僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージ作りに最適な音楽3選

音楽と料理は渡哲也と渡瀬恒彦のようなもの

 

「雰囲気のいい店」と問われた時にすぐに思い浮かべてもらうためには、インテリアや食器のセンス、もちろん料理のお洒落さはなにより、BGM のチョイスも重要である。

 

と、『コレが流行る飲食店だ!』みたいなタイトルの新書のような書き出しになったのは紛れもなく自分のソーセージ屋さんが開きたいといった願望がそうさせたのであるが、希望だけが先走りして先立つものは何もない。

 

店を開店することはおろか、今日も提出期限の過ぎてしまった書類を横目に傾きかけた会社の片隅でこの文章を書いている。

 

しかし最初に書いた文章の内容に嘘偽りはなく、音楽と飲食は渡哲也と渡瀬恒彦のように切っても切り離せない関係である事は間違いない。

 

例えば瀟洒なイタリアンを食べているときに吉幾三の「おら東京にいくだ」が流れていたら嫌な気持ちになるはずだ。たしかに店内にはテレビもラジオもないし車もそんなに走ってないので間違ってはいないかもしれない。けれど、店のバランスをぶちこわしてしまうことは間違いない。

 

しかしこれは別に邦楽が悪いと言っているのではないし、吉幾三をディスっているわけでも勿論ない。店と音楽の雰囲気が合っていないとダメだ、という話をしているのだ。

 

ハイセンス音楽の代表格であるオペラであってもそれは同じである。

 

オペラといえばファッション業界でいうHERMESであり、車業界でいえばフェラーリやポルシェであり、マラソン業界でいう有森裕子と同じくらいに格式高いものである。そんなオペラですら、例えばこれも高級料理の代表格である回らない寿司屋で、しかもカウンターで食べているときに流れたらどんな感じになるか。

 

流れてくるのはシューベルトが作ったオペラの名曲、魔王である。寿司屋でその曲が流れるといい雰囲気でなくなってしまうのはおろか、背後が気になって仕方なくなってしまう。

 

お客は目の前に置かれているイカの握りを見つめながら、大将にこう聞くだろう。

 

「ねえ大将、そういえば暖簾の向こうで蠢いているのは、魔王?」

「いや、あれは霧っすね」

 

お客はイカを食べ、次の注文をする。目の前には、赤貝。

 

「大将、なんか外から聴かれてる気がするけど、魔王?」

「いや、多分枯れ葉っすね」

 

お客はいぶかしげに首をひねりながら、赤貝を食べる。次のおすすめはコハダである。

 

「大将、なんだか知らないけどそこに女の子立ってない?あれ、魔王の娘?」

「いや、風で揺れてる柳っすね」

 

お客はコハダを手で掴んで口に入れ、咀嚼したのちにこう言う。

 

「大将、今なんか掴まれてすごい苦しい気がするんだけど、これも本当に魔王のせいじゃないの?」

「あれ?ついにあっし、お客さんの胃袋、掴んじゃいましたか?らっしゃい!」

 

音楽と合う合わない以前に、こんな大将がいたら無駄に腹が立つ。けれどまあ、それと同じようにソーセージ作りにおいてもバックグラウンドミュージックは大切なのである。かつて別のサイトで「料理の最中にさだまさしは合わない」というものを書いたことがあるのだけれど、それ以外にも合わないものはいくつもあるのだ。

 

しかしこのブログでは合わないものをこき下ろすようなことはしたくない。というかそもそもこのブログは誰にも頼まれてもいないのにソーセージ普及協会のような事をしたいと思って文章を書き始めたのだ。だからこそ逆に合うものを提唱したうえで、「我が家でソーセージを作ろうではないか」と思う人を増やすことに尽力したいのが本心である。

 

しかし音楽というのは人の趣味が多分に出るものであるし、そもそも自分の好きなものを相手が好きだとは限らないということが多々ある。

 

とても狭い、家庭内の、しかも夫婦という最小単位の世界の中でも、例えば僕と妻の音楽の趣味でも幾分かの好みの違いがある。それぞれ好きなものの良さがあるがゆえに分かりあえる部分もあるが、反対に嫌になる部分だってもちろんある。

 

となると、ソーセージ作りにおすすめの音楽をいくら提唱してみても無駄に終わるかもしれないという不安な気持ちも出てくるのだけれど、それはあくまでも不安として飲み込み、個人的なおすすめとして僕が合うと思った音楽を書いていきたいと思う。あとは受け取って頂く人に委ねるしかないだろう。

 

ソーセージ作りに合う音楽3選

 

ミドリ「あんたは誰や」

 まず最初に紹介したいのがこちら。

今はもう解散してしまったバンド、ミドリの「あんたは誰や」。

 

ミドリ - あんたは誰や /live - YouTube

 

この曲がなぜソーセージ作りにあうのか。

 

それはこの曲のタイトルとソーセージ作りがリンクするからに他ならない。

 

ソーセージを作るという行為は、生き物の分解と再構築とも言い換えられる作業である。

 

本来生き物の身体は肉の奥に内臓がある。しかしソーセージは内臓の中に肉を入れるという、分解と再構築の後に姿を現す、世界一予約の取れないレストラン、エル・ブジの料理長だったフェラン・アドリアの思想に通じるようなものである。

 

作業台の上でソーセージ作りという分解と再構築の作業が行われているとき、いつの間にかその作業者に対しても、分解と再構築がなされる。

 

分解される前は、ソーセージを食べたことがあるだけの貴方であり、再構築されたあとは、ソーセージを作った事がある貴方となっている。

 

そしてミドリのこの曲は、聞く人間全てに1つの問いを投げかけている。「アンタは誰や、アンタは誰や、私を揺るがすアンタは一体誰なんや!」と。

 

 後藤マリコが訴えかける「お前は誰だ」という問いに、ソーセージを作り終わった貴方はなんと答えるだろうか。分解される前の私なのか、それとも再構築された後の私なのか。両方とも同じ私だ、という詭弁は通用しない。

 

たった一度の性行為が線引きとなって童貞と非童貞が同じ扱いをされないように、一度ソーセージ作りを経験してしまった貴方は、過去の自分自身と同じであることは許されないのだ。私は誰だ、と問いながら黙々とソーセージを作ることこそが新たな世界への扉となるのだ。

 

かりゆし58「アンマー」

次におすすめする曲は、かりゆし58の「アンマー」である。

かりゆし58は知らなくてもボーカルの前川真悟は有名であろう。「たまに秘密の県民ショーに出てくる沖縄担当のガレッジセールではない人」と聞けば、分かる人には分かる。その前川真悟が率いるバンドがインディーズの頃に発表した曲である。

 

かりゆし58「アンマー」 - YouTube

 

この曲のゆったりとした演奏速度と「初夏の晴れた昼下がり」から始まる歌詞は、作業スピードと作業時の低い温度が求められるソーセージ作りにおいて、あまり向いているとは言いがたい。 

 

しかしそれでもなぜこの曲がおすすめなのかといえば、 ソーセージ作りに大切なものが詰まっているからである。それは一言で言えば「愛」である。

 

そもそも、ソーセージを作るとき、どんな気持ちで台所に立っているだろうか。ウィンナーにしようかな、それともフランクフルトにしようかな。ハーブは何を入れよう、今日の肉の配合バランスはどうしよう。

 

そんなことを考えていないだろうか。

 

それがまず間違いなのだ。

 

ソーセージを作るときに最も大切なのはソーセージの気持ちになることである。言い換えれば、貴方がソーセージであったとしたら「どんな人に作って欲しいのか」を考えるべきなのである。

 

もしも私がソーセージだったなら。

 

私のこと、太さや長さみたいに、そんな見た目で選んで欲しくない。でも性格が好きだよって言われても不安になっちゃう。だって私のこと、まだそんな深く知らないじゃん。ハーブがどうとかって、それ私のことが好きなんじゃなくて私の付けてる香水が好きなんじゃないの?昔の彼女の匂いに似てるからじゃないの?配合のバランス?バラ肉だってロース肉だって、私は私だよ!ありのままの私が好きだって言ってたじゃない!

 

そう考えてしまうだろう。だからこそ、ありのままの全て受け入れてくれる母のような愛をもって、広い心でソーセージを作るという初心を忘れないように、この「アンマー」を聞きながら台所に立って欲しいと願ってやまないのだ。

 

アジアンカンフージェネレーション「アンダースタンド」

最後に紹介する曲は、アジカンの「アンダースタンド」 だ。

言わずもがな、音楽をしている人達、もしくは音楽が好きな人達が1度は通るであろう、大阪でいう御堂筋線の様な存在である。

 

ASIAN KUNG-FU GENERATION/アンダースタンド(understand)-live- - YouTube

 

さて、この曲がどのようにソーセージ作りに向いているかを書く前に、1つだけ謝らなければならないことがある。

 

実はこの3つの曲には共通点がある。それはタイトルを並べてみていただければ分かるだろうが、全て「アン」で始まっている。

 

そう、たまたま僕のプレイリストに並んでいた曲を並べて書いただけなのだ。だから、別にソーセージ作りに向いている訳ではなく、もちろん今まで書いてきた内容は殆どでたらめのこじつけである。本当に申し訳なく思っている。

 

アンダースタンドの解説を書こうとして、もうめんどくさくなってしまった。なんだよ、エル・ブジの料理長とおなじ思想って。何だよ、母の様な愛を持ってだとか初心を忘れるなだとか。こじつけもいいところだ。

 

実際に僕がソーセージを作るとき、音楽なんか聴かないしテレビもみない。ラジオだってつけてはいない。肉の声を聴き、腸の囁きに耳をすませ、塩とハーブのハーモニーに身体を沈めている。それくらいの集中力がなければ、もの作りはできないだろう。

 

ああ、また余計な文章を書いてしまい、あげく最後の最後で書く事を投げてしまった。

 

そんな適当な人間である僕の作ったソーセージを、誰か食べてくれないか。