僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

そう、全ては僕が悪いんです。

歳を取ると、普段聴く音楽ですら気をつけなければならない。

 

いや、ならないというと語弊がある。正確にいうのであれば、別に何を聴こうがそれは個人の自由なのだけれど、それを対外的に出す時には、ある程度気をつけないと「ただ気持ちだけの悪い人」になってしまう可能性がある、ということだ。

 

先に書いておくけれど、別に音楽は誰かから強制されるものではなく自分の聞きたいものを聞くのが一番だと思っているし、今聴いているものがなんであれ、それは誰からも否定されるべきではないというのが、僕自身のスタンスである。

 

また今回は普段と毛色の違う話になるのですが、そもそもこのブログにシモネタを期待している人がいるはずないと思っているのだけれど、もしそんな奇特な人がいるとすれば本当に申し訳ないので最初に謝っておきたい。ごめんね。

 

そして実際にこの謝罪を真に受ける人がいたとしたら、そういう人は何かの病気なのかも知れないので病院にいった方がいいと思いますよ。そこでもらえる処方箋の中身は多分ペニスリンとかそういうくだらないものだとは思うけれど。

 

さて、この話の発端は、先日妻と話していた時におっさんがあいみょんを聴くのはどうなのか、という話になったことである。そこでの着地点は先に書いた様に「別に好きならそれでいいんじゃないか」というものだった。

 

その次にお題にあがったのは西野カナである。おっさんが西野カナを聴いていたら、どう思われるのだろうか、というものである。

 

ここで1つ気をつけなければならないのは、あいみょんの時には「聴くのはどうか」というものだったのが、西野カナの場合には「聴いていたらどう思われるか」となっている点である。

 

まず西野カナの特性について書いておくと「主に女性をターゲットにした女性のパーソナルに則した女性の為の恋愛観」があげられ、その歌詞作成にはインターネットを利用したマーケティング手法が使われていたりするので共感性が多大にあり結果として若い女性が聴くようになる、というのが、ごく簡単にかいつまんだ説明になると思う。

 

さて、その共感性をメインにおいた西野カナであるが、さてではおっさんが西野カナを聴いていた場合、どのような反応が出てくるかといえば「なぜおっさんが女子目線の曲を聴いているのだ」「お前は何に共感しているのだ」「若い女の子との会話の為に聴いているのだろう」というようなものが予想されるし、この予想は僕が僕自身に思うものであるから信頼度は言わずもがな100%。

 

ここでもう1人、女性から共感されるアーティストにご登場願いたいのだけれど、何を隠そうというか何も隠さずにそれはaikoである。

 

あるサイトでは恋愛曲の巨匠、なんていうキダ・タローもビックリしてポックリ逝くような呼ばれかたをしていたけれど、しかし男性、というかおっさんがaikoを聴いているといっても、別に違和感は覚えないのではないだろうか。なんせ恋愛の巨匠だから。ナイトスクープではキダ・タローに恋する中学生だっていたんだから。

 

そしてそれとは別に、おっさんだって恋愛したっていい。誰にだって恋する資格はある。だからこそ、おっさんにも恋愛の曲を聴く資格はあるのだ。

 

そう、おっさんだって恋愛してaikoに涙してもいいのである。しかし、恋愛してaikoに共感してもいい、というのと、恋愛していいけどそこで西野カナを聴く、というのには、例えるならばおすぎとピーコと同じくらいの差がある。

 

少し脱線するが、比喩には物事を分かりやすく伝えるという役割がある。天使のように可愛い、悪魔のように残酷など、なにかと物事を分かりやすく伝えるために使うのが理想である。なので、ここでおすぎとピーコを比喩に出すのは、あまりに間違っている。分かりにく過ぎるし、その分かりにくさ以上に、この話の流れでいくとどちらかが気持ち悪い、という結末しか待っていないように思われるからだ。

 

それがおすぎになってしまうのか、ピーコになってしまうのか、書いている僕ですらも今からドキドキしている。ああ、どっちだ、どっちが気持ち悪い役割を担ってしまうのだ。その緊張感を維持したまま、先に進もうではないか。

 

おすぎは映画の評論家であり、ピーコは服飾評論家である。

 

そして、また話が複雑になるのが承知ですすめさせてもらうが、恋愛を語る際には2つの面があり、それは客観でみるか主観でみるかの違いである。

 

恋愛の客観というのは矛盾している感じがしないでもないが、実はそうではなく、ただ相手の事をどう思っているか、もしくは相手の感情に対して自分がどうであるかを見ることができている状態である。いわば2人及び2人を取り巻く環境、いうなれば情景を描いているので、客観で見ているというのはある意味で映画的である。

 

そして恋愛の主観とは、自分の気持ちはこうなのだ、というある種の一方通行の感情をメインに据えた状態である。これを無理矢理例えると、だれかが可愛いといったものではなく、自分が可愛いと思ったものを身につけたいというような状態、ファッション的なものではないだろうか。

 

さてこれでお分かりいただけたどと思うけれどaikoがおすぎであり西野カナがピーコになってしまった。

 

 

どうだ、どちらが気持ち悪いのだ?

 

しかし!

 

ここで勘違いして欲しくないのは、実はそのどちらが気持ち悪いというものではなく、西野カナ的ピーコを聴いているおっさんが気持ち悪く感じる、という点である。

 

なので、真に気持ち悪いのは、おすぎでもなくピーコでもなく、客観だの主観だの偉そうな御託を並べてさも含蓄のありそうなことを話しながら、実は自分のことだと話すのを恥ずかしがっていた、この僕である。

 

それはそうだ。結婚をしていながら「もし運命の人がいるのなら」とかほざいてたら殴り倒したくなるしこれが私の「トリセツ」だといいながらオナニーの頻度とか好きな体位だとか欲しいお小遣いの金額だとか書いた紙を渡されたら殴りたくなるしこれが僕が君に捧げる「bedtime story」だよとかほざいてゲロのパヒュームのする口から全然興味のない卑猥な単語を聴かされたりしたら殴り倒したくなるだろう。

 

それだけにあらず。

 

恥を承知で書くけれど、僕は家で西野カナを歌っているのだ。

 

どうかみなさん、ちょっと妻の立場になってみてください。

そして想像してみてください。

 

ラジオから西野カナがかかると、旦那がおもむろに立ち上がり「あなたの好きなところ」のサビの部分を歌いだしたところを。そして、我が妻が思っているであろう事を。

 

いつも一生懸命なとこ

 

きちんと働いてもいないくせに偉そうな事をいうな

 

意外と男らしいとこ

 

全てにおいて女々しい

 

友達想いなとこ トマトが嫌いなとこ

 

友達なんていたことないしトマトは好きだろ

 

たまにバカなとこ

 

いつもだ

 

 

このような状態が、ラジオから西野カナが流れる度に繰り返されるのだ。オノ・ヨーコジョン・レノンですら、僕がいなくなることが世界平和につながるんだって想像(イマジン)してしまうんじゃないかな。

 

だからそもそも、いい歳こいて西野カナを聴いてる僕が悪いんです。別に恋愛はしていませんが、なんとなく歌いたくなる感じにポップじゃない?カナやんって。

 

でも本当に問題なのは、きちんと西野カナを聴いた事がないのにうろ覚えで知ってる曲のサビだけ歌うような僕みたいな人間が「カナやん」とか呼んで調子にのって若者ぶっているという、許されない事実ではないでしょうか。 

 

はい、そういうことです。僕が全部悪いんです。