僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

物に愛着を持つ為のたった一つの方法。

我が家では夜のご飯は僕が作り、昼のご飯は妻が事務所で作るというルーティンが基本になっている。

 

なので家にある調理器具は必然的に僕が使う事が多くなり、そのため僕の好みで選んでいるものが多いのだけれど、その調理器具の中で一際愛着を持っている物がある。

 

それは木べらである。

 

そしてその愛着はただの愛着ではなく特別な愛着である。引き出しを開けてそこに木べらが見当たらなかったらどこに行ったのか心配になるし、炒める時にその木べらがないと落ち込んでしまう(そういうとき、彼女はいつもシンクの隅で自分が洗われるのを静かに待っている。無駄に声を荒げたりしない、大人しい子なのだ)。

 

とはいえこの木べらは特に高い物ではなく、妻が一人暮らししていた頃に百均で買ったものである。もともと自分の物ですらない木べらに、なぜ愛着があるのかというのを理論的に説明するのはとても難しい気がする。別に握りやすいわけでもなく、使いやすいわけでもなく、至って普通のどこにでもある木べらである。

 

元が妻の所有物なので最初がどのような状態だったのかは分からないけれど、一緒に暮らすようになってからの6年間この木べらを使って料理してきているので、当初と比べてとてもちびってきているのは間違いない。あの、なんと呼ぶのかよく分からないのだけれど、木べらの中で「持つ」ではなく「混ぜ」を担当する部分が当初の2/3くらいになっていて、それもまた愛おしい。

 

 それだけ先がちびって古くなってきていると、妻から買い替えればと言われる事があるのだけれど、先にも書いたようこのに木べらに特別な愛着を覚えているので毎回きちんと断っている。

 

そのスリ減りと相反するように、結婚当初から比べて僕のお腹周りは3/2以上の大きさになってしまっているが、木べらが減るということはそのぶん木片が食材に混ざってしまっていることでもあり、このお腹を形成した食事及び栄養成分のうちの何割かは木べらを食べて得たことになるだろう。もしかしたらここに愛着の秘密がある気がしないでもない。

 

しかしそうなると妻も同じ様に木片を食べていることになるが、先に書いた様に木べらを新しい物に変えようと提案してきたりするので、妻は木べらに対して僕の感じている愛着ほどのものがないようにも思われ、そうであれば「食べること=愛着」にはならないことになってしまう。

 

おじいちゃんおばあちゃんが孫を見たときや、動物好きの人が子猫や子犬の動画を見た時に良く言われる台詞として「ああん、可愛すぎて食べちゃいたい」というものがあり、その「可愛すぎる」という気持ちと「それを摂取したい」という欲求に一体どう言う相関関係があるのか僕には分からないけれど、好きだと思っていたものを摂取したい、というのはもしかしたら人間の本能的なものなのかもしれないとも考えてしまう。

 

例えば僕は性行為の際、というか日常生活においても相手を舐める事が好きである。

 

俗にいう舐め専とでもいおうか、出来る事ならば妻の足の指(手の指は匂いが少ないので味気ない)を舐めながら合間にハイボールを啜りテレビゲームをしたいというのが目下の希望であり、毎年誕生日プレゼントは何がいいかと聞かれると上記の旨を伝えたのち、思う存分足の指の間を舐め回させてくださいと伝えている。

 

しかし希望というものは叶えられないからこそ希望として成立するものである。すなわち未だその願いは叶えられたことはない。

 

ただその叶わない状況は、実は幸せなことでもある。

 

もし仮に足の指舐めが毎日の出来事になったならば最初は幸せを感じるのかもしれないけれど、それが日常になってしまうと目新しさがなくなり惰性としての足の指舐めになってしまう。

 

そうなると足指舐めに対するありがたみが薄れてしまうかもしれず、そういった機微に敏感な妻は僕の感謝感動が薄れてきたと感じた瞬間から足を上げる労力もまた無駄に感じるようになり、妻もまた惰性で足をあげるようになるかもしれないからだ。

 

そうなるとかたや惰性で舐め、かたや惰性で足を上げる、惰性対惰性のぶつかり稽古になってしまう。

 

 そんな悲しい稽古、あの貴乃花でも耐えきれないだろう。

 

また惰性で足を上げる、と簡単に書いたけれど、よくよく考えるとテレビゲームをしながら足の指を舐めるというのは、舐められる方にとってそうとうな身体的な苦痛を与えてしまう懸念がある。

 

例えば最近僕はスーパーファミコンミニのスーパーメトロイドをしているのだけれど、その際座椅子に座ってテレビ画面に向かっている。そして妻はといえばその横で寝転びながら同じ画面をみているのであるが、僕に足の指を舐めさせる為には僕の顔の位置まで足を上げなければならない。

 

そうなると妻は内転筋のインナーマッスルを鍛えるときのエクササイズのような姿勢、つまり寝転びながら片足だけを上にあげる姿勢を強いられることになる。これは確実に足がつる体位だ。 そしてこの体位で挿入すると松葉崩しになるのだけれど、これは余談なのでここでは拡げない。

 

なので実際にゲームWith足舐めを敢行したとしても足を舐める時間はわずかしか取れず、そのわずかの時間の為に足がつった妻とわずかな時間しか足の指が舐められなかった僕の両方にフラストレーションがたまり、折角の誕生日は最悪の記念日になってしまう。

 

なので、未だ足舐め誕生日が開催されていないことは、幸せな状況なのである。

 

さてここからは先に書いたように、好きだから食べたいのか、食べたいからこそ好きなのか、という素朴な疑問について書きたいのだけれど、この食べたい、という感情はあくまでも比喩としての食べたいなので、ここでは舐めるとして書いていく。

 

なので、「舐める」事と「好きになる」事の相互関係についての文章となる。

 

果たして人は好きだから舐めるのか、舐めるから好きになるのか、という卵が先かニワトリが先か論争の勃発である。

 

これが決まらない事には僕がなぜ木べらに愛着を持つのかが説明出来ないし、物に愛着を持たせるということについて書けないままとなってしまう。

 

 もしこれを読んでいる人で「いやいや、好きでなければ舐められないではないか」と考える人がいるのであれば、それはまだ経験の少ない青少年もしくはウブで奥手なうら若き女性であろう。

 

あまり他人を舐めた事のない人が陥りやすい罠であり、これは試験でもよく引っ掛け問題として出されるものなので注意して欲しい。

 

基本的に舐めるのが好きな人は、別に好きな人のものでなくても舐められるのだ。

 

これがよく分からない、という人に対して、僕が昔経験した話をしたい。

 

まず前提として、僕は舐め専でありながら、脇好きでもある。

 

別に毛が生えていても毛がはえていなくてもいいけれど、いや、やはり出来れば剃り残しもしくは剃ってから2日くらいたってチクチクとした毛がつくしのように、そう、まるで雪が解けて川になって流れつくしの子が恥ずかしそうに顔を出すような状態、俗にいう「春一番状態の脇」が一番の好みであり、その脇を千歳飴の様に執拗に舐め回す僕こそがキャンディーズである。

 

世間はもうすぐ春なのかも知れないが、僕は頭の中が一年を通して春だ。

 

そしてそのつくしにプラスして、脇から汗が雪解け水のように汗が溢れ出ていようものなら、もうそれは脇を通り越して桃源郷もしくはパラダイス。

 

かの太公望は桃で水をお酒に変えたというけれど僕にとってはその雪解け水こそが酒であり抜群に酔える液体、言うなれば脇から出(いず)ストロングゼロである。

 

そんな液体がスーパーやコンビニで売られていれば速攻で飲むし買い占めるだろうし、それがファミレスのドリンクバーに並んでいようものならまずは素のまま、次はコーラ割で割って刺激を感じ、さらにオレンジで割って柑橘風味との混ざりあいを味わい、最後はメロンソーダで甘く〆るというのが脇汗に対する最低限の礼儀であろう。

 

というかそれくらいに爽やかな汗が湧き出るその脇はお酒を愛する僕にとって樽交換の必要ないビアサーバーのごとき神聖な泉であり、僕は誤って普通のキンタマをその泉に落としてしまい、そこに棲んでいる泉の精に「貴方の落としたのは金のキンタマですか、それとも銀のキンタマですか」と聞かれて少し照れながら「普通のキンタマです」っていいたいし「正直に答えた貴方にはこの金のキンタマを差し上げます」って言われたいし「でもあれですね、金のキンタマってぶっちゃけ普通のキンタマですよね」なんてたわいのない会話をしながら2人で笑い合って泉のそばにある岩に並んで座ってだべりたい。そのついでにその泉の精の脇も舐めたいし、彼女の手に握られている銀のキンタマともともと僕のものだった普通のキンタマを横目で見ながらちょっとドキドキしたい。

 

みたいな感じで脇が好きなのだけれど、以前正月にテレビを見ていたとき、お笑い芸人が並んで大喜利をしていたことがある。

 

その時、答えを思いついた芸人さん(おっさん)が手を挙げた瞬間に着物の裾から脇がちらっと見えたのだけれど、その時僕はなぜか「やっったっっっ!」と叫んでいた。

 

別におっさんが好きな訳ではない。ただ脇が、好きなだけなのだ。

 

もともとさして好きでもなかった芸人さんであるが、その脇を見てしまったあと何となく目で追いかけるようになり、いつの間にかその芸人さんが出ている番組はとりあえず録画し、気がつくとyoutubeのおすすめ動画にもその芸人さんの漫才が並ぶようになってしまった。

 

そのように、脇ありきでその人が好きになる事もあるので例えそれが「脇」でなく「舐め」であっても、どちらが先とは簡単に言いがたいものなのである。

 

さて、先に子どもや子猫に対して保護者が「食べちゃいたい」と思う欲求の源は「可愛い」であると書いたが、ではなぜその対象物を「可愛い」と思うのかと言えば、それもまた一言で書くのは難しい。

 

はなはだ今度は別の次元、恋愛における話になってしまうけれど、例えば女性が男性に感じる感情のうち、一番強力な好意感情の元は「かっこいい」でも「頼れる」でも「お金持ち」でも、ましてや「絶倫」などでもなく「可愛い」なのだという。

 

「かっこいい」はかっこわるいところを見てしまえば幻滅するし「頼れる」は頼りない一面をみてしまうとこれもまた幻滅する。「金持ち」はお金がなくなれば用なしだし「絶倫」を標榜する男はなんとなく気持ち悪い。

 

しかし可愛いの場合、かっこわるくても頼れなくてもそこが可愛いし、お金がなかったら養ってあげたい。そしてもし絶倫で可愛ければそれはもう北斗神拳最後の継承者の資格を持つようなまさに圧倒的な強さらしい。世紀末可愛い継承者。ケンシロウがもっと可愛かったら、シンもサウザーラオウも楽々倒せたはずなのに。なんて言ったって可愛いは正義なのだから。

 

「ほわっちゃーーー♡」

「うわーーー♪やられたーー(>_<)」

 

 

ではその恋愛面からみる「可愛さ」とはなんなのか。

 

それは突き詰めれば「守ってあげたくなる」という気持ちであろう。動物全般において、子どものうちは一人では生きていくことが出来ないし、俗に「可愛い」と思われる女性は儚げであったり幼さの残るようなものであり、誰しもが生きていく強さをGLAYほどに持っているわけではない。

 

なのでそれを見てしまうと、こいつこのままで大丈夫なのか、という幾分不安な気持ちが芽生え(俗にいう母性や父性というものだろうか)、結果的に守ってあげたい、となる。そういえばGLAYのジローもいくつになっても可愛いし。

 

そしてその守るという行為においては、対象物を安全な場所に移動させるというのが最重要かつ最優先事項になるのだが、ここで考えなければならないのが、一番安全な場所はどこなのだ、というものである。

 

安全な場所と聞いて思い浮かぶのは、地下シェルターや自衛隊基地、ペンタゴンや本能寺みたいなものが浮かぶかもしれないけれど、ここではこういった文化的な建造物は省いておく。なぜならば母性という感情に極近いものの話をしているからだ。なのでここで文化を出してしまうと収拾がつかなくなってしまうし、よく分からないけれど人生五十年だとかいって踊りたくなってしまうかもしれないし石田三成はいつまでたっても信用出来ないという議論に発展してしまうおそれがある。

 

で、そういった意味では一番安全なのはもちろん自分が普段生活している基盤、つまりは巣であるけど、男女雇用機会均等法が浸透してきた昨今、男女ともに巣に滞在する時間が短くなってしまっているからして、安全だと思っている巣に籠らせていたとしてもやはり目が届きにくくなる。

 

となれば一番安全な場所は自分の目が届く範囲かつすぐに手を差し伸べられる場所であり、たとえばそれは有袋類であればお腹の袋なのだろうけれど、人類がもっている袋は男性であれば玉袋であり女性であればレジ袋、男女が共通して持っているのは胃袋くらいしかないが、玉袋は熱に弱いしレジ袋はすぐに破れるのでそこに大切なものを入れるにはどうにも心もとなくなる。

 

その心もとなさを解消する為の結果、男女共に守りたいものを胃袋に収めようとするのである。

 

それゆえに「可愛い=守りたい=食べたい(舐めたい)」という図式になるのではないだろうか。

 

どれだけ考えても、もうこれ以外に「可愛い」から「食べたい」に繋がるルートは見つからない。カーナビの最新機種でもきっとこれを最短ルートに設定するだろうし、子ども電話相談室でも同じ答えが返ってくるはずだ。

 

「こんにちは。今日の相談内容をまとまると『可愛すぎて食べちゃいたいとおじいちゃんが言ってくるので、食べられてしまわないか毎日不安に襲われています。でも何よりも不快なのが、おじいちゃんの口臭です』とのことでお間違いないですか?では回答します。おじいちゃんが貴方を食べたいというのは、一種の比喩、たとえ話なので心配しなくてもいいですよ。ただ、口臭に関してはとてもデリケートな問題なので、出来れば口に出す事なく、態度で示す様にしましょう。その昔、おじいちゃんお口臭い、というCMがあったのですが、そのCMのせいで自己嫌悪の念にとらわれたおじいちゃんたちが集団で消息不明になる、という社会問題に発展しました。もし別におじいちゃんが消えてしまってもいいなら、お口臭い、と伝えましょう。わかったかな?」

 

しかし、そのような図式に気付いても、また一つここで別の疑問が生まれてしまう。

 

その疑問の発端となるのは、ツイッターやインスタグラムなどで精巧に作られたチョコレート菓子や彩りの美しい西洋菓子、季節感溢れる和菓子などを見た婦女子およびスイーツ系男子およびお菓子大好きおじさん達がよく言う、「食べるのもったいないくらい可愛い!!!」みたいな文章である。

 

その言葉が嘘偽りのない本心であるならば、彼ら彼女らは可愛いものを見た際に体内に摂取する事を拒否し、ただ傍観することこそが至高であると公言しているといっても過言ではない。

 

だがそうなると、先ほど書いた「可愛い=食べたい」の図式が当てはまらなくなってしまう恐れがある。可愛いのからこそ食べたくない。なんともわがままである。

 

けれどここで諦めてしまうのはまだ早い。忘れてはならないのは、その対象に違いがある、ということだ。その違いとはその相手が「生き物」か「食べ物」かの差である。

 

そしてさらに言えば、ここにおいて件の人々は、そもそも食べ物ではない赤ちゃんや小動物に対して「食べたい」という感情を抱き、逆に食べ物であるお菓子に対して「食べたくない」という感情を持つという、いわば異常な状態に陥ってしまっていることになる。

 

「食べ物ではないものを食べたいという気持ち」と同居する「食べ物を食べたくないという気持ち」。

 

これはいうなれば「可愛い」による本能の破壊、バイオハザードである。なにかを可愛いと思う感情は、理性を狂わせるだけでなく、本能をも破壊してしまうのだ。 

 

これを先の図式に当てはめると、

 

可愛い(生物)=守りたい=舐めたい=可愛い(食べ物)=食べたくない(舐めたくない)=守りたくない

 

となる。

 

これを一言でいえばなんなのかといえば、カオスとしか言いようがない。

 

 

なのでもう以上話を広げても本当に収集がつかなくなり、というかそれだけでは収まらずアンブレラ社から記事の削除要請がでるかもしれないし、ミラ・ジョボビッチが僕の可愛さに発狂してオマタ・ジョボビッチになってしまう懸念がある。

 

なので、今度は逆に愛でられる方から考えてみたい。

 

愛でられる対象としての最高位に君臨するのは、言うまでもなく赤ちゃんだ。

 

その赤ちゃんのもつ感覚の中で一番発達しているのは、触覚でも視覚、嗅覚でもなく味覚であるという。なので未知の物を手に取る、もしくは発見したときに、迷う事なく口にもっていき、それが何なのかを確認するのだ。

 

少し話が脱線するけれど、この率先して舐める、という行為は僕も見習いたいと思っている。

 

しかし今の年齢になってしまうとなんとも難しいもので、34歳の小汚いおっさんが初対面の人に対して「貴方は僕にとって未知の存在なので舐めさせて頂いてよろしいでしょうか」といっても断られるのは目に見えているので先は暗いし、僕が舐められたい部位は先が黒い。

 

ただこの暗闇にはひとつの光明があり、それは自分が可愛いの対象のなること、すなわち赤ちゃんになることが唯一つの解決策となる。

 

相手が赤ちゃんであれば、それが例え34歳のうすらぼけた先の黒いおっさんであっても「あれ、見た目はおっさんだけどそれとなく赤ちゃんみたいだしこれはこれである意味可愛いんじゃないかな」と錯覚させて相手の本能をぶち壊す事が可能である。

 

大胆かつ当たり前のように「自分は34歳ではあるけれども本質は赤ちゃんである」と優しく紳士的に伝えて安心感を与え、さらに見た目もそれに近づけることで予防線を張ることも忘れず、出かける時の必需品を携帯煙草鍵ではなく、よだれかけオムツおしゃぶりに変えることにする。それにより多数の人々は初対面であっても僕が舐める事を許すと思う。

 

なのでどこかでおしゃぶりを咥えてよだれかけを着け、オムツを履いて「あの、初対面ですが舐めさせてくださいませんか」と声をかけている人間をみれば、だいたい僕と思っていただいて間違いないだろう。街の悪そうな奴はだいたい友達、頭の悪そうな赤ちゃんはだいたい俺。

 

さて、話を戻そうと思うけれど、そもそも最初から脱線の一途をたどっている事もあり、ここいらで話をタイトルに繋げたいのだけれど、そもそも物に愛着を持つ為に必要なものは、密接な距離感である気がする。

 

そして人が出来うる限り密接な関係というのは、それが対人関係であれば結婚に代表されるように書類的な法的根拠を除けば、キスであり性行為である。しかしそうなると、相手が人でないもしくは法に触れる場合、密接な関係は築けない。

 

ではどうすればいいのかと言うと、もう答えは出ている。

 

上で赤ちゃんがなぜ物を舐めるのかというのを書いたが、それは別に気の迷いでも何でもない。舌はとても敏感であり、情報を収集する為にはうってつけであるからして、手で触るより舐める方が色々分かることが多い。イチゴを見ているだけでは味は分からないけれど、舐めれば甘いか酸っぱいかがすぐに分かる。

 

なのでその対象物が好きなのかどうかは、先に書いた「脇」のたとえ話のように、舐めればすぐに分かる様になるのだ。

 

そう、物に愛着を持つ為のたった一つの方法とは「舐める」のみである。「食べず嫌い」という言葉がある様に、舐めた事のない物を好きになれるはずがないのである。

 

例えばオフィスで使っているはさみに対して「なんとなく嫌い」「このはさみに愛着が持てない」と思ったとしよう。

 

その時あなたがすべきことは、新しいはさみを探すことでもそのはさみを長い間使う事でもなくすぐさまそのはさみを舐める事である。

 

それが例え人前であっても、恥ずかしがらず惜しげもなく舐める。

 

そうすると他の人からは「ああ、あの人はあのはさみが舐めたくなるほどに好きなのだな」「あの人が舐めたはさみを使いたくないな」「あのはさみが錆びたのはあいつの唾液のせいだな」と思ってもらえ、いつの間にか外堀が埋まってそのはさみはあなた専用のはさみとなり、離れられなくなるだろう。

 

あの素晴らしい愛をもう1度と歌ったのは北山修加藤和彦だけれど、オフィスではさみをなめる貴方は、あの素晴らしい錆をもう1度と呟きながら、はさみを愛でる事になる。

 

これだけ書いていても疑り深い人は「本当か」と疑われるかもしれないので、僕がまず率先してそれを証明し、皆様の今後の生活に活かしたいと思う。

 

誰しも嫌いな物の1つや2つあるはずで、僕もそれにもれず嫌いな物がいくつもある。しかしその嫌いな物でも、毎日舐めるようにすれば愛着が生まれるのは必然となる。

 

ちなみに僕が今現在一番嫌いなのは、妻の父親だ。そこで、毎日妻の父親を舐めるようになれば少しずつ好きになり、愛着が生まれる様になるということを証明出来ればいいわけだ。

 

しかし先ほども書いたけれどこれが人である場合愛着を持つ為には粘膜による結合が不可欠であるのだけれど、こういったことを文章にするだけでも本当に気持ち悪いし腹が立つ。

 

よしんば僕が頑張って妻の父親を舐め続け、その結果として相手に愛着を持ったとしても、その代償として向こうは間違いなく僕の事を嫌いになるだろう。僕だって変なおっさんが毎日舐めてこようとしたら、殺したくなるに決まっているのだから。

 

というかそもそも部下から毎日のように舌を這わされていれば、自ずとこのような言葉を言いたくなるのではないか。

 

「お前、俺の事を舐めているのか」と。

 

まあ、実際問題舐めてるのでそうですよと言うしかないのだけれど、そもそも妻の父親を舐めて愛着を持てたからって何がどうなるというのだ。というかなぜ僕が大嫌いなアイツを舐めなければならないのか。しばきまわすぞ。

 

感情は時として文章を支離滅裂にしてしまうのでここではとても抑えるけれど、部下に馬鹿にされて怒り狂う社長に僕から言える言葉は一つだけだ。

 

「好き嫌いは、舐めてからしか分からないですよ。さ、貴方も僕を舐めてみませんか」

 

まあ、冷静に書いてもこんなものだ。