僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

はてなブログチャレンジというものにそそのかされ、昔飼っていた猫の写真をアイキャッチにしたけれど

もし猫の話を期待してこのブログを読んで下さる方がいたら申し訳なく思う。

残念ながら今回は猫の話は出てこないし、今後も出てくるとしてもその頻度は低いだろう。

 

なぜならば、猫の話を書く時というのは、ネタが無いときだからだ。

 

むしろ猫自体は毎日僕に何かしらのネタをくれるし、僕も実際のところ猫の事を書きたいと思ったりもするのだけれど、しかし例えば「夜にゲームしてるとちび猫(カツ子/生後4ヶ月)が膝の上にのってきてくれて今日はとても嬉しくてそれはそれとして毎日可愛い」なんていうことを書いたとしても、それは僕自身が嬉しいだけでそれを読まされた人間は「何や自慢かええかげんにせえしばきまわすぞ」となることは間違いなく、またそこに「膝の上にのってきているちびの上にまた別のちび(丼ベエ/生後4ヶ月)がのってきて今日はなお幸せでエブリデイ可愛い」なんて書こうものなら「こらおまえ画像もはらんとちび猫2匹の話なんぞしくさって逆にエブリデイいてまうぞワレ阿呆ボケかす」なんてコメントが記載されたりするかも知れず、僕は恐怖のあまりそのコメントを普通に承認にしてしまい、さらにはそのコメントにいいね☆をつけてさらに炎上。

 

もう1つついでに書くと「あのね、我が家の長女猫ちゃんは注射器に入れたお湯を赤ちゃんが哺乳瓶からミルクを飲むかのように飲むからその姿を夫婦で見ながら赤ちゃんですねえ赤ちゃんですねえなんて言うんですオホホ」なんてことも書きたくなり、そうなるともうブログの中に嫉妬と魔性と我欲から生み出される狂った果実が実りまくることになり、石原裕次郎もビックリするような毎日毎晩の酒池肉林フェスティバルとなりそのあとこのブログは狂い咲きサンダーロードとなること確実であるし、読んでくれた人はみんな太陽族となるであろう。

 

だからこそ僕は猫のことはあまりかかず、猫の次に好きなソーセージのことを書いている。

  

さて、このように文章をインターネットで公開している以上、拙い文章であっても色んな人に読んで欲しいと思ってはいるのだけれど、その為に考えてやっていた事がことごとく外れている気がする。

 

このブログを立ち上げた当初、ソーセージ作りについてより深い説明や考察を書いて、世のソーセージフリーク達をあっと驚かせ、ソーセージ作りにこのブログありというような崇拝の的になりたかったのだけれど、いつの間にかソーセージ作りがないがしろになっているのはおろか、週末という貴重な自由時間をソーセージ作りに割り当てもせずゼルダの伝説神々のトライフォース-と魂斗羅スピリッツの2人に強引にレイプされているような状態であり、3Pという僕自身初めての経験によって右脳と左脳はあり得ないほどの快楽に溺れて汁をドバドバと垂れ流してしまっている。

 

それだけの快楽を感じている裏にあるのは、ソーセージという人生を添い遂げることを誓った相手がいるにも関わらず、世界を守る為に立ち向かうマッチョでちょい悪な親父に心を奪われたり、光と闇の世界を交互に行き来したりするボーダー系メンヘラのようなあやうい魅力を持ったゲームの誘惑に勝てず、淫らでふしだらな関係に身体を許してしまうという背徳的な関係性に魅力を感じてしまっていることに他ならず、しかしこれは裏を返すとソーセージ作りにゲーム以上の魅力を感じなくなってしまっているということでもある。

 

しかしこれは不倫もしくは浮気をしている人に散見される「普段と違う事をしている特別感」があるからこそ高揚してしまい、日常の中に訪れる非日常であるがゆえに普段なら3くらいの楽しさしかないことを10にも20にも感じてしまうことに他ならず、それはひとえにスーパーファミコンミニという非日常が僕の日常を支配してしまったことが起因となっている。

 

そしてそれは、ソーセージ作りという今まで非日常に感じていたことが日常になってしまったことでもあり、俗にいう「あいつは空気の様な存在」状態に陥ってしまっているのだ。

 

しかし普通の生活をしていると空気を消耗することはあまり意識しないけれど、では今の自分はそんな空気のようにソーセージを摂取及び消耗しているのかといえばそうとも言えず、例えば先週食べたソーセージを振り返ると1度として自作のものを食べておらず、食べたソーセージといえばいかりスーパーで買ったポークウィンナー、関西スーパーで買ったえびの高原粗挽きポークウインナーのみであり、前者は初めて食べたものなので一応味の研究という名目はあったものの後者は完全に慣れ親しんだ味、これはすなわち怠惰の上になりたつ「ああ、手軽においしいウィンナーが食べたい」という、いうなればマンネリ化したセックスのようなもので、そんなものに手を伸ばしてしまっているのはソーセージの事をないがしろにしている愚かな人間の成れの果てである。

 

ではどうすればいいのかと考えた結果出てくるのは相も変わらず逆転の発想と言うもので、すなわちソーセージがある日常というものが非日常になればよいと、言うはやすし行うはがたし。とりあえずソーセージが家に無い状態を作ればいいのだと一念発起し、妻にお願いしてしばらくはソーセージを買わない宣言を一緒に守ってもらう事にしたのだけれど、しかし何かしらの依存症を患っている方であればご理解いただけるのであろうがこの何かを断つということはとても精神に負担がかかり、普段なら気にも留めないようなことでも気に障る。

 

例えば僕はアルコールを嗜み煙草も喫するのだけれど、普通に生活している際には3時間4時間煙草を吸わないこともあるが、何の因果か急に禁煙するといきり立ったことがあり、よっしゃこれ吸い終わったら煙草を辞めてやる!と自分勝手に憤慨して残りの煙草をゴミ箱に入れた瞬間もう煙草を吸いたくなり、10分後にはゴミ箱から煙草を取り出して吸っている始末。かたやアルコールのほうでもよし今日はとりあえず飲まないでおこうと考えたところ既に手にはビールの缶が握られており、そうだこの一本だけにしようとプルタブをあけるといつの間にか手に持っている缶はハイボールに進化している。おお、これが噂のダーウィンの進化論かなんて言っている間に夜も更けていき、フシギダネなんていってたらフシギソウな顔が窓に映り、これもいつの間にか二日酔いと添い寝をしながら朝を迎えているのが常である。

 

そのような精神薄弱者である僕がソーセージを断とうとしてもことさら無理な訳で、妻にソーセージを買わないようにと依頼したその次の食事から「ソーセージがない」「ソーセージがない」と荒廃した町を朦朧とした姿で歩き回るゾンビのような様相で妻に問いただしたりもするけれど、それを優しく受け流し「もう忘れたの。ソーセージは我慢するんでしょ」とボケた志村けんを優しく諭す優香のように僕を嗜めてくれる妻には頭があがらない。けれどどれだけ妻に感謝したところで食卓の上にソーセージはなく、もちろん冷蔵庫にも冷凍庫にもソーセージはなく、僕は無事に当初考えたようにソーセージが無い状態を日常として置き換えられたのだけれど、もう脳みそは我慢の限界を超えており、茶色い猫のしっぽを見るだけでソーセージが喚起されてしまう始末で、ああなぜ僕はこんな必死な思いをして間でソーセージを断っているのだ、これほど苦しいならばゲームを我慢する、我慢するからソーセージを作らせてくれと全知全能の神に頼み込み、茶猫のしっぽをしゃぶりしゃぶりしてソーセージを我慢し、今週末にはソーセージを作る事にします。

 

でもそれはそれとしてとりあえず週末までは暇だから今日の夜も明日の夜もゼルダ魂斗羅との3Pで。

 

そこにしっぽの湿った猫も加わって我が家は軽いハプニングバー状態で。