僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージ官能論。

官能的ソーセージ体験

 

ソーセージを作る過程には醍醐味と呼ばれるような絶頂的な瞬間、エロ漫画によくある表記で言えばアクメタイムがあり、そのタイミングは誰がどう言おうが腸詰めの瞬間である。

 

これは以前にも書いたことなのだが、それこそ腸詰めの作業は女性の感じるオーガズムに匹敵するのではないかと個人的には思っているのだけれど、これを人に伝えるにはなんとも難しいので、出来る事なら機会があれば皆様にソーセージを作って欲しいと思っている次第だ。

 

しかし実は腸詰め以外にもソーセージ作りにおいて官能的な場面はいくつもある。

 

まず塊の肉を目の前にした時の高揚感は、初めてモザイクのかかっていないヌードを見た際の興奮に似ている。さらに水で濡らした羊の腸や豚の腸はなんとも言えずエロティックな佇まいをしているし、その腸をソーセージメーカーの口金に通していく作業は、女性の秘部を優しくなぞっていくときの様な慈悲と優しさを自然と生み出してしまうようなものである。

 

そんな作業をしていると動物の腸という存在が非常に身近に、和泉元彌和泉節子のようにとても近い距離感に感じられる。一言でいえば「ダイレクトに腸」である。

 

それはそうだ。手に腸を持っているのだから。

 

それがダイレクトではないというのであれば、憧れのNS、略さずに言えばノースキンでのプレイ、もう濁さずに書くならばゴムのない性行為ですらダイレクトではなくなってしまうし、そうなるとサガミやオカモトが社命をかけ、その社員が気力と体力を削って作った0.01mmの壁の存在価値すら危うくなってしまい、最終的には「ゴムを付けていないのにゴムを付けている気がする!」というようなとち狂った感覚になってしまうことは間違いない。

 

腸が腸を吸収するという面白さを上手く言葉にできない

 

ソーセージ作り以外でこれほどまでに腸と密接になる機会というは人生においてそれほどない。

 

1つあるとすれば焼き肉の場におけるホルモンとの触れ合いくらいだろうが、これも触れ合いがあるとはいえ密接かどうかというと疑わしい。マルチョウ(小腸)やシマチョウ(大腸)、テッポウ(直腸)などのメニューがあるが、ダイレクトの触れ合いというには距離が遠い。掴むとしてもそれは手ではなく箸かトングを介してであり、その時の箸やトングはベルリンの壁万里の長城のように貴方と腸の間に高くそびえ立つ存在となっているがゆえ、密接とは言いがたいだろう。距離感で言えば三船美佳高橋ジョージくらいに距離がある。

 

しかしどんな世界にも例外とはいるもので「いや、俺はある!いつも自分のを触っている!俺の直腸は和泉節子だ!」と声高に叫ぶ人達がいることも知っている。

 

そして、こうした方々に僕から出来る忠告は1つだけだ。

 

確かにアナルの拡張において己の直腸、ホルモンで言えばテッポウ、人でいえば和泉節子に触れる機会があるかも知れないが、貴方が思っている以上にこの世界の人々はアナルの拡張趣味に対して理解をもたないし一般的ではない。だから殆どの人は自分のテッポウの触感なんか知らないし、その叫び声は自ずと貴方を窮地に陥れるということを気に留めておいてほうがいい。以上。でもね、あれ、柔らかくて気持ちいいのは僕も知っているから。

 

そうそうに話を戻すが、手で羊腸を持つとまず感じるのは柔らかさと繊細さである。

 

塩漬けにされていた羊腸を水でふやかした後にそっと持ち上げてみると、まるで花嫁のヴェールのようなきめの細やかさと軽さに、持つ手が振るえるほどだ。それだけ繊細な手触りをもつはずの羊腸が「乾燥・薫製・ボイル」という段階を踏むと、出産間近の妊婦さんのお腹ような弾力を持つようになる。ゆりかごから墓場まで、というのはイギリスでかつてあった社会福祉のスローガンであるが、それに倣うようにソーセージ作りにおける腸の変化は「新婚から出産」のような幅の広さが見て取れるのだ。

 

それほどまでに色んな表情をもつ腸と出会えるソーセージ作りなのだから、その作業中に生命の神秘を感じてしまうのは何も不自然なことではない。ソーセージ作りとは、ある意味において子づくりでもあるのだ。

 

話はそれるが、先日珍しいソーセージを食べた。とは言っても味が珍しいだとか、そう言うものではない。入れ物が珍しかったのだ。普段良く目にするスーパーで売られているようなソーセージはビニールパックやプラパックがメインである。少し高級なものは真空パックに包まれていたりする。

 

しかし、そのソーセージは瓶詰めにされていたのである。

 

オリーブやピクルスと同じ様に、ガラスの瓶に閉じ込められていたのだ。そのアルカトラズのような容器の中で塩水的なものに浮かんでいた彼は、物悲しい様な助けを求める様な目で僕の事を見つめていた。

 

ソーセージフリーク、ソーセージ解放運動を啓蒙している僕としては、やはりその視線を無視することができなかった。手にぶら提げていた買物かごの中に瓶詰めソーセージを優しく入れた。

 

家に帰って早速「彼を助けてあげよう。狭い世界から出してあげよう。」という気持ちに駆られ、開封しようと思いその瓶をビニール袋から取り出して握りしめたのだけれど、ラベルや商品情報を眺めていると何ともいいがたい、後悔にも似た気持ちに襲われた。

 

もしかしたら彼が助けを求めていたと感じたのは僕の勘違いかもしれない。そう思ってしまったからだ。

 

もしかしたらこの瓶は、中にいる彼にとって、傷ついた心と身体を回復させるドラゴンボールにおけるメディカルマシンのようなものかも知れない。僕にそう思わせたのは、マイナスのイメージをまったく感じさせない、とてもポップなパッケージの配色だった。

 

黄緑、青、オレンジ。

 

ドイツという遥か遠くの地から日本へ自分の意志に反してなかば強制的に連れてこられた、もしくは強制収容のごとき扱いを受けていて、狭い部屋に閉じ込められていると勝手に想像していたが、それすら僕の思い込みかもしれなかった。

 

例えば彼は身体に寄り添うようにぴったりとした器は、彼を騒音と欺瞞が入り乱れるこの世界から守っている家なのかもしれず、彼はその安心出来るガラス張りの家の中(匠の技)で、平和と安寧をむさぼっていたのかもしれないのだ。

 

そんな風に考えを巡らしていながら瓶の中に浮かぶソーセージを見ていると、彼が羊水の中に浮かぶ赤ちゃんのようにも思えてきてしまった。そうなってしまうと「蓋を開ける」という選択肢が容易に選べなくなってしまうのは、人として当たり前ではなかろうか。

 

気持ち良さそうに、ぷかぷかと浮かんでは揺れるソーセージ。その姿を見ていると、頭の中に宮沢賢治の「やまなし」が、寺田心の声で再生された。

 

クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」

クラムボンは跳ねて笑ったよ。」

 

とりいそぎその心の中の心をしばき倒した僕は、しばらく瓶の蓋を開けることなくそれを眺めていた。生まれたての赤ん坊ではない、未だ生まれる前の赤ん坊、ひよこクラブ以前のたまごクラブ。

何となくホッとするのと同時に彼らは、これから外の世界に出て食べられなければならないという、人(ソーセージ)生のおいて最大の試練を迎えざるをえない立場にいるのだ、という現実に気がついてしまった。

 

その気付きを境にして、僕の心で2つの相反する意見が葛藤をはじめたのだ。その2つとは、このままずっと安らぎの中で過ごさせてあげたいという優しさと、そんな赤ん坊のような存在を今すぐにでも食べてしまいたいという悪魔の様な嗜虐心である。

 

しかしその5分後、瓶の中には羊水だけが残り、僕の舌と脳みそに美味しかったという記憶だけが残った。

 

そして「人は自分の欲望の為なら、なぜこんなにも残酷になれてしまうのだろうか」と自分自身を責めながら、フォアローゼスのハイボールを飲んだ。

 

話を戻そう。

 

そのような、腸を直に感じるという段階を経たあとで自分で作ったソーセージを食べると、今さっきまで手に感じていたはずの「腸」が口の中に入り、自分の中にある「腸」でその成分を吸収されるという、腸が腸を吸収しているというなんとも不思議な感覚に襲われることになる。

 

これに対してなにか良い例えが浮かぶかと思ってしばらく考えてみたけれど、結局ところてんプレイくらいしか思いつかなかった。入れられたソーセージに自分のソーセージが反応して肉汁が爆発。発想が下品すぎるのでこれ以上は書かないけれど、なんとも官能的でありながらも退廃的な気持ちになってしまう。

 

かつて佐藤雅彦が著書のなかで、「ゴミ袋が入っている袋は、中のゴミ袋がなくなった瞬間にゴミ袋に入れられてしまうゴミになってしまう。その瞬間、なんとも言えない気持ちになる」みたいなことを書いていたのだけれど、それと同じ様な感情がソーセージを取り巻く環境にはある。

 

食べるほうと作る方、どちらに官能の軍配はあがるのか

 

さて、腸が腸を吸収するの腸すごい!ということをつらつらと書いてきたが、ではそもそも論として「食べる」と「作る」で比較したとき、どちらの方が官能的なのだろうかという疑問が残るのではないだろうか。

 

これに対してはとても個人的な回答になるのだけれど、官能度合いだけでいえば食す方に軍配が上がる気がする。

 

なぜならば、作る方にはさっきも書いたように子作りとそれに伴う神聖さが加わるからである。これは少し考えれば分かることなのだけれど、特殊な性癖を持っている人以外、出産という光景に性的な興奮を覚えないだろう。

 

ソーセージを作るという行為には確かに官能があるし、性行為と同じ、というか性行為そのものの快楽を感じられる部分もある。しかし最終的に到達するのは、やはり出産と同等の地点なのである。

 

かたや食す方は神聖性とは真逆、背徳感や嗜虐心と共存しているのは先に書いた通りだ。というか生まれたての赤ん坊の方が美味しいだとかいう、澁澤龍彦がとても喜びそうな判断基準すら存在する。しかもその赤ん坊に対し、煮る、蒸す、焼く、揚げるといったような残虐きわまりない行為をし、自分の血肉とするのである。

 

団鬼六も裸足で逃げ出してしまうような所業を経て食すのだから、もうこれは官能の極地だろう。

 

という訳で、僕個人的には作る方より食べることの方が官能的なのだという結論にたっしたのだけれど、果たしてこの個人的な結論になんの実りがあるというのだろう。

 

まあ、いいか。

 

誰か、こんな事を考えてやまない僕と一緒に、ソーセージを食べてくれないか。