僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージのレシピを書いたからってほとんどの人は作らないし、ソーセージを作っているほとんどの人は自分の哲学をすでに持っている。

今週のお題「得意料理」

 

今、自分の心の狭さを痛感し、深く落ち込みながらも半ば諦めた境地にいる。

 

なぜそんな精神状態になってしまったのかと言えば、先日作ったソーセージがとても美味しかったからだ。

 

ただし美味しいソーセージを作れた事と心が狭いという事には、直接的な関係はない。

 

というかもしそんな相関関係があれば日本ハム伊藤ハム、えびの高原やプリマハムで働いている人達は心が狭いということになってしまうし、先日食べたあのあまり美味しくないソーセージ、カリーブルストになってしまったあのソーセージの会社(あえて名前は出さないが)の人達は逆説的ではあるが心が広いという事になってしまう。

 

僕の良心、デカルトのいうところの「ボン・サンス(良識)」もしくは「ルーメン・ナトゥラーレ(自然の光)」はこのとても美味しく出来たソーセージの比率を誰かに教えたいと訴えているが、僕の中のソクラテス的否定心は、「それを教える事で一体どうなるというのだ。世の中の知識人は知識を求めているのではなく、知識を持っている自分もしくは自分の持っている知識を愛している。だからお前のレシピを受け入れる事無く否定するかもしれず、すなわちお前が自分で得た知識をばらまくという行為は別の否定を生み出す事になり、結果として無駄に終わるのだ」と僕の良心を否定しようとしている。

 

しかしこのブログにおいて、僕は勝手ながらソーセージ作りの普及に勤めるというシャルキュトリ(食肉加工品全般のこと)の布教という立場にあり、普段ソーセージを作ることはない人にぜひともソーセージを作って欲しいという願いを持って今も丁寧に気持ちを込めて一文字一文字を打っている。しかもこれらは別に誰かに強制されているわけでもなく、布教したからといって誰からも褒められる訳でもない。

 

そんな心の中の葛藤、文頭で書いた心の狭さこそが、僕を落ち込ませるのだ。

 

しかし、僕はそれでもソーセージ作りをもっと沢山の人に味わって欲しいと思う。

 

キング牧師は、あの有名な演説の中でこう言った。

 

私には夢がある。それはいつの日か、この国が立ち上がり、「全ての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子達とかつての奴隷所有者の息子達が、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

 

私には夢がある。それはいつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼け付かんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

 

それにならって、僕も言わせてもらおう。

 

私には夢がある。それはいつの日か、この国が立ち上がり、「全てのソーセージは平等に作られているのは自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

 

カルパスだって、サラミだって、立派なソーセージだ。駄菓子ではない。小さいからって、差別するな。

 

私には夢がある。それは、いつの日か、尼崎の僕の家で、かつての沖縄のアグー豚とかつての宮崎県のプレミアムポーク、かつてのスペイン産イベリコ豚が、ソーセージとして同じテーブルにつくという夢である。

 

ブランド豚は美味しいけど高い。でもその分やっぱり美味しいから仕方ない。でも一気に買えないから特別な時に取り寄せする。1度でいいから全部一緒に食べ比べしてみたいという願望。

 

私には夢がある。それはいつの日か、ボイルとフライパンの炎熱で焼け付かんばかりのソーセージでさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

 

茹ででから焼いたソーセージが一番美味しいのではないか、というのを複雑にかくとこうなる。

 

 

私にはソーセージがある。それは、いつの日か、ソーセージの4人の幼いソーセージたちが、ソーセージの色によってではなく、ソーセージそのものによって評価される国に住むという夢である。

 

この辺は僕にも意味がわからない。 

 

 

とまあ、このように、ソーセージ作りにかける情熱を溢れさせたブログを続けているのだから、もうここまできたら恥も外聞もなく素直にレシピ出しちゃいなよ。ほら、ジャンプしてみろよ。小銭の音がするんだろ。という、なんだかかつあげみたいな心の声に従ってそろそろそのレシピを出したいと思うのだけれど、心の奥の方にまだ少し痛みのようなものを感じている。

 

それは別に中学2年の時に実際にかつあげにあったことを思い出したからでもなく、電車でスリにあって13,000円を取られたのを思い出したからでもなく、ただ自分で美味しいと思った物が本当に人に受け入れてもらえるかどうかという、料理を作る人間なら誰しもが思うことなのだけれど、しかしそんな事を気にしていてはソーセージ作りを普及させる事は難しく、となればもう自分を信じ、自分が美味しいと思ったレシピをぜひとも紹介したうえで、1人でも多くの人にソーセージを作ってもらうことが無情の喜びだと思わなければならず、このお気に入りのレシピをここに公開するという事はある種の踏み絵であるともいえる。

 

遠藤周作の書いた小説、沈黙に出てくるセバスチャン・ロドリゴが感じた痛みはこんなものの比ではないと自分を落ち着かせながら今からレシピを書くのだけれど、これだけ自分で無駄にハードルを上げた事を早くも後悔している。

 

なぜならば、自分が普段用意している食材を書くだけの文章で無駄に2000文字も費やした挙げ句その中身は殆どないという、これがソーセージであれば水増し甚だしく、肉に対してそれ以外のものが50%以上入るとそれはソーセージを名乗れないのだけれど、それどころかこの記事のなかで情報に当たるのは下記の100文字足らずなので水増率は200%を越え、このままでは訴えられるもしくは農林水産省から勧告を受けてしまうような行為をしているからである。

 

しかしせっかくここまで読んでくれた人がいるのであれば、その方の努力に報いるのが人としての努めである。

 

なので、ここに、今までで一番美味しく出来たときのレシピを書いておきます。

 

豚肉小間切れ            700g

豚バラ肉              600g

すりおろしにんにく         3片

すりおろしたまねぎ1/2個+白ワイン  150cc

塩                 25g

砂糖                5g

氷                 6〜7個

セージ               5g

コショウ              4g

ナツメグ              3g

羊腸                4m

 

薫製用さくらのスモークウッド

薫製用の段ボールなど

 

作るとき以外のコツを上げるとすれば、

 

パリッと感を出すために燻製する前に冷蔵庫で一晩干すこと。

燻製をする時には低温の方が脂が流れずにいい感じになる。

温燻じゃないから90分くらいは燻製した方がいい。

ボイルの時の温度は、70℃を超えないように。63〜68℃が適温。

冷凍すると、1週間くらいでスモークの香りが感じられなくなってくる。

 

これくらいだろう。

 

ああ、ついに僕は踏み絵を踏んだ。

こころの中のキチジローがこちらをちらちらと見ている気がする。おいおい、世間の料理ブログを開設している人達は常日頃からこんなプレッシャーに晒されているのか。凄いよ。父親の趣味の雑誌の中に、友人から頂いた緊縛写真集を隠していたのがばれ、お前はこんな趣味があるのかと家族皆の前で公開羞恥プレイを受けた時のことを思い出してしまった。

 

あなた方こそが真の宣教師、フェレイラだ。

 

もしこのブログを読んでソーセージを作ってみた、という人がいれば、ぜひ一緒に酒盛りをしたいと思うので、知らせてくれたらうれしい。母親から「あんた、縛ったり縛られたりするんの何が楽しの」と言われ、どのように説明したとしても明るい未来の見えない窮地を経験した僕の過去と出来立てのソーセージを肴に、お酒を飲もうではないか。

 

ああ、誰か僕と一緒に、ソーセージを作ってくれないか。