僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ソーセージ作りが男の夢だと言う証明。

郷愁を感じるエロ動画。

 

射精が止まらないAVという、なんともくだらなくも面白い動画をネットで見かけた。

 

明らかに大き過ぎるキンタマをぶら下げた男優さんが下半身をしごき、眼前で膝をついている女優さんに呆れてしまうほどの量の白濁した液体をかけるという、一見するとギャグにしか見えない、誰がこの動画で興奮するのだろうと思ってしまうような映像なのだけれど(女優さんも途中から興奮する演技が出来なくなり笑っていた)、一定の需要があるからこそ存在しているのだろう。

 

その女優さんは言う。

 

「ええ!まだ出るの?!」

 

しかしてその需要がどのように生まれるのかを考えてみた所、この動画の視聴者が求めているのは興奮や性的欲求を満たすためではなく、ましてや面白さなどでもなく、若かりし自分への郷愁というものではないか、という結論に落ち着いた。

 

どういう事か。

 

僕は35歳になった今でも1日最低1自慰を欠かさず続けている。休日には3回する日もあるし、毎日とまではいかないけれど朝立ちもある。しかし昔と比べて明らかに違うものがある。

 

出てくるものの量と勢いである。

 

中学高校時代なんていうのは、3回目であろうが4回目であろうが、ティッシュペーパーを突き破らんばかりの勢いで彼らは外の世界へと飛び出していった。それはディズニーランドでファストパス・チケットを奪取せんとダッシュする人達と同じ様なスピードとパワーを持っていたと言っても過言ではない。現にその時期の僕の股間はいつだって左曲がりのスプラッシュ・マウンテンだったし、脳みその中はエロいものを探し求めてインディジョーンズアドベンチャーが広がっていた。

 

「ねえ、パコっていやらしい名前だよね。ほら、君の名前を聞くだけで興奮しちゃったよ。大きくなった僕のクリスタルスカルに早く安全ベルトをつけてくれないか」

 

アミーゴ、パコ。アディオス、夢の国。

 

そんな過去に比べ今の僕に至っては、1回目の放出であるにも関わらず、クレープの底の方からたれてきてしまう生クリームようにどろりとしたものが棒の先から垂れてくるだけである。ダムが決壊するくらいに高まった性欲に反して、それくらいの勢いしかないのだ。

 

金玉に取水制限がかかっているのかもしれない。

 

とても無駄な仮定だと自分でも分かっているのだけれど、もし僕がカリに女子高生で僕の棒が女子高生の口であったとしたら、その取水制限は悲しむべきものではなくむしろ淫美さを連想させるような画像として、インスタ映えもしくはツイッターでいいねの数字が決壊、ダムの放流のごときスピードで爆散すること確実である。

 

実際はおっさんの射精シーンでであるからして爆散、決壊どころか永久凍結を免れないし、万年低貯水量なのだけれど。

 

そんなていたらくなので、やはり若かりし頃のパワーやスピードが羨ましくもある。昔のように床に新聞紙をひいてどこまで飛ぶかだとか、ぶら下げたティッシュに向かって穴があくのかどうか試し「ワイが浪速の早撃ちガンマン、自慰・ザ・キッドや!」なんてことをしなくなっている。

 

今残っているのは、早撃ちだけという不名誉な称号。

 

余計な話をしてしまったが何を言いたいのかというと、僕と同じように過去の自分に対して羨ましがっている人は意外と多いのではないのか、ということだ。よく居酒屋で過去の自慢話を繰り広げている人を見かけるだろう。それらは一種のマウンティングや自己顕示のように感じられるかもしれないが、裏を返すと、今は昔の様な無茶な言動を出来なくなっていることでもあるのだ。

 

そして、そのような会話を繰り広げている人達が、最初に書いたような動画をみるのだ。 

 

かつては体験したが今はもう出来なくなってしまった「あり得ないくらいの量が出る」という理想的状況(巨根信仰と似たようなものかもしれない)に対し、もうそれができなくなった悲しさや羨ましさを満たす為に、あの映像に癒しを求めるようになる。

 

笑顔でティッシュを消耗していた自分は、もうこの時代には存在しない。

 

そう言う意味で、先のような結論、つまり性欲を満たす為ではなく昔のアルバムを眺める様な郷愁の気持ちが満たされるからこそ需要がある、という着地点に落ち着いたのだ。

 

絵に描いた餅では腹は満たされない。

 

ただ、見る人の視点だけで言えば上記の様な懐かしくも美しい、儚い感情をもつという、まるで陽炎のようにおぼろげな結論になる。が、承知の通りそれだけでは解決しない。どうすればそれを視覚での満足ではなく、感覚での満足にもっていけるかということが重要になるのではないかと僕は思う。

 

絵に描いた餅では腹が膨れないように、長時間の射精を眺めているだけでは本当の快楽は手に入らないのだ。

 

女性がセックスで感じる快楽は、男性の何十倍もある、という話を聞いた事はないだろうか。かたや男性は射精が一番の快楽でありそこがピークであるし、さらに言えば女性の快楽はそのピークの何十倍あるというだけでなく、それを継続できるというのだから女性はずるいと感じてしまうのもいたしかたない。

 

もっと突き詰めると、僕はすでに壮年期を半ば過ぎ、連射機能はもうない身であるからして再充電まで時間がかかってしまうし、一度出してしまったあとの冷静期も日に日に長くなってきている。快楽は幸運よりも早いスピードで逃げていく。

 

自分の感じる快楽が減少しているなかで、羨望だけが増えていく矛盾を抱えながら、僕は今日も生きている。

 

ではどうすれば今の状態で、あの映像のような、もしくは女性が感じるような壮大なる快感を得られるのかを考えると、やはり科学の力を使うしかない気がする。

 

そう、科学こそが悩みを解決してくれる最大の手段である。

 

人類がここまで発展したのは科学のおかげだと言っても誰も反論出来ないだろう。薬だって普段の生活だって、もちろん僕が今叩いているパソコンだって科学の粋が詰まっている。洗濯科学がなければ真っ白なシャツを着る事なんて叶わなかったように、科学が発達しなければ化学もなく、全世界の男性の希望の種であるバイアグラも生まれなかった。

 

しかしだからといって安易に化学物質に頼る訳にはいかない。僕にだってそれくらいのプライドがあるのだ。バイアグラは、起たなくなってからの最後の手段である。出来る事が1つでもあるならば、僕はそれを追求していきたいと思う。

 

さて、 では科学をどう流用するかなのだけれど、これはとても簡単である。とりあえず、「1度しかない大切な時間を、長くすればいいじゃないか」ということが可能になればそれでいいのだ。

 

ご存知の通り、特殊相対性理論を流用すればいいのである。

 

特殊相対性理論を簡単に説明すると、光の早さに近づけば近づくほど、その動いている物体とその周囲の物体との時間はズレる。すなわち速く動いているものは、時間が遅く流れるのだ。

 

ということは、光速に近いスピードで射精をすることが可能になれば、相対的に射精の時間を長くし、快楽を感じる時間を長くすることができるということではないだろうか。

 

分かりやすいようにアインシュタインの公式に当てはめると、

 

E(いい気持ち)=mc2(マジでちんこの快感2乗)

 

となる。

 

2乗でも物足りない欲しがり屋さんは、ここではなくアナルの国に行くことをお奨めする。お尻の穴の奥は欲しがり屋さんのもってこいなほど、広大な世界が広がっているらしいですよ。

 

話を戻してここからさらに追求していくと、この化学式を成立させるために必要な能力がでてくることは想像に難くない。

 

それは早漏である。

 

そして幸運なことに、僕にはその特殊能力があった。さっきも書いたが、浪速の早撃ちの称号だけは未だ失っていないので、これはもう天啓といっても問題ないだろう。

 

まずは素早く出せることこそが、光の速さに追いつく為に必要な階段なのである。

 

この年になってなお大人の階段を登ることが出来る幸運な僕は、もはやシンデレラなのだ。

 

しかし自分は速いから向いている、なんて安易な安心はしてはならない。ただの早漏では足りない。光の速さに比べたら三擦り半なんていうのは短距離走でいう黒人と日本人の差以上のものがある。果たしてその差を埋める事が僕に出来るのか、と、その先の長さに暗くなっていたのだけれど、その時たまたま見ていたテレビのニュースで桐生選手が日本人初の9秒台を出してくれた事で僕はとても勇気づけられたことを昨日のことのように覚えている。

 

桐生選手に出来るのなら、僕にだって出来るかもしれない。そう思わせてくれる何かがあった。

 

彼はイチローと同じように、ウェイトトレーニングをしないのだという。さらに骨ストレッチなるものをし、あの記録が生み出された。

僕もそれにならって、自分にあった方法を見つけたいと考えている。

 

しかしまあ、やはり科学は万能である。早漏はセックスの敵だという空想的社会主義に真っ向から立ち向かうために、僕はこの特殊相対性理論に基づいた快楽の追求を現代の社会的科学主義として後世に残したいと常々思っているのだが、件の映像の根底には同じ様な思想が流れているのでないか、とも感じるのだ。

  

快楽の追求には、ソーセージ作りこそが最適である

 

さて、いくぶん説明が中途半端な気がしないでもないが、ここからタイトルにある本題に入る。

 

早漏を追求すれば快楽の扉が開くと書いたが、今よりもさらに速い世界、速早漏(そうそうろう)に到達すると弊害が出てしまうケースもある。ジーンズに擦れただけで出てしまう懸念もあるし、性行為においては女性から見限れてしまう可能性も高くなるし、もしかしたら光の速さに近づきすぎ、腰の振動で物凄い衝撃波が発生して女性が跡形もなく吹き飛んでしまうことだってもちろん考えられる。

 

そう考えると科学を使った快楽の追求は弊害が強過ぎるが為に一般人ではなかなか辿り着けない領域でもある。

 

だからこそ、僕はここでソーセージ作りを諸君にお奨めしたいのである。

 

なぜならば、ソーセージ作りには絶頂を長く感じられる腸詰めという作業があるからだ。

 

塩漬けにされていた腸を水で戻し、ソーセージメーカーに充填した肉を詰めていく。

一見単調に見えるこの作業は、ソーセージ作りにおいて類を見ないほどの継続的絶頂を感じられる作業である。

 

かつてコンドームが豚の腸で作られていたことを考えると、この腸詰めの作業は射精以外のなにものでもない。

 

肉が詰まって段々と長くなっていくソーセージを見ていると、自分の下半身に巨大なキンタマがぶら下がっているように錯覚してくるのだ。手を動かすたびに切っ先から溢れ出てくる、液体に極めて近づいた濃厚な肉。「あれ、そろそろ限界か」と思っても、まだボウルの中には種が沢山残っている。ソーセージメーカーに詰め直し、また手を動かすと延々と種は腸の中に出続けるのだ。際限なく長くなっていくソーセージに向かって、あなたはこう呟くだろう。

 

「ええ!まだ出るの?!」

 

そう、動画で女優さんが言った、あの台詞である。

 

長時間出しながらも女優さんの気持ちすら味わえてしまうのだから、ソーセージ作りで得られる快感は性行為のそれを明らかに上回るのだ。

 

Mr.Childrenの桜井さんは、Tmorrow nevernknowsの中で歌う。

 

とどまる事を知らない時間の中で

いくつもの流れゆく羊腸を眺めていた

老いすぎて消えた帰らぬ夢の面影を

すれ違う少年に重ねたりして

 

かつては猿のように自慰に耽り、その過去に羨望の眼差しを剥けていた中年の僕は、もういない。すれ違う少年に対して羨ましいという気持ちもなくなった。

なぜならば、僕の手には延々と出し続けられるイチモツがあって、そこから出続ける種も作る事が出来るし、その種を受け止め続けられる羊腸もあるのだから。

 

こんな快感に出会えたなんて、ソーセージ作りはなんと素晴らしいのだろう。腸の中に詰まっているのは、ミンチ肉やハーブだけではない。男の夢も詰まっているのだ。なんとも素晴らしい食べ物ではないか。

 

ああ、誰か。こんな僕のソーセージを食べてくれないか。