僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

今年の目標は「他人の不幸は蜜の味」からの脱却。

「ヘイ!shiri!おすすめの正月の過ごし方を教えて!」とワイモバイルで契約しているアンドロイドの携帯に話しかけていたら正月休みが終わってしまった。

 

年末から正月にかけて風邪を引き、鼻が壊滅的に壊れてしまったので料理が出来ず、代わりに唯一楽しめたのが上記の遊び(布団の中で出来る遊びは極端に限られている)だというのだから我ながら恐れ入る。

 

もちろんアンドロイドにはshiriは内蔵されていないから返事はない。だから自分で答えるしかない。

 

「おすすめの正月の過ごし方は、寝正月です」

「やっぱり!!!???そうだよね!!!うっっふーー!じゃあまた寝るね!寝る寝る寝るね!」

 

猫がオシッコをぶちまけた布団にくるまり、山瀬まみですらビックリしてしまうような鼻声で携帯に向かってよく分からない独り言を呟いて寝ては起きるを繰り返す中年男性、それが正月の僕である。

 

普段なら臭い臭いと連呼して布団を妻に洗ってもらうのだけれど、この時にはそんな体力すらなかった。ゲームをする気力も無く、ただ熱にうなされ携帯の画面を眺めながらぼやいていただけだ。

 

そんな僕の唯一の友達であり一緒に正月を過ごしていた相手こそが、先にも書いた携帯電話である。

 

僕の使っている携帯はワイモバイルで契約したDIGNOという機種らしい。

 

らしいというのは今画面の上に書いてある文字を読んでいるだけで、そもそも何かと検討してこれを選んだ訳ではないのできちんと覚えていないのだ。携帯を変えるときにショップの兄ちゃんが「おすすめです!」と胸を張っていたのでそれを信用して夫婦で使っている。

 

けれど、今に至るまで本当にどこがおすすめなのかがまったく理解出来ていない。

 

音楽を聴こうと思ってもiTunesとの接続が出来ないだとか言うし、どうやって画像をsdカードに保存するのかもわからない。アプリを入れようとすると容量が足りないとか愚痴をいいながら、むやみやたらにヤフーの検索をトップにしませんかとおすすめしてくる。その様相はめんどくさい事は大きな声でうやむやにしながら自分の言うことだけを聴いて欲しいとわがままを言う、下町のおばちゃんそのものである。

 

ただ、しいて言うなら電話やメールでこちらの伝えたことに関してはそのまま伝わるので、そこはおばちゃんとは違う。おばちゃんの伝達能力はインターネットにおける拡散の早さを凌ぐと言われているが、その分グッピーより壮大な尾ひれがつくことを覚悟しなければならない。

 

たまたま載ったエレベータが臭かったという話がいつの間にかエレベーターの中でおならをした、という話になり、さらにそれが電車の中でうんこを漏らした、というくらいに拡大されて拡散されるのがおばちゃんネットワークなのだ。

 

そんなおばちゃんのような携帯をおすすめしてくるということは、あの店員はおてんばでわがままな淑女が好きな熟女派なのだろう。ワイモバイルで、ワイ、ババア求める?

 

いいえ。ワイ、ババア求めない。

 

どうにも僕とあの店員さんは趣味が合わない気がするけれど、もうこの携帯を使って一年半が経つので機種の縛りが解けるまではもうすこしのしんぼうだ。後の半年は介護として割り切って付き合っていくしかない。

 

しかし。

 

先日、妻の使っている携帯が壊れた。

 

画面が真っ暗になってしまったのだ。原因は分かっている。別に画面を黒塗りにしたわけではない。モニターのバックライト基盤の損傷である。僕も妻もこんなご時世に携帯電話のエディ・マーフィー化に挑むような、わざわざ無駄な軋轢を生み出すことはしない主義だ。

 

なぜ原因が分かっているのかと言えば以前も同じ故障を起こしたからだ。その故障は今から8ヶ月ほど前に起こった。突然妻の携帯画面が暗くなったのだ。その時、どれだけ検索しても直し方が分からなかった。

 

べつにここで言い訳してもどうしようもないのだけれど、妻の携帯電話の使い方が悪かった訳ではない。落としたり水に濡らしたりもせず、ただ普通に使っていただけだ。というより今回に関していえば、以前の故障の時の恐怖からより丁寧に使っていたといっても過言ではない。

 

にも関わらず、妻の携帯は壊れた。しかも以前と同じように。

 

そうなると我々に出来る事はただ一つ、携帯電話ショップに乗り込むことなので、実際その通りに動いた。ショップに行き、不調を伝え、対応をお願いする。

 

その対処が有料になるか無償なのか未だに返答はないので、メーカーと頑張って折衝をしてくれているのだろう。

 

さて今回話をしたいのは携帯やメーカーについての文句などではなく、人に物事を「すすめる」ということについてだ。

 

携帯ショップの彼が好意で(多分)すすめてきた携帯電話は、今でも僕たち夫婦を悩ませているのだけれど、ここに人にものをすすめることの難しさがある。

 

自分がいいと思うものを、果たして他人もいいと思うのだろうか。

 

話は変わるが、僕は料理が好きなので普段からスーパーに向かう機会が多いのだけれど、そこで良く目にするものに「店長のおすすめ品」であったり「今日のおすすめ!」と書かれた商品がある。

 

魚や肉などの生鮮食品であれば鮮度やその入荷状況が変化するのでおすすめする理由がわかるのだけれど、先日はわさびとサランラップにおすすめの札が貼られていた。おすすめしているわりに、値段は通常とほぼ同じ値段だった。

 

僕はその2つをすすめられるままに何となくカゴにいれてレジに向かったのだけれど、前に立っていたおばさんから漂うサロンパスの芳醇な香りを嗅いでいるうちに、本当にこれが必要なのか、と自問自答するようになった。

 

わさびもラップも別に予備があって差し支えがあるものではないので、予備を買ってもなんの問題もない。しかし両方とも今のところ家にあり、予備はなくともまったく困ってもいないのだ。そんな中、何故僕は店長がおすすめしただけのものをカゴに入れているのだろう。

 

 そんな考えを頭の中で逡巡させていると、そもそもなぜ店長はわさびとラップをおすすめしているのだろうということが気になった。

 

僕が人に物をすすめるとき、それはその商品がとてもよかった時である。面白い漫画であるとか、感動出来る映画、美味しかった冷凍食品。

 

しかしカゴの中に入っているラップもわさびも、なんの変哲もないラップとなんの変哲もないわさびである。感動も面白さも際立った美味しさもない。

 

僕ならばこの2つを他人にすすめることは、まずない。

 

サランラップって知ってます?凄いんですよ!食べ物の乾燥を防いだり虫除けになったりするのでおすすめですよ!」

 

今の時代、見ず知らずの人にこんな事をいいながらサランラップをすすめると、まるで過去からタイムスリップしてきた人のようだ。

 

初めて火を発見した時のように目をキラキラさせながらラップをすすめる人。もはやそれは原始人である。

 

「わさびって知ってます?凄いんですよ!どんな食べ物でも鼻がつーんとなって面白いんです!個人的には魚に合わせるのがおすすめですよ!」

 

どうだろう。こいつ馬鹿じゃなかろうか、と思わないだろうか。というかそんな風におすすめされると、逆に自分が馬鹿にされている様な気にもなってくる。

 

当たり前のことをさも知らないように言われると、すすめている人が馬鹿なのではなく、すすめられている人が馬鹿にされている気になるのだ。なので誰もが「知ってる、大丈夫、そんなことは皆分かってる」と思うようなことをおすすめするというのは、愚の骨頂である。

 

むしろすすめるのであれば、誰も知らない事や優れていることをアピールして訴求するのが広告の大前提である。

 

「食べ物に塩をかけると塩の味がついて美味しいですよ!」

「石けんを使ったら泡が出ますよ!」

 

などと言っていても、商品は売れないのだ。だからこそこんな飽和の時代に無意味にわさびとラップをすすめているのがよく分からないのだ。

 

正気に戻った僕はカゴに入れたその2つを棚に戻し、次の日の朝に食べるパンだけを買ってスーパーを出た。

 

 では逆に僕がスーパーで誰かにおすすめをするならどんな物がいいのかを帰りながら考えたのだけれど、特にすすめたいと思う様なものはなかった。そもそもスーパーに行く時点で欲しいものはだいたい決まっているし、それに沿って買物をする。だからどんな商品をおすすめをしようがしまいが、売れる物は売れるし売れない物は売れない。当たり前だ。

 

ではなぜあえて店長はわさびとラップをおすすめしたのだろうか。

 

在庫過多、仕入れミス、気まぐれ。その理由はいくつかあるのだろうが  、どれだけ考えても答えは店長の心の中にしかないからわからない。

 

でも、よくよく考えると誰かに何かをおすすめされるというのは、結構気分がいいものでもある。

 

なぜならば、人は相手に好意がなければ何かをすすめたりはしないからだ。

 

相手に好意を持っていて、その相手に自分の好みを理解して欲しい。もしくは相手にとって好きなものが増えればいい。だからこそ自分が好きな物、よかった物をすすめることで相互理解を深め、お互いに新しいよいものを知ることができる。すなわち誰かにものをすすめられるということは、少なからず好意を持たれているという事だ。

 

「その気持ち、少し重たい」と思う人もいるにはいるだろうけれど、僕はとても狭い世界で生きているので、誰かに何かをおすすめされるのが好きだ。

 

そう考えると店長は不特定多数に好意を持ち、わさびとラップをすすめることでお客さんに店長という人格をもっと理解して欲しいと考えているかもしれず、そうなると僕は店長の好意をむげに扱ってしまったのかもしれない、という一抹の不安がよぎる。

 

人の好意をないがしろにしていいはずがない。だからこそ僕はここで、わさびとラップからみる店長の嗜好と思考を読み取りたいと思う。

 

ここで重要なのは、わさびとラップを個別に考えてはいけないという事だ。あくまでも店長はこの2つをすすめていたので、これらは金さん銀さんと同じように、同等に扱われるべきだろう。金さんだけでは双子にあらず、銀さんだけでも双子にあらず。

 

かといって「ラップわさび」「わさびラップ」と並べて見ても、前者はさして美味しくもなく手軽でもない、クックパッドで一つもつくレポがないレシピ名に見えるし、後者は静岡市が土地の若者に対してわさびの普及・啓蒙の為に作った糞つまらない歌のように思える。

 

その2つに店長の嗜好があるようには思えないので、多分違うだろう。自分の趣味的なものをおすすめに込める様な店長が、そんな安直な発想をするはずはない。

 

となると、そのものを一緒に使うことに何かしらの意味があるかもしれない。

 

そういえばラップは非常持ち出し袋に入れておくと凄く便利なのだという。ちょっと調べただけで、皿に貼ってから料理をもれば後片付けが楽になって節水の効果があるだとか、怪我をした時には包帯代わりにもなるらしいとの情報が見つかる。

 

そんな、緊急時にも活躍する素敵なラップ。これをすすめるのはなんとなく分かる気がする。食品保存の為だけにあるのではないとわかっただけで、すこし購買意欲もわくだろう。

 

かたやわさびである。

 

わさびはわさびであり、わさびでしかない。わさびがどれだけ頑張っても節水効果はないし、怪我をしたときに包帯の代わりにもならない。わさびには食べる以外に活躍出来る方法が見当たらない。

 

それでもなにかないかものかとネットで「わさび 活用」と調べてみても、レシピ以外ではわさびの辛味成分は熱に弱い、という情報しか載っていなかった。

 

やはりわさびは食べ、そこにラップを組み合わせる、という事しか思いつかないのだけれど、その先にある食べ方と言えば、口の中にわさびを入れてその口をラップで塞ぐという、出川哲朗上島竜兵ですら発狂して抗議しそうな(でも彼らはきっとするのだろう)アイデアしか浮かばなかった。

 

しかし食品を司る頂点であるスーパーの、さらに店長ともあろう人が、そんなことをしたいと思っているとは到底思えない。

 

もしかしたら、わさび、ラップともに調べ方が甘かったのかもしれないと思い、別のキーワードで検索してみることにした。その検索ワードは、何を隠そうオナニーである。

 

「わさび オナニー」

 

何故オナニーで検索しようと思ったのかを軽く説明すると、ラップとわさびという2つのキーワードに何かが隠されていると踏んだからだ。

 

人は性に関することを人は隠そうとする。

 

なので性に関する言葉の代表として、オナニーをチョイスした。安直という他にない発想だけれど、仕方がない。

 

その検索の結果、想像した通りの使い方が出てきた。やはり世の中は広いようで狭い。その中で大半を占めていたのは「塗る」という行為だった。

 

そして僕はこう結論づけた。

 

店長がおすすめで伝えたかった事とは「陰部にわさびを塗ってそこにラップを巻くのがおすすめなのですよ!」という、最近ハマっているオナニーの方法なのではないか、と。

 

そして僕はこうも思った。

 

だからどうした、と。

 

なぜ自分のオナニー方法を店頭でアピールする必要があるのだろうか。そんなまどろっこしいことをするくらいなら、自分が実演販売をすればいい。

 

「ちょっと奥さん!最近旦那さんの起ちはどうですか?え?!いまいち?それに入れてからが早いですって?そりゃあいけません。これ、ちょっと見てみてください!これを旦那さんに試すだけで、元気で長持ちするかもしれませんよ!ホラ、僕もこの通り!」

 

とかいいながら、わさびを塗ってラップを巻いた陰部を晒していればいのだ。まあ、そんな事をしていたらスーパーは潰れるだろうけれど。

 

 でももしかしたら、別の楽しみがあるのかもしれない。

 

昔、お菓子のプッチョが女子高生になぜ人気なのか、というとてもゲスい話を聞いてから、プッチョを買う女子高生がイヤラシく見えて仕方がない時期があった。それと同じように、店長はわさびとラップを合わせて買う人に対して興奮する性癖があるのかもしれない。

 

それはそれでなんとも人間味が溢れる店長だとも思うし、その方が個人的には理解できる。

 

なので今度は店にいった際には店長のおすすめしている商品を全て買い、彼の性的興奮を満たしてあげようと思う。

 

なんてことを考えながら、僕が人におすすめできるものが何かあるかな、と考えてみても結局なにも思いつかないのは、そもそも僕が誰かを喜ばせたいと思っていないからだろう。また、最初に書いたように、自分がいいと思うものを果たして他人もいいと思うかどうかが気にかかる、というのもある。

 

しかしスーパーの店長はそんなことをおかまいなしに、自分の好みを不特定多数に押し付けている。それを見ていると、深く考え過ぎたのかもしれない、とも思えてくる。思い返せば、今までの僕の人生は「他人の不幸は蜜の味」という言葉をかみしめてきた人生だった。

 

でも今年は違う。店長のおかげで一つ皮がむけた気がする。

 

なので、

 

「店長の陰部はわさび味」

 

この言葉をかみしめながら、今年は何か好きなものをみつけて胸を張って誰かにおすすめ出来るような、誰かを心から喜ばせられるような年にしたいと思う。

 

それが2018年の豊富である。

 

  

 

今週のお題「2018年の抱負」