母や父に感謝する日があるのなら、ちんぽに感謝する日があってもいい。
今週のお題「おかあさん」
このお題を読んでから上記のタイトルだけが思いついてもう数時間、何も書くことが思い浮かばず僕はパソコンの前から動けずにいるのだけれど、結局諦め席から立ち上がってトイレに向かった。
いつでるか、もうでるかと思いながら力むこと5分少々。しばらく格闘した結果、葡萄一粒ほどのウンコがポチョンという可愛らしい音とともに滑り落ち、潜水艦のように便器の中へと沈んでいった。ポチョンがポチョムキンへと変わった瞬間に立ち会えた。
うんこはとても小さな、一粒だけの儚げな存在であったにも関わらず、匂いは一人前のウンコだった。
山椒は小粒でもピリリと辛いし、ウンコは一粒でもソコソコ臭い。
それが今日一日会社で僕が得ることができた教訓だった。
しかしまあ、そもそもこんなタイトルの記事を読みたいと思う人は気が狂っているとしか思えないのだけれど、もしこの記事を本当に読んでくれる人がいるとすれば、それはちんぽの日に何をプレゼントすればいいのか悩みに悩んだ挙げ句、ネットサーフィンの果てにこの記事に辿り着いたであろうことは想像に難くない。
「ちんぽ 感謝 プレゼント」で到達出来る検索結果先はきっとここくらいだろう。
ということで、母の日にはカーネーション、父の日にはウィスキーみたいな感じで、ちんぽの日には何をプレゼントしてあげればいいのかをここに記載することが全国のさまよえるちんぽ子羊さんたちに対する優しさなのだと思ったので、それを書きたい。
そもそも母の日にカーネーションをもらって嬉しく思うのは、母は普段からカーネーションを代表とする「花」をもらう機会が少ないからだろう。
しかし少し調べてみると、花を嬉しいと思う人が多い反面、全然嬉しくないという意見も散見される。 ちなみにそのサイトによるとカーネションなどの花も嬉しいけれど一緒にご飯を食べにいったり旅行にいったりするほうがうれしかったり、鞄や財布などの小物をもらうことに喜ぶみたいなことも書かれていた。何とも現実的だ。
ただそれらは地味に出費のかかることでもあり、そこまでのプレゼントはどちらかといえば誕生日などにとっておきたい。では何がいいのかといわれれば、母親の好きな色のスカーフなどはいかがだろうか。季節を問わず使えて値段も手頃。また僕自身今までの人生でスカーフが嫌いだという女性に出会ったことがないので、とても現実的な気もする。
ちなみにだが、母の日だからといってカーネーションの色に合わせて赤いものを選ぶのはやめた方がいいと個人的には思う。なぜなら、今の時代赤いスカーフを巻いているのは水木一郎くらいしかいなからである。
想像してごらん。あなたのせいで、母親が水木一郎とペアルックになってしまうことを。
想像してごらん。あなたのせいで、母親がパート先の打ち上げでマジンガーZを歌わされることを。
あなたがジョンレノンと同じ様に平和を愛するのであれば、赤以外のスカーフがよろしいかと思う。
他方、父たちがウィスキーをもらって喜ぶのは、世知辛い社会構造が問題となっていることはあまり知られていない。
働けども働けども我が暮らし楽にならんなあとじっと手を見つめているお父さんたちが普段飲んでいるのは第3のビールやメチルアルコールである。それらが冷蔵庫に並んでいる様は物悲しくもあり、そのままいくと密造酒作りに手を染めてしまう懸念もある。
父を非行に走らせないように、日常でも飲める様に、せっかくだからいいお酒をあげようと鬼殺しやワンカップをあげたとしても、そんな飲酒状況にある父親は手が震えているもしくはメチルが視覚に影響を与えてしまっているので上手いこと飲めずにこぼしてしまう、もしくは癇癪を起こして壁に投げつけてしまいかねない。
すると結果的に床にこぼれた中身を臥せって啜るという人として情けない結果になってしまうので、この場合はそのままでも飲みやすく、またある程度アルコール度数の高いウィスキーが喜ばれるのだと僕は床にこぼしたワインを啜りながら考えたのだ。
話は変わるが木の床に落ちたワインを直接すすると木樽から直接ワインを飲ませてもらっている気がしてなんともいいものだ。床のテロワールを感じる。またカーペットにこぼした場合は布のテロワールがするけれど、けばけばしさが気になるのであまりお勧めしない。
このようにプレゼントは、あげる対象が求めている物を提供すべきである。となればちんぽに対しても、どのような生活をしているのかを良く観察し、何を求めているのかを感じ取ってあげることが重要なのだ。
あなたのちんぽが何を思い、何を考え、何をして過ごしているのかをつぶさに観察し、健やかな時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時にも、貧しい時にも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くして見守ってあげる。
非行に走る児童の大半の原因は親の無関心といわれているが、それはちんぽも同様である。
貴方がちんぽに関心を持つことで、ちんぽが何を欲しがっているのかを理解出来るできるだけでなく、非行の道へと踏み出してしまうことを未然に防ぐことだって出来るのだ。
愛するということは包み込むということ。敬うというのは先っぽを刺激してあげること、慰めるのは上下運動、助けるのはティッシュの用意、命ある限りの真心とはご想像にお任せします。
なによりボクが言いたいのは、
ゆるすなちんぽの非行
ともせちんぽの希望
を合い言葉に、邁進してまいろうではないか、ということだ。
さて少し脱線してしまったけれど、母や父が喜ぶようなプレゼントを考えたように、ここからちんぽの喜ぶものを考えようではないか。
しかし先に書いておくと、普段からちんぽと近しいパンツやコンドームというのはちんぽの日にプレゼントする物としては最低の部類に入ると考えられる。
これは例えば母親にエプロンをあげると「もっとおいしい飯を作れ」というプレッシャーになってしまう懸念があるし、父に財布をあげたとしても入れる中身がないどころか手元にあるお金を全て酒に使うために、財布を見る度に罪悪感を増長させてしまう、なんてことが現代日本では良く起こりえるし、もうそうなるとその結果が自殺大国である日本だともいえる。
心ないプレゼントが人を殺すこともあるのだ。
なので出来るだけ対象から距離を置きながらも、相手が喜ぶものであり、また需要があるものを見極めることが重要になる。
これは順序よく考えると理解出来るかもしれない。
まずなぜパンツがだめなのか。それは、ちんぽから一番近い存在、先にあげた様な母親にとってのエプロンだからである。
そんなちんぽに一番近い存在であるパンツをプレゼントするというのは、八百屋さんにキャベツをプレゼントするようなもの、もしくはお坊さんに木魚をプレゼントするようなものだ。
いつもスグそばにあるものをわざわざプレゼントされてもなにも嬉しくないし、逆に言えば迷惑にすらなりえる。
たとえば魚屋さんがさんまを叩き売りしているその瞬間、「これ受け取って下さい!」鯵を渡したらどうだろうなるだろう。「ありがとうございます」とは答えないし、そもそも気持ち悪がって受け取ってはくれないだろう。
またタイミングが悪いと、自分で持ち込んだ鯵であるにも関わらず「あいらっしゃい!鯵一丁ね!」と、そのままレジに通されてお金まで払わされるかもしれない。貴方が持ち込んだ鯵に対して貴方がお金払いそれを貴方が持って帰ることになる。
あなたが代金を払って手に入れたもの、それは虚無である。
結局の所、あなたは何も手に入れられない。貴方がしたいことが寄付や献金なのであればそれでもいいだろうが、きっと違うだろう。そのように、やはり対象に近しい物はプレゼントにはむいていない。
次にコンドームがいけない理由は、これはもう単純にダサイからである。こういった物をプレゼントする俺あるいは私、なかなかにとんがってて面白いだろう、という自意識が垣間見えすぎてしまう。
精子をせき止めるコンドームをプレゼントしながら自意識を駄々漏れにするなんていうださい行為は、高校生で卒業しておきましょう。先走るのは、ちんぽだけで十分なのだ。
さてここからが本題だが、ではちんぽの日にプレゼントするには何がいいのかを考えると、やはりちんぽからほど遠く、かつちんぽにとって有用である物があげられ、またプレゼントであるがゆえにオシャレであることも重要だろう。
そもそもちんぽは隠されることが前提であり、オシャレであることは余り意味をなさないのでは?と考えられがちだけれど、オシャレの上級者は見えないところにこそ拘るものである。勝負下着はその最たる物で、見えない部分に拘ることで強く優しく愛おしくなれる。
貴方のちんぽは赤黒いだろうか。それとも青白いだろうか。きちんと毎日確認している人ならばすぐに答えられるけれど、まずここで気にするべきはちんぽを表現する時には「色」が使われるということだ。
色はその物体がどれくらい光を反射するかで決まる。リンゴは赤いのではなく、赤い光を反射することで視覚的に赤く見えるのだ。
それに倣うと、赤黒いちんぽは白い光を吸収していく「闇属性」のちんぽであり、青白いちんぽは黒さを吸収する「光属性」だと定義できる。
であれば、自ずとどのようなプレゼントがいいのか選択肢の幅を狭めることができ、今後どのようなちんぽに育てたいのかによって別の選択も選べるだろう。これはちんぽに対するプレゼント選びでありながら、1つの教育でもあるのだ。教育評論家の尾木ママも、きっとこの意見に賛成してくれることだろう。
「あのね、ひとつとして同じちんぽってないのよ。あなたにはあなたのちんぽがあるし、そのちんぽをどうやって育てるのかは、貴方の手にかかっているのよ。まあ、手にかかってるって、なんかヤラシイわね」
では、1つのサンプルとして闇属性の赤黒タイプを優しく育てたい時のプレゼントを考えてみたい。
先にも書いた様に、赤黒ちんぽの属性は闇だ。であれば、優しく育てたい場合には闇を中和する為に必要になるものを選ぶことになる。
となるとやはり柔らかな素材感が重要であり、闇の印象を軽やかに変化させる「パステルカラーの薄手ストール」はいかがだろうか。
元来かりくびは敏感な場所であるが、ストールを巻くことで急な温度変化にも対応でき、また早漏対策にもなる。さらに赤黒さを解消する為に、初夏らしい軽やかな色合いを選ぶとバランスがとれる。
以前「風俗でモテる為にはちん毛にリンスをすればよい」という話を書いたのだけれど、これもまた風俗でモテる為のエッセンスになるかもしれない。ビキビキに固くなった赤黒ちんぽでも、薄いピンクや水色のストールを合わせることでいっきに優しい雰囲気を纏えるのだ。
このようにちんぽに感謝するように考えると、どんなプレゼントがいいのかおのずと見えてくる。例に出した様なストールはもちろん、敏感さに拍車をかけてあげたいならば柔らかさに定評のある「熊野ふで」、ちんぽをブランド化したいならば「穴吸いの香水」、いつ外に出しても恥ずかしくないちんぽに育てたいなら、身だしなみを整える意味も込めて「ヘアアイロン」なども喜ばれます。ストレートなちん毛は、気持ちをストレートに伝えてくれますから。
ながながと書いてきましたが、そもそもちんぽの日ってなんでしょうか。それはいつなんでしょうか。この文章を母が読んだら、僕のことをどう思うのでしょうか。色んな疑問が頭をよぎりますが、まあ、書いてしまったものは仕方がないので、今日という日を「ちんぽ記念日」として、この記事を公開したいと思います。
ちなみにですが、1966年の今日は、中国で文化大革命が起きた日らしいですね。それにならって、今日という日がいつか、ちんぽ大革命の日になってくれることを願ってやみません。
自分で書いておきながらなんだけれど、プレゼントの選択肢がストールに傾きすぎているのは多分水木一郎のウィキペディアを見すぎたからだろうし、そもそも選択のセンスがださ過ぎることには目をつぶってもらいたい。
豚の耳の穴に毛が沢山詰まっている事実は、あまり知られていない。
僕が散髪が嫌いな理由はだいたい百個くらいあって、ひとつめはあの独特なスペースでは息が詰まりそうで、ふたつめは自分のタイミングではなく妻に督促されるから、みっつめは異様に髪が伸びるのが早くて美容師に笑われるから、なんて思っていること。
といきなりくるりのハイウェイみたいな感じで始めたのは、岸田さんの髪型ってどのタイミングで見てもなんか違和感しかないなーなんて考えたからである。ちなみに歴代の岸田さんの髪型で僕が一番好きなのは、少年アシベに出てくるアシベみたいな髪型だったときだ。言い換えるとなすびのヘタに酷似した髪型だったとき。すごい可愛かった。
さて、僕の髪は固くて量が多く、しかも最近は生え際が後退してきているという何ともむずかしい髪型であり、それを人目にさらす様な醜態は出来れば控えたいので普段は帽子をかぶっていることが多いのだけれど、ずっと気に入ってかぶっている帽子をもってしても隠せないくらいに髪が伸びてきた。
カットしたての時にはまだすっぽりとかぶれるのだけれど、今くらいの長さまで伸びてくるとまるで朝立ちした下半身が下着と寝間着を押し上げている時の様に髪の毛が帽子を押し上げてしまい、少し風が吹いただけで飛ばされたりするような敏感体質になる。
ちなみに僕の下半身も同じ様に風が撫でただけでビクビクと感じてしまうほどに繊細な皮膚の持ち主なので、そうやすやすと他の人には触らせられない。もしまかりまちがって風俗などにいってしまうと、まず女性の視線を感じただけで赤面して爆発、続いてフェザータッチに悶絶して暴発、濡れた唇に辿り着く前に興奮のあまり消滅、みたいになってしまう恐れがある。僕のちんこがアルマゲドン。いや、消滅って書いていたからアルマゲドンではなくナイマゲドンか。まあ別にどっちでもいいし、どちらにしてもたいして面白くもない。
まあ関係ない話はこれくらいにするけれど、今の頭がそんな感じなので、この状態になると妻から「そろそろ散髪にいこか」という勧告が届く。が、僕は先に書いたように、この散髪という行為に対して苦手意識がある。
また僕個人的な感情としては別にじゃもじゃでもいいし、むしろもっと伸ばしてシアターブルックの佐藤タイジ、もしくはラーメンズの片桐仁のような髪型に憧れもあるが実際には試したことがない。
なぜ試したことがなのかというと、高校時代に通っていた美容室のおっさんに「あの、パーマ当てたいんすけど」と聞いた際「ああ、君の髪質やと今から東大入ったり電通に入るよりも難しいで。やめとき」とよく分からないディスりを受けたからだ。
大学進学や就職活動に周囲が右往左往しているような状況でのおっさんのひと言は、あれから17年以上たってもなお僕の胸に深く刻まれている。
なにより僕自身が逆立ちしても東大にも入れずもちろん電通にも入れないことはおろか、そもそもその時期よりさらに経験も積んで知識の蓄えが最高潮を迎える30代半ばという熟れに熟れている今の状態であるにも関わらず、その全てを動員しても自分の勤務先の住所を名刺をみないと書けなかったり九九を言おうとしても七の段でつまってしまうようなぼんくらなので、そのおっさんの言葉が間違いなかったことが証明されてしまっている。
しかし苦手だからといって今の髪をそのままにしておくと生活において不便であり、また衛生観念からみてもあまりよい状態だとも言いがたい。
ある程度のびるとうねってくる僕の髪は一見したところチン毛のようであり、そうなると頭に陰毛をのせた男となってしまいこのままではワイセツ物陳列罪が適応されてしまうおそれがあり、こんな状態で外にでるもしくは電車に乗ろうとするといくらICOCAにお金をチャージしていたとしても改札すら通らしてもらえず終着駅はいつだって留置所であり「ああ今日もカツ丼(実費)がおいしいなあ」なんて壁に向かって呟かなければならなくなる。
なので私の頭の中の消しゴムならぬ私の頭の上のちん毛が伸び過ぎないうち、いいタイミングで髪を切りたいと思うのだけれど、そう言えばエロい人ほど髪の毛の伸びるスピードが早いという格言を思い出した。
しかして僕の髪は人と比べてなかなかに伸びるスピードが早く、それがどれだけ早いのか分かりやすくいえば、局地的ではあるが「M字ハゲ界のアイルトン・セナ」とも呼ばれるくらいであり、しかも先に書いた様に全体はうねったチン毛、それだけではあきたらずなぜかもみあげの当りだけが異様に縮み、鈴鹿のデグナーカーブからヘアピンカーブに至る様相を思わせる出来となる。頭はちん毛、もみあげは鈴鹿。おっさん界の名探偵。
そんな自分の髪の毛のつぶさな変化を眺めているとやはり僕はエロいのかなあ、と独りごちるのであるが、しかしそのエロの神髄、いうなれば欲望の赴く先であるちんこ、そしてそのちんこを守る為のちん毛、これはいわゆる比喩としてのちん毛ではなく本職のちん毛であるけれど、この本職ちん毛略して本ちん毛は以外と伸びないものである。
一度剃ってみると分かるのだけれど、伸び始めの本ちん毛は少し動くだけで身悶えするほどチクチクし、それに快楽を覚える頃にはその感触に慣れてしまい、その後はあまり意識することはなくなる。数字的にいうならば、だいたい2〜3mmに育つまでがチクチク地獄、それ以降5mmくらいになると少し柔らかくなり、1㎝を超えるころには若干薄いな、と感じる程度の違和感しかないというと分かりやすいかもしれない。
そしてあまり知られてはいないかも知れないが、この本ちん毛はある一定の長さで成長が止まるのだ。人によってその長さは左右されるが、だいたい4〜5㎝が目安となる。
この「本ちん毛がある程度の長さまでしか伸びない」という事実は、当たり前すぎて議論の種にすらならない悲しい存在なのではないか、という懸念がよぎる。
なので今回は「なぜ本ちん毛はある程度の長さまで伸び、そこで留まるのか」という話をしようかと思ったのだけれど、別にそんなことはどうでもよい気もするし実際僕自身あまり気にもならないし、僕が気にならないのであれば議論する余地すらなく、ぶっちゃけ他の誰も気にしないだろうから最近僕のハマっているミミガーについて書きたいと思う。
ミミガー、すなわち豚の耳である。
僕はソーセージを自作するほどにソーセージを愛しているけれど、それはすなわちその原材料である豚すらも愛しているということだ。
そして愛する人のものであれば例え爪であったり髪の毛であったり分泌された液であったりも愛おしいように、豚の一部であれば耳ですらいとおしくなるのは必然であり、これはもう豚が好きならミミガーも好きだというのは携帯電話で通話が出来るのと同じくらいに当然のものである。
さて世間的によく見るミミガーは既に下処理、味付け等を施されたものであり、最近ではコンビニでも気軽に買える沖縄系おつまみの代表格であるけれど、実際その処理される前の豚の耳はあまり見ることがないのではないかと思う。
僕が普段よくいくお肉屋さんではあまりよそでは見かけない食材を扱っていて、冷凍のコーナーには羊の肉や七面鳥、馬肉などがあり、その中に紛れて豚の耳が置かれている。
ずっとそれが気になっていたので先日ついに買うことにいたり、その下処理から調理に至るまでの話を書こうと思ったのだけれど、まだ豚について書き足りないので少しだけお付き合いいただきたい。
最近はペットとしての豚、あまり大きくならないミニブタをテレビや何やでよく見るけれど、それはそれでまたかわいいものである。食べ物として舌を唸らせ愛玩動物として愛を生み出す。そんな人間の感情すべてを満足させてしまう豚はなんと素敵な存在だろうか。
けれどそうはいっても僕の周囲で飼っている人はおらず、また身近に牧場などもないのであまり豚を見る機会がないのだけれど、豚は舌を感情を満足させる考えはそれだけ豚が好きならば食べるだけではなく飼うべきではないかという葛藤を生み出し、僕の身を引き裂くほどの悩みを与えもする。
かくして現状のままでは豚好きとしてプライドが保てないと考えたのではあるが、しかし豚を飼うにはあまりにもハードルが高く(家には猫が7匹もいて、隣の家には異常に耳のいいおばあちゃん(他人に聞こえない音が聞こえ、他人には見えない敵と昼夜問わず戦っている剛の者)がいるのでこれ以上動物は増やせない)、また実際に愛らしい豚を飼ってしまうと本当に愛着がわいてしまい、そうなるとこれほど愛している豚を食せなくなってしまう懸念もある。
そこでおっさん界の名探偵が出せる答えはひとつしかなく、それは自分が豚になることである。
答えが出ればあとは動くだけ。
僕は妻に頼み込み、豚としての人生を歩むべき第一歩を踏み出すこととなった。
豚である僕は取り急ぎお風呂にて裸になり、豚らしく四つん這いになった。
なぜ風呂場なのかといえばそれも豚に由来するのだけれど、豚小屋やブタ箱といった言葉のニュアンスによって豚の生育環境は汚い様に思われている節があるがこれは間違いであり、豚は清潔な環境を好む。部屋が汚かったりするとストレスが溜まり、他の豚のしっぽを齧ったりしてしまうほどだ。なので我が家の中でも一番清潔な状態を保っているお風呂が選ばれた。
それにプラスしてもう1つお風呂場を選んだ理由として、滝業からインスパイアを受けていることも記しておかなければならないだろう。僕は豚になるのと同時に、自分自身の精神も鍛えているのだ。
なのでその清潔な豚にならいながら滝業の一環でもあるので身体を清めやすいように裸で風呂場にて四つん這いになった次第だ。
そのように自分が豚になり滝業によって煩悩がだんだんと抜けていくと、残っているのは「ああはやく罵って欲しい。虫けらの様に踏みつけて欲しい」という誰もが欲する真理のみである。
けれど普段から極めてノーマルな性癖しか妻に披露していない身分なのでその思考を披露するのがはなはだ恥ずかしく、またしがない1匹の薄汚れた豚でありご主人様の欲求を1つも満足に満たせない、奴隷にすらなれないゴミ以下、塵やほこりと同じ様なこんなウジ虫である僕が崇高なご主人様である妻に対して偉そうな口をきく訳にはいかず、「本当に私事に付き合わせてしまい申し訳ございませんが、どうかわたくしめを座椅子代わりにして座っていただき、そこで身体を洗ってくださいませんか」と丁寧にお願いした次第だ。
とまあそんな感じで豚になった結果、僕の得た見地としては「背中に座られながらお湯が流れると、なんとなく背中にオシッコをかけられているみたいで凄く興奮した」という一文に集約されるだろう。
とまあこのような新しくもすばらしい発見を皆様にも体験して欲しくて筆を執ったので、もし興味が湧いた方がいれば試してみて欲しい。
本当にお風呂の入りかた1つで楽しみが増えるのだな、と僕は未だに興奮の尾を引きずっているが、長くなったのでこの辺りでおしまいにしたいと思う。
あ、先ほど書いたミミガーの下処理に関していうと、耳の穴の奥に凄い量の毛と汚れが詰まっているので、塩と酢で阿呆ほど丁寧にこすり落としましょう、というのが重要です。多分、あれが臭い。
出世だとか気にするタイプではないのだけれど。
魚には出世魚と呼ばれるタイプのものがいる。
たとえば鰤。漢字で書くと「鰤」となりなかなかにカッコいい佇まいだけれど、カタカナになった途端「ブリ」となり、なかなかに下品な印象を与える出世魚である。ブリが2本並ぶだけで食卓には子供の笑顔が広がるだろう。もちろん僕だって笑顔になる。
そんな可愛いブリであるが、実は関西と関東で出世途中の名前が変わるので、なんともめんどくさく感じる魚でもある。
少し話は変わるけれど、めんどくさくて可愛いといえば、筆頭に挙げられるのはアジャコングではなかろうか。
彼女の本名は宍戸江利花というのだけれど、その本名がまず可愛い。プロレスラーのヒール役だったにも関わらず今はWAHAHA本舗に所属しているのも可愛い。でもその理由がいまいちよく分からないのはめんどくさい。でもそこも可愛い。
そんなアジャコングの名前の由来は北斗晶により「アジャ」と名付けられ、その後団体のお偉いさんに「ブラック・サンデー」と命名されそうになり、別のお偉いさんから「いやいや、『ザ・アジャ』のほうがいい」と言われ、それは響きが悪いからと「アジャ宍戸」となり、その後体重増加にともない「キングコング・アジャ」へ、でも女性だからと「クイーンコング・アジャ」にチェンジし、でも長いからという理由で「コング・アジャ」となっていざ試合をしてみたらアナウンスしにくいので逆にしましょうよ、というアナウンサーの助言で最終的に「アジャ・コング」になったという。
これはもう可愛いとかめんどくさいを通り越しているし、結局女性だからクイーンとかいう配慮も長いという理由で一蹴されたり最終的に名前を決めたのはアナウンサーじゃねえか、みたいなアハ体験も感じられて本当に面白い。
あれだけ厳つい外見でありながら名前を巡る一連の流れに身を任せてしまうところも本当に可愛い。美空ひばりでなくとも「アジャの流れのように」と思わず口ずさんでしまうくらいだ。
話を戻す。
鰤はアジャ・コングと同じように名前を色々と変えていく出世魚だけれど、関西では小さい方からツバス、ハマチ、メジロ、ブリとなり、関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ブリとなるらしい(もし間違っていたら僕ではなくウィキペディアを責めてほしい。世の中にある責任の所在は全て僕以外にあるというのが僕の持論だ)。
なのでたとえばスーパーなどの鮮魚スペースで「ハマチ」として並んでいれば、その魚のあげられた港及び捌いた調理人は関西であるはずなので、脂のノリもお笑いに対するノリもいいはずだ。
なのでハマチを見つけたらすかざず、「おっちゃん、このハマチ、ハウマッチ!」と勢いよく聞けばよい。
そんなあなたの革新的なボケに対して鮮魚コーナーの人はこう言うだろう。
「うるさいボケしばくぞコラしょうもないこと言うとったらぶちのめすぞ店員に迷惑かけんとさっさと買いさらせクソが」と。関西人は基本的にイラチなのだ。
間違っても「お客さん、ノリがいいねえ、海苔だけに!うーん、そいつはイクラでしょうかね?お、よく見りゃお客さん、そこの鰤よりラブリーだね、だから鯛でもおまけしてあげたいねえ!」なんて返してはくれないし、もしこういった返しをしてきてもクソつまらないのできっとそいつは関西人ではない。自分で文章を打ちながら寒気がする。
さて、出世魚ほどではないけれど肉に関しても年齢で変化することがある。
羊がその最たるものだろう。たまに羊肉をひとくくりにしてラム肉と呼んだりする人を散見するが、そもそもラムとは生後1年未満の羊の肉のことを指す。1年以上2年未満の羊肉はホゲット、2年以上のものをマトンと呼ぶのだけれど、これもいうなれば出世肉となるのではないだろうか。
ちなみにこれらの見分け方は年齢とは別に歯でも決められてしまうらしい。永久歯が生えていないのがラム、生後1年未満でも下あごに2本以上の永久歯が生えればホゲットとなるのだ。
しかしよくよく考えると、これは出世魚というよりアイドルに近いものなのかもしれない。
なぜならば、年齢が低ければ低いほどに人気が出てくる、すなわち高値がつくからだ。
若い肉のほうが柔らかくクセも少ない。しかも身体が小さいのでとれる肉の量も少なく流通量も限られるので、需要に対して供給が追いつかない。
アイドルもそうだろう。若いうちは歌がヘタでも踊りがむちゃくちゃでもその新鮮さによってちやほやされるが、20歳を超えてしまうと仕事が減り、まだ若いのにおばはんだと罵られ、いい歳をしてぶりっ子だなんだと文句を言われ、段々と需要が無くなっていく。悲しい物語ではないか。
しかしここまで考えながら、僕は少し憤りを感じた。
たとえば成人男性が若い女性を求めるとロリコンだのなんだのと罵られ、逆に年上の人を求めると尊敬されるような風潮がある。年上女房は素敵だとか、フランス人は女性を年齢で見ないだとかそういう話題は掃いて捨てるほどある。
しかし高年齢こそがすばらしいというのであれば、肉に関しても若いものよりも加齢の進んだものを好む方が尊敬されるべきであるが、どの料理店でも幼い肉の方が良く売られているし実際に人気もある。
先にあげた羊でもラムよりも若いミルクだけで育ったアニョー(ミルクラム)というものもありその低年齢化には空恐ろしいものを感じ、一昔前にあったとある漫画ではアイドルの低年齢化に伴ってそのうち卵子を崇め奉るなんていうギャグがあったのだけれど、それを彷彿とさせる。羊の卵子のソテーなんていうのは、奇人達の晩餐会でも出てこないのではないか。
翻って僕自身に関して言えば基本的に年上好きであり、また年齢がいった肉のファンでもある。
ラムカレーよりもマトンカレーの方が滋味深くて好きだし、骨付き鳥の名店、一鶴にいっても頼むのはいつもひなどりではなく親鳥であるし、最近人気のある若い女優さんたちよりも杉本彩贔屓であるし竹内涼真よりも竹野内豊に抱かれたい。
では逆に年を取れば取るほどに価値もあがるものといえば何があるかといえば、肉とも相性のいい飲みもの、ワインである。
特定の年代に作られたワインは高値がつき、古いものであってもこぞって欲しがられるお酒界の熟女部門である。
かの開高健も、ロマネ・コンティ・一九三五なんて短編を書いているが、同じ年代に生まれた有名人といえば浜村淳(映画のネタバレで有名)、畑正憲(ムツゴロウさんで有名)、美輪明宏(携帯の待ち受けにすると運気があがるので有名)、ダライ・ラマ14世(よくわからないけど有名)、朝丘雪路(未だ公共交通を利用出来ないことで有名)などがあげられ、彼ら、彼女らも今なお第一線で活躍し、求められている人々である。
さてそのようにワインというものは長きによって熟成され、時間との繋がりがとても強いものだと再確認するが、実際僕の舌は年代の違いによる細かい味を見分けることができないし、僕の鼻は芳醇な香りの中に花を見つけたり果実を感じるような機能もついていない。悲しい。
なのでここからは僕が唯一見分けられるお酒について書きたい。それはワカメ酒と口噛み酒である。
見分けられる、とかいたけれど、上記に書いた様に糞みたいな鼻と舌を持っているので実際問題としてその味で見分けることは出来ない。
なのでその見究めを勉強するために両方ともに出来立てを所望したいというのが目下の希望であるが、そもそもそんな物を求める様になってしまったのは宮崎駿のせいである。
僕がジブリ作品の中で一番好きなものは「耳をすませば」なのだけれど、シーン別でいうのであれば、その最高峰のシーンは「もののけ姫」に出てくるサンがアシタカに何か固い板状のもの(多分ジャーキー的なものだろうけれど)を口移しで食べさせるシーンである。
なので僕は駿に性癖を定められたといっても過言ではないし、それ以外に僕の性癖嗜好に影響を与えたものは路上に落ちていたSM系のエロ本くらいで、もう本当に妻はもっと僕のことを罵ってほしいし、おしっこのことをご褒美って言い換えてほしい。
しかしまあ最近はそういった欲望の類いが表面上に出てくることがなかったのだけれど、少し前に「君の名は」をテレビで拝聴し、そこに出てきた口噛み酒にいたく興奮してしまった。
ああいいなあ、妻に口噛み酒を作って欲しいなあ、なんてことを考えながら生活している次第なのだけれど、いやはやここまでくると別に出世魚や肉の話やアジャやお酒の話なんていうのはどうでもよくなってきているし、なんなら食欲と性欲がごちゃ混ぜになっているからもうこの感情を抱えたままで女体盛りを食べたいなあ、妻の胸に刺身を乗っけてワカメ酒飲ませてくれねえかな、なんて考えているのだけれど実際には口には出せず、そんなことを考えていただけでいつの間にか週末が終わっていたからこれもまた悲しい物語だし、こんなことを考えているだけで週末を潰してしまう僕のような人間は鰤やアジャとは違って出世出来ないんだろうな、とも思いました。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。そういえば僕も自慢のイチモツをまたぐらに挟んで正座すれば、ワカメ酒が作れます。それを頑張ってストローで吸えばなんとセルフワカメ酒ができ、最近お腹が出てきているのでそこに刺身でもなんでも盛れそうですし、そうなれば見た目はどうであれ女体盛りに近しいものもできるやも知れず、身の回りのものでこれだけ代替案が提案出来るような人間は出世が見込めるかもしれません。
まあ、とりあえず色々と頑張ります。