僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

過度な結果論に人生を左右されていないか。

今回の文章を要約すれば「人生は、結果論では語ってはいけない」ということである。

いつものように内容はない。

 

このブログにおいて、食に関する話を下品という名のコーティングでまぶしながら書いている身ではあるが、食に関するとなると切り離せない、というか切り離してはいけないと思っている話題が存在する。

 

それは排泄の話である。なので、ここに至ってついに僕は下品を下品でコーティングするという暴挙、いうなればレンタルビデオ屋で借りたいAVを隠す為に別のAVで挟むというような行為に出るということになる。

 

しかし思い返せば中学校ではマイナス×マイナスはプラスに変化すると習い、桃鉄においては財産がマイナスになればなるほど楽しみは増えるしキングボンビーも怖くなくなると習ったし、こと僕の好きなあの行為に関しては、陰部というマイナスの極みの名をもつもの同士をすり合わせるという複合技を是としているので、これはまさにテンションがあがり過ぎるものである。先の比喩だって見られるAVの数が増えるのだからもうこれは万々歳である。

 

なので下品を下品でコーティングする事に恐れはないのだけれど、1歩間違うととんでもない事になることも十分に考えられる。

 

例えばゴリラがうんこを投げるのは笑い話になるが、ゴリラがゴリラを投げた場合どうにも笑えない可能性もあるし、その投げかたは一本背負いなのかジャイアントスイングなのかで評価も別れるし、ゴリラがマイナスなのかというクレームもきてしまう。

 

例えばうんこをした後のお尻を紙で拭けばスッキリするけれども、うんこがついているお尻をうんこで拭くのは狂気の沙汰というよりは滑稽ですらあるというかもう本末転倒。なのでできるだけ汚らしくならないような表現をこころがけようと思う。

 

それだけ気を配ったとしても、そもそも汚らしいからそんな話は読みたくないという方は多いかも知れない。

 

だが食と排泄は普段の生活にも密接に繋がっているものである。ものを食べないと死ぬし、排泄出来ないとこれも死ぬ。それほどまでに生に密着しているものなのだからこそ、普段からフラットな状態で触れておくべきではないかと僕は思っている。

 

とって付けた様な言い方になってしまうけれど、ソーセージに関しても排泄器官の延長線上にある腸が主要材料でもあるし、みんな大好きホルモンもまたそうである。

 

僕個人的な見解としては、食に関する話はするけれど排泄に関する話はしないというのは、例えば魚の刺身や切り身は食べるけれど魚をさばくのは汚いし可哀想だから嫌というようなものであったり、祭りの準備や後片付けは手伝わないけれど当日だけはしゃぎ回るというようないいとこどりをしている気がしてならず、映画やドラマの名シーンをダイジェストをみているだけのような、なんとなく味気ないような気がするのだ。

 

ただ、誰かと会話をする為に話のあらすじだけを知っておきたいという気持ちも分かるし、僕自身も仕事での会話の為に、あまり興味のないスポーツの結果だけをニュースでみる場合もよくあるので偉そうな事は言えない。

 

けれど、ミステリー小説の犯人の名前だけを知っていたって面白くないように、食事の面白さはそれを取り巻く排泄にかかる話を楽しめた方がよほど豊かになるのではないだろうかとも思う。別にそんなのに興味がない、と言われてしまえばそれまでなのだろうけれど。

 

これはデザイン業界で良く言われる「神は細部に宿る」という言葉に似ていて、食は食べる事自体だけではなく、そのバックグランドにこそ美味しさの本質が宿っているのではないだろうか、とも思う。

 

今日の朝に取れた野菜です、と言われるのと、さっきそこのスーパーで買ってきた野菜です、と言われたもの。それが同じ畑の同じ時間に収穫された野菜だったとしても、きっと前者の方を美味しく感じるだろう。それが場の空気であり、言い換えれば言葉のもつ共通認識であり強さでもある。逆にいえば、家でインスタント料理を食べる時でも、面白い蘊蓄をもった人と話しながら食べる、もしくは美味しい空気感を演出できる人と一緒であれば美味しく感じるものでもあるのだ。

 

先日インスタント料理を高級レストランで出したら大半の人は騙されるというテレビ番組をしていた。けれどそれは当たり前で、食事とは場の空気や提供された情報、食材やその店の持つ物語性を食べることでもあるからだ。

 

話を戻す。

 

 排泄と食事、またそれにかかる調理も、循環として繋がっている。

 

排泄物は昔から発酵させて田んぼの栄養として使っていた(寄生虫の問題で今は殆ど使われていないけれど)し、調理の際に出る生ゴミも微生物の力を借りればとても有用なたい肥になる。先にあげたホルモンのテッポウなんていうのは肛門のスグ裏の直腸であるし、東北の方ではウサギの未消化のうんこを食べるような料理だってある。

 

そんな話を知っているだけでも会話は広がるし(その会話がいいか悪いかは僕には判断出来ないけれど、ウサギのうんこの話は大体どこで話しても面白がってもらえたことを付け加えておく。その料理の名前は「ニンゲン」というのだ)、だからこそ排泄であったりを語るのは、食の世界観を知る上でも重要なのだと考えるのだ。

 

また僕はあまりインスタをせず、また見る事もあまりないのだけれど、最近の流行にインスタ映え、なる言葉があることくらいは知っている。料理でも風景でも、綺麗な画像や可愛いものは確かに見ていていい気持ちになるし、それを記憶とともに記録に残しておきたい気持ちも分かる。けれど記録に残す、もしくはその画像をシェアして共感を得るという行為にも、上辺だけで会話をしているように感じてしまうことがある。

 

ソーセージを作っているおっさんとしては、インスタの画像にいいねを押されるより、両方の乳首をそっと押される事を好むのだ。

 

唐突にこんなことを書いてしまったのは、読み返していたらあまりにも真面目すぎて恥ずかしくなったからだ。でもせっかくなので、このまま続けてみよう。

 

例えば可愛いウサギの写真をシェアしたとして、「とても美味しそうですね」というコメントが入ると、人はどんな反応をしめすだろうか。

 

「野性味あるコメント、ありがとうございます」

「もしかして仮面ライダーアマゾンさんですか?」

 

なんて返しをする人はまずいないと思うし、よくてブロック、悪くて通報からのアカウント削除依頼なんて感じになるだろう。

 

しかしフランス料理ではウサギ肉はよく使われ、家畜のウサギはラパン、野ウサギはリエーブルと呼ばれジビエの一種になる。日本でも昔から食用に使われていて、江戸時代の徳川家では正月に食べるものでもあったし、以前も少し書いたのだけれど、ソーセージにもウサギはよく使われる。

 

これはウサギ肉はミンチにすると結着する力がとても強くなるからなのだけれど、それ故につかっていいウサギ肉の量まで規定されているのだ。

 

以前テレビで料理人が牧場を回る、という番組をしていた時、そのシェフが放牧されている豚をみて「とても美味しそうに育った豚ですね」というコメントをしていた。牧場主はもちろん美味しい豚肉になるように育てているので、そのコメントはとても嬉しいものなのだけれど、例えばそれをテレビ画面越しに見ている人達は料理人もしくは牧場主と同じ目線に立てるのだろうか、という疑問も残る。

 

もちろん先に書いたインスタの話はペットであり、方やテレビの話は家畜のものであるから反応の方向性が違うのも十分に承知している。けれど食の周辺を知る事で、なんとなく受け取り方も変わるのでないだろうかとも思っている。

 

インスタのウサギに美味しそうですねと返信する事と、海遊館にいるサンマや蟹を見て空腹感を感じる事、寿司屋の生け簀に泳いでいる魚をその場で活け造りにしてもらう事にどのような差があるのだろう。そしてウサギ肉を使ったフランス料理と、ウサギの排泄物を使った郷土料理に、どのような差があるというのだろう。

 

 対象に対する距離感や価値観が違うと反応は変わる。料理に関しても突き詰めれば生きるため、もしくは美味しいものを食べる為に考え、その末に生まれたものである。でもきっと、フランス料理の方にはいいねがついて、排泄料理には誰も反応しない。

 

排泄物という言葉が先に来てしまう事で、人は拒絶したり嘲笑したりするからだ。

 

しかし多数の人があがめ讃えるウニだって精巣と卵巣であり、大きなくくりで言えば排泄器官であるし、イクラだって排泄物だ。

 

本来食事をするということには、そういった複合的な矛盾も内包されているのだ。そもそもご飯を食べるという行為は食物連鎖であり、循環してきた命の流れの中に身を委ねる行為でもある。

 

とまあ、こんな話をしていては壮大になりすぎて終わりが見えず、読んでくれている人どころか書いている僕ですら何がなんだか良く分からなくなってくる。

   

だからそろそろ本題にはいろうと思うのだけれど、今回書く本題とは最初に上げた通り排泄、もうそのままうんこの話である。

 

そして今回は言葉遣いに気をつけると宣言した手前、食に関する文章の大家である開高健氏の言葉を借り、下品の代名詞である「うんこ」を「雲古」としたい。

 

これは「雲を見ながら古きを落とす」という意味をもつらしく、世界を股にかけて大草原ので排泄を経験した御大だからこその当て字だろう。

 

さて、その雲古なのだけれど、雲古を漏らすということにおいて、判定基準が人それぞれにあるはずだ。

 

ある人はトイレ以外で実が出てしまえばアウトだといい、またある人は床にブツが落ちなければセーフだといい、またある人はどこで出ようとも他人に見つからなければ大丈夫だという。

  

ちなみにではあるが、僕自身が基準にしている漏らしの定義は下着が汚れているか汚れていないかであり、この基準はおおよそ幅広く受け入れられる基準ではないかと自負している。

 

漏れても尻に挟まっているだけならばセーフ、下着についてしまえばアウトだ。

 

なぜならば、雲古がズボン、今風にいうとボトムについてしまうとこれは他人の目につくこともあり、臭いという副産物が周囲に漂って可能性が非常に高い。つまり漏れがバレるからだ。

 

バレるバレないでいえば下着は他人からは見えないしボトムによる覆いの効果があるから大丈夫ではないか、と思われるかもしれないが、漏れたものが液体だった場合、下着からボトムにしみ出してしまうのは自分が思っているより以上にはやく(そう、秋がいつのまにか冬になっているように)、周囲にバレずに処理するには早急な対処が必要となる。

 

それだけ当人を慌てさせているのだから、下着が汚れてしまった時点で問題は山積みであるといえよう。

 

なので僕は「下着が濡れればアウト」という基準を引いている。

 

しかし先日。

 

お腹の調子はすこぶる好調であり、排泄したものも若干緩くはあったが固形のもので、とてもすっきりとした満足感のあるトイレタイムを過ごした。

 

しかしこのトイレ、実は自宅ではなく会社のトイレである。

社内に僕しかいない状態であった。

 

誰もいない社内でトイレという暗がりに隠れての排泄作業、なんとも心がウキウキしますね、なんていいながら、雲古を出していた。

 

自分のお尻から出た見事な排泄を股ぐらから見下して自画自賛、これが本当の陰影礼賛ですねなんて呟きながら、さて次は紙の出番だよとトイレットペーパーを手に取ったところ、急に事務所の電話が鳴り響いた。

 

慌てた僕は手にとったペーパーを急いでお尻にあてて上下に拭いてから下着とボトムをあげ、自分の排泄物を流す事もできずに電話の元に向かった。

 

着信番号に表示されていたのは0120から始まる番号で、これはもう殆どといっていいほど業者の営業電話である。

 

落ち着いて受話器を取り、はいもしもし、とこちらが言うのをほぼ聞いていないようなタイミングで、「こんにちは!マンションの投資に興味はございませんか!今ならとてもいい物件の紹介が出来るのですが!」と言ってきた。

 

本来であれば「そんなにいい物件なのなら、自分で買わないのは何故でしょうか。まずその理由をお聞かせください」と返し、相手がしどろもどろでしてくる返答を楽しむのだけれど、今回は違った。

 

その営業の方の勢いに対して思わず椅子に腰をかけて前のめりになり「今ね、トイレに行ってたんです。まだ流してもないんです。おしりも1回しか拭けてないんです」と返すと、「そ、そうですか」とさっきの半分ぐらいのトーンで言い、そのまま電話を切られてしまった。

 

こちらの話を最後まできかないなんてなんとも失礼な奴だと憤慨しながら(糞だけに!)立ち上がってトイレに戻り、さて先ほど流し忘れていた排泄物を流そうかと思ったのだけれど、どうにもお尻に違和感を感じた。

 

一応確認の為にと、またボトムと下着を下ろして便器に腰掛けて視線を下に落とすと、やはりというかなんというか、どう見ても下着に雲古がついてるのである。

 

ちょっとまってくれ。これではまるで雲古を漏らしてしまったみたいではないか。

 

これはどうなんだ、と先にあげた自分の判断基準に照らし合わせてみたのだけれど、その判断に同席した敷田直人審判員はこの上なく綺麗なマンジを描いて「スットラーーーーッッ!!!!アーーウッツッツツッ!!!!」と言った。

 

「漏らした」という判定だ。

 

こうなると僕は冷静でおれず、その判定はおかしいではないかとベンチという名の便器から立ち上がって乱闘に向かったのだけれど、周りの選手たちは僕の情熱と綺麗に反比例して揃って冷静だった。

 

当人である下着ですら審判の判断に従って漏らしたと申告し、交代の為にこちらへトボトボと歩いてきたのである。

 

いや諦めるにはまだ早いと説得しようと思ったけれど、一度汚れたものは紙だけでは拭い取れないことは長年の経験から知っている。

冷静に対処しようとすればするほど、先は見えなくなってしまうのだ。

 

しかし本当の混乱はここから始まる。

 

ベンチ裏、ブルペンに控えの投手がいないのである。

 

監督はこの火急の事態に立ち向かう事をすでに諦めた様子で、落ち込んでいる下着の肩を抱いて、これ以上身体を冷やさないようにと下着をビニール袋に包もうとしていた。

泣きながら袋に包まれている下着は、いつもより少し重かった。 

 

そんな下着と監督を控え室に送り出し、僕は空になったマウンドを見つめながら監督の代わりに苦渋の決断をし、審判に伝達した。

 

「投手!ボトム!」

 

そう、下着を装着する事無く、そのままボトムを起用したのだ。

明日のスポーツ紙の一面に「狂った判断!!」だとか「狂気の采配!」だとか書かれてしまうことは十分に分かっているけれど、監督も控えの投手もいない今、僕にはその判断しか残されていなかった。

 

若干スースーしている下半身を気にしながら、半身は阪神に通じるね、なんて小粋なつぶやきをしてビニールに入った下着を家にもって帰るために、リュックの奥に詰め込んだ。

 

何故汚れた下着を捨てないのか、という疑問を持たれた人がいるかもしれないけれど、そのまま社内で捨ててしまっては誰かにバレてしまう可能性が高いのがまず最初の理由である。

 

また帰る途中で捨てない理由は、下着なしで帰った際に「ブルセラに下着を売ったのでは?」「変な女と関係を持って下着を取られたのでは?」「もしかしたら雲古を漏らしたのでは?」などと、妻に余計な疑い、あらぬ疑いを持たれてしまうからだ。

 

幸いな事にその日は外に出るような仕事も会社終わりの用事もなく、無事家に下着を持って帰る事ができ、妻にバレないように処理も出来た。 

 

 しかし、僕には未だ納得のいかないことがある。

 

はたしてこの一連の流れは、雲古を漏らした事になるのか、漏らしていないといえるのか、ということである。

 

確かに結果的には、誰の目から見ても漏らしたということになるのだろう。

僕自身が設定している基準に沿っても、漏らしたとなる。

 

しかし、しかしだ。

 

それは、過度な結果論に人生を左右されすぎてはいないだろうか。

確かに下着が汚れたらアウトだという判定基準を決めたのは僕だし、それを守るのもまた僕だ。

 

ただ実際の行為を時系列で並べた時、それは明確に漏らしていないという判断になるはずである。

 

トイレで排便、半固形の雲古、お尻をきちんと紙で拭く。

 

きちんとルールとマナーに則った排便である。誤算があるとすれば、拭きが甘かった事と電話対応の時に椅子に座ってしまったことだ。

 

その誤算のせいで、僕は漏らしのレッテルを貼られる事になった。どれだけ大声で漏らしていない漏らしていないと叫んだところで「でも、下着に雲古がついていたんでしょ」と言われてしまうのだ。

 

この不条理な気持ちを抱えたままではあるが、最後にもう一度言わせていただきたい。

 あなた方は、過度な結果論に人生を左右されすぎてはいないだろうか。と。

 

確かに結果は大切なのかもしれない。

しかし、本当に大切なのはそこに至るまでの過程であり、経験である。

 

僕がした一連の流れは、誰がどう言おうが漏らしの「漏」の字も介入出来ないほど丁寧な排泄だった。にもかかわらず、結果としては漏らしてしまったことになる。何度も言うが結果論で言えば、だ。

 

しかし、これは「結果論という世に蔓延するこの不条理な論調は、人の尊厳をも失わせる側面を持っている」という新たな発見である。

 

となると結果論は、過程や努力を根本から否定する事でもある。

 

どれだけ頑張っても結果が出ていない人に対して「頑張り方が間違っている」「余計な努力」「糞漏らし」「糞便大将」「下着の無駄遣い」などという戯れ言を吐くことが、本当に人として正しいのだろうか。

 

僕はそうは思わない。

 

たとえ結果が出なくても、その過程が間違っているはずがない。

人生は、答えが1つだけしかない計算式とは違う。

正しい公式からでも、間違った答えが出る事もあることもあるのだ。

 

だからこそ間違った答えを出す事を恐れず、自分が正しいと思った道を歩んでいけばいいと思う。

 

間違ったかどうかの判断を下すのは、他人ではない。自分自身なのだ。

 

だからこそ僕は胸を張って言おう。

「決して雲古は漏らしていない」と。

 

とまあ、なんでこんな事を書く為に無駄な時間と労力を使ってしまったのだろうという後悔はあるにはあるけれど、それもまた何かしらの肥やしになるだろう。

 

僕はこの経験から得た「例え電話が鳴っていても、お尻は最後まできちんと拭こう」という誓いを持ち、また今日からの人生を過ごそうと思う。

 

では。