていたらしい。台所の隅で火のついていない煙草をくわえててボートを漕いでいる僕に「しんどいなら寝なよ」と妻が言った。「うん、もう少ししたら寝る」と返事をし、立ち上がって涎でフィルターが湿った煙草に火をつけた。

 

深く煙を吸い込んで、(確かにしんどいけれども、ソーセージを作る事でしか満たされない何かがあるんだよ)と心の中で呟き、煙を吐き出す。僕の口から出て、そのまま換気扇に吸い込まれていく煙を見送ってから、煙草を灰皿に押し付けた。濡れたフィルター部分が折れ、灰が指先に少しついた。流水で灰を流してから、石けんを使って手の平全体を洗い、アルコールで消毒する。

 

冷凍庫から肉とミキサーの容器を取り出す。肉の状態はいい。固まらず、しかしきちんと冷えている。ミキサーに容器をセットし、肉を投入する。ハーブ類を計って入れ、温度が上がらないように、でもきちんと乳化するように混ぜ合わせる。段々とピンクになっていくひき肉を眺めながら、ああ、傷つくと分かっていながらまたネットの世界に舞い戻る人達は、今の僕と同じ様な気持ちなのかな、と少しだけ理解出来た気がした。

 

ソーセージ作りでしか満たされない何かがあるように、ネットで盛り上がることでしか満たされない何かがある。

 

そんな、楽しみと悲しみが、実像と虚像が、排他と受容が、塩と肉が、羊腸と豚腸が、混ざり合った僕のソーセージを誰か食べてくれないか。