僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

トイレットペーパーを10㎝だけ残してトイレを出る人間は次の人のことを考えない自分本意な人間なのではなくとても我慢強い人間なのだという考察。

果たして自分にとっての我慢が出来る限界はどこなのか。ということを漠然と考えることがある。

 

ただその我慢というのは、いわゆる陰毛を1本ずつ抜かれるとか乳首を洗濯バサミで挟まれるとか耳たぶを噛まれるとかフェザータッチで焦らされるとか陰部には一切手を触れられず鼠蹊部のみを舐められるとか、またそのような状態でデブ、早漏、醜い豚、ほら、汚い涎が垂れているよ(申し訳ございません!!!)、人間でもないのに言葉を話すな、早漏、勝手にぶひぶひ鳴いておけ(ブヒッ!ボブフォッ!!ああっぁ!!ブヒイイィィィ!!!!)、早漏、などと罵倒されるような身体的および精神的苦痛を伴わないものである。

 

そんなものは精神的苦痛ではなく喜びであり我慢などは一切必要なくただ受け入れるのみであるし、というかそういった諸々を我慢出来ないから早漏と呼ばれるのである。

 

今から僕が言う我慢というのは、例えば「お腹はすいているけれど動きたくないので空腹を我慢する」または「コーヒーが飲みたいけれど入れるのが面倒くさいので水で我慢する」もしくは「オナニーしたいけれど手元にティッシュがないので我慢する」「熱いお湯に入り我慢するとその我慢した時間の長さだけ自分及び自分の所属するグループの紹介が出来るので熱いお湯から出るのを頑張って我慢する」という類いのものだ。

 

そのような状態が僕には頻繁に訪れるのだけれど、結局2時間ぐらいしたら空腹に負けて冷蔵庫を漁るようになるしカフェイン切れに負けて缶コーヒーを買いにいくし性欲に負けてティッシュがないままにちんこを弄ったりしてしまうし熱湯コマーシャルは生着替えが醍醐味であるので僕の下半身は熱湯に入る前から我慢を強いられる。そんなことだからパンツが汚れるのはもうご愛嬌だ。しかたないんだ。

 

このように、我慢というものは結局のところ我慢することを我慢出来なくなり最終的にその我慢が無に帰するものなので最初から我慢などせずにご飯を作ったりコーヒーを入れたりオナニーをしたり地上波は倫理規定など気にせず生着替えを放送すればいいのであるが、なぜその解決策を持っていながら我慢をするのかと問われれば、ひとえに面倒だからである。

 

面倒くさいという感情、つまり「人は出来る限り動きたくないものである」と考えるのは、正常位と騎上位がセックスにおける二大人気体位であることからも伺える。

 

正常位は女性があまり動かずにできるものであり、騎上位は男性があまり動くことなく快楽を享受出来る体位である。なので主導権を持っているほうが動き、沿うほうはあまり動くことなく快感をえることができる。2人とも動きたくない、という場合にはセックスそのものを我慢するかもしくはその前の週からお互いに我慢し、高め合い、ポリネシアンセックスに突入ことになるのだけれど、しかし先にも書いた様に我慢はいずれ我慢を我慢出来なくなるのでそこはもう、くんずほぐれつしながらお互いを慈しみあい、もう、幸せになってください。

 

しかし悲しいことにその甘美な状況においてはどういった場合でも我慢ができない僕という人間は世間一般では早漏と呼ばれており、その我慢ができない、我慢のできなさ故に性行為に至れず別方向での我慢を強いられてしまう側の人間ではありますが、どうにかこうにか生きています。生きていますよ。

 

さて、そんなこんなで人は我慢というものと二人三脚で生きているものであるが、ここで先日からツイッターで話題にあがっていた人達について考えてみたい。

 

その人達というのは、トイレットペーパーを10センチ残して立ち去る、もしくは使い終わったままの芯をそのままにして立ち去る人達のことである。

 

その人たちによる行為の被害は総じて次にトイレを使用する人に向けられ「なぜ毎回毎回私がトイレットペーパーの交換をしなければならないのか」「後の人のことを考えないのか」などというわざわざ考える必要の無いことにまで思考を巡らさざるをえず、その無駄な時間は被害者の人生の中で多大な割合を占めることとなる。

 

それを見た人達、これは被害者ではなくある程度まともな人間に周囲を囲まれている幸運な人たちだけれど、彼らはそういった意見に対し、さも気軽に「いや、直接言えばいいじゃない」「私の周りにはそんな人はいません」「自分も使うんだし替えるだけならそこまで手間じゃないでしょ」「ブヒッ!ボブフォッ!!ああっぁ!!ブヒイイィィィ!!!!」などというのだけれど、事はそう単純ではない。

 

そもそも自宅であれば、そのトイレを使う人間は限られているので対処も比較的対処しやすい。夫、妻、子供、親など、身体的にも精神的にも距離の近しい人達であり、なんというか、弱みが握りやすいので簡単に相手の行動を御することができるからだ。

 

「お母さん、トイレットペーパー替えてなかったよ。次替え忘れてたら、タンスの奥のバイブ、おばあちゃんに見せるよ」

 

「お父さん、トイレットペーパー替えてなかったよ。次替え忘れてたら、財布の中のポイントカード、お母さんに見せるよ」

 

「娘よ、トイレットペーパー替えてなかったぞ。次替え忘れてたら、裏垢に凸るぞ。DMに息子ではない息子の画像を送るぞ」

 

「息子よ、トイレットペーパーのことは別にいいんだけど、お前の顔と体型だとママ活は無理だぞ。誰もお前なんかにお金払わないぞ。本当は俺だって払いたくない。この際だからついでに言っておくけど、大学の学費は自分でなんとかしろ。お父さんはセックスレスだから、ポイントが溜まる店にいかなければならないからな」

 

なんていう、平和なやり取りのなかで生活のストレスを軽減することが可能である。

 

しかし、これが会社のトイレであれば、その犯人が上司であったり弱みを握られている相手であったりお局様という1㎡の中に地雷が20個ほど埋まっている立ち入り禁止区域だったりする可能性が存分にあるので、なかなか対処が困難なものである。そして、その結果としてしなくてもいい我慢をしいられてしまう。

 

そしてその我慢は先に書いた我慢とはまたベクトルの違う我慢であり、自分がどうこうできる類いのものではないのである。

 

自分では対処できないとなると、机上の空論で対処法を考えるより先にその行動倫理の源を探ってみたいと思う。そもそもの原因が分かれば、新しい道筋が生まれる可能性もある。

 

僕はその情報を得るため、世界を平和に導く為の新しい常識がいくつも生み出される場所であり、 またその新たな常識を真摯に見つめいくつもの視点から検証を繰り返す有識者が集う社交場である「発言小町」に潜り込むことにした。

 

するとやはりこの現象に関するトピックがあり、先に書いた様な「なぜ変えない」「次に使う人が替えればいいじゃない」「人としておかしい」「旦那死ね」「義母殺す」「杉浦太陽」といったような単語が飛び交い、有識者たちが侃々諤々の議論を繰り広げていたのだけれど、1つとても面白い意見をみつけた。

 

「用を足した後の手は汚く、その汚い手で新しいトイレットペーパーに交換するのは次の人に対する失礼にあたる」

 

というものである。やはり発言小町ではいつでも新しいものに触れられる。これからのインフルエンサーやプロブロガーはツイッターやインスタグラムやフェイスブックではなく、発言小町に活躍の場を求めればいいのではないだろうか。そして「まだ発言小町で消耗してないの?」とかいうタイトルを掲げてボコボコに叩かれたらいい。

 

さて、話を戻す。

 

先にあげた「自分の手が汚いのだから、その汚い手で新しい紙を触るのは失礼」という発言に何を感じるだろうか。

 

もしかしたら、面倒だから交換したくないということの言い訳ではないのか、と感じる人もいるかもしれないし、ああ、そういう考えを持っている人もいるのか、と納得する人もいるかもしれない。

 

しかし僕がこの発言を見て思ったのは、

 

「え、他人に汚いものを触らせない為に、自分の尻が汚いままでトイレを出るのですか!あなたは聖者かなにかですか!?」

 

という驚きだった。

 

よくよく考えて欲しいのだけれど、「自分の手が汚いのだから、その汚い手で新しい紙を触るのは失礼」ということを言い、またそれを徹底しているのであれば、もしうんこをしたのちペーパーを確認、あと一拭き分しかない場合において、あるジレンマに陥ってしまう。

 

そのジレンマとは

 

・肛門周辺にはうんこがついていて汚い

・しかしティッシュを交換するとその汚さが次の人に繋がってしまう

 

というものである。

 

つまりトイレットペーパーを替えない人達とは、「この二律背反に陥った結果、そこから抜け出すことができず、そのまま便器で悩み、人に迷惑をかけない方法を考え抜き、きばり、屁をこいたうえで(やはり他人に迷惑はかけられない、だから私は自分の尻が汚いままでこの個室から立ち去るのだ)と決意し、尻の穴周辺にうんこをつけたままパンツをあげて、ティッシュを替えずにトイレを立ち去るという結論に辿り着いた人達」なのだ。

 

すなわちトイレットペーパーを交換しない人は、面倒くさいという感情などではもちろんなく、むしろ他人に迷惑をかけないために、あえて自分の尻が汚いままであることを選択した人である。

 

究極の自己犠牲である。

 

そんな人達に、あなたは怒れるのだろうか、いや、僕は怒れない。

 

というか、感謝しかない。

 

「ありがとう、後続の人達が汚れない様に気を使ってくれてありがとう」 

 

彼らの汚い肛門に、感謝するしかないではないか。

 

 そして、一度経験したことのある人には分かってもらえるだろうが、うんこがついたままで行動するというのは、あり得ないぐらいに我慢が必要なものでもある。

 

そのまま椅子に座るとうんこがパンツについてしまうし、もし下し気味であればそれはパンツを通過してズボンについてしまう。ここであえてハイロウズの十四才の歌詞風に言わしてもらうけれど、

 

1発目の軟便は

パンツに命中

ズボンを飛び越えて僕の鼻に

 

2発目は座席を飛び越えて

同僚の鼻に

 

それは僕の傷心ではなく

それは僕の昇進に響いた

 

 

という感じになるだろう。

 

ということは、彼ら彼女らは、他の人の為なら自分のこの先の未来がどうなってもいい、私が我慢することで他の人達が汚れないなら仕事がなくなってもいいという覚悟をもった上で、トイレットペーパーをそのままにしているのだ。

 

聖人以外の、なにものでもないではないか。

 

彼ら彼女らに対してトイレットペーパーを交換しろというのであれば、彼ら以上に他人に対して気配りをしていなければならないのだ。

 

聖書にはこういう一文がある。

 

「貴方たちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

 

そう、彼らの気配り以上の気配りを出来る人だけが、彼らに石を投げることができるのだ。

 

だからどうか、自分の前にトイレを使った人がトイレットペーパーを交換しない人であったなら、感謝の気持ちをこめて、こう言ってあげて欲しい。

 

「あの、貴方の臭いは、私たちの為の臭いだったのですね。貴方の肛門の汚れは、私たちの為の汚れだったのですね。本当に、本当にありがとうございます。あなたのお尻が汚れれば汚れるほど、私たちは綺麗になっていたのですね、貴方の我慢の精神に、感服いたしました。」

 

さすれば、彼女たちはきっとこう言だろう。

 

「え、何?なんなの?意味分かんないんだけど」

 

と。

 

そしてもし僕がキリストならば、あなた方にこう告げるだろう。

 

「おっしゃ石や!石投げつけたれ!」

 

 

と。