僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

プロフィール欄をきちんと整理、管理することが読者を増やす事につながります。

「好き」という感情は、人が動く為に、もしくは人を動かす為の強い引力を持つ感情である。

 

例えば好きな人との濃密な30分を過ごす為に世の中のおっさんたちは数枚の万札を握りしめて風俗へと向かうし、好きなバンドのライブに通う為に世の中の女性たちは万札を持ったおっさんたちからお金をむしり取ろうと夜の町へ向かうし、スキニージーンズをはいてチェスターコートを着てマッシュカットをしている男の子は夜の町の女の子の落とすお金を目指して幸せのパンケーキを食べたりタピオカが浮いたミルクティーを飲んだりしてそれをインスタに上げて「ね、僕こんだけ新しくて美味しい店知ってるから一緒に遊ぼう?っていうかそれは建前で本音はヤリたいヤリたいヤリたい」みたいな感情を垂れ流して結果いろんなものをおごってもらってホテルに向かうし、そうなった結果ホテルが儲かる。

 

そのように好きという感情を中心として経済は回り、おっさんは快楽を得て満足、女の子はライブを見る事が出来て満足、マッシュの男たちはやれて満足、ホテルも儲かりと様々な人達が笑顔になっていく。

 

まったく関係ないのだけれど僕は爆笑オンエアバトル世代なので、タピオカの新店が出来る度に喜び勇んで群がる人達の事を尊敬の気持ちをこめて「タピオカ超特Q」と呼んでおります。

 

そのように「好き」という感情は個人の幸福にとっても社会経済にとっても好循環を生み出すものなのでとても素晴らしいと思うのだけれど、では翻って自分の好きなものは何だと考えた時、これだ!と胸を張って言えるほど好きなものがないことに気がついた。

 

例えば普段僕がよく使うインターネッツツイッターはてなブログなのだけれど、それらのプロフィール欄には各々の好きなものが並べられており、また別の人々がそういったプロフィールを確認し、自分と同じ様な趣味嗜好を持った人をフォローしたのち「初めまして!ワタシも◯◯大好きです!フォローさせていただきました!今度のライブ一緒に行きましょう!」みたいなやり取りの後SNS上で仲良くなったりしてグループを成形したりするのだろう。

 

では翻って人様に言えるような好きなものがない僕のプロフィール欄に書かれているのは 「 そうです。私が下品なおじさんです。」という一文のみであり、しかしよく考えるとこのプロフィール自体がすこぶる変であり、なぜかと言えばこういった文章は誰かから「あなたは下品なおじさんですか?」もしくは「あなたは下品なおじさんですね?」と問われた時にのみ成立する文であるからでして、誰にも問われていないのに全世界に対して「そうです。私が下品なおじさんです。」と書いている時点でただのキチガイであり、当たり前であるが誰にも訴求する事ができず、すなわちこのプロフィールは失敗しているとなる。

 

そしてそもそもが志村けんのコントの台詞のパクリであるからなおさらのことたちが悪いし、では僕が志村けんの事をプロフィール欄に書けるほど好きなのかと問われると、別にそうでもないのもたちが悪い。

 

このブログのタイトルである「僕のソーセージを食べてくれないか」に書かれている様に、僕はソーセージを作ることがよくあるのだけれど、では果たして世の中にソーセージが好きな人にとってこのブログが有益かと言われればまったくもってそうでもなく、なので必然的にプロフィールにソーセージが好きです、とは胸を張ってかけず、なおのこと「ソーセージのこと、もっと知りたい」と考えてインターネットの荒波をかき分けてきたピュアな方々がこんなブログに辿り着いてしまったら、逆にソーセージのことを知りたいのにこんな下品なものを読ませやがってと逆上されることの方が多い気もする。

 

これは例えば船の上から落ちてしまって海を延々と泳いだのち、命からがら陸地にたどり着いたと思ったらそこに松岡修造と張本勲が並んで立っていて「なんでそこで陸に登ろうとするんだ!もっとやれる!死ぬ気で頑張れば死なない!もっとおおきく腕を使ってもっと泳ごう!な!」「そうだ!そんな中途半端なままじゃ、喝だ!喝っ!」と唾を飛ばされながら罵倒された挙げ句そのままターンして海へと引き返さなければならないような状態だろう。

 

ポジティブは時に人を殺す。

 

そう、ポジティブは時に凶器にもなりうる「恐ろしさ」があることを忘れてはならない。

 

 

と、何か意味があるようなことを書いてみたけれど先が続かない。なぜなら、別に意味がないから。

 

 

みたいなことを延々と考えていたのだけれど、そう言えば、前に書いた記事で大々的に「餃子が好きです」「平野レミが好きです」みたいなことを書いていたので本当に僕の記憶力はどうにかしているのだけど、この餃子に対する好きって言うのは、なんていうのかな、旦那のことは好きだけど、でもやっぱり長い間一緒にいるとトキメキとかないし、だからちょっと刺激が欲しいっていうか、いつもと違う感じを味わいたいっていうか、だから彼は好きだけど不倫とかは全然考えてなくて、いうなればセカンドパートナー的な好きっていうか?みたいな感じの好きなので、もう別物として考えてください。

 

よしんばこれで僕のプロフィールが、「そうです。私が下品なおじさんです。好きなもの:餃子」になったら、ただでさえ下品なのにそのうえ口臭もきつい、みたいになってしまうし、そうなると下品なだけのはずのブログが「下品で臭いブログ」になってしまい、その頭文字を並べるとGKBになりこれは1歩間違えるとソ連時代の諜報組織みたいになってしまい、もしそれが拡散されてしまうと僕が実は共産主義のスパイなのでは?というあらぬ疑いをかけられることにもなり、しかし僕自身はそんなことになってるとは気がつかず、いつも通り仕事をさぼって家に帰って呑気に自慰に耽っている最中に逮捕投獄みたいになってしまうかも知れず、下半身剥き出しのままで「お前はあんな意味のないブログを延々と60数本も書いている。これは諸外国に向けた暗号なんだろ」みたいな尋問を受け、「いや、本当に意味のないブログなんです」といっても信用してもらえず、そんな状態であるにも関わらず非日常的な情景に興奮してしまい勃起することも可能性としては多大にあり「なぜお前は尋問を受けている最中に勃起しているのだ」と問われた際には胸をはって「ええ、なぜなら私はMだからです」と答えるだろう。信じるか信じないかは、貴方次第です。あと平野レミは普通に好きなのだけれど、レミはきっと僕みたいな人間に好かれたくないだろうからプロフィール欄には書かないでおきたい。

 

なので現実的に考えてプロフィール欄に「好きなもの:餃子」と書く事で逮捕される可能性があるならそんな危ない箸を渡る必要はことさらないのは明らかであるし、また僕の餃子好きもセカンドパートナー的好きであり、つまりは外で食べるのは好きだけれど家で毎週餃子を作って、今回は前回の反省を活かして具のバランスを変えてみましただの今回は具に紫蘇を混ぜてみましただの自家製の皮にほうれん草のペーストを練り込んで翡翠餃子にしてみましただのといった餃子ガチ勢からすれば僕の餃子好きというのはもう本当にミジンコやカンピロバクターのごとき小さな好きであり、本当に餃子が好きな方々は心が広いので「全然そんなの関係ないよ!好きっていう気持ちがあれば全然大丈夫だよ!ね、だからコレからもヨロシク!」なんて嬉しい言葉を言ってくれるでしょうけれど、僕自身が自分を矮小な餃子好きである事を自覚している以上、そんな輝きのある方々の中に入ろうとはおもいますまい、こんな状態で餃子が好きと名乗るのはおこがましいのでとりあえずプロフィール欄は今のままでいこうと思います。

 

しかしそう考えるとプロフィール欄に自分の好きなものを並べるのには覚悟が必要だな、と思うのとともに、そういった好きなものを並べている人達は凄いなあ、と思うし、またブログ内で色々な好きなものを書き連ねている人達の知識と愛情にも感服する。

 

では逆に考えたとき、好きなものの裏返しとして例えば僕が人様から感服されるようなもの、いうなれば知識及び愛情をもっているものが本当にないのかと問われると、僕自身の性格上触れ合ってきたもののどれもが中途半端であり、そうなると僕は「中途半端なものが好きってこと?」と自問自答したけれど、では中途半端について何か書けるのかと言えばなにも書けないので決して中途半端が好きにあらず、ではそれはそれとして、普段からよく触れるものはなんだろうと考えた時にでてきたのは古本であった。

 

そう、古本は毎週のように買っているしなにか語れるものがあるのではないか、と考えたところ、そう言えば先日古本屋にて僕は僕の星座である水瓶座の占いの本を買ったのだ。

 

ただその本は「2015〜2017年の水瓶座の運命」みたいなタイトルで、その本を僕が買った理由は「おうおう、なんぞこれは。このように未来を占ってあるようなちょこざいな本、ホンマに当たってたんかいな。おっしゃ、今は2019年、過去の自分に照らし合わせてこの占いの通りに人生が進んだかみてこましたろやないかい。外れとったら承知せんど」などとジャリン子チエに出てくるテツのごとき自身の性格のわるさを煮詰めたような購入動機であったことを報告しておく。

 

しかしこういった他人を貶めるような言動は殆どの場合自分に還ってくるのが世の定め、先に書いた様に僕には記憶力というものがニワトリの次くらいになく、また色々無精であるため日記的なものもつけておらずさらには予定表みたいものもなく、自分が2015年から2017年までどのような生活をしていたのかとんと見当がつかないことを見落としていた。

 

そのためその占いの本を読みながら「へえ、この時期は星の重なりかたが悪かったんだあ。このときなんかあったかなぁ?わかんないや。あ、このタイミングで財布を買うとよかったんだあ。なるほどねー、勉強になるー。じゃあ今年はどうなんだろぉ?」とただ単に過去の星の動きに関する情報を読みあさるだけになってしまい、口調もいつの間にかVERY読者のそれ。その占いが本当に当たっていたのかどうかも分からず、ただただ無駄な時間が流れたのみであった。

 

 

少し話を戻すけれど、例えば他の方々(僕以外の民)は、どの程度の好きを「好き」として話をしているのだろうか。好きの数値化、というか感情の数値化というのは不可能なのだと思うし、あくまでも形而上的に話をすすめるが、広く浅くでも好きだし狭く深くでも好き、では狭く浅くの人は果たして好きを名乗る素地はあるのだろうかという疑問だ。

 

とりあえず僕に話の基準を置き、分かりやすい様に比較対象を出して話を続けたい。

 

まず、僕と妻はどちらが漫画が好きであるのか?という比較。

 

僕は少年ジャンプを毎週かっており、あとにあげるのは立ち読みあるけれどマガジンはいくつか拾い読みしながら並行して単行本を買っているし、青年誌はヤンジャンとモーニングは軽く目を通す程度でありビックコミックは先が気になる漫画を少し読み、これもその漫画の単行本を揃えているような状態だ。また、昔好きだった少女漫画をネットで漁って買ったりもするし(ご近所物語天使なんかじゃない彼氏彼女の事情はもはや手放せない状態になっている)、これとは別に作家によって過去作も揃えていこう、という気概もある(お金が追いついていないので、そこは目をつぶってほしい)。

 

かたや妻の趣味は偏っており、最近の漫画にはあまり興味を示さず、棚にある漫画もほとんど増えてはいないが、AKIRA、ハイスクール奇面組コジコジなどを好んで読み、どの本も大切に読み返したりしている。

 

これは両方とも漫画が好きであり、また2人で漫画喫茶に行ったりもするので行動としても漫画が好きだといえるはずなのだけれど、しかしではもし2人で「どちらが漫画が好きか」と言い争いをしたとして、そこにあるのはどれだけの時間及びお金をかけたかという基準で勝敗をつけようとした際には僕の勝ちだけれど、どれだけその本を大切にしているかという判断基準であれば妻に軍配があがるだろう。

 

そうなるとひと言で好きといってもどのように好きなのか、という詳細が分からなければお互いに話し合いが出来なくなってしまう。

 

また、狭い、浅い、広い、深いということも数値的な線引きが無ければ判断が難しいものでもある。

 

たとえば「僕はね、漫画が凄い好きなんだけれど狭く深くタイプの好き者でね」みたいな人がいて、では何が好きなんですかと問うたところ「頭文字Dの4巻です。あとの巻は読んだ事もないですけどね。うふふ」みたいな本当に狭く深いタイプの奴がいた場合、僕が思うのは「ああこの人は本当に狭く深くの人なんだなあ」という当人の意見を素直に汲んだ意見などではなく「これはただの頭おかしいやつや」という判断になってしまうのは当然である。

 

しかし明確な判断基準が用意されていない好きという概念で考えた場合には彼の好きは極めて真っ当な好きであるし、誰もその好きを止めることなんて出来ないし、もし何かしらのタイミングがあって奇跡的に彼の葬式に立ち会う日が来たならば僕は僕の独断で彼の棺桶の中に頭文字Dの4巻を入れてあげたいとは思うけれど、しかしでは日常的に彼と漫画の話がしたいかと言えば絶対にしたくない。

 

だって、いやでしょう。こちらが最近のジャンプの新連載の話を振ったにもかかわらず、「おや、その話は頭文字Dの4巻における11ぺージの左上の台詞でいうところの『本当にスタートしちまいやがった・・ァ』ですね!!分かるーーー!右腕テープでとめてステアリングしてたあのスリリングな感じですよねーーーー!!分かりまくるーーーー!!」とか言われるのだろう。

 

僕には何も分からないから。

 

このような話は極端かもしれないけれど、しかし実際問題として僕と妻の間でも同じようなやり取りがあるし、だからこそ好きという感情に対して、というか、好きという感情を外に出すことに対して、僕はどちらかといえば消極的なスタンスを取るようになってしまうのだ。

 

だからといってこれは他人の好きをバカにしている訳ではなく、ただ好きという気持ちで素直に動ける人達は凄いな、という感想とともに、好きという気持ちに素直に動ける人達に対して憧れを持っている、というのに近い。

 

とここまで書いたのだけれど普段よりも幾分か頭を使ったのでもう限界、そろそろ頭と身体をスッキリさせるために自慰がしたいな、なんて思考が頭をよぎったんだけれど、あれ、そう言えば僕、好きなものがありました。

 

 

そう、オナニーが好き!

 

 

もう一度言ってみよう。

 

 

そう、オナニーが好き!

 

 

さて、ではここからは僕が自身をもって好きと言えるもの、ずばりオナニーについて書きたいと思うのだけれど、そういえばオナニーをするっていうのと同じ意味の言葉を知っていますか?

 

「マスをかく」っていうんです。

 

そして、このようなブログによくあるような、自分語りが過多の文章を何というかご存知ですか?

 

「オナニーみたいな文章」っていうんです。

 

なのでこのような文章を書いているということは、マスをかいてることとほぼ同じであり、この文章を読んでいるということは、僕のオナニーを見ているというの同じなのである。

 

そしてこの僕はMであるので、このように自分のオナニーがパソコン越しという間接的な状態であれ、見られている、という事にいたく興奮するのだけれど、これだけ興奮出来るのであれば、これはもう「好き」といってもいいですよね。

 

なので僕の好きな事は、オナニーを見られることです。なんてことを書いていると、本当に自分が下品な人間なのだな、と痛感する次第であるが、それを繕ってもどうしようもないのでこの下品な状態を保ったまま、今後も邁進させていただきます。

 

 

そうです。私が下品なおじさんです。