僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

貧困問題(主に想像力)はいつも身近にある。あと、エロ本を高島屋の包装紙に包んで捨てるとすぐになくなる。

ブログが沢山の人に読まれる為にはターゲットの選定が重要であると、以前どこかで読んだ記事に書いてあった。

 

なるほど、確かにそうかもしれない。

 

という訳で読者数が極めて少ないこのブログにおいて、今まで以上に見て頂ける人を増やす為にはターゲットを選定したほうがいいじゃないかと、さっそく先ほどから考えているのだけれどこれがどうもにうまくいかない。

 

このブログは「理想のソーセージを作っていきたい」という理念の元に立ち上げられたブログなので、ブログターゲットがどうなるかといえば「理想のソーセージを作りたいと考えている人」に向けてのブログとなる。

 

しかしてさらにターゲットを突き詰め、ではどんな人が理想のソーセージを求めているのかを考えてみたのだけれど、どれだけ考えてもその答えが見つからないのである。

いつの間にか、探し物はなんですかと、頭のなかで井上陽水が「夢の中へ」を気持ちよさそうに歌っていた。

 

そもそも理想というのはその個人個人で違い、僕の考えている理想は僕にしか通用しない。

 

例えば僕が発見した凄い自慰を自慢げに披露したとしても、それは全然ノーマルプレイの範疇だったりするかもしれないし、反対に多くの人たちが推奨するソーセージを床にこすりつけるプレイを僕個人は気持ちいいと思えなかったりもする。

 

ということは、このブログの理念そのものが間違っているかもしれず、であればターゲットの選定よりも、まず理念から考え直さなければならなくなる。

 

しかしそれはそれでとても苦労するだろうし、今まで丹誠込めて書いてきた記事達も浮かばれない。

 

では今までの記事はそのままに、ソーセージを作りながらも人の目につく様な文章を書いていけばいいのでは、という考えに至ったのであるが、それはそれでまた難しいものである。

 

まず冷静に考えたとき、人目につく、言うなれば注目されるための言葉選定が難しい。

ソーセージというものを何に繋げればいいのか分からないのだ。

今まで書いてきたものは大体において下ネタであり、ソーセージ=肉棒という低俗極まりない、貧困としかいいようのない発想のもとに生み出されてきた。貧困問題は、いつも身近にあるのだ。

 

しかしソーセージという食べ物を下ネタに繋げるという行為は、品性の欠落はもちろんのこと食品を扱っているにも関わらず清潔感がなさすぎるという欠点がある。

 

しかし今更それを変えるとなると、育てた記事云々ではなく今までの人生を変えなければならないくらいの努力が必要となるのは目に見えている。

上の口を開けば下の話がでてきてしまい、例え上の口を開かないようにしても、下のお口が勝手に開いてしまうのが僕なのだ。

 ほら、すでに下のお口がソーセージを欲しがって涎を垂らしている。

 

であれば、そんな人間が食べ物に関するブログを続けていこうと考える方が間違いなのかもしれない。

けれども変態にだって人権はあるはずだと信じ込み、なんとかして解決策を見いだそうと頑張って色々調べていると、とてもいいアイデアを見つけた。

 

発想の転換」というものである。

 

例えば女子大学生がキャバクラで働いていることだけ聞くと「何だ、風紀が乱れている」と多くのおっさんたちが憤慨するのだけれど、逆にキャバクラで働いている女の子が「実は昼間は大学に通っているの」と告白してくると「ええ!頑張っているんだねえ、けなげだねえ」と思ってもらえ、しかもおひねりまで貰える可能性があるとのことだ。

 

なるほど。

 

ではその発想の転換を「ソーセージを作っているのに下品な話ばかりしている」という現状を同じように当てはめると、「下品な話ばかりしているのに、ソーセージ作りだけはうまい」となるのだろう。

 

いい。これはいいではないか。おひねりが貰えそうな響きがする。貧困から脱出できるかもしれない。

 

「ソーセージを作りながら下品な話されたら、食べる気がなくなっちゃう」という感想から「あの人って下品な話しかしてこないのに、ソーセージを作るのだけは上手なのよね」となる。

性格は最悪なのに床上手な竿師みたいな響きだ。

これはもうキャバクラでも人気者一直線になるだろう。

こんな台詞、完全に僕の事を好きになってないと出てこないはずだ。もしかしたら僕のソーセージ(ダブルミーニング)を食べてもらえるかもしれない。

 

そうなると、やはり美味しそうなソーセージのレシピや画像等を挙げ、それをこのブログの礎としたいのだけれど、残念ながら僕には写真の技術がない。

 

しかし先日作ったソーセージは極めて美味しく、もしこれを食べて貰えたなら「下品な話をするソーセージ作りの美味い人」という認識をなんとか持ってもらえるという自負はある。

 

けれど今のインターネットの技術では味はおろか香りすら他人に届ける事は出来ず、もしそれを願うのであればクロネコヤマトや佐川急便に頼るしかないのであるが、実にお金がかかり過ぎる。ここにも貧困問題が顔を出す。

 

ただでさえソーセージ作りに必要な食材の購入費を家庭の財布から出してもらっているにも関わらず、人気者になりたいから郵送費も負担してもらえないだろうか、というようなお願いを妻にしたらどうなるか。

 

きっと僕がソーセージの具になってしまうという、天国へのドアが開くだろう。そんなドアを好んでくぐろうとは、誰も思わないはずだ。

 

この世には、岸部露伴以外にもヘブンズ・ドアの向こう側へと他者を導ける人間が実在することを忘れてはいけない。

 

かといってここで諦めてしまっては人気者にはなれない。

どうにかして発想の転換をしなければ、腐ったままの人生を歩む事になってしまう。

 

そう思ってさらにインターネットの深みへと潜っていくと、他者の利益になることが集客、引いては読者数を伸ばす秘訣なのだ、という一文にぶつかった。

 

他者の利益。

 

簡単にいえば、僕のブログによって誰かが儲かる仕組みを生み出せれば、このブログに存在価値が生まれて広がっていき、いつの間にか僕が人気者になっている、という道筋らしい。

 

ただ発想、金銭ともに元来貧困である僕には誰かを儲けさせるようなアイデアがなく、とりあえずソーセージを元旦の力士のようにばらまく事しか思い浮かばなかった。

 

無料でソーセージが降ってきたら誰だって嬉しいはずだ。僕だって嬉しい。

 

しかしただでさえソーセージ作りに必要な食材の購入費を家庭の財布から出してもらっているにも関わらず、さらに人気者になりたいからソーセージを無為にばらまいてもいいだろうか、と妻に相談したらどうなるか。

 

逆に僕がバラされてしまう将来しか見えてこないし、妻は後悔のあまり反省して時の扉を叩きたくなるだろう。

しかしこの世界に時の扉を叩ける人は、WANDS以外にいない。

 

 そう、時の扉の番人、それがWANDS

 

そんなWANDSに魂を委ねるような人生を妻に送って欲しくはないし、僕もまだバラされたくない。何かを隠匿してくれるビーイングのような後ろ盾もないので諦めた方がいいのだろう。

 

であれば更に別の方向性を考えなければならないと思い、例えば下品でも認められている人達に共通するものがなにかないかと考えながら、録画していたタモリ倶楽部を見ていると安齋肇がなんだか嬉しそうにニヤニヤしながらくっちゃべっていた。

 

イラストレーターやアートディレクターが本業だという彼には、例えば広告代理店で働いている人達のようなクリエイター臭がまったくない。

最近ツイッターなどで良く見かけるイラストレーターやアートディレクターを名乗る方々はオシャレな人達ばかりであるにも関わらず、この人は薄汚さを全面に押し出している。

 

横文字の肩書きがあるにもかかわらずモテようとしない彼を、本当に尊敬している。

オープンテラスのあるカフェで打ち合わせなんかしなさそうだし、股間のチャックはいつでもオープンしてそう。

 

タモリ倶楽部の出演ギャラだけでしばらく食いつないでいたというコメントはとても信憑性があるし、むしろ本当にそうであって欲しいとすら思うし、現実にそうだったのだろう。

 

しかしそんな安齋肇も、いうなれば下品ながらも認められている存在である。

ではなぜ認められているのかといえば、会話の端々に知性が垣間見えるからではないか、と思う。

タモさんとのやりとりやみうらじゅんとの会話を聞いていても、独特の視点があって知識も豊富である。

 

でえあればやはり下品でも認められる為に必要なものは知識や知性であるといえる。

 

というわけで、取り急ぎの対処として知性のある下品なソーセージブログを目指そうと思うのだけれど、知性を身につける為には何をすればいいのかといえば、まず最初に思いついたのは読書である。

 

色々な小説を読み、知識を身につけ、想像力を鍛えるのだ。

そしてその上でそれを反映しながらソーセージを作っていくのだ。

 

これを一言でいえばどうなるか。

 

迷走である。

 

いくら本を沢山読んだからといって美味しいソーセージが出来るわけないし、知性があれば下品でもいいというのは、あくまでも思い込みであり虚構である。

 

知性で品格が生まれる訳でもなく、もちろん付け焼き刃の知性を身につけたからと言って読者が増える訳でもない。

頭のいい人達はこの世の中に沢山いて、そんな方々ですらブログの読者を増やす事に四苦八苦しているのだ。

 

だからといって諦める訳にはいかないのが、人生の辛さである。

 

なので僕は出来る範囲で知性と想像力を育てることにした。以下が僕がそのためにした事の一覧である。

 

・想像力を鍛えるために自慰をする時に動画及び漫画を使わない。

・自慰をする時は小説及び文章を使用し、シチュエーションを徹底的に想像すること。

・その為にエロ本類を捨てること。

 

こうやって僕は知性の獲得と想像力を育てるためにエロ本を捨てた。

ただし単行本はもったいないので、段ボールに詰めたのみである。

本棚の一角を占拠していた雑誌だけを捨てたのだ。

ただ捨てたのではない。

泣く泣く、捨てたのだ。

ごめんなさいアンスリウム、ごめんなさい快楽天、ごめんなさいペンギンクラブ

 

今までお世話になった感謝の気持ちを込め、とっておきのために置いていた高島屋の包装紙に包んで捨てた。

 

20分後に少しもったいなくなってゴミ捨て場に向かうと、既になくなっていたのはまた別の話だけれど、高島屋ブランドは今でも健在なのだと痛感した次第である。

 

そのように、悲しい別れは必ず訪れる。

しかし、別れの後には新しい出会いがまた訪れるのだ。

 

そしてエロ本と引き換えに、新たに手に入れた環境とは「性生活報告」である。

 

中年から壮年、老年世代のバイブル、性生活報告。

博識で知られる評論家の宮崎哲弥が唯一の師としてあがめる、呉智英が著書で取り上げたほど知的な雑誌である。

 

いやはや文章が主体のエロというのは、何物にも代え難いほどのおもむきがあり、想像力を掻き立てられてとても楽しいものである。

しかし、その中にどうしても許しがたいものがあった。

 

ある人はタルタルソースが許せないと叫び倒し、ある人はたこ焼きを食事にするなとデモ行進をし、ある人は酢豚にパイナップルを入れるなと暴動を起こす。

 

僕にとって、そんな許しがたいものの1つが、性生活報告における「チンボ」という表記だ。

 

なぜか年配の人の投稿にかぎって見られる表記なのだけれど(あとメンスだとかアンネだとかもよく見られ、これらも許せない)、どのような経緯を経るとちんぽをチンボと呼ぶようになるのだろう。

松沢呉一氏が書いた「魔羅の肖像」にそこら辺の事情が書いていないか、あとで調べてみるつもりではあるが、なぜそこで許せないのか考えてみると、やはり慣れというものがあるのかもしれない。

 

僕自身は普段から自分の息子を猫可愛がりしているので、家の中では幼年期から慣れ親しんだ言葉「おちんちん」で通している。

また外食等をしている最中は世間一般的な言葉である「ちんぽ」を使い、フォーマルな場所であれば村上春樹氏にならって「僕のレーゾンデートル」と呼ぶようにし、その場に合わせたTPO(チンポ)を意識している。

 

かたや「チンボ」というのはなんとなく下品な、品性が足りない気がするのだ。だから許せない。

 

これは擬音語で考えてもらうと分かりやすいだろう。 

「フリフリ」「プリプリ」「ブリブリ」と並んだとき、どれが一番汚く感じるのかはアンケートをとるまでもない。

 

だからこそ、僕はこれからも「おちんちん」「ちんぽ」「レーゾンデートル」を使い分け、下品な印象の出てしまう「チンボ」をこの世から殲滅し、社会の模範となるブログにしようと心がけようと思う。

 

そして皆で「『チンボ』を許してはならない!!!」と、共にシュプレヒコールをあげようではないか。

 

そういった細かい心がけを続けることが、他人様の気分を阻害することもなく、知性というものに繋がっていくのではないだろうか。

 

名コピーライターの仲畑貴志は、かつてこんなコピーを書いた。

 

「知性の差が 顔に出るらしいよ ・・・・・・困ったね。」

 

さて、今までのような文章を書いている人間の顔は、果たしてどんな顔をしているのだろう。

 

そう思って洗面所に行き鏡を見てみると、そこには品性も知性もない、寝癖まみれで腹が出た、薄汚ないおっさんが立ち尽くしていた。

 

ちょっと中畑さん、差がでるの顔だけじゃねえじゃん。

 

僕はそう思いながら、肩を落として台所に向かい、とりあえずビールを飲んだ。

 

「いつもより苦いな」なんて思いながら、そう言えば今もWANDSは時の扉を叩いているのかな、と調べてみると、2000年というミレニアムの節目に解散していたんですね。こんなところにミレニアム問題が隠れていて、僕はとてもびっくりしました。

 

こんな記事で読者が増えるとは思えないけれど、まあ仕方がない。僕に出来ることは、ソーセージを美味しく作ることだけなのだ。

 

そんな僕のソーセージを、誰か食べてくれないか。

 

終わり。