僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

さだまさしの関白宣言を聞きながら焼豚を作ると悔しさに泣くから 〜2019早春〜

最近焼豚作りにハマっている。焼豚と書いてチャーシューと読む。しかしながらチャーシューと書いても焼豚とは読まない。なんとなく不思議に感じるのだけれど、そんなことはまあ別にどうでもいい。

 

そもそも漢字は読み仮名とセットになっているからこそ読めるのだけれど、漢字そのものを読むというのはできないということに気がつきやはり不思議だなと感じるけれどこれも別にどうでもいい。

 

漢字は読みを知らなければそれを文字として認識出来ず、丸や三角と同じように記号でしかないのだけれど、それも今は別にどうでもいい。例えばチャーシューには叉焼と焼豚という表記が散見されるけれどその違いも説明したら長いし別にどうでもいいので説明しない。

 

話を戻すがしかしまあ焼豚を自分で作ってみると安い豚肉が美味くも贅沢な物に変化していく姿が垣間みえ、その様相はまるで家ではジャージしか着ずスッピンでうろうろしている姿しかみていなかったのであまり可愛いと意識していなかったけれど結婚式になって初めて化粧バッチリ衣装ピッタリで今から嫁にいきますよっていう決意ありありの娘の姿を見てそれがすごい綺麗だったみたいな感じであり、それはもう作っていても食べてみてもその行く先には幸せしか見えないよねって雰囲気をまとっているよねって話だ。

 

ああ、素晴らしき哉、焼豚。

 

そしてそのような崇高な目的を持った料理に没頭する為に必要なのは、なにを隠そうBGMである。これは結婚式でも同じで流れる曲によって色々と受ける印象も変わってくるのだけれど実のところ僕は結婚式を挙げていないし友人がいないので行く機会もそもそもないしそもそも娘どころか子供もいないのでそもそも今まで書いた事は全て妄想の話。

 

そもそもそもそもうるせえけれど、でも焼豚を作ったのは本当。こないだはワインで煮込んだので今回は趣向を変えて焼酎で煮込んだのも本当。その焼酎はシンクの下で眠っていたやつで瓶にカビが生えていたのも本当。その横に置いてた米はなんとなく怖くて中が見れなかったのも本当。

 

なので僕は焼豚作りを盛り上げるためと、頭から米の状態確認するというミッションを取り除くため、iPhoneのミュージックリストからさだまさしの関白宣言を選び、それを聞きながら料理を始めたのだけれどこれがまた悔し涙を流すくらいに良かった。悔し泣きをしながら良かったとはどういうことかと問われたとしても別にどうでもいい。他人に口出しされることではない。僕の行動が良かったかどうかといつオナニーするかくらいはは僕自身が決める。家具家電を買うかは妻が決める。それが和平の秘訣だ。

 

さだまさしの語りかけてくるタイミング、その内容、台所にいるにもかかわらず感じられるまるで劇場にいるかのような風情ある情緒。その全てが詩的であり、いつのまにか我が家が精神と時の部屋になっていた。なのでそのさだまさし記念に、以下にその詳細を語る。

 

よしなに。

 

さてでは意識を集中して料理を始めようではないかと焼豚用に用意していた豚肉を冷蔵庫から取り出して下処理をしていると、早速iPhoneからさだまさしが語りかけてきた。

 

「お肉を先に縛る前に 言っておきたい事がある」

 

ああ、凧糸で肉を縛る前に何か注意点があったのか、それを教えてくれようとしたのか、とさだまさしの声に耳をすませると、彼はこう続けた。

 

「かなりかなしい話をするが 豚の本音をきいておけ」

 

出ばなを挫くこの助言。しょっぱなからそれだけは止めてくれ。この状態にある豚の本音なんていうのは「もっと生きたかった」の一言で済まされてしまう。

 

僕だって同じ立場ならそう言うだろう。安易に想像できてしまうが故に、なおさらやめてほしい。悲しくて悲しくて、とてもやりきれない。そんな状態で料理が出来るわけがない。

 

しかし人間は逆境を乗り越えてこそ成長するのであり、やはりいっぱしの大人たるもの簡単に逃げだしてはならぬと自分に強く言い聞かせ、目から溢れ出る涙がまるでイムジン川のようだ、なんてことを思いながらも豚の声に耳を澄まし、なんとか自分に折り合いをつけて先を続けていくと、またさだまさしが歩み寄ってきた。

  

「焼くより先に 煮てはいけない」

 

そう、そういう注意点を教えて欲しかったんだ。知りたいのは調理の注意点であり欲しいのは歌による盛り上がりである。豚の気持ちではない。その時の豚の気持ちを答えよ、なんていうのは小学校のテストだけで十分だ。大人になってからのそのような問いは、点数と引き換えに何か大事な物をなくしてしまいそうになる。

 

まさしの言うように、焼豚を作る時には先に煮るのではなく、焼き目を付ける事でメイラード反応を起こしておくことが重要だ。その焼き目が水分に移って香ばしさになりうま味にもなる。これが焼豚の焼豚たる所以である。でもさだまさしはまだまだ止まらない。

 

「煮るより先に 茹でなきゃいけない」

 

そう、まったく持ってその通り。その通りだけれど、これも至極当たり前の事だ。煮てから茹でても意味がない。下茹でして肉の灰汁をとって味が染み込みやすいようにしてから煮るべきなのだ。逆になるとせっかくつけた味が抜けてしまうから。さすがのさだである。さ(すが)だまさしである。でもまさしの懐の深さはまだまだ底が知れない。

 

「紐はうまくくくれ いつもきれいにしろ 

出来る範囲で構わないから」

 

いきなりの優しさ、ありがとう。焼豚の作りかただけでなく、不器用な僕の事や衛生面にまでも気を配ってくれている。でも最近は、紐を括った状態で冷凍されているバラ肉もあるし、アルコールも常備しているし最初からきれいな状態だから心配しないでほしい。

 

「忘れてくれるな 仕事もできない男に 

家庭を守れるはずなどないってこと」

 

いきなり冷静なって僕の無能を責めてくるさだまさしが、そこにいた。辛い。そもそも仕事が上手くいっていたら家で焼豚作りなんかしないよね。分かっている。でも頑張るから、僕、頑張るから。

 

「お前にはお前にしか できないこともあるから

それ以外は口出しせず 黙って豚になっていろ」

 

さだの口撃はとどまることをしらない。ここまで言われるような事を僕が何かしただろうか。いや、していない。しかし怒られたからには何かしらの理由があるはずだし、それはきっと僕に何かしらの原因があるはずだと思うのでとりあえずあやまりたい。

 

申し訳ございません。僕こそが豚でした。

こんな、優しさに見せかけてからの辛辣さも、さだの魅力の一つである。

 

僕は豚として豚らしく口を縛り身体を縛られ、身を粉にして勉強して精進し、豚として精一杯豚を縛って参ります。無能である僕にできることは、焼豚作りしかございません。胸に刻んでおきます。これが僕の、豚としての決意。

 

「お前の豚と俺の豚 どちらも同じだ大切にしろ

煮豚焼豚かしこくこなせ たやすいはずだ 火で煮ればいい」

 

僕が豚としての決意を秘めている間に、いつの間にかさだが自分の豚を求めだしていた。強欲すぎやしないか。

 

そもそも、さだの為の豚なんて用意していない。

 

こいつはいつもそうだ。結構な昔に僕は別のブログでもさだまさしの事を書いたが、その時もさだは肉じゃがを勝手に食べようとしていた。本当に腹が立つ。

 

その文章を以下に書いておこうかと思ったけれど、それはまたいつかにしておこう。過去のさだより今のさだ、地獄のさだも豚次第だなんて良く言ったものだ。

 

そんな事をぶつぶつ呟きながら焼豚を煮る為の出汁を作っていると、

 

「人の陰口言うな聞くな 

それからつまらぬ味付けするな」

 

なんて言うではないか。やばい。めっさ聞かれてた。陰口めっさ聞かれていた。しかも陰口めっさ聞きながら味付けにまで口出しをしてきていた。これはめんどくさい。まったくもってめんどくさいし、話の持っていきかたが幸楽における泉ピン子のそれ。僕は豚ではあるが角野卓造ではないしもちろんえなりかずきでもなく、もう一度いうがただの豚である。

 

「俺は味見はしない 多分しないと思う

しないんじゃないかな ま、ちょっと様子はみておけ」

 

自分の分の豚を要求しておきながら、自分では味見はしないからお前ががんばって作るんだぞ、という積極的放任主義から垣間見える、息子の背中を見守る父親のごときスタンスを出すさだまさし。この隠れた優しさこそが、さだまさしの真骨頂である。やさしさだまさし

 

そんな優しさに包まれながら、茹で終わった豚肉を鍋に入れ、出汁と合わせて浮いてきた脂をすくったりしているとまたさだが語りかけてきた。 

 

「焼豚は2人で育てるもので

どちらかが苦労して つくろうものではないはず」

 

なんだいきなり。

もしかしてその2人というのは、僕とお前か?もしそうならば、少し前の自分を思い出してみろ。お前は何もしていない。この豚を育てたのは僕である。すなわち苦労しているのも僕だけである。どの口がそんなことをいうのだ。

 

そんなイライラを募らせていると、急にさだまさしの態度が変わった。口調が幾分か厳しいものになり、眼鏡の奥の瞳がみりんを入れた後の煮汁の様に鈍く光っていた。

 

「お前は俺の処へ 家を捨てて来るのだから

 帰る場所は無いと思え だから全部が俺の豚」

 

優しさを出して安心させたかと思うとここで急に方向転換からの関白宣言からのわんぱく宣言。さだまさしから滲みだすジャイアニズム。その切り替えの早さはサイコパスのそれ。

 

というかさっきまでは一応自分の分の豚と言っていたのが、ここにおいて全て自分の物だと言い出したではないか。ワガママもここまでくると清々しいのかもしれないけれど、しかしこれはあくまでも我が家の焼豚であり、そもそもお前の為のものではない。

 

逆に聞かせて頂きたいが「関白宣言は実は僕の作った歌なんで、お前は歌わないでください」みたいなことを僕が言い出したら、なんだこいつ頭がおかしいんじゃないかって思いますよね?そう言う事です。

 

あと、僕の帰る場所がなくなりそうなのは家を捨てたからではなく家を追い出されそうだからです。どちらかといえば家に捨てられたほうの立場です。そこは間違えないでください。 昨日、隣の家が廃墟になりました。

 

僕の答えで少しは冷静さを取り戻すのかと思ったけれど、さだまさしはそんな生易しい人間ではなかった。というか、更に拍車をかけて我が儘をふっかけてきた。

 

「煮豚が冷めて 味が染みたら 俺より先に 食べてはいけない

例えばわずか一口でもだめ 俺より早く食べてはいけない」

 

ここまで来ると僕ももう我慢の限界である。さっき自分から味見をしないと言ったにも関わらず、味見すらも許さない暴虐性。お前はセリヌンティウスを人質に取った邪知暴虐の王か。人を信じる事が出来ない不安という曖昧な感情で人を殺すタイプの人間なのか。せめて味見は許せ。一口ぐらい我慢しろ。

 

「味が足りない からしをつけたい 

涙のしずく2つ以上だしたい」

 

ここに至って、さらに欲求がきつい。というか勝手に食べるな。味見はしないと誓ったばかりだろうが。というか最初に書いたけれどそもそもお前の分の焼豚なんてものは存在しないのだ。っていうか涙のしずく2つ以上だしたいってなんだよ。無理矢理過ぎるだろ。

 

そんな感じでだんだん腹が立ってきたので、さだまさしを無視して(無視まさし)とりあえず焼豚作りに集中しようとしたのだけれど、相手にされない事が寂しくなったのか、いきなり態度を変えてきた。

 

「お肉がおかずで いい人生だったと 

俺が言うから 必ず言うから」

 

別に僕はそこまで求めていない。というかお前ぐらいの稼ぎがあるなら肉くらい普通に食えるだろう。こちとら猫のエサ代がかかり過ぎるから安い豚肉を美味しく食べる為に頑張っているんだ。それをな、イチャモンつけてさらに無理やり横取りしてから優しく褒めるっていうのはあれだ、殴ってから優しく接して洗脳していくDVと同じ手法だからな。そしてお前に言われるまでもなく、僕の人生はいい人生だ。

 

「忘れてくれるな 俺の愛するおかずは

愛するおかずは生涯 ラーメンだけ」

 

いやいやちょっとまて、散々焼豚を欲しがっていたのにそこで裏切るのか、と感情の赴くままに言おうと思ったのだけれど、僕は少し考えた。果たしてあのサイコパスさだまさしサイコパスまさし)がそんな安易な裏切りをしてくるのだろうか、と。

 

さだまさしと言えば、北の国からである。北の国からと言えば、ラーメンである。そうなると自ずとかの名台詞である「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」が思い出されるけれど、もしかしてさだは急にラーメンを出す事でそこに何かしらの真意を込めたのではないだろうか。

 

あのとき純はラーメン屋で「自分は卑怯な事をした」と五郎に告白した。そして五郎はそれを受け止めようとした。そんな親子のやりとりに今の自分を重ねて、さだは強欲すぎた事を恥じたのではないか。

 

しかし話はそう単純ではなく、別の視点も考えられてしまう。

 

もし純に投影していたのであれば、僕としては有難い。なぜならば純は自分を恥じての懺悔をしていたからであり、それは自ずとさだまさしが自分勝手に焼豚を奪おうとした事を反省しているとなるからだ。

 

しかし、しかしだ。

 

もし、さだまさしが五郎に自分を投影していた場合、これは大問題である。

 

なにが問題なのか、五郎はいい親父ではないか、だから五郎に自分を投影しているさだまさしは悪いさだまさしではなくいいさだまさしではないか、と思われるかもしれないけれど、あの五郎という人間は一見大人しそうな見た目をしていながら、自分の都合に合わないとみるとブチギレするという性格をしており、それはまさに今僕の後ろにいるさだまさしと同じなのである。

 

一見易しさを振りまきながら受け入れられたとみると、ありもしない自分の権利(豚肉をもらう権利)を声高に叫び、あたかもこちらが人として出来損ないであるから俺がかわりに豚肉を食ってやる、お前は焼豚を作る事が出来て幸せだろう、だから俺とお前はウィンウィンの関係なのだみたいな屁理屈を並べて豚肉をかすめ取ろうとする男なのだ。

 

さだまさしは「親父の一番長い日」の中で、こう書いている。

 

わかった娘はくれてやる。

そのかわり1度でいい

うばって行く君を殴らせろ

 

 

と。

 

いや、娘と彼氏の相互決定と親父が彼氏をなぐること、まったく関係なくないですか?

 

そもそも結婚相手を選んだのは娘であり、そもそも娘には1人の人間としての人格があり、その娘が結婚したいと思った相手でありそもそも娘は父親の所有物ではないので奪うとかそういう概念は無いはずなのに、勝手に娘を自分の所有物であると宣言した挙げ句、同意の上で結婚を申し込みにきた人間に「奪っていく」と難癖をつけて殴らせろって要求するような人間であるのよ、さだまさしは。そもそもこんな人間、理由なんてなくても人を殴るだろ。それしてもそもそもうるせえな。

 

しかしこれではっきりしたのだけれど、やはりさだまさしは五郎の方に自己投影している、僕はそう結論づけた。

 

なのでこれ以上さだまさしに焼豚を奪われないようにiPhoneから流れる音楽を止めようとしたのだけれどそれを察したのか、いたちの最後っぺのように最後の一節にとても感情を込め、こう語り出した。

 

「忘れてくれるな 俺の愛する煮豚や

 愛する焼豚は元来 ただのタンパク質」

 

 マジでしばくぞ。

 

僕が丹誠込めて作った焼豚をただのタンパク質扱いするな。こう見えて結構な手間ひまがかかってるんだよ。それをな、豚や肉に例えるならまだしも、栄養素でまとめるな。そんなことされたら味気ないどころか今までの作業が空しくなってしまうだろ。

 

さだにせっかく作った焼豚をただのタンパク質と罵られてしまった僕は、悔しくて悔しくてとてもやりきれないと、焼豚が入った鍋を見つめながら悔しさ涙を流していた。

 

すると僕が悔し泣きをしていたのがよほど嬉しかったのか、切り損なったiPhoneからまってましたと言わんばかりのさだまさしの嬉しそうな声が聞こえてきた。

 

「えー、今聞いて頂いたのはね、僕の作った関白宣言のセルフオマージュで『タンパク宣言』でした。なんちゃってね。ありがとうございました」

 

なんちゃって、じゃねえよ。何も面白くねえよ。これだけの手間をかけた文章と焼豚を駄洒落で締められ、僕は涙を拭う事すら出来なくなった。声をあげて泣いた。その涙で、焼豚の煮汁が、少しだけしょっぱくなった。

 

そんな冬の終わりであり、春の始まりだった。

 

 

 

終わり。

 

 

 

以上の話は、先日作った焼豚が少ししょっぱかったことの言い訳です。さだまさしはタンパク宣言なんて歌も出していないし、多分娘の彼氏も殴らないし、他人の焼豚を奪ったりもしません。あとこれは本当なのですが、さだまさしの曲全般、あまり料理にむいていません。なぜならば泣いてしまうので。料理の味が濃くなってしまうので。

 

あとこの歌の他にも、家族に黙って勝手に他人に家を貸して小銭を稼ごうとするあくどいおっさんをモチーフにした歌があるらしいです。

 

『民泊宣言』っていうんですけど、それもまたおいおい紹介したいと思います。

 

 

嘘です。

 

 

以上。