僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

このブログは目覚ましテレビに紹介されていません。

事実と真実は違う、なんてことをいうけれど、では真実が事実でないのかといえばそうでもなく、また真実でありながらもそれが事実でもあるということもある。しかし別の視点で見れば事実であるものが真実ではないなんてこともざらにあり、では真実の定義を定めたとき、その定義は事実として成立しているのかなんてことを考えると今度は事実と真実との関係性に真実を見いだすことが難しくなる。

 

まったくもって何をいっているのか分からないかもしれないけれど、それは僕にも分からないのだけれど、しかしこの文章では少しいいたいことがあって、それは

 

「このブログが目覚ましテレビに紹介されました!」

 

と書くことと、

 

「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません!」

 

という2つの言葉の違いについてだ。

 

まず、このブログが「目覚ましテレビ」に紹介されたという事実はない。

 

なのでこのブログが目覚ましテレビに紹介されたと書いてしまうとその言葉はウソでしかなく、そのままでは読者が怒り狂い「このくそ野郎がウソをつきやがってしばくぞぼけダボが」となることは目に見えているし真実を伝えているとは言いがたいしというかまったくもって伝えていない。

 

しかし後者の「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」というのは本当に紹介されたことがないので事実、これを書いたからといってウソをついたことにはならないのは明白である。

 

が、実はここでこの「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」という文章を書いたとき、読んだ人の中で別ベクトルの化学反応が起きることはあまり知られていない。

 

その化学反応とは先ほど書いたような嘘に対して産み出されてしまう怒りとはちがい、「わざわざ紹介されていないことを書くということは、別のサイトか何かでこのブログが目覚ましテレビに紹介されていたと書かれたのでは?」「それを否定する為にこの記事を書いたのでは?」という思考がいつの間にか芽生える、というものである。

 

火のないところに煙は立たぬ、という諺があるが、その諺になぞらえれば「目覚ましテレビに紹介されていない」という煙は、誰かが書いたであろう「目覚ましテレビに紹介されていました」という火を見なければ生み出されないはずの煙である、となる。

 

だがしかし僕はまったく持ってそんな火を見たこともないので、これはただ勝手に煙だけを気ままに生み出しているということであるが、それがどう言うことかというと、誰1人として「このブログが目覚ましテレビで紹介されていた」なんてことを書いていないのに「そう言えばこのブログは目覚ましテレビに紹介されていないなあ」と僕が勝手に思い、紹介されていないことを書こうと思って書き始めただけのことなのだ。

 

しかしお気付きの通りここに逆転の発想の原点があり、実際には火の大きい小さい関係なしに、というか火がまったく燃えていなくても煙を勝手にたてることが出来ることの証左である。

 

なのでこの「このブログは目覚ましテレビに紹介されていません」という他にも、「今日はスパーリングをしませんでした」と書くと普段は格闘技をしてると思ってもらえるはずであり、「そういえば今日は新垣結衣に逢えなかった」と書くと一度も逢ったことがないのに普段からガッキーと逢っていると思われることになり、また会うを逢うと書くとキャバクラのきもいおっさん客みたいにも思えるし、「今日の小泉今日子小泉今日子で合ってるんだけど一昨日の小泉今日子は小泉一昨日子(こいずみおとついこ)なのかなあ」と書いてみたはいいけれど彼女の名前は本当にこの漢字で合っているのかなと調べてみたら所属事務所が「明後日(あさって)」だったことを知ってやっぱり今日子は一歩先をすすんでるなあ、今日子の事務所が明後日だなんて素敵だなあ明日を超えてるんだもんなあなんて思い、「そういえば最近おすぎとピーコは元気にしているのかなあ」と書くとあの2人と過去に交流があったように思われるだろうことは想像に難くない。

 

そうなると普段から格闘技をしていて常日頃から新垣結衣と逢う様なキャバクラ好きのおっさんでかつ恒常的に小泉今日子の心配及び感心を胸に秘め昔交流があったであろうおすぎとピーコの現状を心配するという1つの人格が生み出されることになるのだが、実際にはそんな人格は存在しない。

 

なぜならそれは読んでいる人が勝手に生み出した虚像だからだ。

 

そもそもが裏のない言葉であるにも関わらず、その裏を勝手に想像したが故に生まれた悲しい人格、哀愁のコピーロボット、いうなればジキルにおけるハイドやおすぎにおけるピーコはこのようにして人々の誤解から生み出されるのである。

 

 また話を戻すと、このブログは目覚ましテレビには紹介されておらず小泉今日子も一昨日子ではなくガッキーを目にしたことはもちろんなくキャバクラも未経験でおすぎとピーコは今日も元気に生きているし、格闘技にはあまり興味のないという虚像の大本である僕のこのブログは今、混乱の渦中にいる。

 

この混乱の元凶は、果たしてこのブログのメインであるソーセージ作りは一体どうなってしまったのかというものなのだけれど、これだけ暑くなると菌の繁殖が気になって燻製も出来ないしエマルジョン化もすすまないしそれよりも低温調理の方が今の時期は安心して料理出来るなって思いながら最近はゴルゴンゾーラのスパゲティをあえて生クリームを使わずに豆乳であっさりとかつブルーチーズ特有の香りがもっと立つ様に、夏に食べたいゴルゴンゾーラパスタなんてものを考えたりしています。

 

ネットで検索しているとパスタのブランドはディチェコが一番だのバリラがおすすめだの業務スーパーのトルコ産のパスタはおいしくないだのと色々な意見が散見されるので、これは自分の舌で確かめてみねえとなっつって色々味見してみたけれど結局何がどれで誰がどこで美味しいってなんだっけ歯ごたえってこんなだっけみたいに混迷を極めている。

 

そしてその探求の様子がたまたまテレビディレクターの目に留まっていつの間にか情熱大陸に出演が決まってそれをみた目覚ましテレビのスタッフが僕をスパゲティの権威として取り上げ、僕の店が有名になり、そうなるとこのブログが目覚ましテレビなんかに取り上げられたりもするはずなのだけれど、結局未だにこのブログは取り上げられていないことはおろかそもそも店すら出していませんし味比べをしてもこまかい味の違いがわかりませんし、そうなるといつも通りオナニーしてふて寝することになる。

 

なので今ここにある事実としては、オナニーをして寝たことだけが事実であり、真実としては僕のオナニーを見ていた人及び僕がふて寝しているところを見た人がいないので僕は存在していないということになり、それはそれでまあ仕方ないのだけれど、そもそもこんなことをたらたら書く切っ掛けになったのは、何を隠そうaikoの「ストロー」という曲である。

 

最初僕はこの歌を「幸せなカップルの歌」だと思っていたのであるが、妻が「いや、なんか不穏な感じのする歌やで」と言い出したので歌詞をじっくりを眺めながら思案していると、なんとなく不穏な感じが僕にも感じ取れ、そもそも「赤いストロー」とは何を意味するのか、これは「赤いチャンチャンコ」などと同じ様な怪談に近いものではないのか等という憶測が2人の間で流れ、歌詞はまったく持って変わっていないにも関わらず僕たちの受け取りかたでずいぶんと世界観が変わるねえ、なんて言いながら、今週も頑張って生きていきましょう。

 

君にいい事があるように 赤いチャンチャンコ着せてあげる。

 

なんてね。

 

うっさい。ただの還暦やないか。しばくぞ。