僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

僕の好きなものは平野レミと俵万智とソーセージ

平野レミのこと、レミって呼びたい

卵かけご飯の写真を撮るとき、玉子が潰れていない状態だと美味しそうに見えるが、ぐちゃぐちゃに混ぜた状態で写真を撮るとその美味しさは伝わらなくなる。

 

だからインスタ映えだのなんだのと拘る方々は、黄身を潰さないままの卵かけご飯の写真を撮り、世界に向けて発信し続けている。

 

けれど実際問題として卵ご飯を食べる時にはぐちゃぐちゃに混ぜてから食べる人が殆どであり、ということはそのぐちゃぐちゃになっている画像というのは卵ご飯を食べる人にとっては至極見慣れた風景であるはずなのだけれどそれはないがしろにされ、綺麗な写真のみがもてはやされるようになる。

 

そういった時、僕は視覚問題とは何とも難しいものだと痛感するし、何かの研究では料理は視覚で味の9割が決まる、みたいな結果があるという話も聞いた。

 

しかし料理愛好家でありトライセラトップスのボーカル和田唱の母親でありイラストレータ和田誠の妻であり女優の上野樹里の義母でありシャンソン歌手であり生ける放送事故の異名を持つ平野レミはこう言う。

 

「食べちゃえばみんな同じなのよ!」

 

一見すると、とても合理的で正論を匂わせるようなセンス溢れる言葉である。それ故に世の奥様方は深く共感、納得し、その思想はシナプスのようにじわじわと社会に広がっていく。僕もこの言葉やレミのレシピに救われた事が幾度もある。

 

今もこの文章を書くためにレミのウィキペディアを見ていたらいつのまにか2時間が経過していた。だからかどうか分からないけれど彼女にとても親近感、というかもう友人以上恋人未満に近い感があって、もっとその距離を近づけたいからあえてレミの事をレミって呼んでる。ここで書くべきではない極私的な話なんだけれど、和田誠に対してすごいマウンティングしたい気持ちに駆られている。

 

それだけじゃない。近づきたくて近づきたくて、もうレミの眼鏡をかけたい。レミの眼鏡をかけてレミの目線でレミの顔を見つめたい。「もうやだ!あー恥ずかしい!そんなことしたらちゃんとあなたの顔がみえないじゃない!やめて!返して!」みたいな感じで怒られたい。素顔のレミが見たい。

 

しかしそれだけレミに対して親愛の情を示していたとしても、もし同じ時間軸や空間で過ごすことになると、諍いが増えるかもしれない。他人同士が一緒に過ごすと、どうしても納得出来ないことが出てきてしまうのが人間というものではないだろうか。

 

以前、試しにエマルジョン化したミンチ肉と羊腸を別々に焼いて食べてみた事がある。

でも、それはソーセージじゃなかった。

 

食べれば同じじゃなかった。ただの焼いたミンチ肉とただの焼いた羊の腸だった。

 

その経験から勉強したのは、レミの「食べちゃえばみんな同じなのよ!」という言葉は、食べる側ではなく作る方の人間にしか通用しない思想なのだということだ。いくらその人に尊敬、好意の気持ちがあったとしても、その全てを受け入れる訳ではない。

 

そもそも料理は作る人と食べる人で、視点が変わってくる。

 

作る作業には時間がかかり、食べる作業には時間はあまりかからない。だからこそ、作る人は作業を簡略化する為に合理的であろうとするし、反対に食べる人は細部まで拘って欲しいと考える。まずここで合理的と非合理的の壁がでてくる。創造と破壊の違い、と言い換えてもいいかもしれない。

 

その両方に言い分があって、しかもどちらも正しい。にも関わらず、歩み寄りできるかどうかと言えば、それもまた難しい話である。

 

俵万智とともに踊る

話は変わるが、仏教の宗派の1つに時宗というものがある。

時宗は浄土宗の流れを汲むもので、一遍さんという方が開祖となった宗教である。特徴としては「誰でも念仏を唱えたら誰でも極楽浄土にいける」と説いたその簡潔さと、空也から引き継いだ「踊り念仏」にある。

 

この「踊りながら念仏を唱えれば、極楽へいける」という教義と、レミの言う「食べちゃえば同じ」という思想には共通するものがあるのではないか、とふと思った。

 

その共通点とは「作る人の立場に立った目線」が主幹になっているということだ。

 

例えば僕が苦しんでいる貧困に喘いでいる、ヒップホップが好きな小作人だったとしよう。

 

 ■

 

オラは農業にいそしむラッパーだ。毎日、実りの少ない畑をせっせと耕しながら腰の痛みと戦っている。雑草すら満足に生えないような土地しか割り当てられていないにも関わらず年貢の催促は厳しいし、地主への支払いも滞っている。もちろん自分が食べるものすら殆どない。これがスラムの現実だ。

 

しかし性欲だけはある。なぜなら生命の危機を感じているからだ。生物は死を意識するとなんとかして次の世代に命をつなげようとする。だから毎日が朝立ちだ。エブリデー朝立ち記念日だ。腰が痛いのに。そんなギリギリな生活を送りながら、毎日同じ様な朝を迎えている。

 

「ああ、オラが昨日の夜に布団の上で撒き散らした種、実をつけてくれねえなあ。無理だよなあ、だって相手がいねえもんなあ。オラの耕してる畑と一緒だなあ。せめて俵さんの短歌みたいに、オラの朝起ちをいいねって言ってくれる人がいたらなあ。それにしても俵さんの短歌はいいなあ。心にしみるなあ」なんてことを、普段から枕元においてある俵さんの短歌集を読みながら思う。気だるい寝起きの朝、もちろん股間は起っている。

 

本を閉じて枕元に置き、綿の抜け切った布団から這い出る。腰は相変わらず痛い。プレハブで出来たワンルームで、すきま風もすごい。風呂トイレは別どころか、そもそもない。西日が気になるというより、天井の至る所から日が射している。そんじょそこらのOLじゃあ、一日だって我慢出来ない様な部屋だ。

 

キッチンのガスコンロにおきっぱなしになった鍋の中には、水と殆ど変わらない粘度のおかゆが入っている。昨日の夜に食べた残りだ。温めるガス代がもったいないからそのまま胃に流し込んで、鍋をシンクに入れた。シンクは水垢が酷くて白く濁っている。服はこれしかもってないから、着替える必要もない。着の身着のまま。時計もないから、天井から射してくる日の角度で時間を見る。そろそろ畑にでる時間だなと思い、さっき読んだ短歌を口にしながら玄関をでる。この家にはオートロックはもちろん、鍵すらない。

 

『「この起ちがいいね」と君が言ったから 今日も明日も朝立ち記念日』

 

そんな俵さんの短歌を何度も口ずさみながら、畑に向かう。相変わらず、腰が痛い。鍬も重い。気持ちも重い。そんな中で、俵さんの短歌だけがオラの支えだ。

 

畑に着いたオラは、そこで繰り広げられていたあまりに酷い光景に呆然とする。昨日耕したばかりの畑の上で耳をつんざくような木魚と鐘の電子音が鳴り響き、南無阿弥陀仏と唱えながら踊っている集団がいたからだ。その人数は百をゆうに越える。まるで野外フェスだ。

 

ウルトラジャパン in HATAKE。

 

「おめえら!そんなとこで何してる!オラの畑がめちゃくちゃじゃねえか!」

 

腰が痛いのも忘れ、怒りに任せてそう叫ぶ僕の元に、踊っているうちの1人がやってくる。人を小馬鹿にしたように腰を振りながら。

 

「チョリーッス!おたく、まだ畑耕してんの?時代は農業よりEDMよ。今日はあのDJ-IPPENも来てるしさ!そんな鋤なんかおいてさ、俺らと木魚もって踊ろうよ。レッツ念仏!イエスお陀仏!今日も元気に南無阿弥陀仏!ほらー、ぼやっとしてないで、レスポンスくれよー!」

 

そう言いながら、彼は両手を上げて左右に振り、膝を上下させて腰をうねうね捻る。首にはスワロフスキーで彩られたヘッドホンをぶら下げている。南無・阿弥・陀・仏、南無・阿弥・陀・仏と細かくリズムを刻み、心の奥から溢れ出るビートに魂を震わせている。

 

しかしオラが震わしているのは魂ではなく、肩である。怒りのあまり、肩が震えているのだ。でもオラには何も言い返せなかったし、彼らの踊りを止める事が出来なかった。彼らはそんなオラの手を取り、半ば無理矢理イベントの中心部分に連れて行った。

 

至極居心地の悪い、もとはオラが種をまいて耕していたその場所。頑張って耕した畑を、平気で踏み荒らすやつら。南無阿弥陀仏で救われるのは、お前達だけじゃないか。オラの生活はどうなる。畑はどうなる。そのとき、オラの中のヒップホップの種が、発芽した。

 

「ウーハーで聞こえてくる南無阿弥陀仏のリズムとイズム

に怒りで震えていた肩はいつのまにかポリリズム

 

照りつける太陽の日差しが人を狂わし

オラを見つめる異邦人の眼差し

その様相はまるでカミュ

悔しさのあまり唇噛む

 

一遍空也が世界を救済?

そんなことより金を頂戴

 

飯が食えなきゃ踊れもしない

稲を植えなきゃ芽生えぬ未来!」

 

こうやって、今もなお続くヒップホップとEDMの戦いの火ぶたが切られたのだ。 

 

ここにおける「オラ」が食事でいう食べる人であり、踊っていた人が作る人であることはご理解いただけただろうか。

 

どうだろう、そういう目線でみると、時宗という踊る人達は、食べれば同じだと言う人達と同じだと思わないだろうか。この文だけを見ると踊る人の傍若無人さが際立ってしまうけれど、彼らには1つの信念があるからこそ踊っている。

 

それは「そんなにしんどい思いをしなくても、踊っているだけで救われるんだぜ!」という「食べたら一緒」と同じ合理的な思考である。

 

しかし、それはオラを実際に救う事にはならない。

 

オラは地主にお金を払わなければならないし、年貢も納めなければならない。念仏を唱えている暇があるのなら、少しでも実りを増やさなければならないのだ。オラにとっての救いとは来世の救いでも念仏でもEDMでもなく、お金であり収穫でありヒップホップ、そして俵さんなのだ。

 

両方ともに求めているものは「救い」であるが、方向性が違うとこれほどまでに乖離が生まれてしまうのである。

 

ソーセージはなんの為に出てきたのか

こうやって書いていると「作る人」と「食べ人」の歩み寄りは不可能のように思えてしまうけれど、お互いに「救いが欲しい」「もっと素敵な食生活を送りたい」という点においては共通している。だからこそ何か1つくらいは解決策があるかもしれないと思い、僕はインターネットの海に飛び込んだのだけれど、結局解決策は見つからなかった。

 

なので僕は気分を紛らわせる為にソーセージを作とうとしたのだが、いかんせん天気がよくない。雨が降ると薫製も出来ないし、湿気が高いと乾燥の具合も悪くなる。気温が低くなってきたのはとても好ましいけれど、出来れば晴れた日に作業をしたいというのが本心だ。

 

そうなると必然的に食べる方にベクトルが向くのは当然だろう。冷蔵庫の中を漁ると、以前に作っておいたフランクフルトが入っていたので、フライパンでそれを温めた。

 

ちなみにではあるが、その時に作ったソーセージの配合を記しておこうと思う。

 

豚ミンチ肉600g、豚バラ肉400g、玉ねぎのすりおろしと水を合わせて100cc、白ワイン50cc、塩18g、砂糖5g、セージ、クミン、ナツメグ、コショウ各2gである。

使ったのが豚の腸なので、日本のソーセージ規格で言うとウィンナーではなくフランクフルトになるのだ。

 

弱火にしたフライパンに少量のお湯を入れて蒸し焼きにし、水分が無くなったらそのまま焼き目が付くまで様子をみる。魚焼きグリルに入れて皮をパリッとさせて、お皿にもりつける。

 

ここで絶対に忘れてはならないのは、マスタードだ。素材の味を追求したいという人達からはクレームが入るかもしれないが、大沢たかおにとって海老フライがタルタルソースを食べる為の棒であるように、僕にとってソーセージはマスタードを食べる為の美味しい棒である。

 

そうなると、僕はマスタードを美味しく食べる為にソーセージを作っているといっても過言ではないのだけれど、ここで僕は1つ、自分に問いたい。

 

この文章に、ソーセージの話は本当に必要なのかと。

 

そもそも卵ご飯の見た目の話をしていたはずなのに、何故僕はこんなことを書いているのだろう。レミも万智もEDMもヒップホップも、もちろんソーセージもまったくもって関係ない。

 

実は最初に書きたかったのは、人はステーキを美味しそうに思うが、ミンチ肉をみてそこまで美味しそうだとは思わない。しかしそれを腸という、これも気持ち悪い見た目のものに包んだ瞬間、それはソーセージという万人の心を掴んで離さない「マスターピース」となるのだ。とか、そういうカッコいい話だったのだ。

 

こうやって話が脱線するのは良くない癖だなあ、と思いながら、僕はパソコンから離れ、ラジオから流れてきた音楽に耳を澄ませる。

 

流れてくるのは木魚のリズム。両手を上げて左右に振り、腰をうねうねと捻る。

細かくビートを刻みながら、スピーカーの奥から溢れ出るビートに魂を震わせて。

 

そう、今日は金曜日。

だれか、こんな僕とダンスを踊ってくれないか。