僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

今週のお題が読書の秋だからって読書体験を書こうと思うのは早計。

今週のお題「読書の秋」

 

イケメンの由来が「イケてるメンズ」であり、しかしその「メンズ」はマンの複数形であるメンにさらに複数形を意味するSがついているのはメンズノンノという雑誌名が生んだ誤解である、みたいな話を聞き、なるほど面白いものだなあ、と思ったのだけれど、では英語本来が持っているはずの正しい意味合いを持たせたらどうなるのかと問われた場合イケてるマン、すなわち「イケマン」となるのは至極もっともである。

 

が、そうなるとそもそもイケてるという言葉自体が英語ではないのでそこのんところどうなるのだろう、イケてるは英語でグッド?クール?

 

となればそれを省略したうえでの言葉としてグッマンorクーマン?みたいな感じとなり、しかしそれはいまいち発音上の語感もよろしくないし、でもまあそういう細かいことに拘っている男はあんまりモテなさそうだしドツボにはまってしまいかねなくなるので小休止。

 

また、最近では子育てに参加する男性を同じ様な用法に倣って育児に従事するメンズすなわち「イクメン」と読んだりもするらしい。しかし前述の正しい英語に倣うとこれもまた「イクマン」と呼ぶだろうし、育児自体が英語ではないので育児を意味する英語を調べてみたらチャイルドケアだのチャイルドレイジングなどと言うらしく、またそうなるとチャイルドケアの頭文字を略したチャケマンや、同様にチャイルドレイジングを短くしたチャレマンみたいな呼び名が正しいということになり、そうなるとヒッピホップの方々がよくつかう「マイメン」も「マイマン」になりかねない事態に陥ってしまう。

 

しかし日本語とはなんとも面白いものであり、現代において「マン」と省略されてしまうのは「あげマン」「さげマン」に代表されるように女性器であったりするし、前述したチャケマンは風俗業界で良く使われる生理時の女性器を意味するケチャマン(ケチャップマン◯)に酷似していたりもする。

 

なので本来であれば正しい用法であるはずの「イケマン」「イクマン」「マイマン」「チャケマン」という言葉には「イケてるマン◯」「すぐイクマ◯コ」「マイルドな◯ンコ」「ケチャッ◯マンコ」みたいな意味合いが含まれてしまう恐れがあり、まかり間違って「パーフェクトにイケてるしパンまで自作するマン」を呼ぶ際にはそれはもちろん「パイパンマンコ」となるだろう(予言)。

 

少し話を戻してイケメンがメンズノンノの生んだ誤解であるならばメンズノンノはこれ以上の誤解を生み出さない様に改名すべきであるかもしれず、そもそも「メンズ」は男たちである「メン」とそのメンたちに向けてのノンノ、メン’sノンノであるけれどもそれが誤解を生んでいるので分かりやすいように男「達」ではなく男そのものためのノンノ、すなわち先にもあげた通りに「マンズノンノ」にすればいい、と思ったのであるが、こうなると何となく地方じみたタイトルになってしまうなあ、と感じてしまった。

 

青森だとか、秋田だとかの方言ぽい。

 

発音で言うと、「マ→ン↑ズ↑ノ→ン→ノ↓」みたいな感じだろうか。

 

しかし現代は地方創生が叫ばれる時代でもあるので、これはこれで何となくいいと思うし、これがブームになれば地方ごとに地方ごとのノンノがでてくるやもしれず、大阪であればワイのノンノ、という意味合いをこめてワイズノンノとなるだろうし(毎号ヨウジヤマモトの服しか特集されないみたいな尖りかたしそう)、そうなると東北の方では自分のことをワダスなんて呼ぶとも聞き、そうなるとその所有を意味するワダズノンノとなり、毎月の表紙は和田勉が飾るだろう。まあ和田勉はなんとなく見た目がアラーキーにも似ているのでオシャレな感じがでるかも知れないからそれは1つのアイデアとしておいておいても損はない。

 

方言で思い出したけれど、独特の言葉使いを用いるものに官能小説があげられる。

 

僕は基本的に自分の息子と対話する際には文章を読みながら1人でいたすことが多いのだけれど、最近のインターネット至上文化では抜くための画像や動画が溢れており、それはそれは便利な時代になっている。

 

しかしそのぶん情緒というものが欠落しており、これを例えるならば折角風俗にいって恋人気分を味わいたいからという理由でハコヘルではなくホテヘルを選び、折角恋人になれるんだから連れ込み宿のごとき寂れたホテルではなく恋人たちが週末を過ごすような、そう、梅田は兎我野町の界隈で言えばホテヘル御用達の「やま久」ではなくあえて、そうあえて、イルミネーションが輝いている「リトルチャペルクリスマス」や「マンハッタン」へと足を向けていったにも関わらず、部屋に入ってすぐにイソジンを差し出されてしまう時の悲しさに似ている。

 

ふつう恋人は部屋に入ってすぐにイソジンを差し出さない。

 

なのでもし初めて一緒の夜を過ごす時にイソジンを手渡されたら、それはもう素人のそれではない、とキモに命じておくべきである。少し悲しい気持ちになるかもしれないけれど、それはプロとしての矜持がイソジンを持たせているのであり、なのでイソジンが出て来た以上、情緒なんてものは心の奥底にしまって彼女が与えてくれるであろう快楽に身を任せる努力をするべきである。彼女のすべてを素直に受け止めるべきである。情緒はないが、長所はある。そういうことだ。

  

そのように情緒というのはままプレイに関して重要な事項であり、その情緒が多大に含まれているものと言えばやはり素人体験談などであるが、その端々に年配男性の悲哀を含んだ言葉使い、文字使いが垣間見える。

 

チンボ、メンス、小生、蜜壷、男根。

 

その言葉からにじみ出てくる情緒というのは、何ものにも代え難いものである。

 

普段日常生活を送る上であまり耳にしないことはおろか口にすることもなく、またテレビで放送されないのはもちろんのことインターネットでもあまり見ることのない単語が平然と並ぶその紙面は壮観ですらある。

 

なので最近において僕の読書体験というのはめっきり素人体験談などに集中し、読書の秋は独書の秋なのである。

 

みたいなくだらないオチのつけかたしか出来ないのは、もう本当に活字離れが進んでいることの証左であり、今のインターネッツ時代が憂うべきもなのだという現れでもあることは間違いない。

 

しかしここで話を終えると本当にくだらない内容になってしまう恐れがあり、また僕自身はやはりどうしても自己顕示欲を抑えることが出来ず、本当はきちんとした本を読んでいるのだよ、じつはインテリなんですよということをアッピールするために、最近読んでいる本、通勤の時間を満たす為に読んでいる本の題名を挙げておきたいと思うけれど、そういえば先に書いたマンズノンノっていうのは、マンコのためのノンノってことになるんじゃないかと思うんだけど、あなたはどう思いますか。