僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

沼は至る所にある。

オタク界隈から始まったのか、腐女子界隈から始まったのか、はたまたカメラ界からなのか、その呼ばれ方の始まりからしてなんとなくドロドロしている「沼」という表現。

 

何かにどっぷりと浸かって離れたくても離れられない様子をさす言語らしいけれど、なんとも面白い表現だなと思っている。

 

 料理における沼というのもなんとも難しいもので、沼の中にまた別の沼があり、しかもその沼が底の方でまた別の沼に繋がっていたり、なんとか沼を抜けようと足をおいたその場所が別の沼、なんてことも良くあるらしい(他にもそういったものがあるのだろうけれど、僕自身としてあまり他の世界の事を知らないのでここでは追求しない)。

 

このブログの発端はソーセージ作りなのだけれど、もちろんソーセージ作りにも沼のようなものが存在している。なので僕が基本的に遊び場にしているのはソーセージ沼である。

 

沼といいながら、料理の中でもソーセージは比較的独立しており、沼としては小規模なものだと思っている。そこに隣接しているであろう沼は、肉の沼、スパイス(塩を含む)の沼、調理器具の沼くらいである。あとはお供としてのビール沼があり、ワイン沼に行く人は少ないように見受けられる(極個人的私感)。

 

皮に至っては沼ではなくあくまでも浅瀬(そもそも天然か人工、羊腸か豚腸、牛の腸くらいしか選択肢がなく、しかも牛を選ぶ人はもう職業的な感じがする。ボロニアの自作の為に必要な器具は想像もつかないし、まず個人では食べ切れる気がしない)程度だろう。

 

しかしいくらソーセージの沼が狭くとも、国や地域によってソーセージの種類が沢山あるので決して浅いとは言いがたいものでもある。

 

少し例に出してみると、まずドイツではソーセージを「ヴルスト」と呼ぶ。これはいうなれば、スーファミスーパーメトロイドであってもプレステの俺の屍を超えていけであってもスマホのツムツムであっても「ゲーム」と呼ぶ、みたいなものだ。一説によれば1500種類以上のヴルストがあるらしい。

 

そのヴルストの中でも有名なものを上げると、チューリンガー、フランクフルター、ニュルンベルガー、ミュンヘナー(ヴァイスブルスト)、メットブルストなどがあり、それぞれに加熱の仕方まで決められていることが多い。チューリンガー、ニュルンベルガーは焼き、フランクフルター、ミュンヘナーは茹ででて食べられる事が多く、特にミュンヘナーは皮を剥いて食べるものである。

 

メットブルストは生で食べられるソーセージ、というものなのだけれど、メットに関してはタルタルに近いので肉沼の範疇かもしれない。そもそもメットとは豚肉のタルタル的な物だ。そしてこれは絶対に自作してはいけないものだと思っている。ドイツにおいても加工の規定がとても厳しく、生半可に素人が作ると食中毒を起こしてしまう可能性が高いからだ。特に日本だと法律で豚肉の生食が禁止されているくらいなので、まずお目にかかれないだろう。

 

しかし少し調べてみると分かるけれど、ソーセージはいったいどの情報が正しいのか分からないくらいに情報が多く、かつ錯綜している。サイトによって作り方のレシピも変われば名称も変わる。同じチューリンガーでも素材が違う、なんてことがざらにある。

 

なので「作る」ということにおいて、なかなか沼に足を踏み入れきれない、という気がする。

 

食べるだけならばネットで食べたいものを注文すればいいのだけれど、いざ作るとなった際に、これは牛肉と豚肉をつかったから◯◯ヴルストではないか、いや粗挽きが含まれているから◯◯ベルガーではないか、いや香辛料にチリペパーを加えているからどちらかといえばドイツ式ではなくメキシカンではないか、というような葛藤と戦うことになる。一応注釈をいれておくと、牛と豚を使ったから◯◯ヴルスト、粗挽き肉を使ったから◯◯ベルガーになる、というわけではない。上記はあくまでも例えである。

 

というか、こういったこまごまとしたソーセージにまつわる事を調べていただけでゆうに三時間は過ぎてしまう。

 

三時間あれば一体何ができたか。

 

映画1本は余裕で見れるし、お金があってその気になればフランス料理をコースで食べられる。自慰であれば冷却時間を合わせても3回くらいは出来るはずだし、ソーセージ作りでいえば肉をエマルジョン化し羊腸に詰める作業までしても3時間はかからないだろう。それほどまでに貴重な時間を割いて僕がしていたこと、それは迷いを解決しようとしてさらなる迷いを生み出していた事にほかならない。

 

未だ浅瀬に居ながらにしてズブズブと足がはまり、身動きが取れなくなってきている。果たして僕が作っているのは、何ソーセージなのだろう。というか、そもそも本当にソーセージなのだろうか。

 

そうか、これが沼というものなのかもしれない。

 

そんな考えに浸りながらパソコンの画面と向き合っていると、昔働いていた店にいたシェフから言われた事を思い出した。

 

その人はイタリアンのシェフで、アル中寄りの面白い人だった。毎朝ビールの味をチェックさせろと催促し、ランチの前にもビールの味のチェックをし、夜の営業が始まる前にもビールチェックをするという、味にとても厳しい人だった。仕事が終わると最後のビールチェックをし、颯爽と夜の街に消えていく。そして彼の作る料理はすこぶる美味しいという、漫画にでも出てきそうな人だった。

 

そんな彼に一度、イタリアのサンドイッチ、パニーニの定義を聞いた事がある。サンドイッチやホットサンドとの違いが気になったのだ。

 

営業時間が終わり、彼は4度目のビールチェックをしながら、彼は僕の質問にこう答えた。

 

「パンになんか挟んだら、それがパニーニや」

 

この言葉を聞いた僕は、「はあ」としか答えられなかったのだけれど、今になって思う。この言葉は、想像以上に深いのではないか、と。

 

日本のソーセージの規格、農林水産省のソーセージ品質基準で言えば、腸に基準値以上の比率で肉が入っていれば、それはソーセージと言っても問題ないらしい。

 

そこには料理の歴史や文化背景は一切なく、ただ官僚の定めた定義によって分類されている(しかしこの定義にも悩みの跡が見えたりして面白い)のだけれど、あくまでも国が定めた基準であり、これこそが今守らなければならない基準でもある。

 

そしてこの基準は、アル中シェフが言っていた事とほぼ同内容なのである。

 

パンに挟めばパニーニ、腸に肉を詰めればソーセージ。

 

なんと簡潔な答えなのだろう。僕が使った3時間は、結局これが答えだったのかもしれない。

 

沼にはまり込むと周囲が見えなくなってしまい、矮小な考え方に陥ってしまうという。知らず知らずのうちに僕もそうなっていたのかもしれない。

 

「貴方のそれはソーセージではない。今から僕が本物のソーセージを見せてあげますよ。(ボロン)」

 

なんてことを言っていては、ダメなのだ。美味しいソーセージが食べたい。その為に好きな肉を使い、好きなスパイスを配合する。それでいいじゃないか。と自分に言い聞かし、そういえば先日使ったオリジナル配合のスパイスはよかったな、と思い返す。

 

そのオリジナルスパイスは、セージ、シナモン、ナツメグ、粗挽きブラックペッパーを元にし、インディアンのカレー粉を隠し味にしたものだ。

 

肉の味で差を出すのは結構難しい。ブランド豚は高くて手に入りにくく、鮮度のいい肉を探すのも骨が折れる。であればスパイスの配合、言うなれば素材とスパイスの組み合わせが奏でる多重構造こそがソーセージにとって重要なのではないか。と一つの答えを導きだした結果なのだ。

 

インディアンのスパイスを選んだのはネットの「いいよ、これ」という情報だけだったのだけれど、そういえばインディアンのスパイスで作ったカレーを味わっていないことに気がついた。

 

なので僕はスパイスの味を確認するために先日カレーを作った。

極力材料を省き、シンプルに徹したカレーだ。

 

みじん切りにしたにんにくとしょうがをラードで炒め、玉ねぎと人参をミキサーで砕きいて入れる。パイナップルのチャツネを自分で作り投入し、白ワイン、トマト缶を入れてアルコールと酸味が飛ぶまで煮詰める。別鍋で軽く塩をふった肉を焼き、出てきた脂ごと鍋に放り込む(この日、豪州産の牛タンがすこぶる安かったのでタンカレーにした)。そこにカレー粉を入れ、塩と砂糖で味を整えてしばらく煮込み、食べる少し前に追加のスパイスを入れて出来上がった。コンソメを入れると簡単に味が整うけれど、コンソメありきの出来上がりになってしまうので、あえて今回は干しエビをお湯で戻してダシの代わりにした。

 

食べて見るとなかなかに良く、あっさりとした爽やかな辛さで舌にずっと残る感じの重さがなく、スッキリと食べられるカレーに仕上がっていた。

 

次にこのスパイスでカレーを作る時には、牛骨や鶏ガラでがダシを取ってみたり、むしろ魚介類のカレーでもいいのかもしれない、などと考えていたのだけれど、自分の中だけではなかなか解決策及び正解は見えてこない。

 

なのでカレーにまつわる事を調べていたのだけれど、いつの間にか三時間が過ぎていた。

 

果たして三時間あれば一体何ができたか。アニメであれば5話は余裕で見れるし、お金に余裕があってその気になれば懐石料理をコースで食べられる。セックスであれば間に挟むピロートークを含めても2回くらいは出来るはずだし、カレー作りでいえばスパイスの調合から煮込み始める作業までしても3時間はかからないだろう。それほどまでに貴重な時間を割いて僕がしていたこと、それは迷いを解決しようとしてさらなる迷いを生み出していた事にほかならない。

 

さて、カレーにはスパイスという物が必要不可欠なのだけれど、それ以前にカレーの定義とは一体なんなのだろう。はたして僕が作っていたのは、本当にカレーだったのだろうか。

 

かの食の大家、海原雄山は「本物のカレーとは何だ」という自分の出した問いに対して「カレーの神髄とはスパイスだ。スパイスと食材の多重構造の組み合わせこそがカレーの神髄だ」という答えを用意した(意訳)。マッチポンプ的な雰囲気が感じられるが、そこには目をつぶろうではないか。

 

そして僕も、雄山にならって自分自身に問う。

 

「本物のソーセージとはなんだ」と。

 

先に出した僕個人的な結論は、

「ソーセージの神髄とはスパイスだ。スパイスと肉の多重構造の組み合わせこそがソーセージの神髄だ」 

 

となっていた。

 

察しのいい方ならお気づきなのかもしれないけれど、こうなるとカレー=スパイスで、スパイス=ソーセージと言っても過言ではなく、そうなると結論としては

 

「ソーセージ=カレー」となる。

 

これが結論でいいですか。

沼ってこういう事ですか。たしかに後ろも先も見えなくなりますね。

 

しかし最後に重要な問題が残っていて、かつて若月千夏がブログのタイトルにも冠していたように、カレーライスは飲み物であり、そうなるとソーセージも飲み物であると言える。

 

そうなるとソーセージは噛まずに飲み込まなければならず、あの形状のものを飲み込むには相応の練習と努力が必要であり、その練習内容なんていうのはもうイラマチオでしかなく、その努力とはオーラルセックスなのだけど、ん?これはより先に何を書けばいいのか分からないし、あれ、これって沼?泥沼? みたいになる。

 

まあ、いい。もう誰でもいい。何でもいい。僕のソーセージ、もしくはカレーを飲んでくれないか。