僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージ作りとインターネットは意外と似ている。

雨にも負けず風にも負けないリハビリマン

 

ネットを徘徊していると、「リハビリがてらに適当に文章を書いていこうと思い、このブログorアカウントを立ち上げました」と言った記述を良く見かける。

 

そういった文面は主にプロフィール欄で見かけるのだけれど、書かれている記事を読んでみても何がどうリハビリになっているのかがよくわからない事が多い。

 

リハビリ中であるにも関わらずバリバリに盛った化粧のノリを気にしていたり、友人知人と大酒を飲んで楽しそうな様子の写真があがっていたりもする。もしかしたらそれらがリハビリの一環なのかと一応考えてもみるが、どうやらそんな様子もうかがえない。なぜならばリハビリにつきものの「悲壮感」が感じられないからだ。

 

例えば足の骨を折ると、当たり前だけれど痛い。痛みで動かせなくなるから筋肉が縮小してしまう。そのため骨がくっついてから、また普通に歩けるようになるように頑張って筋肉を元通りにするために必要なのがリハビリであり、それは痛みとの戦いでもある。

 

例えば鬱病になって精神的にしんどくなった場合、社会に復帰する為に心療内科に通ったり向精神薬等を飲むなどしてリハビリする。迫り来る不安との戦いはしんどくもあるし、先の見えない恐怖感と向き合うのもまた辛いものである。その為のリハビリの苦痛が外からは伺い知れないことも、その辛さに拍車をかけている。

 

しかし、ネットでみるリハビリ中アカウントには、そんな悲壮感が殆どといってもいいくらい見られない。

 

なんかもう、楽しそう。

 

阿呆みたいな顔を晒して呑気に暮らしてるのに、リハビリ中って書いてある。そうなると「ネットにおけるリハビリというのは、僕の知っているリハビリとはまったく違うものなのかも知れない」という一抹の不安がよぎる。

 

そもそもリハビリが必要になる為には、先に書いたように怪我や苦悩といったマイナス方面の衝撃が必須になる。マイナス、言うなれば辛い状況というのは誰も味わいたくないものではあるし、僕自身としてもできればそんな状況に陥りたくはないけれども、リハビリが必要な状況とは主にそういった場面なのだろう。

 

しかし視点を変えると、そのマイナスをゼロ、もしくはプラスに向ける、そして立ち直る為のリハビリというのは、それより下にいくことはない、上向きの状態だとも言えるかもしれない。

 

そうであれば「リハビリとは悲壮感が付随するもの」という考え方は実は僕が勝手に思っている一元的なものであり、もっと別の考え方が必要なのではないか、という気付きを得た。なぜならば低い場所から高い場所を目指す道のりは、苦しさももちろんあるが楽しくもあるからだ。

 

泥沼の状態において、手を差し伸べてくれるものがリハビリなのだとしたら、その手の持ち主は悲壮感ではなく、バットマンやスーパーマンのようなヒーローと同じ様なものなのかもしれず、もしその思考が正しいのであれば僕の思い違いで見ず知らずの他人様を貶めてしまっていることになるし、それはそれでとても恐ろしい事である。

 

だからとりあえず、誰かが困っていたら素敵な笑顔で手を差し出す魅惑のヒーローとしてのリハビリ、いうなればインターネットにおけるリハビリマンのことを想像してみたい。

 

20XX年。◯◯県▲▲市。

 

8階建てのマンション、最上階のベランダから、入れたてのコーヒーを片手に階下を見下ろす一人の男がいる。彼の名前はインターネットリハビリマン。ネットで困っている人がいれば手を差し伸ばし、傍に寄り添い共にリハビリに励み、その苦境から救い出そうとする。

 

しかし良い人というだけでは生活はできない。救った見返りに、ネットで全てを配信する了承を得る。その映像で皆を楽しませ、広告収入という莫大な稼ぎを得ているからこそこれほど優雅な生活ができるのだ。だれも彼を責めることは出来ない。なぜならば、彼こそがリハビリマンだからだ。リハビリという言葉を使っているかぎり、思想や行動が例えいびつであっても正当化されるのが世の真理である。

 

リハビリマンの朝は早い。どんな時間帯であっても困っている人はいるからだ。朝日を全身に浴び、エネルギーを充電しているその様はまるで太陽光発電パネルのようである。

 

リハビリマンは一体何をする人間なのか。本当に正義のヒーローなのか、実は悪の軍団ではないのか、いやいや目立ちたがりの一般市民なのか。その正体は分からない。ただ1つ分かっているのは、彼はリハビリが必要な人の元に駆けつける、ということだけだ。そしてその手には、いつでも画素数の高いスマホを持っている。

 

彼の行動原理はこうだ。

 

東に病気の子どもがいたら行って看病してやりながら写メを撮り、

西に疲れた母がいれば行ってその背負った稲の束をインスタにアップする。

南に死にそうな人がいたら行って怖がらなくてもいいとながらツイッターに晒し、

北に喧嘩や訴訟があれば、もっと!もっと!と動画を撮ってユーチューブに投稿する。

 

ほら、そんなことを解説していたらいつの間にかマンションの下の公園でおっさん同士が争っているではないか。足下には、ワンカップの空き容器がいくつか散らばっている。どうやら喧嘩の原因は、最後のワンカップをどっちが飲むかで揉めていると読んだがいかがかな。これは双方にリハビリが必要ではないか。

 

リハビリマンは着の身着のままマンションのエレベータに飛び乗る。クロックスが脱げても気にしない。全速力で公園へと向かう。すぐさま携帯を構え、ズーム機能を駆使して彼らを撮る。的確なカメラワークは後の編集作業を楽にする為にいつの間にか身についた高度な技能である。

 

「おい、お前なんや!こら!なに撮っとんねん!しばき回すぞ!」

 

そんなおっさん達の声にひるむリハビリマンではない。

 

「ゲッヘ!こわ!おっさんこわ!え!こんな朝早くから酔ってるん?ヤバない?俺よりヤバない?」

 

罵倒と罵倒が交差し、誹謗と中傷が錯綜する現場での撮影をつつがなく終えた彼は、自宅に戻って動画の編集作業に没頭する。それもすべては、リハビリの為なのだ。

 

「イエーーーイ!!!!リハビリマンどぅぇーーーーす!!!えっと、今日はマジでヤバい動画取れたから。喧嘩、マジ喧嘩。公園のど真ん中で殴り合いしてたからそれ撮って、当てレコしてみました!!!面白かったらチャンネル登録よろしくっすううう!!!」

 

そうやって今日もリハビリマンはネットの世界に笑顔を増やし続けている。

 

果たしてリハビリとは?

 

そもそもリハビリとは僕が思っていることで合っているのだろうか。

 

現実の世界とネットの世界の乖離がひどいと常々感じている僕は、まずリハビリという言葉をきちんと調べることにした。

 

リハビリ

リハビリテーションの語源はラテン語で、re(再び)+ habilis(適した)、すなわち「再び適した状態になること」「本来あるべき状態への回復」などの意味を持つ。また、猿人原人の中間に意味するホモ・ハビリス(homo habilis、「器用なヒト」)が、道具を使い人間にふさわしいという意味でも用いられ、適応、有能、役立つ、生きるなどの意味も含有し、リハビリテーションの語源ともいわれている。他に「権利の回復、復権」「犯罪者の社会復帰」などからの意味合いがある。なお、ヨーロッパにおいては「教会からの破門を取り消され、復権すること」も意味している。このように欧米ではリハビリテーションという言葉は非常に広い意味で用いられている。 

                         ウィキペディアより抜粋

 

どこにも悲壮感がない。

 

やはりリハビリに悲壮感が必要なのだというのは、僕の思い込みだったのかもしれない。思い込みで人の事をなじる事ほど、情けないものはない。そう思い、僕は反省の気持ちを込めてソーセージを作る事にした。

 

そう、この反省というマイナスの状態から、再び普段の生活を取り戻すために。

 

冷蔵庫から取り出したひき肉に塩と氷をボウルに入れてからよく捏ね、今度は冷凍庫で休ませる。ミキサーのガラスで出来た容器部分も一緒に冷凍庫に冷やしておく。

 

煙草を口にくわえ、台所の隅に置いていある小さな椅子に腰掛けた。百円で買ったBICのライターを手に持ったまま、さっきまでの自分を恥じて反省する。

 

しかしその反省している自分に、なんだか納得がいかないのも本心である。自分が間違っていたら謝るのは大人として当然の態度であるし、僕は一人で考えたのちに自分が悪いと悟り、恥じた。凄い大人な姿勢。素敵。そんな英国紳士然とした態度をとったにもかかわらずこんな気持ちになるのは、何故なのか。

 

どこに納得がいかないのか、重箱の隅をつつくように脳みその中を散歩してみたのだけれど、多分最初から間違っていたのかもしれない、とも思う。ソーセージとリハビリの話を無理矢理くっつけようとしたスタート地点から、そもそも間違っていたのだ。

 

正しい答えは正しい質問からしかでてこないとはよく言ったものだ。

 

間違った考え方から出てきたリハビリマンなんていう存在はただの腹が立つユーチューバーだったし、むしろ今現在の僕にはリハビリマンの存在に対してのいらだちが出てきてしまっている。なんだよアイツ。そのまま窓から飛び降りろよ。

 

でもまあ、最初に話をもどすと、ネットでのリハビリが必要になるということはそれこそネットにおいて怪我したり苦悩等を感じた経験があるからこそ、筆を折っていた時期があり、そこから復帰しようとしている過程にあるということなのだろう。

 

僕はもともとインターネットにズブズブなわけではないから、なぜわざわざそんな地雷原に舞い戻ろうとするのかは分からないけれど、あのリハビリ中の人達はそんな地雷の広がる原っぱのど真ん中で、雨の中でタップダンスを踏むジーン・ケリーのように「つらい場所であえて楽しそうに振る舞う事」がリハビリとなっているという可能性がある。

 

なんとなくその姿は、「リハビリ」の為であるにもかかわらず「泥沼に足を突っ込んでいる」気がしてならないのだけれど、仕事で忙しいにも関わらず睡眠時間を削ってまでソーセージを作っている自分も、もしかしたら同じ様なものなのかもしれない。

 

そんなことを考えていると、いつの間にかうとうとしてしまっていたらしい。台所の隅で火のついていない煙草をくわえててボートを漕いでいる僕に「しんどいなら寝なよ」と妻が言った。「うん、もう少ししたら寝る」と返事をし、立ち上がって涎でフィルターが湿った煙草に火をつけた。

 

深く煙を吸い込んで、(確かにしんどいけれども、ソーセージを作る事でしか満たされない何かがあるんだよ)と心の中で呟き、煙を吐き出す。僕の口から出て、そのまま換気扇に吸い込まれていく煙を見送ってから、煙草を灰皿に押し付けた。濡れたフィルター部分が折れ、灰が指先に少しついた。流水で灰を流してから、石けんを使って手の平全体を洗い、アルコールで消毒する。

 

冷凍庫から肉とミキサーの容器を取り出す。肉の状態はいい。固まらず、しかしきちんと冷えている。ミキサーに容器をセットし、肉を投入する。ハーブ類を計って入れ、温度が上がらないように、でもきちんと乳化するように混ぜ合わせる。段々とピンクになっていくひき肉を眺めながら、ああ、傷つくと分かっていながらまたネットの世界に舞い戻る人達は、今の僕と同じ様な気持ちなのかな、と少しだけ理解出来た気がした。

 

ソーセージ作りでしか満たされない何かがあるように、ネットで盛り上がることでしか満たされない何かがある。

 

そんな、楽しみと悲しみが、実像と虚像が、排他と受容が、塩と肉が、羊腸と豚腸が、混ざり合った僕のソーセージを誰か食べてくれないか。

 

 

 

 

 

中折れという名の恐怖。

僕は2つしかドラゴンボールを持っていない。

 

中折れ。

 

その3文字は、僕の様な中年男性には極めて身近にある、恐怖の存在である。その先には男性機能の死というものが身近に感じられ、しかもいつ訪れるのかすらわからない。

それはまるで、生と死が隣り合うセルゲームが始まる前のドラゴンボールの世界の様なものでもある。

 

もしそうなってしまうと、どれだけ怒りを感じたとしてもスーパーサイヤ人はおろかカメハメ波すら打てない状態であるし、タオ・パイパイという名前に興奮するどころか焦りすら感じてしまうようになる。

 

どれだけ女性が「ロマンティックあげるよ」と囁いてくれても立つ気配のない下半身はいつだって摩訶不思議アドベンチャー。2つのドラゴンボールだけでは神龍は願いを叶えてくれないのだ。

もししそうなると、どんなその状態に陥ってしまうのかは想像に難くない。セルJr.は何かと役にたつけれど、僕のJr.はなんの役にもたたなくなってしまう。そんな悲しい宝島、誰も望んではいない。そうさ今こそバイアグラ

 

中折れは自分のプライドだけではなく、相手の女性にショックを与えることにも繋がる。

 

「さっきまでは元気だったのに急にしょぼんとするなんて、私が悪かったのかな」

 

ちがう、そうじゃないよ。悟空さんの元気玉に力を分けてしまったんだよ。

 

「ねえ、もしかして私の匂いが気になったの?正直に言って」

 

ちがう、そうじゃないよ。ホラ見て、僕には鼻がないじゃないか。ね、クリリンと一緒さ。

 

そのように、中折れはジェットコースターの始まりの様に高ぶった緊張感と興奮をフリーフォールのように一気にどん底へと突き落とす、初めてナッパが登場した時の様な絶望感をもたらすのだ。

 

日本人は固さを求める。

 

そしてそんな中折れに対する恐怖心は、ソーセージ作りにおいても同様に存在する。

 

エマルジョン化させた肉を腸の中に丁寧に詰め込みながら、段々と伸びていくソーセージに気分が高まり、手がふやけるほどに愛撫しつくし、好きな長さに縛ってから乾燥、薫製する。一連の製作作業はセックスにおけるいわば前戯である。どれだけ丁寧に愛撫するかで、相手をどれだけ喜ばせられるかが決まるのだ。

 

しかし。

 

どれほど手間ひまかけても、相手がイカない場合ももちろんだけれどある。

 

「んー、味はいいし、手間がかかってるのは分かるんだけど、なんて言うか、固さがたりないかな。ほら、海外のやつみたいに大きければ、それなりに張り合いがあるんだけど」

 

これはちんこの話ではない。ソーセージの話だ。

  

手作りソーセージにおける難点のなかに、あのパリッとした食感が生み出せない、というものがある。これはシャウエッセンアルトバイエルンが生み出してしまった弊害といっても過言ではないが、日本人はソーセージに固さを求める傾向なのは間違いない。

 

確かにあのパリッとした食感は魅力的だ。そして僕が求めるソーセージもあのパリッとした食感に近づけたいと思っているのだけれど、どうにも上手くいかずに毎回四苦八苦している。

 

どうすればあの食感が出るのかと幾多の文献(ブログ)をひも解いてみたけれど、どうやら「乾燥」というものがもっとも重要になるのだ、という記載がいくつも見られた。

 

セックスに乾燥は大敵だけれど、ソーセージには乾燥が必要不可欠らしい。

 

でも我慢が出来ない。

 

先日ソーセージを作った時の事だ。

 

僕は出来上がったばかりのソーセージを縛ってから吊るし、なるほど緊縛師というのはこれほどの達成感を得られるものなのかとひとりごちていたのだけれど、その感動もなんとやら、どうにも風で乾燥させる間が待っていられない。どれだけ乾燥が大切だと言われ、それを頭で理解していてもどうにも身体が動いてしまうのだ。

 

それが何故なのかを考えてみたのだけれど、どうやら「静かな美」というものに対しての感受性がどうにも鈍くなっているからかもしれない。

 

「吊るされているソーセージ」を見ているだけでは、興奮しない身体になってしまっているのだ。

 

最初は吊るしているだけで満足していたのが徐々に刺激に慣れてしまったのか、早く(お湯の)中に入れたい、早く(お湯から)出したいと、気持ちがせっついてしまうようになったのだ。この感情の変化は「インターネットの普及における弊害」といっても決して大げさな表現ではない。

 

かつて僕の下半身は「道ばたに落ちているエロ本 」を見かけただけで、興奮の坩堝に放り込まれたよう発狂していた。

 

しかし今の時代、手のひらに収まる小さな通信器具をちょちょいと使うだけで、たくさんの無修正動画が簡単に手に入ってしまう。それに慣れてしまった僕はモザイクのかかったヌード写真では起たなくなってしまっていた。

 

マンションのゴミ捨て場に忍び込んでエロ本を探していた、あの三丁目の夕日時代にはもう戻れないのだ。

 

動画はその名の通り動的な画である。反対に、ピンナップ写真は静なる画である。そして動画に慣れてしまっている僕は、いつの間にかエロ本のピンナップでは我慢出来ない身体になってしまっていた。

 

だからこそソーセージが緊縛されている状態を心静かに鑑賞し、その痴態を眺めるという大人としての余裕を保つ事が出来ず、不十分な乾燥のままでボイル作業に入ってしまうという、致命的なミスを犯してしまったのだ。

 

そして言わずもがな、その先にあるのは弾力のすくない、口に入れても固さを感じないソーセージである。

 

あれだけ恐れていた中折れが、こんなにも身近にあるなんて。柔らかい間延びした食感、飛び出さない肉汁、口の中に残る皮の不憫さ。その全てが、僕を悲しくさせた。

 

そんな全てにおいて足りないソーセージをもそもそと食べながら、僕は1つの誓いを立てた。

 

写真の、静的なものに対する感受性をまた育て上げ、静的なものを性的に感じられるように、自分を再調教するのだという誓いを。

 

僕の携帯には、もう動画は入っていない。

そこに入っているデータは、緊縛された肉体の写真だけだ。

 

以下にその写真を貼っておく。この画像で皆さんが興奮出来る事を願ってやまない。

 

f:id:itamimati:20171010164340j:plain

 

ああ、誰かに食べてもらえる様な、美味しいソーセージが作りたい。

 

 

ソーセージ作りが男の夢だと言う証明。

郷愁を感じるエロ動画。

 

射精が止まらないAVという、なんともくだらなくも面白い動画をネットで見かけた。

 

明らかに大き過ぎるキンタマをぶら下げた男優さんが下半身をしごき、眼前で膝をついている女優さんに呆れてしまうほどの量の白濁した液体をかけるという、一見するとギャグにしか見えない、誰がこの動画で興奮するのだろうと思ってしまうような映像なのだけれど(女優さんも途中から興奮する演技が出来なくなり笑っていた)、一定の需要があるからこそ存在しているのだろう。

 

その女優さんは言う。

 

「ええ!まだ出るの?!」

 

しかしてその需要がどのように生まれるのかを考えてみた所、この動画の視聴者が求めているのは興奮や性的欲求を満たすためではなく、ましてや面白さなどでもなく、若かりし自分への郷愁というものではないか、という結論に落ち着いた。

 

どういう事か。

 

僕は35歳になった今でも1日最低1自慰を欠かさず続けている。休日には3回する日もあるし、毎日とまではいかないけれど朝立ちもある。しかし昔と比べて明らかに違うものがある。

 

出てくるものの量と勢いである。

 

中学高校時代なんていうのは、3回目であろうが4回目であろうが、ティッシュペーパーを突き破らんばかりの勢いで彼らは外の世界へと飛び出していった。それはディズニーランドでファストパス・チケットを奪取せんとダッシュする人達と同じ様なスピードとパワーを持っていたと言っても過言ではない。現にその時期の僕の股間はいつだって左曲がりのスプラッシュ・マウンテンだったし、脳みその中はエロいものを探し求めてインディジョーンズアドベンチャーが広がっていた。

 

「ねえ、パコっていやらしい名前だよね。ほら、君の名前を聞くだけで興奮しちゃったよ。大きくなった僕のクリスタルスカルに早く安全ベルトをつけてくれないか」

 

アミーゴ、パコ。アディオス、夢の国。

 

そんな過去に比べ今の僕に至っては、1回目の放出であるにも関わらず、クレープの底の方からたれてきてしまう生クリームようにどろりとしたものが棒の先から垂れてくるだけである。ダムが決壊するくらいに高まった性欲に反して、それくらいの勢いしかないのだ。

 

金玉に取水制限がかかっているのかもしれない。

 

とても無駄な仮定だと自分でも分かっているのだけれど、もし僕がカリに女子高生で僕の棒が女子高生の口であったとしたら、その取水制限は悲しむべきものではなくむしろ淫美さを連想させるような画像として、インスタ映えもしくはツイッターでいいねの数字が決壊、ダムの放流のごときスピードで爆散すること確実である。

 

実際はおっさんの射精シーンでであるからして爆散、決壊どころか永久凍結を免れないし、万年低貯水量なのだけれど。

 

そんなていたらくなので、やはり若かりし頃のパワーやスピードが羨ましくもある。昔のように床に新聞紙をひいてどこまで飛ぶかだとか、ぶら下げたティッシュに向かって穴があくのかどうか試し「ワイが浪速の早撃ちガンマン、自慰・ザ・キッドや!」なんてことをしなくなっている。

 

今残っているのは、早撃ちだけという不名誉な称号。

 

余計な話をしてしまったが何を言いたいのかというと、僕と同じように過去の自分に対して羨ましがっている人は意外と多いのではないのか、ということだ。よく居酒屋で過去の自慢話を繰り広げている人を見かけるだろう。それらは一種のマウンティングや自己顕示のように感じられるかもしれないが、裏を返すと、今は昔の様な無茶な言動を出来なくなっていることでもあるのだ。

 

そして、そのような会話を繰り広げている人達が、最初に書いたような動画をみるのだ。 

 

かつては体験したが今はもう出来なくなってしまった「あり得ないくらいの量が出る」という理想的状況(巨根信仰と似たようなものかもしれない)に対し、もうそれができなくなった悲しさや羨ましさを満たす為に、あの映像に癒しを求めるようになる。

 

笑顔でティッシュを消耗していた自分は、もうこの時代には存在しない。

 

そう言う意味で、先のような結論、つまり性欲を満たす為ではなく昔のアルバムを眺める様な郷愁の気持ちが満たされるからこそ需要がある、という着地点に落ち着いたのだ。

 

絵に描いた餅では腹は満たされない。

 

ただ、見る人の視点だけで言えば上記の様な懐かしくも美しい、儚い感情をもつという、まるで陽炎のようにおぼろげな結論になる。が、承知の通りそれだけでは解決しない。どうすればそれを視覚での満足ではなく、感覚での満足にもっていけるかということが重要になるのではないかと僕は思う。

 

絵に描いた餅では腹が膨れないように、長時間の射精を眺めているだけでは本当の快楽は手に入らないのだ。

 

女性がセックスで感じる快楽は、男性の何十倍もある、という話を聞いた事はないだろうか。かたや男性は射精が一番の快楽でありそこがピークであるし、さらに言えば女性の快楽はそのピークの何十倍あるというだけでなく、それを継続できるというのだから女性はずるいと感じてしまうのもいたしかたない。

 

もっと突き詰めると、僕はすでに壮年期を半ば過ぎ、連射機能はもうない身であるからして再充電まで時間がかかってしまうし、一度出してしまったあとの冷静期も日に日に長くなってきている。快楽は幸運よりも早いスピードで逃げていく。

 

自分の感じる快楽が減少しているなかで、羨望だけが増えていく矛盾を抱えながら、僕は今日も生きている。

 

ではどうすれば今の状態で、あの映像のような、もしくは女性が感じるような壮大なる快感を得られるのかを考えると、やはり科学の力を使うしかない気がする。

 

そう、科学こそが悩みを解決してくれる最大の手段である。

 

人類がここまで発展したのは科学のおかげだと言っても誰も反論出来ないだろう。薬だって普段の生活だって、もちろん僕が今叩いているパソコンだって科学の粋が詰まっている。洗濯科学がなければ真っ白なシャツを着る事なんて叶わなかったように、科学が発達しなければ化学もなく、全世界の男性の希望の種であるバイアグラも生まれなかった。

 

しかしだからといって安易に化学物質に頼る訳にはいかない。僕にだってそれくらいのプライドがあるのだ。バイアグラは、起たなくなってからの最後の手段である。出来る事が1つでもあるならば、僕はそれを追求していきたいと思う。

 

さて、 では科学をどう流用するかなのだけれど、これはとても簡単である。とりあえず、「1度しかない大切な時間を、長くすればいいじゃないか」ということが可能になればそれでいいのだ。

 

ご存知の通り、特殊相対性理論を流用すればいいのである。

 

特殊相対性理論を簡単に説明すると、光の早さに近づけば近づくほど、その動いている物体とその周囲の物体との時間はズレる。すなわち速く動いているものは、時間が遅く流れるのだ。

 

ということは、光速に近いスピードで射精をすることが可能になれば、相対的に射精の時間を長くし、快楽を感じる時間を長くすることができるということではないだろうか。

 

分かりやすいようにアインシュタインの公式に当てはめると、

 

E(いい気持ち)=mc2(マジでちんこの快感2乗)

 

となる。

 

2乗でも物足りない欲しがり屋さんは、ここではなくアナルの国に行くことをお奨めする。お尻の穴の奥は欲しがり屋さんのもってこいなほど、広大な世界が広がっているらしいですよ。

 

話を戻してここからさらに追求していくと、この化学式を成立させるために必要な能力がでてくることは想像に難くない。

 

それは早漏である。

 

そして幸運なことに、僕にはその特殊能力があった。さっきも書いたが、浪速の早撃ちの称号だけは未だ失っていないので、これはもう天啓といっても問題ないだろう。

 

まずは素早く出せることこそが、光の速さに追いつく為に必要な階段なのである。

 

この年になってなお大人の階段を登ることが出来る幸運な僕は、もはやシンデレラなのだ。

 

しかし自分は速いから向いている、なんて安易な安心はしてはならない。ただの早漏では足りない。光の速さに比べたら三擦り半なんていうのは短距離走でいう黒人と日本人の差以上のものがある。果たしてその差を埋める事が僕に出来るのか、と、その先の長さに暗くなっていたのだけれど、その時たまたま見ていたテレビのニュースで桐生選手が日本人初の9秒台を出してくれた事で僕はとても勇気づけられたことを昨日のことのように覚えている。

 

桐生選手に出来るのなら、僕にだって出来るかもしれない。そう思わせてくれる何かがあった。

 

彼はイチローと同じように、ウェイトトレーニングをしないのだという。さらに骨ストレッチなるものをし、あの記録が生み出された。

僕もそれにならって、自分にあった方法を見つけたいと考えている。

 

しかしまあ、やはり科学は万能である。早漏はセックスの敵だという空想的社会主義に真っ向から立ち向かうために、僕はこの特殊相対性理論に基づいた快楽の追求を現代の社会的科学主義として後世に残したいと常々思っているのだが、件の映像の根底には同じ様な思想が流れているのでないか、とも感じるのだ。

  

快楽の追求には、ソーセージ作りこそが最適である

 

さて、いくぶん説明が中途半端な気がしないでもないが、ここからタイトルにある本題に入る。

 

早漏を追求すれば快楽の扉が開くと書いたが、今よりもさらに速い世界、速早漏(そうそうろう)に到達すると弊害が出てしまうケースもある。ジーンズに擦れただけで出てしまう懸念もあるし、性行為においては女性から見限れてしまう可能性も高くなるし、もしかしたら光の速さに近づきすぎ、腰の振動で物凄い衝撃波が発生して女性が跡形もなく吹き飛んでしまうことだってもちろん考えられる。

 

そう考えると科学を使った快楽の追求は弊害が強過ぎるが為に一般人ではなかなか辿り着けない領域でもある。

 

だからこそ、僕はここでソーセージ作りを諸君にお奨めしたいのである。

 

なぜならば、ソーセージ作りには絶頂を長く感じられる腸詰めという作業があるからだ。

 

塩漬けにされていた腸を水で戻し、ソーセージメーカーに充填した肉を詰めていく。

一見単調に見えるこの作業は、ソーセージ作りにおいて類を見ないほどの継続的絶頂を感じられる作業である。

 

かつてコンドームが豚の腸で作られていたことを考えると、この腸詰めの作業は射精以外のなにものでもない。

 

肉が詰まって段々と長くなっていくソーセージを見ていると、自分の下半身に巨大なキンタマがぶら下がっているように錯覚してくるのだ。手を動かすたびに切っ先から溢れ出てくる、液体に極めて近づいた濃厚な肉。「あれ、そろそろ限界か」と思っても、まだボウルの中には種が沢山残っている。ソーセージメーカーに詰め直し、また手を動かすと延々と種は腸の中に出続けるのだ。際限なく長くなっていくソーセージに向かって、あなたはこう呟くだろう。

 

「ええ!まだ出るの?!」

 

そう、動画で女優さんが言った、あの台詞である。

 

長時間出しながらも女優さんの気持ちすら味わえてしまうのだから、ソーセージ作りで得られる快感は性行為のそれを明らかに上回るのだ。

 

Mr.Childrenの桜井さんは、Tmorrow nevernknowsの中で歌う。

 

とどまる事を知らない時間の中で

いくつもの流れゆく羊腸を眺めていた

老いすぎて消えた帰らぬ夢の面影を

すれ違う少年に重ねたりして

 

かつては猿のように自慰に耽り、その過去に羨望の眼差しを剥けていた中年の僕は、もういない。すれ違う少年に対して羨ましいという気持ちもなくなった。

なぜならば、僕の手には延々と出し続けられるイチモツがあって、そこから出続ける種も作る事が出来るし、その種を受け止め続けられる羊腸もあるのだから。

 

こんな快感に出会えたなんて、ソーセージ作りはなんと素晴らしいのだろう。腸の中に詰まっているのは、ミンチ肉やハーブだけではない。男の夢も詰まっているのだ。なんとも素晴らしい食べ物ではないか。

 

ああ、誰か。こんな僕のソーセージを食べてくれないか。