中折れという名の恐怖。
僕は2つしかドラゴンボールを持っていない。
中折れ。
その3文字は、僕の様な中年男性には極めて身近にある、恐怖の存在である。その先には男性機能の死というものが身近に感じられ、しかもいつ訪れるのかすらわからない。
それはまるで、生と死が隣り合うセルゲームが始まる前のドラゴンボールの世界の様なものでもある。
もしそうなってしまうと、どれだけ怒りを感じたとしてもスーパーサイヤ人はおろかカメハメ波すら打てない状態であるし、タオ・パイパイという名前に興奮するどころか焦りすら感じてしまうようになる。
どれだけ女性が「ロマンティックあげるよ」と囁いてくれても立つ気配のない下半身はいつだって摩訶不思議アドベンチャー。2つのドラゴンボールだけでは神龍は願いを叶えてくれないのだ。
もししそうなると、どんなその状態に陥ってしまうのかは想像に難くない。セルJr.は何かと役にたつけれど、僕のJr.はなんの役にもたたなくなってしまう。そんな悲しい宝島、誰も望んではいない。そうさ今こそバイアグラ。
中折れは自分のプライドだけではなく、相手の女性にショックを与えることにも繋がる。
「さっきまでは元気だったのに急にしょぼんとするなんて、私が悪かったのかな」
ちがう、そうじゃないよ。悟空さんの元気玉に力を分けてしまったんだよ。
「ねえ、もしかして私の匂いが気になったの?正直に言って」
ちがう、そうじゃないよ。ホラ見て、僕には鼻がないじゃないか。ね、クリリンと一緒さ。
そのように、中折れはジェットコースターの始まりの様に高ぶった緊張感と興奮をフリーフォールのように一気にどん底へと突き落とす、初めてナッパが登場した時の様な絶望感をもたらすのだ。
日本人は固さを求める。
そしてそんな中折れに対する恐怖心は、ソーセージ作りにおいても同様に存在する。
エマルジョン化させた肉を腸の中に丁寧に詰め込みながら、段々と伸びていくソーセージに気分が高まり、手がふやけるほどに愛撫しつくし、好きな長さに縛ってから乾燥、薫製する。一連の製作作業はセックスにおけるいわば前戯である。どれだけ丁寧に愛撫するかで、相手をどれだけ喜ばせられるかが決まるのだ。
しかし。
どれほど手間ひまかけても、相手がイカない場合ももちろんだけれどある。
「んー、味はいいし、手間がかかってるのは分かるんだけど、なんて言うか、固さがたりないかな。ほら、海外のやつみたいに大きければ、それなりに張り合いがあるんだけど」
これはちんこの話ではない。ソーセージの話だ。
手作りソーセージにおける難点のなかに、あのパリッとした食感が生み出せない、というものがある。これはシャウエッセンやアルトバイエルンが生み出してしまった弊害といっても過言ではないが、日本人はソーセージに固さを求める傾向なのは間違いない。
確かにあのパリッとした食感は魅力的だ。そして僕が求めるソーセージもあのパリッとした食感に近づけたいと思っているのだけれど、どうにも上手くいかずに毎回四苦八苦している。
どうすればあの食感が出るのかと幾多の文献(ブログ)をひも解いてみたけれど、どうやら「乾燥」というものがもっとも重要になるのだ、という記載がいくつも見られた。
セックスに乾燥は大敵だけれど、ソーセージには乾燥が必要不可欠らしい。
でも我慢が出来ない。
先日ソーセージを作った時の事だ。
僕は出来上がったばかりのソーセージを縛ってから吊るし、なるほど緊縛師というのはこれほどの達成感を得られるものなのかとひとりごちていたのだけれど、その感動もなんとやら、どうにも風で乾燥させる間が待っていられない。どれだけ乾燥が大切だと言われ、それを頭で理解していてもどうにも身体が動いてしまうのだ。
それが何故なのかを考えてみたのだけれど、どうやら「静かな美」というものに対しての感受性がどうにも鈍くなっているからかもしれない。
「吊るされているソーセージ」を見ているだけでは、興奮しない身体になってしまっているのだ。
最初は吊るしているだけで満足していたのが徐々に刺激に慣れてしまったのか、早く(お湯の)中に入れたい、早く(お湯から)出したいと、気持ちがせっついてしまうようになったのだ。この感情の変化は「インターネットの普及における弊害」といっても決して大げさな表現ではない。
かつて僕の下半身は「道ばたに落ちているエロ本 」を見かけただけで、興奮の坩堝に放り込まれたよう発狂していた。
しかし今の時代、手のひらに収まる小さな通信器具をちょちょいと使うだけで、たくさんの無修正動画が簡単に手に入ってしまう。それに慣れてしまった僕はモザイクのかかったヌード写真では起たなくなってしまっていた。
マンションのゴミ捨て場に忍び込んでエロ本を探していた、あの三丁目の夕日時代にはもう戻れないのだ。
動画はその名の通り動的な画である。反対に、ピンナップ写真は静なる画である。そして動画に慣れてしまっている僕は、いつの間にかエロ本のピンナップでは我慢出来ない身体になってしまっていた。
だからこそソーセージが緊縛されている状態を心静かに鑑賞し、その痴態を眺めるという大人としての余裕を保つ事が出来ず、不十分な乾燥のままでボイル作業に入ってしまうという、致命的なミスを犯してしまったのだ。
そして言わずもがな、その先にあるのは弾力のすくない、口に入れても固さを感じないソーセージである。
あれだけ恐れていた中折れが、こんなにも身近にあるなんて。柔らかい間延びした食感、飛び出さない肉汁、口の中に残る皮の不憫さ。その全てが、僕を悲しくさせた。
そんな全てにおいて足りないソーセージをもそもそと食べながら、僕は1つの誓いを立てた。
写真の、静的なものに対する感受性をまた育て上げ、静的なものを性的に感じられるように、自分を再調教するのだという誓いを。
僕の携帯には、もう動画は入っていない。
そこに入っているデータは、緊縛された肉体の写真だけだ。
以下にその写真を貼っておく。この画像で皆さんが興奮出来る事を願ってやまない。
ああ、誰かに食べてもらえる様な、美味しいソーセージが作りたい。