僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージ作りが男の夢だと言う証明。

郷愁を感じるエロ動画。

 

射精が止まらないAVという、なんともくだらなくも面白い動画をネットで見かけた。

 

明らかに大き過ぎるキンタマをぶら下げた男優さんが下半身をしごき、眼前で膝をついている女優さんに呆れてしまうほどの量の白濁した液体をかけるという、一見するとギャグにしか見えない、誰がこの動画で興奮するのだろうと思ってしまうような映像なのだけれど(女優さんも途中から興奮する演技が出来なくなり笑っていた)、一定の需要があるからこそ存在しているのだろう。

 

その女優さんは言う。

 

「ええ!まだ出るの?!」

 

しかしてその需要がどのように生まれるのかを考えてみた所、この動画の視聴者が求めているのは興奮や性的欲求を満たすためではなく、ましてや面白さなどでもなく、若かりし自分への郷愁というものではないか、という結論に落ち着いた。

 

どういう事か。

 

僕は35歳になった今でも1日最低1自慰を欠かさず続けている。休日には3回する日もあるし、毎日とまではいかないけれど朝立ちもある。しかし昔と比べて明らかに違うものがある。

 

出てくるものの量と勢いである。

 

中学高校時代なんていうのは、3回目であろうが4回目であろうが、ティッシュペーパーを突き破らんばかりの勢いで彼らは外の世界へと飛び出していった。それはディズニーランドでファストパス・チケットを奪取せんとダッシュする人達と同じ様なスピードとパワーを持っていたと言っても過言ではない。現にその時期の僕の股間はいつだって左曲がりのスプラッシュ・マウンテンだったし、脳みその中はエロいものを探し求めてインディジョーンズアドベンチャーが広がっていた。

 

「ねえ、パコっていやらしい名前だよね。ほら、君の名前を聞くだけで興奮しちゃったよ。大きくなった僕のクリスタルスカルに早く安全ベルトをつけてくれないか」

 

アミーゴ、パコ。アディオス、夢の国。

 

そんな過去に比べ今の僕に至っては、1回目の放出であるにも関わらず、クレープの底の方からたれてきてしまう生クリームようにどろりとしたものが棒の先から垂れてくるだけである。ダムが決壊するくらいに高まった性欲に反して、それくらいの勢いしかないのだ。

 

金玉に取水制限がかかっているのかもしれない。

 

とても無駄な仮定だと自分でも分かっているのだけれど、もし僕がカリに女子高生で僕の棒が女子高生の口であったとしたら、その取水制限は悲しむべきものではなくむしろ淫美さを連想させるような画像として、インスタ映えもしくはツイッターでいいねの数字が決壊、ダムの放流のごときスピードで爆散すること確実である。

 

実際はおっさんの射精シーンでであるからして爆散、決壊どころか永久凍結を免れないし、万年低貯水量なのだけれど。

 

そんなていたらくなので、やはり若かりし頃のパワーやスピードが羨ましくもある。昔のように床に新聞紙をひいてどこまで飛ぶかだとか、ぶら下げたティッシュに向かって穴があくのかどうか試し「ワイが浪速の早撃ちガンマン、自慰・ザ・キッドや!」なんてことをしなくなっている。

 

今残っているのは、早撃ちだけという不名誉な称号。

 

余計な話をしてしまったが何を言いたいのかというと、僕と同じように過去の自分に対して羨ましがっている人は意外と多いのではないのか、ということだ。よく居酒屋で過去の自慢話を繰り広げている人を見かけるだろう。それらは一種のマウンティングや自己顕示のように感じられるかもしれないが、裏を返すと、今は昔の様な無茶な言動を出来なくなっていることでもあるのだ。

 

そして、そのような会話を繰り広げている人達が、最初に書いたような動画をみるのだ。 

 

かつては体験したが今はもう出来なくなってしまった「あり得ないくらいの量が出る」という理想的状況(巨根信仰と似たようなものかもしれない)に対し、もうそれができなくなった悲しさや羨ましさを満たす為に、あの映像に癒しを求めるようになる。

 

笑顔でティッシュを消耗していた自分は、もうこの時代には存在しない。

 

そう言う意味で、先のような結論、つまり性欲を満たす為ではなく昔のアルバムを眺める様な郷愁の気持ちが満たされるからこそ需要がある、という着地点に落ち着いたのだ。

 

絵に描いた餅では腹は満たされない。

 

ただ、見る人の視点だけで言えば上記の様な懐かしくも美しい、儚い感情をもつという、まるで陽炎のようにおぼろげな結論になる。が、承知の通りそれだけでは解決しない。どうすればそれを視覚での満足ではなく、感覚での満足にもっていけるかということが重要になるのではないかと僕は思う。

 

絵に描いた餅では腹が膨れないように、長時間の射精を眺めているだけでは本当の快楽は手に入らないのだ。

 

女性がセックスで感じる快楽は、男性の何十倍もある、という話を聞いた事はないだろうか。かたや男性は射精が一番の快楽でありそこがピークであるし、さらに言えば女性の快楽はそのピークの何十倍あるというだけでなく、それを継続できるというのだから女性はずるいと感じてしまうのもいたしかたない。

 

もっと突き詰めると、僕はすでに壮年期を半ば過ぎ、連射機能はもうない身であるからして再充電まで時間がかかってしまうし、一度出してしまったあとの冷静期も日に日に長くなってきている。快楽は幸運よりも早いスピードで逃げていく。

 

自分の感じる快楽が減少しているなかで、羨望だけが増えていく矛盾を抱えながら、僕は今日も生きている。

 

ではどうすれば今の状態で、あの映像のような、もしくは女性が感じるような壮大なる快感を得られるのかを考えると、やはり科学の力を使うしかない気がする。

 

そう、科学こそが悩みを解決してくれる最大の手段である。

 

人類がここまで発展したのは科学のおかげだと言っても誰も反論出来ないだろう。薬だって普段の生活だって、もちろん僕が今叩いているパソコンだって科学の粋が詰まっている。洗濯科学がなければ真っ白なシャツを着る事なんて叶わなかったように、科学が発達しなければ化学もなく、全世界の男性の希望の種であるバイアグラも生まれなかった。

 

しかしだからといって安易に化学物質に頼る訳にはいかない。僕にだってそれくらいのプライドがあるのだ。バイアグラは、起たなくなってからの最後の手段である。出来る事が1つでもあるならば、僕はそれを追求していきたいと思う。

 

さて、 では科学をどう流用するかなのだけれど、これはとても簡単である。とりあえず、「1度しかない大切な時間を、長くすればいいじゃないか」ということが可能になればそれでいいのだ。

 

ご存知の通り、特殊相対性理論を流用すればいいのである。

 

特殊相対性理論を簡単に説明すると、光の早さに近づけば近づくほど、その動いている物体とその周囲の物体との時間はズレる。すなわち速く動いているものは、時間が遅く流れるのだ。

 

ということは、光速に近いスピードで射精をすることが可能になれば、相対的に射精の時間を長くし、快楽を感じる時間を長くすることができるということではないだろうか。

 

分かりやすいようにアインシュタインの公式に当てはめると、

 

E(いい気持ち)=mc2(マジでちんこの快感2乗)

 

となる。

 

2乗でも物足りない欲しがり屋さんは、ここではなくアナルの国に行くことをお奨めする。お尻の穴の奥は欲しがり屋さんのもってこいなほど、広大な世界が広がっているらしいですよ。

 

話を戻してここからさらに追求していくと、この化学式を成立させるために必要な能力がでてくることは想像に難くない。

 

それは早漏である。

 

そして幸運なことに、僕にはその特殊能力があった。さっきも書いたが、浪速の早撃ちの称号だけは未だ失っていないので、これはもう天啓といっても問題ないだろう。

 

まずは素早く出せることこそが、光の速さに追いつく為に必要な階段なのである。

 

この年になってなお大人の階段を登ることが出来る幸運な僕は、もはやシンデレラなのだ。

 

しかし自分は速いから向いている、なんて安易な安心はしてはならない。ただの早漏では足りない。光の速さに比べたら三擦り半なんていうのは短距離走でいう黒人と日本人の差以上のものがある。果たしてその差を埋める事が僕に出来るのか、と、その先の長さに暗くなっていたのだけれど、その時たまたま見ていたテレビのニュースで桐生選手が日本人初の9秒台を出してくれた事で僕はとても勇気づけられたことを昨日のことのように覚えている。

 

桐生選手に出来るのなら、僕にだって出来るかもしれない。そう思わせてくれる何かがあった。

 

彼はイチローと同じように、ウェイトトレーニングをしないのだという。さらに骨ストレッチなるものをし、あの記録が生み出された。

僕もそれにならって、自分にあった方法を見つけたいと考えている。

 

しかしまあ、やはり科学は万能である。早漏はセックスの敵だという空想的社会主義に真っ向から立ち向かうために、僕はこの特殊相対性理論に基づいた快楽の追求を現代の社会的科学主義として後世に残したいと常々思っているのだが、件の映像の根底には同じ様な思想が流れているのでないか、とも感じるのだ。

  

快楽の追求には、ソーセージ作りこそが最適である

 

さて、いくぶん説明が中途半端な気がしないでもないが、ここからタイトルにある本題に入る。

 

早漏を追求すれば快楽の扉が開くと書いたが、今よりもさらに速い世界、速早漏(そうそうろう)に到達すると弊害が出てしまうケースもある。ジーンズに擦れただけで出てしまう懸念もあるし、性行為においては女性から見限れてしまう可能性も高くなるし、もしかしたら光の速さに近づきすぎ、腰の振動で物凄い衝撃波が発生して女性が跡形もなく吹き飛んでしまうことだってもちろん考えられる。

 

そう考えると科学を使った快楽の追求は弊害が強過ぎるが為に一般人ではなかなか辿り着けない領域でもある。

 

だからこそ、僕はここでソーセージ作りを諸君にお奨めしたいのである。

 

なぜならば、ソーセージ作りには絶頂を長く感じられる腸詰めという作業があるからだ。

 

塩漬けにされていた腸を水で戻し、ソーセージメーカーに充填した肉を詰めていく。

一見単調に見えるこの作業は、ソーセージ作りにおいて類を見ないほどの継続的絶頂を感じられる作業である。

 

かつてコンドームが豚の腸で作られていたことを考えると、この腸詰めの作業は射精以外のなにものでもない。

 

肉が詰まって段々と長くなっていくソーセージを見ていると、自分の下半身に巨大なキンタマがぶら下がっているように錯覚してくるのだ。手を動かすたびに切っ先から溢れ出てくる、液体に極めて近づいた濃厚な肉。「あれ、そろそろ限界か」と思っても、まだボウルの中には種が沢山残っている。ソーセージメーカーに詰め直し、また手を動かすと延々と種は腸の中に出続けるのだ。際限なく長くなっていくソーセージに向かって、あなたはこう呟くだろう。

 

「ええ!まだ出るの?!」

 

そう、動画で女優さんが言った、あの台詞である。

 

長時間出しながらも女優さんの気持ちすら味わえてしまうのだから、ソーセージ作りで得られる快感は性行為のそれを明らかに上回るのだ。

 

Mr.Childrenの桜井さんは、Tmorrow nevernknowsの中で歌う。

 

とどまる事を知らない時間の中で

いくつもの流れゆく羊腸を眺めていた

老いすぎて消えた帰らぬ夢の面影を

すれ違う少年に重ねたりして

 

かつては猿のように自慰に耽り、その過去に羨望の眼差しを剥けていた中年の僕は、もういない。すれ違う少年に対して羨ましいという気持ちもなくなった。

なぜならば、僕の手には延々と出し続けられるイチモツがあって、そこから出続ける種も作る事が出来るし、その種を受け止め続けられる羊腸もあるのだから。

 

こんな快感に出会えたなんて、ソーセージ作りはなんと素晴らしいのだろう。腸の中に詰まっているのは、ミンチ肉やハーブだけではない。男の夢も詰まっているのだ。なんとも素晴らしい食べ物ではないか。

 

ああ、誰か。こんな僕のソーセージを食べてくれないか。 

 

 

 

 

意識を高く持たないと、自分を高い場所に持っていけない。

エマルジョン化という鬼門

 

ソーセージを作るにあたっての最初の難関が、あの独特のぷりっとした食感を生み出す事だ。ソーセージ初心者は何度か試作した後、この段階でソーセージ作りを諦めてしまう事が多いと聞く。

 

これを生み出すのに必要なのは「エマルジョン化」と呼ばれる作業工程なのだけれど、このエマルジョン化を普通に説明すると「低温をキープした上で混ぜて乳化させる」というどうしようもなく面白くない説明になってしまう。

 

なので、ここからはあえてベンチャー企業によく散見される横文字表記に倣って説明したい。

 

■ソーセージ創世期における重要なエビデンス

 

美味しいソーセージを作るにあたって最重要なイシューは「エマルジョン化」という肉におけるイノベーションを生み出せるかどうかにかかっている。

 

その為には、

 

①各種器材を冷やしておくというスキーム

②作業をASAPで進める

③肉と塩とのパートナーシップ

 

この3つの要素が不可欠である。

 

まずスキーム。

 

エマルジョン化は肉を8度以上の温度にあげないというタイトなスケジューリングが必要になる。そのため、タスクに必要になる器具を出来る限り冷やしておくというのが、作成者に共通するコミットメントになる。そのコンセンサスが取れていなければ、この案件は失敗するだろう。

 

次にASAPな作業。

上記のスキームから分かるように、温度を上げないようにするにはハンドリングのスピード性が重要になる。その為に効率的な作業をしなければならないことは明白である。

そして肉を混ぜるというメソッドの中で必要なのは、肉とフルコミットすること。極端な言い方になってしまうが、肉をこね回しているという意識ではなく、肉を混ぜることで地球を回しているんだというプリンシプルがマストなのだ。

 

最後にパートナーシップ。

どんな困難な仕事でも、最終的に必要なのは人との繋がり、ウィンウィンの関係だ。

それがあるからこそ、困っていたら誰かが助けてくれるし、こっちだって困っている人を助けたくなる。塩があるからこそ肉がつながるし、肉がなければ塩だって必要ない。

理想のソーセージを作るんだという明確なビジョンをお互いにフィックス出来てこそ、理想のエマルジョン化が生まれるってことだ。

 

本当に、ばかみたいな文章だな。

 

理想のソーセージを探す旅

 

なのでここからは普通に説明させてもらうのだけれど、簡単にいえば塩と肉をいい感じのバランスで配合して(大体肉の量の2%前後)、温度をあげずに混ぜれば肉と油が綺麗に混ざり合いますよということだ。

 

肉のまぜが足りないとソーセージ独特のぷりっとした食感が生まれずに、ハンバーグの様な感触になってしまう。でも今まで何度か作った経験からいえば、それはそれで美味しいし肉々しさも感じられるので別にそれでもいいとも思っている。

 

水着がよく似合う、手に持ったハイボールを広告写真のようにアピールしてくる健康的な女性も好きだし、「私、太陽苦手なのよね」とバーで本を読みながらロングアイランドアイスティーを飲んでいるような少し突っ込みどころのある女性も好きだし、家から殆どでなくて、自分が飲んだ後のビールの空き缶を数えながらお腹のお肉を摘んで何か考えている女性だって素敵だ。

 

みんな違ってみんな良い。

 

だからこそ、腸に包まれた時点でそれは素敵なソーセージなんだよ、と胸を張ってもらいたいと思う。

 

しかし、そうも言ってられないのがもの作りでもある。コダワリなくして進化なし。失敗は成功の為にあり、おっぱいは性交の為にある。かつて「ボインはお父さんの為のものはなく、赤ちゃんのものだ」と言って月亭可朝は一時代を築いたけれど、既に時代は変わってきているのだ。

 

おっぱいは、赤ちゃんの為のものでもあり、お父さんの為のものでもあるのだ。

 

ミニマリストはものが少ないことこそが生きやすさに繋がると言う。そのためには合理的でなければならない。だからこそ、赤ちゃんの為のおっぱいとお父さんの為のおっぱいは同じおっぱいであるべきなのだ。

 

少し脱線してしてまったが、そう言う事だ。

 

さて、話を戻すが、綺麗なエマルジョン化は器具を使う事で解消できる。

 

性欲が強過ぎる彼女と付き合う時、必要なのはにんにくでもウナギでも山芋なく、バイブとローター、あとはローションである(性癖によっては縄やロウソクがあってもいい)。

 

それと同じように、エマルジョン化に必要なのは努力や根性ではなく、ミキサーと大きめのボウル、そして氷だ。

 

ミキサーは冷凍庫でよく冷やし、肉も加工時間以外は冷蔵庫に入れておく。作業中は二重にしたボウルを氷で冷やし、そこに肉を入れておく。それだけでエマルジョン化はあなたに歩み寄ってくるだろう。

 

そこまで出来ればあとは腸に包むだけだ。今の時代、ネットで気軽に無修正動画が見られるように、ネットで気軽にソーセージメーカーも買える。それさえ手に入れられれば、腸詰め作業はとても楽しいものである。

 

沼は至る所に存在する

 

腸につつみこめるような段階に辿り着いたら、次はハーブをどうするか、という新しい悩みが出てくる。この悩みは味を左右する重要なものなのだけれど、だからこそ難しい。

 

香水をつける女性が苦手だ、という人は多いかもしれない。かくいう僕もどちらかと言えば得意な方ではない。

なぜならば、その人本来の匂いを嗅ぎたいからだ。脇の匂い、頭皮の匂い、うなじの、鼠蹊部の、足首から感じるその人本来のもつ、肉感的ですらある匂いを楽しみたいからだ。

 

しかしソーセージは違う。ハーブという名の香水による組み合わせで、その出来が左右されてしまうのだ。ソーセージのセクシーさは香水によって生まれるのだ。

 

しかし。

 

「ああ、もう少しセージが強ければ、ブラックペッパーが出過ぎたせいで塩の弱さが気になるのか、ナツメグが悪いのか、いやいやシナモンこそ必要だったのか」

 

正解が見えなくなり整形手術を繰り返してしまう人のように、理想が分からなくなってソーセージのハーブ配合の沼にはまってしまう。

 

その沼に足を踏み入れてしまうと、自分一人では答えが出せなくなる。

 

その結果、外部に応えを求めるようになってしまう。

 

解決策を求めるあまりスーパーで売られているソーセージを買いあさり、それだけでは物足りなくなってしまい各地方の物産展に足を伸ばしてご当地ソーセージを買いに走ったかと思うと、通販にて個人で作っている様なものにまで触手を伸ばし、実は肉質にももっと拘らなければならないのかと国産と外国産、ブランド肉の三角関係に悩み、肉の幅の広さと終わりが見えないハーブのバランスの追求に頭と舌が沸騰してしまう。

 

最近の発見は、ニラだってハーブの一種になりうる、という発見だった。

 

まあ実際にニラのソーセージを食べた感想としては、ソーセージというよりは餃子を食べているような気持ちになってしまったのはここだけの秘密だ。

 

そして僕は今でもこの沼の中から抜け出す事は出来ていない。冷凍庫の中には中途半端に開封された各種ソーセージと手作りのソーセージ、調理棚に並ぶハーブ類が僕に手を振って笑っている。

 

「僕はここにいるよ。僕たちは君を待っているよ。 いつでもここに入ってきてもいいんだからね」

 

そんな声に耳を傾けていると、僕がソーセージを求めているのか、ソーセージが僕を求めているのか、そもそも僕がソーセージだったのか、よくわからなくなってしまう。

 

 「あなたがソーセージを作ろうとするとき、すでにあなたはソーセージによって作られているのだ」

 

僕は何を書いているのだろう。

ああ、誰か僕のソーセージを食べてくれないか。

 

そして僕はソーセージを毎週のように作るようになった。

会社が傾くと、思考は迷走する

 

「そろそろ本当にヤバいかもしれない」

 

そんな言葉が僕の口からこぼれ落ちたのは、1週間の間に4件の解約通知が届いて「これマジで大丈かな?」と同僚と語り合おうと思って周りを見渡してみたとき(実際には見渡していない。そもそも同僚なんか一人もいないし、会社のパソコンでアダルトサイトを徘徊しながら4件目の解約希望の電話を受け取っただけだ)だった。

 

僕の働いている零細の会社は、傍目からみてすぐに分かるほど(取引先から心配されるくらいに)傾いていた。というか、まだ潰れても辞めてもいないので、傾いている、というほうが正確だろう。しかし家族経営であるが故に、ここから簡単に抜け出せるようなものでもないのも現状である。社長である義父の「俺が死ぬまでもてば別にいい」という極めて合理的かつ利己的な経営判断に従う他ないのである。

 

しかしその合理性とはまた別の問題として、自分の生活というものを守らなければならないのもまた事実である。このまま行けばいつか飢え死にしてしまうことは間違いない。

 

という訳で僕は自分に何か出来ることがないのか少し考えてみたのだけれど、パソコンの画面の向こう側に映し出されている「ねえ、生でいいでしょ、そのほうが気持ちいいんだから」と、生で中に出す事の素晴らしさを延々と説きながら女優を説得するハゲ散らかしたおっさんの薄ら笑いが気になったことや、確かに中で出すのは気持ちがいいことだ、とおっさんに同調する自分の気持ちが邪魔をして余り深く考えられなかったので、とりあえず冷静になる為に使えもしないエクセルを起動させた。

 

セルを選んだり適当に打った数字を無駄にコピペしてみたりしながら少し考えてみたけれど、杏仁豆腐のようにプルプルで皺もなく、際限なく甘い頭脳からはたったの1つの解決策も思いつかなかった。パソコンのスピーカーからはすでに洗脳されてしまったのか「中で出して中で出して」と懇願する女性の声が聞こえてくる。その声を聞きながらセルを選んだり選ばなかったりしていると、なぜか僕の頭の中では画面の中の女性ではなく鳥肌実がこんにちはと顔をのぞかせ、かの名曲「健太と私 其のニ」を歌いだした。

 

「です ます しましょ 敬語でセックス。春 夏 秋 冬 敬語でセックス。」

 

なぜ彼が顔を出したのかは分からないが、出てきてしまったものは仕方がない。鳥肌実と一緒に黒夢のライブに行く想像をしたのち、エクセルを閉じて昼食に向かった。

 

 そんな状態で毎日を過ごしているのだから、会社がこんな傾いた状態になっていることに今まで気がつかず、ただだらだらとパソコンの前に座って無修正を求め、煙草を吸ってコーヒーを飲んでいられたのだ。

 

営業職とは名ばかりで商品知識もろくになく、交渉スキルも下の下。出来る事と言えば誰にでも頭を下げる事と、へらへら笑ってなんとなくその場を乗り越えるだけの似非営業でしかなかった。そんな僕が傾いた会社を建て直す事なんてもちろん出来るはずもなく、なんとかこの状況を改善しようともがいたりわめいたりする予定もいまの所ない。

 

かといって自分を冷静に見る事にだけは長けているので、このような何の役にも立たないどうしようもない人間を救済したいという菩薩の様な人間、蜘蛛の糸の様な企業が現れる事もないことくらいは存分に承知している。

 

しかしそれはそれとして、もしこのまま会社が無くなってしまうと僕自身の生活もままならなくなり、煙草も吸えなくなりお酒も飲めず、精神的に不安定になってしまうと性欲も薄くなってしまうので下半身に付随している愛する我が息子とも精神的別居状態、俗にいうインポテンツに陥ってしまうかも知れない。

 

「見下げれば ただぶら下がる 我が愚息」

 

でもまあこのような箸にも棒にもかからない男を拾ってくれたうえ、営業時間にも関わらずビールを振る舞ってくれるというエサまで振りまいてくれたことにはとても感謝をしている。しかしよくよく考えてみると、僕がどれだけ感謝しようとも会社が傾いている事実は消えないし、僕の感謝によって会社にお金が入る訳ではない。ということは、今思った僕の感謝はいずれ無になる存在に対する感謝であり、その感謝の気持ちは何も生み出さない、言うなれば種も植えていない畑に延々と水をあげるような不毛な行為である。

 

 なので僕は会社に対して別に感謝しないことにした。どうせ潰れる相手なのだから、感謝するということすらもったいないではないか。どうせ水をあげるのであれば、せめて何かが実るという見返りがある場所に注ぎたい。本音を言えば別に今の会社が無くなってしまってもなんの悲しみもないし、執着もないのだ。

 

果たして僕に何ができるか

 

会社に対して感謝しないという決断をしようがしまいが、会社が危ういという事実は消えず、従って近い将来僕の収入もなくなってしまうのは目に見えている。なので僕は自分の手で何かつくれないかもしくは金銭的価値になりそうなものがないかと考えてみたのだけれど、実際僕が持っているもの、出来そうなことでお金になりそうなものは1つもなく、よしんば家にあるエロ本や漫画、小説をメルカリで売ったとしても、一日のビール代にもならないのは明白だ。

 

だれがこのご時世で「天使なんかじゃない」や「ご近所物語」を高額で買ってくれるというのだ。マミリンは僕の心を癒してくれても財布の中身を満たしてはくれないし、みかこがどれだけ綺麗な服のデザインをしていても僕の将来設計まではデザインしてくれない。

 

となればやはり自分で何か出来る事があるのかと考えてみると、僕に趣味と呼べるものが1つだけあった。

 

それは料理である。

 

話は変わるが、僕にはこう見えて妻がいる。上にも書いたように社長は義父、つまりは妻の父である。義父に関してはどうという感情を持ってもいないが、かたや妻は僕にはなんとももったいないほど出来た人である。

とても優しい人で、僕が原因となるとある不祥事があってからも、きちんと話し合ってくれたり受け入れてくれたりとどのような感謝をしてもしてりないくらい、もし僕が女なら顔射だって喜んで受け入れますよというほど、どうしようもない僕に天使が舞い降りていたのだと思うようになった。そんな妻に喜んでもらえるように毎晩の食事を作るのだけれど、僕はその行為がとても好きなのだ。

 

であればそれをお金儲けの手段にするとよかろうと無い頭で考えてみたのであるが、未経験の状態で飲食店を経営するなんていうのはゴムを付けないバンジージャンプもしくはゴムを付けない風俗での本番と同じように極限のリスキーさを孕むもので、控えめに言っても控えめに言わなくても臆病者な僕にはそんな度胸はない。臆病すぎてハムスターすら素手で触れないのだ。

 

しかしこのまま今の状態を継続していても無職の40歳になる未来しかないので何かしらのアクションを起こす必要があるのはどうしようもないけれど悲しい事実である。

 

そして僕はタイトルにもある通り、現状から脱却する為にソーセージを作る事にしたのだ。

 

そう言えば僕は下ネタしか書けない

 

ここから、なぜ僕がソーセージを作るようになったのかを簡単に書いていこうと思う。

 

また話は変わるが、僕はホットドッグが好きだ。

 ケチャップやマスタードとソーセージが絡み合う味わいはもとより、ソーセージの奥から顔をのぞかせる千切りのキャベツやハード系のパンでもそれこそコッペパンであっても美味しく仕上がるその懐の広さもよい。

 

が、何よりその見た目がとてもエロいことが最大の魅力である。

 

ホットドッグのエロさは、なんと言っても棒状のものを柔らかなものが包み込んでいるというその形状である。挿入まではいかない、いわば素股の状態である。これがAVもしくはエロ本なら、その両方にモザイクがかけられてしまうとても猥褻なものだ。それが白昼堂々と、スーパーやコンビニ、果ては路肩で売られているというこの事実。それだけでない。海外の野球場ではうら若き女性がそのような猥雑物をこれでもかと売りさばき、ボールパークドッグという名前で売られている。

 

ボールパークドッグ。

 

ボールのある場所と言えばキンタマ以外に想像出来ないのは世間一般の認知ではあると思うが、それが名前になるとはなんと素敵なのだろう。 

 

更に言えば、そんな猥雑な食べ物を道ばたで食べている人を見るだけで興奮する。その光景を見たとき、僕のボールパークはいつも以上に稼働しているし、その上にある海綿体にさらなる栄養をドッグドッグと送ろうとしている。

 

 路上で食べられているボールパークドッグは、言うなれば「愛を確認する行為における精神的および肉体的結合部分を人前でかぶりつく」という路上で繰り広げられている変則3Pである。

 

ひだの中からは混ざり合った2種類の液体がたれ、ソーセージは比喩としてのソーセージから脱却し、パンは名称としてのパンから擬音語としてのパンへと変貌する。パンパンと猥雑な音を生み出すソーセージ。

 

ちなみにはあるが、某ドーナツ屋さんで販売されているドッグは、パン生地の部分がパイで出来ている。勘の良い方ならすぐに気付いてくれるだろうけれど、パイのパン、すなわち某ドーナツ屋のドックはパイパンなのだ。パイパンが包むソーセージ。

 

そうなるとその横に並んでいるハニーディップも濃厚な唇を想起させるし、ハニーチュロなんていう名称も甘美な口での行為を彷彿とさせる。ドーナッツの皮をかぶった肉食獣が、そこかしこに点在しているのだ。ここまで猥褻なものが駅前やフードコートで売られているのだから、コンビニのエロ本規制なんていうのは本当に些細な問題だと僕は思う。

 

穴があったら入りたいという人もいるように、穴があったら入れたいと思う人もいる。そのように、人間とは視点を変えることで世の中の殆どのものを性癖に繋げる事が出来るのだ。

 

少し脱線してしてしまったが、僕はそれほどまでにホットドッグを愛している。そして、それだけ愛の対象になっているのであれば普通の料理よりもこだわりをもって、今まで食べてきたものよりも美味しいものを作り出す事ができ、それを販売出来るのではないかと考えるに至ったのだ。

 

そしてこの記事のタイトルにあるように、毎週のようにソーセージを作るようになったのだ。

 

このブログは、そんな僕の作ったソーセージを色んな人に食べてもらいたいという気持ちから生まれた、1つの物語である。

 

僕が理想の肉棒に出会えるまで、どうか優しい目で見守ってもらえることを願ってやまない。