僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

「何を言ったかより、誰が言ったか」を重要視するこの世界はきっと正しい。という気付き

誰がいったか知らないが「人は何を言ったかより、誰が言ったかを重要視する」というような言葉をよく目にする。

 

まあなるほどなと思う反面、なんとなく納得がいかない気もしていたのだが、最近とある出来事によってとてもスッキリとしたのでその顛末を記したいと思うのだけれど、これがまあ下品きわまりないので別に読まなくてもいい気もする。

 

そもそもそのスッキリの大元は性的欲求の解消という別のスッキリの為の行為から始まったのだけれど、僕は常日頃からツイッターのエロアカウントを徘徊しながらの自家発電によるスッキリを求めている。

 

そんなおり、たまたま見つけたアカウントのプロフィール欄に「人妻/自撮り/屋外露出/乱交/スカトロ」などの魅力的な言葉が鎮座していたので、なるほどこれはよろしいのではないか、たえず僕の魂が求め続けていたものではないか、僕の極楽とんぼもスッキリするのではないか、僕の愚息を水戸黄門に例えるならば左右を支えるキンタマたち、いうなれば黄門様(ちんこであるにも関わらずこうもんとはこれいかに)の右に仁王立ちする助さんと言う名の加藤、左に鎮座する格さんである山本に相談した結果「スッキリ!!」という天の声とともに「熱盛!」という叫び声も聞こえてきたのでその声に従い発見したアカウントのツイート履歴を逆のぼって見たのであるが、なにはどうあれとても綺麗な下着姿や淫らな写真の数々があげられ、ああ、こんなアカウントが凍結もせず存在しているなんてなんて素敵な世界でないかといたく感動し、天まで立ち上る印籠を猫たちに見られないように拝見していたのであるが、ある一枚の画像から目が離せなくなってしまった。

 

その画像とは、なにを隠そう便器に排出されたうんこの画像である。

 

目が離せなくなったと書いたのだけれど、別にその写真がおかしいとは思わないで欲しい。なぜならばちゃんとbio欄にスカトロと記載されているのだから。

 

素敵な女性の排泄物というのはもう本当に素敵なものであり、どれだけお願いしても手に入らない類のもの、いわば高尚な美術品と同じようなものである。モナリザ、ミロのヴィーナス、木の葉天目茶碗、美女のうんこ。

 

あなたがもしバンクシーの作品を手に入れたいと思っても気軽に手に入らないように、美女の排泄物をゲットするのはミュウツーを捉まえるよりも難しいのは周知の事実だ。誰彼構わず気軽に、ZOOの歌にのせて、「愛をください」「やっぱりオシッコをください」「それよりうんこをください」といえるような世界であればいいのだけれど、今の世界は残念なことにそうではない。それも全部辻仁成のせい。

 

そのような背景からして、例えこれは画像だけでもこれはもう額に入れて飾るべきものなのであり、この画像は私の美術館のギャラリーに永久保存されてしかるべきものでもあるのだけれど、一つの懸念がそれを押しとどめるのだ。

 

 その懸念とは「はたしてこれは本当に美女のうんこなのか?」という疑問である。

 

はからずも画面に映っていたのは、便器とうんこのみである。そこにコメントとして「出したてです」という文章もあったのだけれど、しかしこれはいうなれば茶碗における外箱と同じ様なものであり、それは複製可能なものでもあり、また突きつめていくとこのアカウントの運用者が本当に美女なのか、という疑いまででてきてしまう。

 

はたして今僕がみつめているものは本当に美女がつくった排泄物なのだろうか。もしかしてたまたま公衆便所で流し忘れていたうんこを撮ったものではないだろうか。そもそも美女のうんこというものは存在しないのだろうか。

 

そんな感情が入り交じり、僕は止まってしまっていた。

 

そして、話は最初に戻るのだ。

 

「人は何を言ったかより、誰が言ったかを重要視する。」

 

そう、うんこというものの本質は変わらない。それはあくまでも排泄物であり、人体に必要なものを吸収した後の不要なものである。

 

不要なものでありながら、それが美女のからだから出たものだというだけで、国宝ともなってしまうのだ。なのでこれを言い換えると、何を出したかよりも誰が出したかが最重要事項になるということである。

 

僕は美女のうんこを求めているけれど、おっさんのうんこは求めていないしそんなものはむしろ迷惑であり、公衆トイレにおいては前任者の残り香ですら嫌な気持ちになってしまうのは誰しもが理解出来るものであろう。

 

という訳で、同じうんこでもおっさんの出したうんこは嫌だし美女の出したうんこは喜ばしいと結論づけられ、すなわち「何を言ったかより、誰が言ったか」が重要視されるというのは、正しいのである。みたいな話です。

 

終わり。