僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

そろそろ吉本新喜劇を勧めるおじさんになりたいし、免許更新センターのカメラはクソだし、僕は間もなく家なき子。

車の免許更新に行き、写真に写った自分の顔の老け具合にビビった。

 

毎日の飲酒により浮腫んだ輪郭と、お酒とは五木ひろしとコロッケのように切っても切れない関係の喫煙によりくすんだ皮膚、その飲酒結果により予定時間に起きれず寝起きすぐ更新センターへ向かった為に腫れぼったくなった目がそうさせたのだ、と思いたい。

 

それに後押しして、そう、おっさんという名の崖キワッキワに僕を追いやったのは、ひとえに更新センターに設置されているカメラの性能である。

 

僕自身のアイデンティティを守る為に最後の砦としてかけていた眼鏡が、砦の役割を果たせなかったのだ。なので砦というよりかは錆びついてグラグラになっている柵。その様相、まるでヤリマンの使う貞操という単語のごとく存在感がなく。

 

仰々しく書いたけれど単に光の反射がひどかったので取らされただけなのだが、僕が考えるにそろそろ眼鏡のレンズが反射しないカメラが生まれたっていいはずなのだ。

 

人は月にだっていけるのに、深海1万メートルに潜れるような科学力だってあるのに、なぜ僕は反射するという理由だけで更新センターの中で眼鏡を取らなければならないのだ。

 

僕が眼鏡をかけるようになって20年以上が経つ。

 

なのでそれはもう顔の一部であり、例えば女性はスッピンを見られることが恥ずかしいというけれど僕にとっての眼鏡はそれ以上、さっきもかいたように顔の一部であるからして眼鏡を取った後に見られているのは顔の表面だけではなく身体の内部、いうなれば内臓を見られているようなものであるからして、眼鏡を取るということは始めての夜を迎える乙女の様に恥ずかしい出来事で、さらに言うと裸を見られる恥ずかしさというよりはクンニにおいて秘部という内臓を見られる恥ずかしさにとても近しいのであるが、そうなると僕ははからずも更新センターのおっさんに秘部を見せたということでもあり、そうなると単に恥ずかしいというかどちらかといえば気持ちいい寄りの恥ずかしいだったのかもしれない。

 

眼鏡を取ることによってもたらされる快楽。

 

そんなこんなで更新センターで撮った写真にはなんだか見慣れない上に快楽に耽っているおっさんが写っていたのだけれど、受け取りの際に他人の目で確認されたらやはりそれは僕の顔だったようだ。

 

見た目は大人、ちんこは子供。永遠のオールドボーイ。それが僕。気持ちわりい。


そういえば先日精神年齢が若いと老けにくいらしいのだと妻に言われたので、僕個人的にはオナニーを覚えたての頃と同じ精神年齢を維持しているつもりであり、またその頃と同じ様に最低一日二回はオナニーをするようにしているけれど、やはり打ち寄せる年齢の波には勝てないらしい。そうなると僕にできることはといえば、吉本新喜劇を進めるおじさんになるしか道はない。

 

突然のことだけれど、僕はあの「吉本新喜劇を勧めるおじさん」にいたく憧れているのだ。

 

ほら、親戚の集まりでちょけた子供に「自分おもろいな、自分やったら吉本新喜劇に入れるで!さっきのもっかいやってみ、ほらめっちゃおもろいやん」とむやみやたらに少年を褒めて吉本新喜劇に勧めるおっさんいたでしょ。それです。だいたい酔っぱらってて、他の親戚からは「あのおじちゃんとあんまり喋ったらあかんよ」と言われるようなタイプのおっさんである。

 

この吉本新喜劇を勧めるおっさんになりたいという気持ちは年頃の女子がアイドルになりたいと思う気持ちとほぼおなじようなものであり、これはもう女子が自分の可愛さを世界に広めたいというのと同様にこの老けたおっさん具合を世界に知らしめたいという感情がそうさせるのであるが、かといって世界に広められてもそれはそれで困る。

 

世の中には飢えて死にかけている子供達が沢山いて、もしそんな死ぬか生きるかの子供達に「君たちは面白いなあ、吉本新喜劇に行くべきやで」なんて言おうものならこれはあのハゲタカに狙われている子供を写真で撮って袋叩きにあって自殺してしまった写真家と同じ運命をたどることになる。

 

彼は名声と引き換えに命を差し出す結果になってしまったけれど、かたや僕は名声どころか罵声と引き換えに命を差し出す事になり、これはあり得ないくらいにハイリスクノーリターン。別にピューリッツァー賞は欲しくない。僕が欲しいのは効率的なxvideoの検索ワードとテンガとローションと部屋とワイシャツと私。

 

 なのでやはり世界に対して吉本新喜劇を勧めるおじさんではなく、近所の少年に対して吉本新喜劇を勧めるおじさんになりたいのだけれど、先日も書いた様に我が家は取り壊しにかかる立ち退きの憂き目にあっており、もう僕の家以外の人達は立ち退いてしまった後なので僕の周囲には年頃の少年はおらずまた引っ越す先の家も見つからないので僕は面白い子を見つける前に家なき子になってしまう懸念しかなく、このような状態で吉本新喜劇を勧めるおっさんになったとしても、「君おもろいな、吉本新喜劇にいったらどうや」と言ったところで当の僕は浮浪者であり、人に吉本新喜劇を勧める時間があるならば家を探せと少年の親やその少年本人に言われてしまうことは目に見えているが、こう見えてぼくだってね、一生懸命家を探しているんですよ、インターネットを駆使したり大家さんに頭をさげたり不動産屋さんと相談したりしているんですよ、ローンだって考えているんですよ、それでもなかなかいい家が見つからないんですよと言い訳を重ねたりしてるのだけれどもし僕が銀行員だったとしてこんなブログを書いてる人間にはお金を貸したいとはこれぽっちも思わないですよ。返ってくる見込みがないですよ。吉本新喜劇をすすめる暇があったら少しでも働いて頭金を溜めろと言いたくもなりますよ。

 

そんな状態であるにも関わらず僕がこんなにも吉本新喜劇をすすめるおじさんになりたいのはやはり過去の体験がそうさせ、その体験とは僕と僕のおじとの蜜月である。

 

僕の母親の弟、その言葉通りのおじこそが僕にとっての「吉本新喜劇を勧めるおじさん」であり、いわば私の足長おじさんでだった。お金はくれないけれど、笑いをくれるステキなおじさんだった。風呂あがりにちんこを股にはさんで笑っているような、無邪気なおじさんだった。母親があまり子供に与えたくないもの、例えば蒲焼さん太郎やスプライトの味を僕に教え、社会に適応できなくしたりもする、諸刃のおっさんだった。

 

「だった」と意味ありげに書いたが、今も普通に生きている。元気に生きているよ。

 

その足長おじさんは僕の人生においてとても重要な位置を占めていたのであり、それに憧れる気持ちはバームクーヘンのごとく年齢を重ねるごとに大きくなっているが、僕のちんこは股に挟めるほどに立派ではないが年齢はそのころのおじさんに到達しようとしており、その焦りがまた僕を吉本新喜劇を勧めるおじさんへと導くのであるが、さっきもかいたように僕の周囲には面白い子がいないし、ましてや面白くない子すらもおらずさらに言うと隣人もおらず、いるのはお腹を空かせた猫のみである。

 

しかるに我が家の猫は我が家の人間よりも良いご飯を食べており、それ相応にご飯にもお金がかかりなぜ人は業務スーパーのフライドポテトやまとめ売りの格安肉ばかりを貪っているのに猫たちはグルテンフリーの高級フードを食べているのだと妻に問うと「猫は可愛いしあの中の1人が穀物アレルギーだからだよ、そしてあの子だけのご飯を変えても他の子のご飯を食べてしまうから全部変えざるをえないのよ、しかもあなたは可愛くないし私もあなたもポテトフライが好きだから別にいいでしょう。そして安い肉を美味しくするのがあなたの腕の見せ所でしょ」と答えたのでなるほどそれはそうだと深く納得。どれだけ頑張っても、ポテトフライは作れても、美味しい豚肉料理は作れても、可愛いは作れないのだ。そう思いながら、ナチュラルボーンカワイイの猫達をみて微笑んでいた。

 

そのように猫たちはいつも僕を笑顔にさせてくれるのであるが、そこで突然僕の心の中に居を構えているマリー・アントワネットがこう囁くではないか。

 

「少年がいなければ、猫を吉本新喜劇に勧めればいいじゃない」

 

と。

 

マリーにそそのかされた僕はとりあえず目の前にいた猫(雌猫9才バリ可愛い)に「君めっちゃおもろいな。吉本新喜劇にいったらどうや」と問うてみたのであるが、尻尾をバシバシと叩いたかと思ったらすぐに立ち去り、トイレに入って立派なうんこをひりだしていた。

 

そもそもなんの面識もないマリー・アントワネットに従うなんて馬鹿げていた。こちらが全精力を傾けて居住地探しをしているのに僕の中に無許可無遠慮無支払いで住まうような人間に、耳を傾けてはいけないのだ。いっそのこと断頭台に送ってしまえ。

 

そう言えば昔に親から「知らない大人のいうことを聞いてはいけないよ、呼ばれたからってついて行ってはいけないよ」と言われていたのを思い出した。やはり親の言う事は偉大だな、それに引き換えマリー・アントワネットは本当に役に立たないしな、なんてことを思い、彼女の無責任な言動に従って猫に無視されるくらいならばなら最近ハマっている携帯のゲームを立ち上げてプレイに興じていたほうがマシだと息巻き、ゲームを立ち上げて落ちゆくボールを操作しながら画面を眺めていたのだけれど、ここで一つの重大な事実に気がついた。

 

その事実とは、僕は吉本新喜劇に勧められるほど面白い子供であったはずなのに、今この時を猫に無視され携帯のゲームに興じるような、全く何も全然ほんのぽっちも極悪的に面白くない人生を歩んでいるという、純然たる事実である。

 

そうなるとゲームにうつつを抜かしている場合では全くなく、あの時僕に吉本新喜劇を勧めてくれたおじに恥じることない人生を全うすべきだと気がつき、やおら立ち上がり1番身近にいる観客である妻に対してかつて少年だったころの僕がこれ以上ないくらい面白いと感じていた、ちんこを股に挟んでから足を開くとちんこが元の位置に戻るというギャグ、「あれ、ビックリしておちんちんが飛び出してきちゃった!」を披露したのであるが、これが本当にびっくりするぐらい受けず、僕の中には一つの感情が産み落とされたのである。

 

その感情とはひとえに虚無であるが、ここで虚無を掘り下げたとて発見できるのはさらなる虚無とトラウマだけであるのでもうこの話はおしまい。

 

 

またそこで勝手に僕に住み着いているパラサイトシングルであるマリー・アントワネットが僕にいった。

 

「家がなければ、お城に住んだらいいじゃない」と。

 

その瞬間僕の心に浮かんだ言葉は「殺すぞ」のワンセンテンスだけ。

 

そもそも日本において住めるお城なんていうのはほぼほぼなく関西で有名なお城である大阪城に至っては上沼恵美子個人の所有物であるし、しかし1番近い城はそこしかなくではその巨大な城に住めというのは勝手な居座りであり、ましてやその無許可な違法行為を裁くのは上沼恵美子と法律という二大権力であり裁かれるのは子猫よりも無力なこの僕、家もなく金もなく吉本新喜劇を勧める少年すらも満足に探せないこの僕である。これはもうなんていうか「渚のシンドバット」と「勝手にシンドバット」という二大シンドバット曲が既に存在しているにも関わらず今更「渚でシンドバットが勝手に」みたいな歌を出してしまうようなものである。

 

渚でシンドバットが勝手に

作詞:ゲロ・サリバンショウ

 

今日も浜辺で開けごま

明日も浜辺で開けごま

たとえ扉が開いても

あの娘の股は開かないまま

いいえ僕ではありません

渚でシンドバッドが勝手に

渚でシンドバッドが勝手に

 

お姉さん今何時かな

なんて言って

僕が長針で君が短針

今日すれ違う運命だったんだ

だからこのまま

貞淑すててアラビアンナイト

だけど結局

顰蹙かってだらしない態度

 

今日も浜辺で開けごま

明日も浜辺で開けごま

たとえ扉が開いても

あの娘の股は開かないまま

いいえ僕ではありません

渚でシンドバッドが勝手に

渚でシンドバッドが勝手に

 

お前さあ今俺の女に

なんかいった?

俺が強靭でお前ひん死

もうひざまずく運命だったんだ

だからこのまま

プライド捨てて謝っとかないと?

だけど結局

1発貰って情けない態度

 

 

今日も浜辺で開けごま

明日は1人で冷やすタマ

たとえ扉が開いても

あの娘の股は開かないまま

いいえ僕ではありません

渚でシンドバッドが勝手に

渚でシンドバッドが勝手に

 

 

 

こんな歌詞しか書けないのに、そもそもサザンにもピンクレディにも上沼恵美子にも法律にも勝てるわけがない。

 

それすら知らずにをさも簡単に家がなければ城に住めなんていうマリー・アントワネットは常識知らずの権化たる存在であるが、しかしそのマリー・アントワネットの生みの親は何を隠そうこの僕であり、これは壮大なマッチポンプなの?

 

マッチが僕でポンプも僕?ということはすなわち、ポンプが僕でマッチも僕?

 

あれ?僕(私)達、入れ替わってる〜〜〜〜〜〜〜〜????

 

なんて本当にくだらなくかつ時代遅れなことを言っている間に立ち退きの期限は今月末に迫っている。

 

君の名はとか聞かれる前に、君の家はと言われてもきちんと答えられるようにしなければならないけれど、もうそんなこと考える体力すらないし、なぜこんなブログを書いているのかと問われればもう完璧に現実逃避でしかないのだけれど、これはこれでまあ現実から目を背けるための捌け口があるというのはなんとも幸せであるしなあ、と思っている次第です。

 

 

同情するなら家をください。

 

 

最後に一応かいておきますけれど、マリー・アントワネットが言った「パンが無ければ〜」のくだりの真意がどうだ、とかいうコメントはいりません。あなた方の知っているマリー・アントワネットと僕の中に住んでいるマリー・アントワネットは別人なので。そもそもパラサイトシングルのマリー・アントワネットっていないはずだし更に書いておくと、例えば現実世界の佐々木望は渡部と結婚しましたが、僕の世界の佐々木望は僕と勝手にシンドバッドしていますから、渚で開けごましてますから。