あの日会った外国人の名前を、僕は未だ知らない。
ある日母親から「弟の友達が実家に来るのだけれど、その友達という人があんたに会ってみたいと言っている。どうやら外国人らしい。だから来てもらえるか」という内容のラインが来た。
しかし当然ながら僕自身はその外国人の方に面識なんてもちろんないし、会いたいと思っていないことはおろか、弟に外国人の友人がいることすら知らなかった。というよりむしろ、友人の兄弟に会いたいと思うその外国人は一体どんな思考回路をしているのかの方が気になった。
なのでなぜそのような流れになったのか聞こうとしたのだけれど、母は何かしら返事を急かしている様相だったので、取り急ぎの返答として「まあ別にいいですが僕が知っている英語はハローグッバイにあとはペニスとヴァギナしか知らないけれど、なんとかそれでコミュニケーションを取ろうと思うのでどうぞお願いします。」
と母親にラインを返した。
するといつもは沢山の絵文字を使ってくるはずの母から「やめな」という簡素で短い、句読点すらない返信があった。その三文字の裏に色んな感情が渦巻いているのが垣間見え、さすがに僕の倍以上の人生を生きているだけあって、短いながらも感情の機微が伺えるなんとも含蓄のあるライン、ガンチラインを打つものだなあと感心していると、続いて今度は中国語と見間違えるようなラインが届いた。
「今週土曜昼間」
なるほどこれがエックスデーかと、いつもならそんな横文字を使う事無く生活している僕が中国語風のラインに対して英語言葉を思い浮かべたのは、きっと見ず知らずの外国人が僕に会いたがっているという事実に浮かれていたからだろう。
そこまでして僕に会いたいのならば僕も礼儀として最低限の会話が出来るよう、せめて駅前留学をしようと思いインターネットで予約しようとしたのだけれど、母から届いた日付を思い返すとあまりに近すぎる。
その日は木曜日の夜であり、エックスデーは土曜日、しかも昼間である。実質的に金曜日の一日しか猶予がなく、今からでは何を用意しても無駄だと悟った。なのでとりあえず駅前留学は諦めながらも、出来るだけコミュニケーションを円滑にするため、ペニスとヴァギナ、ハローグッバイだけで会話は無理なのか、もし無理なのであればどんな言葉を覚えておけばいいのかを調べるため、パソコンのキーボードを叩いた。
言葉を習得する時には、もともと知っている単語を基準にひろげていくとよい、と何かで読んだ気がするのでまずはペニスとヴァギナを基本にするべきだと思い、他の言い方がないか、それを使う事で会話に広がりが出るのではないかと思いひとしきり調べてみたのが以下の結果だ。
ペニスはコック、ヴァギナはプッシーと呼ぶ。
とりあえずこれだけ分かっていればなんとかなる。そう思ったのだけれど、念のために他の言葉も調べておくことにした。
僕が知っている他の英語はさきほども書いた通りハローグッバイだったので、ここからも何かが広がるのではないかと思い検索窓に「ハローグッバイ」と打つと、なぜかもたいまさこが出ている同名の映画の公式サイトがトップに出てきた。
とりあえずそのサイトに入ってみると、映画のポスターみたいなものが一面に貼ってあり、その画に映画のキャッチコピーらしきものが書かれていた。
「友達ってなんですか?」
挨拶から広がる言葉を知りたいから調べているのに、急に質問されても困ると思った。むしろこっちが聞きたい。
そもそも僕には友達がいないし、僕が今これほどまでに悩んでいるのは弟の友達が僕に会いたいと思っているらしいからこそ忙しい合間を縫って英語の勉強らしいことをしているのに、そんな僕に対して「友達ってなんですか」なんて聞かれても流石の僕だって困ってしまうだけだ。
なぜなら僕には友達がいないから。ゆえに答えられるための土壌がなく、友情という名の植物が育たないのだ。
学生時代は机にぽつねんと座りずっと教室で痩せた猫の絵を描いていたくらいに友達のいない僕にそんな質問をされてもどうしようもないし、そこはマナー違反だと分かっていても質問で返すしかないと思ったので、僕は率直な意見をパソコンの画面にぶつけた。
なぜ僕にそんな酷なことを聞くのですか、と。
しかし画面の中のもたいまさこは勝手に質問して来るという図太さは持っていたけれど、友達がおらず苦しんでいる僕に返答をするという優しさは持ち合わせていないようだった。
でもまあまさこが答えないのも理解できる。もしここでまさこが僕に対して友達に関するいくつかの答えを出してしまうと、自ずと友達とはなんたるかを説明しなければならなくなり、この映画の肝であるだろう「友達とは何か」を公衆の面前で答えなければならなくなる。
そうなるとこの映画自体の存在の意味がなくなってしまい、あげく封切りされることなく終了してしまう懸念があるからだ。だから質問に答えないのは、俗にいう大人の事情だろう。
母親とのラインのやりとりで分かってもらえるように僕は裏を読める人間なので、まさこを困らせない為に、まさにこの瞬間そっとインターネットから離れることにした。
でもまあ実際相手が外国人だということで気負ってはいるが、突き詰めていけば人と人、いや男同士のやり取りなのであるから、 とりあえず男同士の公用語である隠語(陰部を表す言語)、つまり今ほど調べた単語を知ってさえいれば、例え会話の文脈が理解できなくても仲良くなれるだろうことは容易に想像がつくので心配はないはずだ。
ということで、木曜の夜はもたいまさこと分かり合う事に費やされた。
もたいまさこと隠語の安心感があったので金曜日をつつがなく過ごすことができ、ついに外国人と対峙する土曜日が訪れる。
朝、僕は目を覚ましたのち、とても大切な事を聞くのを忘れていたことに気がついた。この情報社会に生きながら、相手の名前すら知らなかったのである。情報を制するものは世界を制すると言われて久しい昨今、相手の情報を1つも持たずにやり合うのは愚の骨頂である。
僕は携帯を手にとり母にラインをした。
「今日来る人、なんて言う名前?どこの国の人?」
いつ既読がつくのか分からない不安にかられながらも、僕は朝から元気な下半身とやり合おうと画策したのであるが、どうしても母が頭から離れなかったので諦める事にした。それはしかたのないことだ。いつもおかず探しに使っているスマホの画面に母の画像と名前が浮かび上がっているのだから。
トイレにていまだ元気な下半身をなだめすかしながら排泄を促しスマホと便器の水面を交互に眺めていると、僕の送ったラインに既読の文字が添えられた。そして5秒ほどブランクがあり、返答のラインが浮かびあがった。「プリンちゃんやって♡☆オランダ出身♪♪」
ちょっと待って。
僕は自分でも意識しないまま、虚空(便器)に向かってそう呟いていた。まだ暴れたりないという下半身を押さえ込みながら、トイレから出る。流し忘れはご愛嬌だ。
プリンちゃん。この名前からするに、確実に女性である。そうなると僕が木曜日にまさこと勉強した英語は無に帰すことになってしまうのではないか。
女性は男性の放つ下ネタが嫌いなのだとどこかで聞いた覚えがあるし、こう見えて僕は結婚している身であり、女性との会話に下ネタが向いていないということを実体験として理解している。
僕が急に「ねえ、これが僕のアナルだよ」と話しかけたところで、妻は「そう」としか返してくれず、でもそれは家族であるが故のとても優しい返しであり、普通の女性であれば返事をしてくれるどころか通報してくるくらいであり、もしその相手が外国人になった場合、通報されると注意や勧告では済まされず国際問題に及ぶ可能性も出てくる。
簡単に言えば、僕のかわいいおちん◯ちんの不用意なジョークが母親に伝わり、そこから僕の妻という国連軍を通しての経済封鎖という強大なぺ◯ニスの反撃にあう恐れがあるということだ。
僕の使える単語が無くなってしまった瞬間である。
しかしこれでへこたれる僕ではない。コミュニケーションを諦めること、それは試合の終了を意味する。始まる前から終わってしまう試合に存在意義はない。だからこそ僕は無い頭をひねって、別のコミュニケーション手段を考える事にした。
悩んだ時は基本に戻る。そんな先人からの言い伝えを忠実に守り、僕は意思疎通の基本を考えたのだけれど、やはり大切なのは最初の掴みとなる自己紹介である。
僕の名字は一部上場企業に名を連ねるようなよくある名前であり、探そうと思うとその企業ロゴのTシャツを簡単に見つける事ができる。なので、僕は普段から自分の名字が書かれているロゴシャツを着ているのだけれど、よく考えるとそれこそが掴みになるのではないか。という簡単な結論に達した。それ以上深く考えなかったのは、家を出なければならない時間が刻一刻とせまっていたからだ。
そのTシャツを着込み、妻が買っていてくれたお土産をもって電車に乗った。普段であれば「どこかに女性用下着が干していないかなあ」と電車の窓から外を見つめているのだけれど、今回は話の切っ掛けの為にオランダで有名なものはなんだろうと必死こいて調べていた。
僕はこの情報社会に生きながら、相手の出身国の名産すら知らなかったのである。情報を制するものは世界を制すると言われて久しい昨今、相手の情報を1つも持たずにやり合うのは愚の骨頂である。
しかしいつのまにか僕は誰が撮ったのかもよく分からない長崎ハウステンボスの写真に魅入っていて、必要な情報が手に入らなかった。でも、とっても綺麗だった。こころが洗われた。下着は見れなかったけれど、別の何か、まあハウステンボスなのだけれど、それを見れた。
実家の最寄りの駅につき、母親にもうすぐ着く旨の連絡を送った。社会人たるもの、報連相を欠かしてはならないのだ。
「プリンちゃん、もう来てるよ♡☆♡」
日本人に比べて外国人は寛容だとよく言われるが、僕も大概寛容だと思う。どれだけ母親がむかつく絵文字や顔文字を使おうが、一度も文句を言ったことがないからだ。そんな優しい僕は道中のスーパーで手に持てるだけのビールを買い込み、実家へと向かった。
チャイムを鳴らすと母が僕を出迎えたので妻からのお土産を手渡し、中に入った。
久しぶりの実家の空気に馴染む前に僕の目に飛び込んできたのは、身長が190 cmくらいあるひげ面のおっさんだった。その横には、以前より髪が伸びた弟がいた。うさんくさいベンチャー企業の若い部長のような風貌に変わっていた。
「あ、やっときた!これ、プリンちゃん。プリンちゃん、これ、俺の兄貴」
プリンちゃんはとても良い笑顔でこちらに歩み寄り、手を差し伸ばして何かを言った。
「ハジ$%”#&’’」
手に持ったビールの入ったビニール袋を下に置き、とりあえず手を伸ばして握手はしたものの何も聞き取れなかった僕は、弟に助けを求めた。
「今なんていうてたん」
「『初めまして』て。めっちゃ日本語やったやん」
改めてプリンちゃんに目を向けると、とても優しい目をしていた。そしてその優しさに包まれながら、(あ、男やったらあの調べた言葉使えるやん)と思い、一生懸命考えておいた自己紹介をはじめた。
握手をほどき、まずは自分の胸を指し「my name is Kawasaki」と名乗った。プリンちゃんは深く頷き「カワサキサン、ワタシ、プリン」と言って、また握手を求めてきた。その手をまた柔らかくほどき、僕は次に下半身を指差し「his name is pussy」と言った。
男性器に女性器の名前をつけるという高度なボケであるが果たして外国人に通用するのだろうか。どんな返事がくるのか期待して待っていたが、どれだけ待っても返事は返ってこなかった。
その後、テレビの音だけが響きわたるリビングにて食事会が始まった。
テーブルの上に並べられたご飯を食べながら弟とプリンちゃんの会話を聞いていたのだけれど、大半が英語だったので何を言っているのか分からなかった。むしろ2人とも僕の存在に気付いていないような気がした。
そこは空気を読むのが得意な僕である。買ってきたビールの殆どを飲み尽くし、手持ち無沙汰から料理を運んだりする母親の尻を触ったりしていると、プリンちゃんがこちらを見ながら、弟にそっとこう呟いたのが聞こえた。
「He is crazy」
未だにファッキンジャップの意味はよく分からない僕だけれど、この言葉の意味は分かった。けれど結局、食事の始まりから実家を出るまで、僕はプリンちゃんと交流することはなかった。ハローもグッバイも、結局使わなかった。
帰りの電車の中で心地よい振動にゆられながら今日の出来事を反芻している時に、僕はふと思った。
「いや、急に友達の兄弟に会いたいとか言う方がクレイジーやし、エエ年こいたおっさんがプリン名乗るのもクレイジーやろ」と。
結局プリンちゃんとはその日以来会っていないし、名前の由来も知らない。もしかしたら彼なりの高度なギャグだったのかもしれない。でもあれ以来、家族で会った時にもあの時の会食が話題にあがったことはない。
もしかしてあの日の出来事は、僕の夢だったのだろうか。
なんてことを考えていたら、つけっぱなしにしていたテレビに松田龍平を叩いて叱るもたいまさこが映し出されていた。そうだ、僕は映画をみていたのだ。
画面に映る彼女を眺めながら、ありもしないことを考える。
もしもたいまさこがあの時あの場所にいたら僕のことも叱ってくれただろうか。
頭を叩いて「ほんとに馬鹿だ!」とか言って。
もしもたいまさこが今この場所にいたら、僕をどう慰めてくれるだろうか。
いや、きっと慰めないだろう。
「あんた何しに帰ってきたん」と言いながら、テレビのチャンネルを変えて広島カープの試合を見るのだ。
それでいいのだ。まさこはまさこのままで、いいのだ。
以上。
缶コーヒー遊戯。
昨夜。
仕事帰りで後は家に帰るだけという状況にも関わらず、余りの寒さにビックリして妻と缶コーヒーを買おうという結論に辿り着いた。会社を出てものの3分程度でこのような結論に辿り着いたのだから、一言で言えばとても寒かったのだ。
しかしそもそも僕という男は、寒くなるというのを事前にニュース等で情報を得ていたので押し入れの奥からいまだ樟脳の匂いにする冬用の服をすでに取り出していたような、一言で言えば出来る男である。
なので寝間着からお出かけ用の服に着替える際にも、胸に大きく「Z」と書かれた冬の気候にもってこいな厚手の黒いセーターを着込んだ。さらに家を出る前に、これも胸に「Z」と書かれたワッペンのついた、寒い時期にうってつけな真紫のダウンベストを着こんだ。それでもまあ一言で言えば寒かった。
「ああ僕は今2つのZいわばダブルゼータに包まれている。この組み合わせの服を着る事は高性能モビルスーツの中で過ごす事と同義語なのだ、だからこれで寒くないのだ」となんとか自分を励ましていたけれど、その応援を持ってしても、帰宅時までは僕を温めてくれなかった。子どもはみんなニュータイプだと思ったし、一言で言ってとても寒かった。
かたや妻は派手な黄色のダウンベストを着ており、遠目から見れば熱心なレイカーズファンのカップル、近くで見ればただの色相環補色カップルという様相だった。そんな2人が寄り添いながら最寄りのセブンイレブンに入って暖かい缶コーヒーを買おうと思ったら、棚にはホッとレモンとお茶しか残っていなかった。妻もとても寒そうだったけれど、それ以上に棚の中身が寒そうだった。
しかし僕の舌はすでに缶コーヒーを求めており「ホッとレモンは甘すぎる。お茶は甘く無さ過ぎる」というtoo fast to live,too young to die.のような標語で頭が埋め尽くされていたので、補色同士また寄り添ってコンビニを出た。僕も妻も極めて寒かった。
僕は個人的にジョージアのエメラルドマウンテンかサントリーのボスレインボーマウンテンが好みであり、殆どの場合この2つのうちどちらかを選ぶことが多いのだけれど、コンビニを出て歩いて30秒ほどの場所にちょうどサントリーの自動販売機を見かけた。
寒い中、自動販売機は英国の近衛兵のように、ただまっすぐと立っていた。その神々しさは泥沼の中に咲く一輪の蓮の花のようだった。一言で言えば釈迦のようだった。
近寄ってみると予想した通りレインボーマウンテンが置いてあった。しかも110円という破格である。最寄りのコンビニではエメラルドマウンテンが税込みで114円、レインボーマウンテンだと124円という価格なのだが、この自販機ではエメラルドマウンテンよりも安い値段でレインボーマウンテンが買えるのだ。それもこれも全ては寒空の下でけなげに頑張ってくれている自動販売機(釈迦)の営業努力のおかげである。僕よりも出来るすばらしい男だった。一言で言えば救われた。
僕は迷う事無く110円を投入し、レインボーマウンテンのボタンを押した。
と書きたいところなのだけれど、実はそのボタンを押さなかった。否、押せなかった。なぜならば、その横の商品ボタンを押してしまったからだ。別に間違った訳ではない。
自分の意志で、そうしたのだ。
その横にあったのは、同じくサントリーの「ボス とろけるカフェオレ ダブルの生クリーム(関西限定)250ml」である。
ちなみにではあるが、僕は生クリームがどちらかと言えば苦手である。牛乳もあまり好きではない。だからケーキを食べる時は大体チョコを選ぶし、喫茶店でコーヒーを飲む時にも入れるのはシロップのみである。カフェオレなんて、殆ど頼まない。
そんな僕がなぜ「ボス とろけるカフェオレ ダブルの生クリーム(関西限定)250ml」を買ってしまったのか。
限定という言葉に弱いからか、それとも250mlという大きさからか。
そうではない。ではなぜか。
この商品パッケージが並んでいる横のポップに「これ、めっちゃうまいやん」と書かれていたからだ。
関西弁には、人を無理矢理動かす力がある。
「ほんま頼むわ!」と言われたら嫌な仕事でも断れないし、「めっちゃ好きやねん」と言われたら条件反射で「僕も!」と答える自信がある。「しばくぞ!」と言われたらしばかれる前でも血が出るし、「舐めとんのか」と言われる前にもう既に靴を舐めている。
だからこそ僕は「これ、めっちゃうまいやん」と書かれたこの「ボス とろけるカフェオレ ダブルの生クリーム(関西限定) 250ml」を反射的に買ってしまったのだ。
関西弁には人を動かす力があり、そのため僕はことあるごとに血まみれで人の靴を舐めているのだけど、そんな敏感な僕だからこそ「これ、めっちゃうまいやん」と書かれているだけで飲まずとも美味いと感じてしまうのは間違いなく真実で、どれだけ苦手な生クリーム入りのコーヒーでも飲む前から僕の舌はもうこの缶コーヒーを求めてしまっていて、だからこそ買ってしまったのだ。だからもうこの缶コーヒーを手に持っているだけで存分に美味しいということになる。
手に持っているだけで美味いというのは、例えて言えば手をつないだだけでキスをしたことと同等である。そして手をつないだ事がキスになるのならば、キスをしたということすなわちそれはセックスをしたということでもあり、キスをした事がセックスしたことになるのならば、それはもはやセックスと結婚は等価である。なので、缶コーヒーを手に持ったということは、缶コーヒーと結婚した事になるのは明白な、しかも敢然たる事実であり、指輪交換はプルタブである。
なので僕は「ボス とろけるカフェオレ ダブルの生クリーム(関西限定) 250ml」と幸運にも結婚する事ができ、文字通り暖かい家庭を作る事になった。
暖かい家庭があると仕事も頑張れるし、道中がいくら寒くてもそれを我慢してまっすぐ家に帰る気力が生まれる。道中の数ある自動販売機の誘惑に迷わされることなく、温かい缶コーヒーと温かいご飯が待っている暖かい家にまっすぐ帰るのだ。
しかも先に書いたように、その缶コーヒーは僕の手に握られている。すなわち家庭がすでに僕の手の中に入っているということであり、ということはそもそも僕は別に家に帰る必要がなく、いうなれば会社に居ながらにして暖かい家庭をもつことになり、すなわち会社から出る必要がないのだ。これは極めて便利な事象である。
しかし。
僕の働く周囲では、未だ時代錯誤な言葉が蔓延している。
それは「仕事に家庭を持ち込むな」という、格言めいたものだ。「家庭に仕事」の間違いではない。文字通り、仕事には別に家族の事は関係ないよね、というような悪魔の思想だ。
これが未だに我が社会にも浸透しているから、結局僕は家庭を仕事に持ち込む事が出来ず、缶コーヒーは家で一人、寂しく過ごす事になった。
友人もおらず、頼れる親族もいない。彼女にとっては僕との繋がりだけが、唯一外界との触れ合いの機会だった。僕と一緒に職場に行けなくなってから、彼女は熱源を失った。段々と寡黙になり、冷めていった。一度、先に布団で寝ていた彼女の手をそっと触った事がある。
冷た〜い感じがした。
僕と離ればなれになってしまった缶コーヒーは温もりを求めるあまり、近衛兵のような安心感と包容力のある自動販売機のもとに出戻り駆け落ちしてしまっていた。少し前から、その兆候はあった。家の前に見知らぬトラックが止まっていたことが何度もあったからだ。
しかし、安心感があると思われていた自動販売機は実はとても酷い男だった。女を騙しては普通より20円安く、俗にいう「TWO DOWN」で売り飛ばすような、やくざな男だった。最初の近衛兵の様な、釈迦の様な態度は偽りの姿だったのだ。その一見明るい見た目とは裏腹に、包容力があるように見せかけながら自分の配下にある女を安い金で売り飛ばす。人によってはギャンブルを奨めてくるやつだっている。永遠に当たる事のないルーレットで、あこぎに稼ぐのだ。
家に帰っても温もりもなにもない僕は、仕事帰りにどうしようもない寒さを味わっていた。惨めさと言い換えてもいい。その惨めさから逃げるように、一時の寂しさを紛らわす為に、僕は女を買った。安い金で寂しさがうまるなら、いくらでも買ってやる。そんな自暴自棄に陥った瞬間、どこからか現れた悪い男が、僕の耳元でこう囁いた。
「これ、めっちゃうまいやん」
関西弁には、人を動かす力がある。僕はその声に促されるように、とあるボタンを押す。
受け取り口から出てきたのは、少し凹んだ缶コーヒーだった。なんだか見覚えがあった。かじかんだ手でそのへこみをよく見ると、こう書いてあった。
「ボス とろけるカフェオレ ダブルの生クリーム(関西限定)」
その凹んだ缶コーヒーは、とても温かかった。とても手に馴染んだ。 とても懐かしかった。
僕はその缶の口をあけてから、そっと目をつぶった。初めてキスしたあの日のように。そして唇と唇が触れ合ったとき、心の底からこう思った。
「あ、これ嫌いな味」
隣で妻が飲んでいたボスのレインボーマウンテンが、とても煌めいて見えた。
もう、冬の気候ですね。
僕の好きなものは平野レミと俵万智とソーセージ
平野レミのこと、レミって呼びたい
卵かけご飯の写真を撮るとき、玉子が潰れていない状態だと美味しそうに見えるが、ぐちゃぐちゃに混ぜた状態で写真を撮るとその美味しさは伝わらなくなる。
だからインスタ映えだのなんだのと拘る方々は、黄身を潰さないままの卵かけご飯の写真を撮り、世界に向けて発信し続けている。
けれど実際問題として卵ご飯を食べる時にはぐちゃぐちゃに混ぜてから食べる人が殆どであり、ということはそのぐちゃぐちゃになっている画像というのは卵ご飯を食べる人にとっては至極見慣れた風景であるはずなのだけれどそれはないがしろにされ、綺麗な写真のみがもてはやされるようになる。
そういった時、僕は視覚問題とは何とも難しいものだと痛感するし、何かの研究では料理は視覚で味の9割が決まる、みたいな結果があるという話も聞いた。
しかし料理愛好家でありトライセラトップスのボーカル和田唱の母親でありイラストレーター和田誠の妻であり女優の上野樹里の義母でありシャンソン歌手であり生ける放送事故の異名を持つ平野レミはこう言う。
「食べちゃえばみんな同じなのよ!」
一見すると、とても合理的で正論を匂わせるようなセンス溢れる言葉である。それ故に世の奥様方は深く共感、納得し、その思想はシナプスのようにじわじわと社会に広がっていく。僕もこの言葉やレミのレシピに救われた事が幾度もある。
今もこの文章を書くためにレミのウィキペディアを見ていたらいつのまにか2時間が経過していた。だからかどうか分からないけれど彼女にとても親近感、というかもう友人以上恋人未満に近い感があって、もっとその距離を近づけたいからあえてレミの事をレミって呼んでる。ここで書くべきではない極私的な話なんだけれど、和田誠に対してすごいマウンティングしたい気持ちに駆られている。
それだけじゃない。近づきたくて近づきたくて、もうレミの眼鏡をかけたい。レミの眼鏡をかけてレミの目線でレミの顔を見つめたい。「もうやだ!あー恥ずかしい!そんなことしたらちゃんとあなたの顔がみえないじゃない!やめて!返して!」みたいな感じで怒られたい。素顔のレミが見たい。
しかしそれだけレミに対して親愛の情を示していたとしても、もし同じ時間軸や空間で過ごすことになると、諍いが増えるかもしれない。他人同士が一緒に過ごすと、どうしても納得出来ないことが出てきてしまうのが人間というものではないだろうか。
以前、試しにエマルジョン化したミンチ肉と羊腸を別々に焼いて食べてみた事がある。
でも、それはソーセージじゃなかった。
食べれば同じじゃなかった。ただの焼いたミンチ肉とただの焼いた羊の腸だった。
その経験から勉強したのは、レミの「食べちゃえばみんな同じなのよ!」という言葉は、食べる側ではなく作る方の人間にしか通用しない思想なのだということだ。いくらその人に尊敬、好意の気持ちがあったとしても、その全てを受け入れる訳ではない。
そもそも料理は作る人と食べる人で、視点が変わってくる。
作る作業には時間がかかり、食べる作業には時間はあまりかからない。だからこそ、作る人は作業を簡略化する為に合理的であろうとするし、反対に食べる人は細部まで拘って欲しいと考える。まずここで合理的と非合理的の壁がでてくる。創造と破壊の違い、と言い換えてもいいかもしれない。
その両方に言い分があって、しかもどちらも正しい。にも関わらず、歩み寄りできるかどうかと言えば、それもまた難しい話である。
俵万智とともに踊る
話は変わるが、仏教の宗派の1つに時宗というものがある。
時宗は浄土宗の流れを汲むもので、一遍さんという方が開祖となった宗教である。特徴としては「誰でも念仏を唱えたら誰でも極楽浄土にいける」と説いたその簡潔さと、空也から引き継いだ「踊り念仏」にある。
この「踊りながら念仏を唱えれば、極楽へいける」という教義と、レミの言う「食べちゃえば同じ」という思想には共通するものがあるのではないか、とふと思った。
その共通点とは「作る人の立場に立った目線」が主幹になっているということだ。
例えば僕が苦しんでいる貧困に喘いでいる、ヒップホップが好きな小作人だったとしよう。
■
オラは農業にいそしむラッパーだ。毎日、実りの少ない畑をせっせと耕しながら腰の痛みと戦っている。雑草すら満足に生えないような土地しか割り当てられていないにも関わらず年貢の催促は厳しいし、地主への支払いも滞っている。もちろん自分が食べるものすら殆どない。これがスラムの現実だ。
しかし性欲だけはある。なぜなら生命の危機を感じているからだ。生物は死を意識するとなんとかして次の世代に命をつなげようとする。だから毎日が朝立ちだ。エブリデー朝立ち記念日だ。腰が痛いのに。そんなギリギリな生活を送りながら、毎日同じ様な朝を迎えている。
「ああ、オラが昨日の夜に布団の上で撒き散らした種、実をつけてくれねえなあ。無理だよなあ、だって相手がいねえもんなあ。オラの耕してる畑と一緒だなあ。せめて俵さんの短歌みたいに、オラの朝起ちをいいねって言ってくれる人がいたらなあ。それにしても俵さんの短歌はいいなあ。心にしみるなあ」なんてことを、普段から枕元においてある俵さんの短歌集を読みながら思う。気だるい寝起きの朝、もちろん股間は起っている。
本を閉じて枕元に置き、綿の抜け切った布団から這い出る。腰は相変わらず痛い。プレハブで出来たワンルームで、すきま風もすごい。風呂トイレは別どころか、そもそもない。西日が気になるというより、天井の至る所から日が射している。そんじょそこらのOLじゃあ、一日だって我慢出来ない様な部屋だ。
キッチンのガスコンロにおきっぱなしになった鍋の中には、水と殆ど変わらない粘度のおかゆが入っている。昨日の夜に食べた残りだ。温めるガス代がもったいないからそのまま胃に流し込んで、鍋をシンクに入れた。シンクは水垢が酷くて白く濁っている。服はこれしかもってないから、着替える必要もない。着の身着のまま。時計もないから、天井から射してくる日の角度で時間を見る。そろそろ畑にでる時間だなと思い、さっき読んだ短歌を口にしながら玄関をでる。この家にはオートロックはもちろん、鍵すらない。
『「この起ちがいいね」と君が言ったから 今日も明日も朝立ち記念日』
そんな俵さんの短歌を何度も口ずさみながら、畑に向かう。相変わらず、腰が痛い。鍬も重い。気持ちも重い。そんな中で、俵さんの短歌だけがオラの支えだ。
畑に着いたオラは、そこで繰り広げられていたあまりに酷い光景に呆然とする。昨日耕したばかりの畑の上で耳をつんざくような木魚と鐘の電子音が鳴り響き、南無阿弥陀仏と唱えながら踊っている集団がいたからだ。その人数は百をゆうに越える。まるで野外フェスだ。
ウルトラジャパン in HATAKE。
「おめえら!そんなとこで何してる!オラの畑がめちゃくちゃじゃねえか!」
腰が痛いのも忘れ、怒りに任せてそう叫ぶ僕の元に、踊っているうちの1人がやってくる。人を小馬鹿にしたように腰を振りながら。
「チョリーッス!おたく、まだ畑耕してんの?時代は農業よりEDMよ。今日はあのDJ-IPPENも来てるしさ!そんな鋤なんかおいてさ、俺らと木魚もって踊ろうよ。レッツ念仏!イエスお陀仏!今日も元気に南無阿弥陀仏!ほらー、ぼやっとしてないで、レスポンスくれよー!」
そう言いながら、彼は両手を上げて左右に振り、膝を上下させて腰をうねうね捻る。首にはスワロフスキーで彩られたヘッドホンをぶら下げている。南無・阿弥・陀・仏、南無・阿弥・陀・仏と細かくリズムを刻み、心の奥から溢れ出るビートに魂を震わせている。
しかしオラが震わしているのは魂ではなく、肩である。怒りのあまり、肩が震えているのだ。でもオラには何も言い返せなかったし、彼らの踊りを止める事が出来なかった。彼らはそんなオラの手を取り、半ば無理矢理イベントの中心部分に連れて行った。
至極居心地の悪い、もとはオラが種をまいて耕していたその場所。頑張って耕した畑を、平気で踏み荒らすやつら。南無阿弥陀仏で救われるのは、お前達だけじゃないか。オラの生活はどうなる。畑はどうなる。そのとき、オラの中のヒップホップの種が、発芽した。
「ウーハーで聞こえてくる南無阿弥陀仏のリズムとイズム
に怒りで震えていた肩はいつのまにかポリリズム
照りつける太陽の日差しが人を狂わし
オラを見つめる異邦人の眼差し
その様相はまるでカミュ
悔しさのあまり唇噛む
一遍空也が世界を救済?
そんなことより金を頂戴
飯が食えなきゃ踊れもしない
稲を植えなきゃ芽生えぬ未来!」
こうやって、今もなお続くヒップホップとEDMの戦いの火ぶたが切られたのだ。
■
ここにおける「オラ」が食事でいう食べる人であり、踊っていた人が作る人であることはご理解いただけただろうか。
どうだろう、そういう目線でみると、時宗という踊る人達は、食べれば同じだと言う人達と同じだと思わないだろうか。この文だけを見ると踊る人の傍若無人さが際立ってしまうけれど、彼らには1つの信念があるからこそ踊っている。
それは「そんなにしんどい思いをしなくても、踊っているだけで救われるんだぜ!」という「食べたら一緒」と同じ合理的な思考である。
しかし、それはオラを実際に救う事にはならない。
オラは地主にお金を払わなければならないし、年貢も納めなければならない。念仏を唱えている暇があるのなら、少しでも実りを増やさなければならないのだ。オラにとっての救いとは来世の救いでも念仏でもEDMでもなく、お金であり収穫でありヒップホップ、そして俵さんなのだ。
両方ともに求めているものは「救い」であるが、方向性が違うとこれほどまでに乖離が生まれてしまうのである。
ソーセージはなんの為に出てきたのか
こうやって書いていると「作る人」と「食べ人」の歩み寄りは不可能のように思えてしまうけれど、お互いに「救いが欲しい」「もっと素敵な食生活を送りたい」という点においては共通している。だからこそ何か1つくらいは解決策があるかもしれないと思い、僕はインターネットの海に飛び込んだのだけれど、結局解決策は見つからなかった。
なので僕は気分を紛らわせる為にソーセージを作とうとしたのだが、いかんせん天気がよくない。雨が降ると薫製も出来ないし、湿気が高いと乾燥の具合も悪くなる。気温が低くなってきたのはとても好ましいけれど、出来れば晴れた日に作業をしたいというのが本心だ。
そうなると必然的に食べる方にベクトルが向くのは当然だろう。冷蔵庫の中を漁ると、以前に作っておいたフランクフルトが入っていたので、フライパンでそれを温めた。
ちなみにではあるが、その時に作ったソーセージの配合を記しておこうと思う。
豚ミンチ肉600g、豚バラ肉400g、玉ねぎのすりおろしと水を合わせて100cc、白ワイン50cc、塩18g、砂糖5g、セージ、クミン、ナツメグ、コショウ各2gである。
使ったのが豚の腸なので、日本のソーセージ規格で言うとウィンナーではなくフランクフルトになるのだ。
弱火にしたフライパンに少量のお湯を入れて蒸し焼きにし、水分が無くなったらそのまま焼き目が付くまで様子をみる。魚焼きグリルに入れて皮をパリッとさせて、お皿にもりつける。
ここで絶対に忘れてはならないのは、マスタードだ。素材の味を追求したいという人達からはクレームが入るかもしれないが、大沢たかおにとって海老フライがタルタルソースを食べる為の棒であるように、僕にとってソーセージはマスタードを食べる為の美味しい棒である。
そうなると、僕はマスタードを美味しく食べる為にソーセージを作っているといっても過言ではないのだけれど、ここで僕は1つ、自分に問いたい。
この文章に、ソーセージの話は本当に必要なのかと。
そもそも卵ご飯の見た目の話をしていたはずなのに、何故僕はこんなことを書いているのだろう。レミも万智もEDMもヒップホップも、もちろんソーセージもまったくもって関係ない。
実は最初に書きたかったのは、人はステーキを美味しそうに思うが、ミンチ肉をみてそこまで美味しそうだとは思わない。しかしそれを腸という、これも気持ち悪い見た目のものに包んだ瞬間、それはソーセージという万人の心を掴んで離さない「マスターピース」となるのだ。とか、そういうカッコいい話だったのだ。
こうやって話が脱線するのは良くない癖だなあ、と思いながら、僕はパソコンから離れ、ラジオから流れてきた音楽に耳を澄ませる。
流れてくるのは木魚のリズム。両手を上げて左右に振り、腰をうねうねと捻る。
細かくビートを刻みながら、スピーカーの奥から溢れ出るビートに魂を震わせて。
そう、今日は金曜日。
だれか、こんな僕とダンスを踊ってくれないか。