僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

「ペニスに埋め込んだ真珠がまるで涙の様に輝いていた.com」というサイトはありません。

ふと見かけた、

 

 

『◯◯に寄稿しました。』

 

 

という一文が、

 

輝かしく見えた。

 

私もどこかに寄稿したい。

 

そんな気持ちが、

 

浮かび上がった。

 

 

その気持ちは、

 

まるでひょっこりひょうたん島のように、

 

ぷかぷかと、

 

私の心の海を彷徨っていた。

 

 

でも。

 

誰もこんなブログを書いている人間に、

 

寄稿してもらいたいとは思わないよね。

 

 

だって、

 

私も思わないから。

 

 

バカみたいだね、

 

私1人でドタバタしちゃって。

 

 

そう、

 

恋もブログも、

 

 

始まりはいつも、

 

突然で、 

 

どこかエモーショナル。

 

 

そして、

 

 

終わりだって、

 

 

いつも突然で、

 

 

なんだかセンチメンタル。

 

 

じゃあね。

 

 

バイバイ。

 

 

私の愛した、

 

 

愛しい金玉。

 

 

 

 

アホみたいな書き始めになってしまったのは、朝寒すぎて布団から出れずに寝坊してしまい慌てて会社に向かってしまったがゆえ普段のテンションを忘れてしまったからですが、僕の金玉は今日も元気です。

 

さて、寄稿という言葉には何物にも代え難い魅力があり、文章を書いている身からするといつかは誰かからお願いされたいものであるなあ、とため息をつきつつちんこをさわりつつ金玉を愛でつつ乳首をいじりつつその連絡を待っているのだけれど、待てど暮らせどそのような知らせは一向にこない。

 

それは本当に当たり前のことで、例えば僕が何かしらのサイト、まあ趣味や遊び、例えば映画や漫画に特化したようなサイトを運営していたとして、「よし、今度こそ、いつもちんこと金玉と乳首を弄っているあの人に今オススメの映画に関する文章を書いてもらおう」なんてことは確実に思わず、文章を書いてもらうのであればそのサイトの趣旨に沿った人を選ぶはずであり、またよしんば僕に依頼したいというような奇特な人間がいたとして、先の話に合わせるならばその人のサイトは僕の書く文章が沿うようなサイトであるはずで、しかしそんなサイトはきっとろくなものでもない。

 

多分だけれど特集として、

 

「実録!わたし、金玉の皺とお尻の穴の皺を合わせてみたら幸せになれました!」 

「やっと判明!!!!都道府県別、金玉の皺の数の平均値!!!!」

「オナニーで学ぶ!オナニーの方法とオナニーの結果!!!」

「読者参加型企画!!『い・ん・き・ん・た・む・し』であいうえお作文!!」

 

みたいなものばっかりであろうしそんなクソみたいなサイトに需要があると思えないし、というかそんなサイトを運営しているような人間がマトモな人間であるとは思えないのでもちろん僕はそんな依頼なんて断ります。

 

普通に怖いですから。

 

しかもいんきんたむしには「ん」が二つもあるし、バカが考えたとしか思えない。

 

しかしこういう企画を考えたりする人に限ってマナーがしっかりしていたりして、

 

「突然のDM失礼いたします。

 

私、◯◯というサイトを運営しております、裏筋舐められたい太郎ともうします。

ゲロ様のブログを拝見し、私の運営しているサイトにとても親和性があると感じました。

 

読みながら、まるでカブト合わせをしているときのような多幸感を覚え、メールを送らせて頂いた所存でございます。

 

つきましては、以下のサイトをご覧頂いた上、文章のトンマナを意識していただき、「チンカス」と「マンカス」という単語がそれぞれ4回以上使われた5000文字程度の記事を書いて頂きたいと思っております。

 

http://penisuniumekondashinjuga/marudenamidanoyouni/kagayaiteita.com

 

ご了承いただけますこと、心より願っておりますので、

ご確認、ご検討いただけますこと、何卒宜しくお願いいたします。」

 

みたいなメールを送ってくるのだろう。

 

丁寧な分余計に怖いし、タチが悪い。

 

ちなみにですが、僕は起ちがいいほうです。毎朝元気です。

 

しかしそうはいってもやはり男に生まれたからには寄稿の1本や2本は書いてみたい、その流れで全裸で情熱大陸に取材されて始めから終わりまで全面モザイクで放送されたい、その後TEDに出演してジーンズとシャツを着て講演しているにも関わらず局部にはモザイクを当てて欲しい、みたいな願望を持っているのだけれど、その願望を叶えるためには色々と下準備が必要になってくる。

 

その下準備とはもちろん取材されるからには取材したいと思わせるような人間になることであり、その為には自分をもっと上の段階に持ち上げるために色々と頑張らなければならず、しかしこちとら底辺の高校を教師の恩赦で卒業したような男であるゆえ何をしたらいいのか皆目見当がつかない。

 

そんな悶々とした日常に1本の光が差し込んだのであるが、その光の正体は『引き寄せの法則』というものである。

 

引き寄せの法則

 

少し調べて頂くとわかるのだけれど、どうやら「こうなりたい自分」というのを想像するのではなく「こうなったあとの自分」を想像することでそのような未来が訪れる、というものらしい。

 

僕がこの法則を知ったのは、社長のデスクを社長が留守の間に勝手に漁っていた時にそういった類いの本を発見したのであり、しかしてその社長が引き寄せたのが僕みたいな人間だっていうの、本当にウケてしまいますね。何を引き寄せているんだか。

 

ちなみに僕が社長のデスクを漁る様になった理由は、転送が必要な報告書を転送せずになくしてしまうからであり、別にキャバクラの名刺や隠してるウィスキーのポケット瓶などを探そうとしていた訳ではないことを保身のために記しておく。

 

そんな幸せの法則に則って言えば、僕がコレからなりたいものを想像するのではなく、そうなった後のことを思い浮かべるのがよいとのことだったので、取り急ぎ先ほど考えていた夢を思い浮かべてみたんですけど、なんかどの夢を思い浮かべてみてもモザイクがかかってるんでよく分からなくて断念。

 

であればやはり頑張って文章を書いて寄稿できるようになれればいいなと思うのですが、しかし先ほども書いた通りそれは絶望的な願望であるからして、寄稿は諦めて奇行種にでもなって大草原を真っ裸で走ろうかなと思います。

 

そういえば日本には便利な言葉があり、それは困った時の神頼みというんですが、なにかしらの希望要望欲望願望がある場合に、神様にお願いをすればなんとかなり、しかもそれでもまだまだ足りないなぁなんて気がした時には裸足で100回参れば願いは叶うなんていうんですが、そういう時にはやっぱり神様のところに参るだけではなく拝殿の前で手を合わせたりもする。

 

これはもうDNAに刻まれた性のようなもので、そういえば右手でのオナニーに飽きた時、または格別な刺激を求めている時なんぞは両手で陰部をこすったりもするんですけどその時の手の様相ははたから見れば祈りと同じ姿勢でもあり、もう日本人の肉体にはそのようにプログラムされているのであるが、それを端的に言い表した言葉がすなわち、

 

「おてての皺と皺をあわせたら幸せ」である。

 

でもそれだけでは満足出来ない、さらなる幸せが欲しいんだ僕はと思った場合にはやはり手の皺よりも深い皺を合わせる必要が出てくるのだけれど、その皺があるのは男性ならば金玉で女性ならば大陰唇であり、僕は男性であるからして金玉の皺と皺を合わせたら大幸福なわけであり、金玉をこすり合わせるというのはなんだかもうカブト合わせをしているときのような多幸感を覚え、そうなるともう自分の中は押しとどめられないほどに気持ちが高ぶってくるので、とりあえず適当なブロガーに丁寧な案内でも送ってみちゃいましょうかしら、なんて気持ちが浮かび上がるのももう当然である。

 

というわけで、だれかこのブログに寄稿してみませんかつって。

 

 

□突然の告知、失礼いたします□

 

私「僕のソーセージを食べてくれないか」というブログを運営しております、ゲロ・サリバンショウと申します。

 

 

いつものように適当な文章をでっちあげていましたところ、オチというものに困り果て、このような形態を取らせていただく所存です。

 

 

つきましては、以下のサイトをご覧頂いた上、文章のトンマナを意識していただき、

 

http://penisuniumekondashinjuga/marudenamidanoyouni/kagayaiteita.com

 

 

いくつかの文章を寄稿して頂きたく思い筆をとった次第でございます。

 

 寄稿して頂きたい内容は、

 

「実録!わたし、金玉の皺とお尻の穴の皺を合わせたら幸せになれました!」

※要写真(5〜10枚程度で)

 

「やっと判明!!!!都道府県別、金玉の皺の数の平均値!!!!」

※要写真(47枚程度で)

 

「オナニーで学ぶ!オナニーの方法とオナニーの結果!!!」

※要写真(10〜20枚程度で)

 

「私のアナルこそがパワースポット!このお尻を舐めて幸せになった人達!!」

※要顔写真(5〜10人程度)

 

「読者参加型企画!!『い・ん・き・ん・た・む・し』であいうえお作文!!」

 ※「いん」「きん」まとめての文章はお断りしております

 

以上になっております。

 

ちなみに僕は、「マンカス」「チンカス」がそれぞれ4回以上入った5000文字の記事を書き上げる予定です。

 

ご了承いただけますこと、心より願っておりますので、

ご確認、ご検討いただけますこと、何卒宜しくお願いいたします。

 

 

ちなみにですが、謝礼は出ません。

 

ほら、よくあるじゃないですか。メディアに露出が増えると長期的に考えてあなたのためにはお得なのでお金なんかいりませんよね?だってあなたの広告になるんですから。他だったら載せる為にお金取られたりするんですよ?だからうちはお金は払わないけど実は他よりは良心的なんですよ?みたいな話。

 

あれを目指します、というか、もう僕は寄稿がすんだ状態である事を想像しています。なんてったって、僕には引き寄せの法則が僕にはついていますから。ちなみに僕ならこんな依頼なんてすぐ断ります。

 

だって怖いですから。

 

 

 

プロフィール欄をきちんと整理、管理することが読者を増やす事につながります。

「好き」という感情は、人が動く為に、もしくは人を動かす為の強い引力を持つ感情である。

 

例えば好きな人との濃密な30分を過ごす為に世の中のおっさんたちは数枚の万札を握りしめて風俗へと向かうし、好きなバンドのライブに通う為に世の中の女性たちは万札を持ったおっさんたちからお金をむしり取ろうと夜の町へ向かうし、スキニージーンズをはいてチェスターコートを着てマッシュカットをしている男の子は夜の町の女の子の落とすお金を目指して幸せのパンケーキを食べたりタピオカが浮いたミルクティーを飲んだりしてそれをインスタに上げて「ね、僕こんだけ新しくて美味しい店知ってるから一緒に遊ぼう?っていうかそれは建前で本音はヤリたいヤリたいヤリたい」みたいな感情を垂れ流して結果いろんなものをおごってもらってホテルに向かうし、そうなった結果ホテルが儲かる。

 

そのように好きという感情を中心として経済は回り、おっさんは快楽を得て満足、女の子はライブを見る事が出来て満足、マッシュの男たちはやれて満足、ホテルも儲かりと様々な人達が笑顔になっていく。

 

まったく関係ないのだけれど僕は爆笑オンエアバトル世代なので、タピオカの新店が出来る度に喜び勇んで群がる人達の事を尊敬の気持ちをこめて「タピオカ超特Q」と呼んでおります。

 

そのように「好き」という感情は個人の幸福にとっても社会経済にとっても好循環を生み出すものなのでとても素晴らしいと思うのだけれど、では翻って自分の好きなものは何だと考えた時、これだ!と胸を張って言えるほど好きなものがないことに気がついた。

 

例えば普段僕がよく使うインターネッツツイッターはてなブログなのだけれど、それらのプロフィール欄には各々の好きなものが並べられており、また別の人々がそういったプロフィールを確認し、自分と同じ様な趣味嗜好を持った人をフォローしたのち「初めまして!ワタシも◯◯大好きです!フォローさせていただきました!今度のライブ一緒に行きましょう!」みたいなやり取りの後SNS上で仲良くなったりしてグループを成形したりするのだろう。

 

では翻って人様に言えるような好きなものがない僕のプロフィール欄に書かれているのは 「 そうです。私が下品なおじさんです。」という一文のみであり、しかしよく考えるとこのプロフィール自体がすこぶる変であり、なぜかと言えばこういった文章は誰かから「あなたは下品なおじさんですか?」もしくは「あなたは下品なおじさんですね?」と問われた時にのみ成立する文であるからでして、誰にも問われていないのに全世界に対して「そうです。私が下品なおじさんです。」と書いている時点でただのキチガイであり、当たり前であるが誰にも訴求する事ができず、すなわちこのプロフィールは失敗しているとなる。

 

そしてそもそもが志村けんのコントの台詞のパクリであるからなおさらのことたちが悪いし、では僕が志村けんの事をプロフィール欄に書けるほど好きなのかと問われると、別にそうでもないのもたちが悪い。

 

このブログのタイトルである「僕のソーセージを食べてくれないか」に書かれている様に、僕はソーセージを作ることがよくあるのだけれど、では果たして世の中にソーセージが好きな人にとってこのブログが有益かと言われればまったくもってそうでもなく、なので必然的にプロフィールにソーセージが好きです、とは胸を張ってかけず、なおのこと「ソーセージのこと、もっと知りたい」と考えてインターネットの荒波をかき分けてきたピュアな方々がこんなブログに辿り着いてしまったら、逆にソーセージのことを知りたいのにこんな下品なものを読ませやがってと逆上されることの方が多い気もする。

 

これは例えば船の上から落ちてしまって海を延々と泳いだのち、命からがら陸地にたどり着いたと思ったらそこに松岡修造と張本勲が並んで立っていて「なんでそこで陸に登ろうとするんだ!もっとやれる!死ぬ気で頑張れば死なない!もっとおおきく腕を使ってもっと泳ごう!な!」「そうだ!そんな中途半端なままじゃ、喝だ!喝っ!」と唾を飛ばされながら罵倒された挙げ句そのままターンして海へと引き返さなければならないような状態だろう。

 

ポジティブは時に人を殺す。

 

そう、ポジティブは時に凶器にもなりうる「恐ろしさ」があることを忘れてはならない。

 

 

と、何か意味があるようなことを書いてみたけれど先が続かない。なぜなら、別に意味がないから。

 

 

みたいなことを延々と考えていたのだけれど、そう言えば、前に書いた記事で大々的に「餃子が好きです」「平野レミが好きです」みたいなことを書いていたので本当に僕の記憶力はどうにかしているのだけど、この餃子に対する好きって言うのは、なんていうのかな、旦那のことは好きだけど、でもやっぱり長い間一緒にいるとトキメキとかないし、だからちょっと刺激が欲しいっていうか、いつもと違う感じを味わいたいっていうか、だから彼は好きだけど不倫とかは全然考えてなくて、いうなればセカンドパートナー的な好きっていうか?みたいな感じの好きなので、もう別物として考えてください。

 

よしんばこれで僕のプロフィールが、「そうです。私が下品なおじさんです。好きなもの:餃子」になったら、ただでさえ下品なのにそのうえ口臭もきつい、みたいになってしまうし、そうなると下品なだけのはずのブログが「下品で臭いブログ」になってしまい、その頭文字を並べるとGKBになりこれは1歩間違えるとソ連時代の諜報組織みたいになってしまい、もしそれが拡散されてしまうと僕が実は共産主義のスパイなのでは?というあらぬ疑いをかけられることにもなり、しかし僕自身はそんなことになってるとは気がつかず、いつも通り仕事をさぼって家に帰って呑気に自慰に耽っている最中に逮捕投獄みたいになってしまうかも知れず、下半身剥き出しのままで「お前はあんな意味のないブログを延々と60数本も書いている。これは諸外国に向けた暗号なんだろ」みたいな尋問を受け、「いや、本当に意味のないブログなんです」といっても信用してもらえず、そんな状態であるにも関わらず非日常的な情景に興奮してしまい勃起することも可能性としては多大にあり「なぜお前は尋問を受けている最中に勃起しているのだ」と問われた際には胸をはって「ええ、なぜなら私はMだからです」と答えるだろう。信じるか信じないかは、貴方次第です。あと平野レミは普通に好きなのだけれど、レミはきっと僕みたいな人間に好かれたくないだろうからプロフィール欄には書かないでおきたい。

 

なので現実的に考えてプロフィール欄に「好きなもの:餃子」と書く事で逮捕される可能性があるならそんな危ない箸を渡る必要はことさらないのは明らかであるし、また僕の餃子好きもセカンドパートナー的好きであり、つまりは外で食べるのは好きだけれど家で毎週餃子を作って、今回は前回の反省を活かして具のバランスを変えてみましただの今回は具に紫蘇を混ぜてみましただの自家製の皮にほうれん草のペーストを練り込んで翡翠餃子にしてみましただのといった餃子ガチ勢からすれば僕の餃子好きというのはもう本当にミジンコやカンピロバクターのごとき小さな好きであり、本当に餃子が好きな方々は心が広いので「全然そんなの関係ないよ!好きっていう気持ちがあれば全然大丈夫だよ!ね、だからコレからもヨロシク!」なんて嬉しい言葉を言ってくれるでしょうけれど、僕自身が自分を矮小な餃子好きである事を自覚している以上、そんな輝きのある方々の中に入ろうとはおもいますまい、こんな状態で餃子が好きと名乗るのはおこがましいのでとりあえずプロフィール欄は今のままでいこうと思います。

 

しかしそう考えるとプロフィール欄に自分の好きなものを並べるのには覚悟が必要だな、と思うのとともに、そういった好きなものを並べている人達は凄いなあ、と思うし、またブログ内で色々な好きなものを書き連ねている人達の知識と愛情にも感服する。

 

では逆に考えたとき、好きなものの裏返しとして例えば僕が人様から感服されるようなもの、いうなれば知識及び愛情をもっているものが本当にないのかと問われると、僕自身の性格上触れ合ってきたもののどれもが中途半端であり、そうなると僕は「中途半端なものが好きってこと?」と自問自答したけれど、では中途半端について何か書けるのかと言えばなにも書けないので決して中途半端が好きにあらず、ではそれはそれとして、普段からよく触れるものはなんだろうと考えた時にでてきたのは古本であった。

 

そう、古本は毎週のように買っているしなにか語れるものがあるのではないか、と考えたところ、そう言えば先日古本屋にて僕は僕の星座である水瓶座の占いの本を買ったのだ。

 

ただその本は「2015〜2017年の水瓶座の運命」みたいなタイトルで、その本を僕が買った理由は「おうおう、なんぞこれは。このように未来を占ってあるようなちょこざいな本、ホンマに当たってたんかいな。おっしゃ、今は2019年、過去の自分に照らし合わせてこの占いの通りに人生が進んだかみてこましたろやないかい。外れとったら承知せんど」などとジャリン子チエに出てくるテツのごとき自身の性格のわるさを煮詰めたような購入動機であったことを報告しておく。

 

しかしこういった他人を貶めるような言動は殆どの場合自分に還ってくるのが世の定め、先に書いた様に僕には記憶力というものがニワトリの次くらいになく、また色々無精であるため日記的なものもつけておらずさらには予定表みたいものもなく、自分が2015年から2017年までどのような生活をしていたのかとんと見当がつかないことを見落としていた。

 

そのためその占いの本を読みながら「へえ、この時期は星の重なりかたが悪かったんだあ。このときなんかあったかなぁ?わかんないや。あ、このタイミングで財布を買うとよかったんだあ。なるほどねー、勉強になるー。じゃあ今年はどうなんだろぉ?」とただ単に過去の星の動きに関する情報を読みあさるだけになってしまい、口調もいつの間にかVERY読者のそれ。その占いが本当に当たっていたのかどうかも分からず、ただただ無駄な時間が流れたのみであった。

 

 

少し話を戻すけれど、例えば他の方々(僕以外の民)は、どの程度の好きを「好き」として話をしているのだろうか。好きの数値化、というか感情の数値化というのは不可能なのだと思うし、あくまでも形而上的に話をすすめるが、広く浅くでも好きだし狭く深くでも好き、では狭く浅くの人は果たして好きを名乗る素地はあるのだろうかという疑問だ。

 

とりあえず僕に話の基準を置き、分かりやすい様に比較対象を出して話を続けたい。

 

まず、僕と妻はどちらが漫画が好きであるのか?という比較。

 

僕は少年ジャンプを毎週かっており、あとにあげるのは立ち読みあるけれどマガジンはいくつか拾い読みしながら並行して単行本を買っているし、青年誌はヤンジャンとモーニングは軽く目を通す程度でありビックコミックは先が気になる漫画を少し読み、これもその漫画の単行本を揃えているような状態だ。また、昔好きだった少女漫画をネットで漁って買ったりもするし(ご近所物語天使なんかじゃない彼氏彼女の事情はもはや手放せない状態になっている)、これとは別に作家によって過去作も揃えていこう、という気概もある(お金が追いついていないので、そこは目をつぶってほしい)。

 

かたや妻の趣味は偏っており、最近の漫画にはあまり興味を示さず、棚にある漫画もほとんど増えてはいないが、AKIRA、ハイスクール奇面組コジコジなどを好んで読み、どの本も大切に読み返したりしている。

 

これは両方とも漫画が好きであり、また2人で漫画喫茶に行ったりもするので行動としても漫画が好きだといえるはずなのだけれど、しかしではもし2人で「どちらが漫画が好きか」と言い争いをしたとして、そこにあるのはどれだけの時間及びお金をかけたかという基準で勝敗をつけようとした際には僕の勝ちだけれど、どれだけその本を大切にしているかという判断基準であれば妻に軍配があがるだろう。

 

そうなるとひと言で好きといってもどのように好きなのか、という詳細が分からなければお互いに話し合いが出来なくなってしまう。

 

また、狭い、浅い、広い、深いということも数値的な線引きが無ければ判断が難しいものでもある。

 

たとえば「僕はね、漫画が凄い好きなんだけれど狭く深くタイプの好き者でね」みたいな人がいて、では何が好きなんですかと問うたところ「頭文字Dの4巻です。あとの巻は読んだ事もないですけどね。うふふ」みたいな本当に狭く深いタイプの奴がいた場合、僕が思うのは「ああこの人は本当に狭く深くの人なんだなあ」という当人の意見を素直に汲んだ意見などではなく「これはただの頭おかしいやつや」という判断になってしまうのは当然である。

 

しかし明確な判断基準が用意されていない好きという概念で考えた場合には彼の好きは極めて真っ当な好きであるし、誰もその好きを止めることなんて出来ないし、もし何かしらのタイミングがあって奇跡的に彼の葬式に立ち会う日が来たならば僕は僕の独断で彼の棺桶の中に頭文字Dの4巻を入れてあげたいとは思うけれど、しかしでは日常的に彼と漫画の話がしたいかと言えば絶対にしたくない。

 

だって、いやでしょう。こちらが最近のジャンプの新連載の話を振ったにもかかわらず、「おや、その話は頭文字Dの4巻における11ぺージの左上の台詞でいうところの『本当にスタートしちまいやがった・・ァ』ですね!!分かるーーー!右腕テープでとめてステアリングしてたあのスリリングな感じですよねーーーー!!分かりまくるーーーー!!」とか言われるのだろう。

 

僕には何も分からないから。

 

このような話は極端かもしれないけれど、しかし実際問題として僕と妻の間でも同じようなやり取りがあるし、だからこそ好きという感情に対して、というか、好きという感情を外に出すことに対して、僕はどちらかといえば消極的なスタンスを取るようになってしまうのだ。

 

だからといってこれは他人の好きをバカにしている訳ではなく、ただ好きという気持ちで素直に動ける人達は凄いな、という感想とともに、好きという気持ちに素直に動ける人達に対して憧れを持っている、というのに近い。

 

とここまで書いたのだけれど普段よりも幾分か頭を使ったのでもう限界、そろそろ頭と身体をスッキリさせるために自慰がしたいな、なんて思考が頭をよぎったんだけれど、あれ、そう言えば僕、好きなものがありました。

 

 

そう、オナニーが好き!

 

 

もう一度言ってみよう。

 

 

そう、オナニーが好き!

 

 

さて、ではここからは僕が自身をもって好きと言えるもの、ずばりオナニーについて書きたいと思うのだけれど、そういえばオナニーをするっていうのと同じ意味の言葉を知っていますか?

 

「マスをかく」っていうんです。

 

そして、このようなブログによくあるような、自分語りが過多の文章を何というかご存知ですか?

 

「オナニーみたいな文章」っていうんです。

 

なのでこのような文章を書いているということは、マスをかいてることとほぼ同じであり、この文章を読んでいるということは、僕のオナニーを見ているというの同じなのである。

 

そしてこの僕はMであるので、このように自分のオナニーがパソコン越しという間接的な状態であれ、見られている、という事にいたく興奮するのだけれど、これだけ興奮出来るのであれば、これはもう「好き」といってもいいですよね。

 

なので僕の好きな事は、オナニーを見られることです。なんてことを書いていると、本当に自分が下品な人間なのだな、と痛感する次第であるが、それを繕ってもどうしようもないのでこの下品な状態を保ったまま、今後も邁進させていただきます。

 

 

そうです。私が下品なおじさんです。

 

 

そう、全ては僕が悪いんです。

歳を取ると、普段聴く音楽ですら気をつけなければならない。

 

いや、ならないというと語弊がある。正確にいうのであれば、別に何を聴こうがそれは個人の自由なのだけれど、それを対外的に出す時には、ある程度気をつけないと「ただ気持ちだけの悪い人」になってしまう可能性がある、ということだ。

 

先に書いておくけれど、別に音楽は誰かから強制されるものではなく自分の聞きたいものを聞くのが一番だと思っているし、今聴いているものがなんであれ、それは誰からも否定されるべきではないというのが、僕自身のスタンスである。

 

また今回は普段と毛色の違う話になるのですが、そもそもこのブログにシモネタを期待している人がいるはずないと思っているのだけれど、もしそんな奇特な人がいるとすれば本当に申し訳ないので最初に謝っておきたい。ごめんね。

 

そして実際にこの謝罪を真に受ける人がいたとしたら、そういう人は何かの病気なのかも知れないので病院にいった方がいいと思いますよ。そこでもらえる処方箋の中身は多分ペニスリンとかそういうくだらないものだとは思うけれど。

 

さて、この話の発端は、先日妻と話していた時におっさんがあいみょんを聴くのはどうなのか、という話になったことである。そこでの着地点は先に書いた様に「別に好きならそれでいいんじゃないか」というものだった。

 

その次にお題にあがったのは西野カナである。おっさんが西野カナを聴いていたら、どう思われるのだろうか、というものである。

 

ここで1つ気をつけなければならないのは、あいみょんの時には「聴くのはどうか」というものだったのが、西野カナの場合には「聴いていたらどう思われるか」となっている点である。

 

まず西野カナの特性について書いておくと「主に女性をターゲットにした女性のパーソナルに則した女性の為の恋愛観」があげられ、その歌詞作成にはインターネットを利用したマーケティング手法が使われていたりするので共感性が多大にあり結果として若い女性が聴くようになる、というのが、ごく簡単にかいつまんだ説明になると思う。

 

さて、その共感性をメインにおいた西野カナであるが、さてではおっさんが西野カナを聴いていた場合、どのような反応が出てくるかといえば「なぜおっさんが女子目線の曲を聴いているのだ」「お前は何に共感しているのだ」「若い女の子との会話の為に聴いているのだろう」というようなものが予想されるし、この予想は僕が僕自身に思うものであるから信頼度は言わずもがな100%。

 

ここでもう1人、女性から共感されるアーティストにご登場願いたいのだけれど、何を隠そうというか何も隠さずにそれはaikoである。

 

あるサイトでは恋愛曲の巨匠、なんていうキダ・タローもビックリしてポックリ逝くような呼ばれかたをしていたけれど、しかし男性、というかおっさんがaikoを聴いているといっても、別に違和感は覚えないのではないだろうか。なんせ恋愛の巨匠だから。ナイトスクープではキダ・タローに恋する中学生だっていたんだから。

 

そしてそれとは別に、おっさんだって恋愛したっていい。誰にだって恋する資格はある。だからこそ、おっさんにも恋愛の曲を聴く資格はあるのだ。

 

そう、おっさんだって恋愛してaikoに涙してもいいのである。しかし、恋愛してaikoに共感してもいい、というのと、恋愛していいけどそこで西野カナを聴く、というのには、例えるならばおすぎとピーコと同じくらいの差がある。

 

少し脱線するが、比喩には物事を分かりやすく伝えるという役割がある。天使のように可愛い、悪魔のように残酷など、なにかと物事を分かりやすく伝えるために使うのが理想である。なので、ここでおすぎとピーコを比喩に出すのは、あまりに間違っている。分かりにく過ぎるし、その分かりにくさ以上に、この話の流れでいくとどちらかが気持ち悪い、という結末しか待っていないように思われるからだ。

 

それがおすぎになってしまうのか、ピーコになってしまうのか、書いている僕ですらも今からドキドキしている。ああ、どっちだ、どっちが気持ち悪い役割を担ってしまうのだ。その緊張感を維持したまま、先に進もうではないか。

 

おすぎは映画の評論家であり、ピーコは服飾評論家である。

 

そして、また話が複雑になるのが承知ですすめさせてもらうが、恋愛を語る際には2つの面があり、それは客観でみるか主観でみるかの違いである。

 

恋愛の客観というのは矛盾している感じがしないでもないが、実はそうではなく、ただ相手の事をどう思っているか、もしくは相手の感情に対して自分がどうであるかを見ることができている状態である。いわば2人及び2人を取り巻く環境、いうなれば情景を描いているので、客観で見ているというのはある意味で映画的である。

 

そして恋愛の主観とは、自分の気持ちはこうなのだ、というある種の一方通行の感情をメインに据えた状態である。これを無理矢理例えると、だれかが可愛いといったものではなく、自分が可愛いと思ったものを身につけたいというような状態、ファッション的なものではないだろうか。

 

さてこれでお分かりいただけたどと思うけれどaikoがおすぎであり西野カナがピーコになってしまった。

 

 

どうだ、どちらが気持ち悪いのだ?

 

しかし!

 

ここで勘違いして欲しくないのは、実はそのどちらが気持ち悪いというものではなく、西野カナ的ピーコを聴いているおっさんが気持ち悪く感じる、という点である。

 

なので、真に気持ち悪いのは、おすぎでもなくピーコでもなく、客観だの主観だの偉そうな御託を並べてさも含蓄のありそうなことを話しながら、実は自分のことだと話すのを恥ずかしがっていた、この僕である。

 

それはそうだ。結婚をしていながら「もし運命の人がいるのなら」とかほざいてたら殴り倒したくなるしこれが私の「トリセツ」だといいながらオナニーの頻度とか好きな体位だとか欲しいお小遣いの金額だとか書いた紙を渡されたら殴りたくなるしこれが僕が君に捧げる「bedtime story」だよとかほざいてゲロのパヒュームのする口から全然興味のない卑猥な単語を聴かされたりしたら殴り倒したくなるだろう。

 

それだけにあらず。

 

恥を承知で書くけれど、僕は家で西野カナを歌っているのだ。

 

どうかみなさん、ちょっと妻の立場になってみてください。

そして想像してみてください。

 

ラジオから西野カナがかかると、旦那がおもむろに立ち上がり「あなたの好きなところ」のサビの部分を歌いだしたところを。そして、我が妻が思っているであろう事を。

 

いつも一生懸命なとこ

 

きちんと働いてもいないくせに偉そうな事をいうな

 

意外と男らしいとこ

 

全てにおいて女々しい

 

友達想いなとこ トマトが嫌いなとこ

 

友達なんていたことないしトマトは好きだろ

 

たまにバカなとこ

 

いつもだ

 

 

このような状態が、ラジオから西野カナが流れる度に繰り返されるのだ。オノ・ヨーコジョン・レノンですら、僕がいなくなることが世界平和につながるんだって想像(イマジン)してしまうんじゃないかな。

 

だからそもそも、いい歳こいて西野カナを聴いてる僕が悪いんです。別に恋愛はしていませんが、なんとなく歌いたくなる感じにポップじゃない?カナやんって。

 

でも本当に問題なのは、きちんと西野カナを聴いた事がないのにうろ覚えで知ってる曲のサビだけ歌うような僕みたいな人間が「カナやん」とか呼んで調子にのって若者ぶっているという、許されない事実ではないでしょうか。 

 

はい、そういうことです。僕が全部悪いんです。