僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

ブログに☆をつけるのを、躊躇してしまう。

「ブログを始めてみました!」みたいなタイトルを見かけると、ウキウキとした気持ちを抱えて覗きにいってしまう。

 

そのような初々しいブログを見ているとそのピュアさやこれからの展望野望が垣間見えて何とも微笑ましいと感じるし、色々なブログが増えると閲覧する楽しみも増えるので頑張ってほしいな、これからも継続して文章を書いて欲しいな、と思う。

 

しかし、ことはてなブログにおいては、そんな気持ちを持ったとしてもどうにも気軽に☆マークをつけるのに躊躇ってしまう自分がいる。

 

素直につければいいじゃないか、あなたは応援できて嬉しい、相手は反応があって嬉しいのウィンウィンなのだからそんな些細なことに気を使うな、☆と性欲は無限なのだから、と思われるかもしれないが少しだけ僕の意見を聞いて欲しい。

 

そもそも僕がそんな事を考えてしまうのは、この自分のブログの品のなさが原因になっている。

 

例えば僕には僕のブログに☆をつけてくれた方々のブログを見に行くという習性がある。

 

褒められる事が極めて少ない人生を送っていたからか、このような猥雑な文章に☆をつけてくれるなんてなんとも嬉しいなあ、まるで菩薩の様な方々だなあ、本当にありがたいなあ、お返しにというかそんな厚かましく押し付けがましい感情などではなく、ただ単純にもうその博愛のお気持ちに対してお星様をつけたいなあ、という感謝の気持ちに包まれる。

 

なのでここまでくると単なる「☆をつけたい」ではなく、「あなた様がまさにキラキラと光り輝く☆そのもので、その☆が浮かんでいるのは遥か夜空の向こうであり、あれから僕たちは何かを信じてこれたのかなあ」などと考えるのだけれど、そうなると「でもね、そんな途方もない距離にいたはずの僕と貴方を繋いだのは、実はこの☆なんですよね」「☆が繋ぐ関係なんてまるで織り姫と彦星みたいでロマンチックですよね」「折角そのような関係になれたのだから、ぜひあなた様の陰部を舐めさせて欲しいんですよね」なんて事に思いを馳せるタイプの人間なのだけれど、ここまでくると感謝でもなんでもなく、もはやただの嫌がらせというかすでに犯罪の領域。

 

そしてまたブログ初心者の方に僕がまかり間違って☆をつけてしまった場合にも同じようなことが起こりうるかもしれず、彼ら彼女らは僕のつけた☆を頼りにこのブログに辿り着いてしまうことも考えられる。

 

が、そうなるとさらに恐ろしい出来事がおこり、その出来事とは「あ、初めて☆がついた。なんだか嬉しい。けど、こんな始めたばかりのブログに☆をつけてくれるなんてどんな人なんだろう?ステキな文章を書いている人なのかなあ、ほのぼの日記系?それともがっつりビジネス系?あ、もしかしてウキウキワクワク旅行記かな?それとも写真が綺麗なデジカメ特化型?もしくはお腹がすいちゃうグルメブログ?まったくもってどんな記事を書いているのか気になるなあ?ドキドキするなあ、よし、勇気を振り絞ってこの人のブログ見に行ってみよう!」というポジティブな期待感、つまりは好奇心からの勇気ある行動を喚起してしまうことであり、最悪にもそのような好奇心を示してしまったがゆえに、

 

「ペニスの記事」

「陰毛の記事」

「オナニーの記事」

 

という、世にもおぞましい記事が並んでいるのを見るハメになる。

 

そうなると結果は明白で、「うわ、このはてなブログっちゅうものにはヤバい奴しかおらんのとちゃうか」と思われてしまい、その結果として僕のつけた☆のせいで、せっかくブログを始めた方々が始めたその日にブログを辞めることになってしまうことも十分に考えられるのだ。

 

きもいブログ主にマークされたので、2記事目ですが、これを最後の投稿にしたいと思います。

 

 

『この☆が きもいブログに繋がったから 始めたその日が 辞めた記念日』

 

☆+3

 

 

 

そのような懸念があるので、僕は始めてすぐのブログには☆はつけないし、それ以外ではなんとなくそういうのを許してくれそうな人にのみ☆をつけ、しかしそれも新しい記事に☆をつけるのは出来るだけ避け、例えばいくつかの記事が更新されていたり僕以外の人の☆やコメントがある記事に、隠れて☆をつけたりするという繊細さを持っている。

 

けれどそのように気を使っていても、そのブログを訪れた別の人がまかりまちがって僕の隠れ☆によってこのブログにたどりつく事も無きにしもあらずゼロでもあらずであり、その結果として、

 

「あの人のブログから突然変なブログに飛んでしまった。最悪。ブログ主殺す」

 

みたいな凄惨な事件が起きてしまう懸念もある。

 

なので最近どうにも☆をつける事自体に抵抗があるのだけれど、しかしだからといって☆をつけないとなると、今度は自分自身の気持ちを押し殺してしまうことにもなってしまう。

 

そうなると押し殺された僕の気持ちはすなわち抑圧されることとなり、またその状態はずっと継続されるので抑圧された気持ちがさらに抑圧されてしまい、これは抑圧のバイキルト状態であり、またこういったものはロミオとジュリエットに代表されるように抑圧されればされるほどに燃え上がりさらに燃え上がってまた燃え上がることにつながる。

 

そうなると今までは我慢できていたことが我慢できなくなってしまうことは確実で、その我慢につぐ我慢のせいで抑圧された抑圧がさらなる抑圧へと至り、抑圧の感情がまた燃え上がり我慢の末に激情となり、しまいその激情はいつのまにか激烈となり、高ぶった激烈は紆余曲折をへて1人が脱退してしまうことにもなってしまい燃え殻がくすぶり、そのくすぶりにくすぶった感情は未だ熱を持ち続け、それをどのように鎮めればいいのか分からなくなり、突然女性器の名称を延々と書き続けたくなったりしてしまうだろう。

 

しかしそれを実際にしてしまうとまた変な記事が増えてしまい、

 

「ペニスの記事」

「オナニーの記事」

「陰毛の記事」

 

に加えて

 

「女性器の記事」

 

が並んでしまいシモネタの四天王が登場、そうなるともうこれは殺人予告がでるだけでは止まらずに、僕に対して殺人教唆まで問われてしまう可能性がでてくるかもしれないのである。

 

しかるに僕も、自分の人生を棒に振ってまで下品なブログを書きたいかと問われると、自分の棒を振るのは毎日の事ではあるけれど人生は棒に振りたくないという保身の精神に脅かされ、ましてやこのブログはそもそもソーセージ自作普及のためのブログであるからして、今後は僕の棒を振るのではなく本物のソーセージを振るまうことのほうが目標的にも安全的にも正しい事がわかるのであり、これはそろそろ真っ当なソーセージブログに戻ろうかとも考えてしまう。

 

けれど一旦冷静になってみると一つの疑問が産声をあげ、その詳細はといえば「なぜ僕が下品なブログを書いただけで殺人が起こってしまうのか」という疑問であるのだが、その疑問は生みの親である僕にすらまったく状況が理解出来ないっていうのがその疑問の疑問。

 

これは自分で書いておきながら本当に全然理解出来ないのだけれど、しかし可能性だけで、本当に可能性だけで考えるのであれば、例えば又吉イエス都知事に当選していた未来というのも可能性としてはあったはずであり、また横山ノック大阪府知事になっていた可能性もゼロではない。

 

可能性のみを基軸にして考えてしまうと本当にこの世の中は何が起こるかわからなくもあり、しかるに我が日本国においては『顔を蹴られた地球が急に怒って火山を爆発させた』という、荒唐無稽にも思われるが事実を元にした言い伝えもあったりするのでマジで胸がバチバチするんだけれど、ここはもういい加減シモネタを諦めて、いつの間にかシモネタに繋がってしまうソーセージの普及すらも諦めて、これからは猫(可愛い)や犬(可愛い)や爬虫類(可愛い)のブログに変えてもいいんじゃないかとすら思えてくる。

 

そのような方向転換を考えたのは、やはり人が人を殺したりするのは良くないし、その手伝いというか幇助というかそれに類することも良くないし、最近はもっぱら小説でもミステリーとかよく読むから警察の怖さが身にしみており、取り調べとか受ける事になっても嘘つけないなって思うし普段から警察の方との交流(主に職質、というか全て職質)もあることだし可愛いものに囲まれて真っ当に暮らそうかと思ったから。

 

でもね、ここで別の視点から見てみると、僕が下品なことを書き続けたとしても実際のところ「殺人が起こらない未来がくる可能性」なんていうものあるのではないだろうかってことにも気がついた。

 

では一体どうしたもんかと考えているのだけれど、どれだけ考えてみてもやはりスッキリせず、これだけスッキリしないのは脳みそのシナプスの問題などではなく、むしろ金玉に何かしらのわだかまりがあるからではないか、なぜか知らんが下半身が臨戦態勢の半起ちだからではないか、なんて疑問が思い浮かび「大きな問題は、それに付随する小さな一つの答えから解けることがある」なんて事も言うので(ソースは?)、ではさっそく小さな答えを求めに繰り出そうつって右手とともに長大な旅に出た(所要時間およそ3分)。

 

とはいえ早速もうこんな事を書いてしまっている時点で答えなんていうのは出ているも同然で、やはり僕にはちんぽだとか陰毛だとか金玉が必要なんだなって思って。僕と君たちのエゴとエゴのシーソーゲームだけが僕の支えなんだなって思って。金玉で喜ぶ僕たちは永遠のMr.チルドレンなんだなって思って。

 

またここで少し脱線するのだけれど、今、この現代というファイナルファイトさながらの暴力の時代において、何気なく生きているだけで危ない目に遭う事象が多々あるけれどその中でも意外と出会う頻度が多いものに歩きスマホというものがある。

 

これは説明不要であることを知りながらあえて説明するのはマジで歩きスマホを辞めて欲しいからであるが、すなわち歩きながらスマホをしていると、前からくる人とぶつかるので危険ですよ、というものなのだけれど僕はこれを心底憎んでいるから説明したのである。

 

が、僕がこの歩きスマホを憎む理由というのが「ぶつかられるのが嫌」などという気軽なものではなく「きちんと言い返す事が出来ないから嫌」というものである。

 

それがそもそもの発端でありもうついでなのでそれも説明させてもらうが文章の羅列だけだとどうにも難しいので、もし僕が歩きスマホをしていた立場であり、それが切っ掛けで人とぶつかってしまったときに置き換えて説明したい。

 

「おっす、おれは歩きスマホ人間。

今人気のツイッターをやっているんだ。

これは本当におもしろいから皆もするといいぜ。

でもこのツイッターっていうのはタイムラインていうのがあってそれは延々と流れ続けるから目が離せねえんだ。

だからおれは歩きながらツイッターをするんだぜ。

あ、今日もあの人妻が下着姿晒してるぜ、この人はいつも10分くらいしたら画像を消すからやっぱり歩きスマホしてて正解だぜ。淫美だね。淫美だよ。下半身もギンギンだよ」

 

みたいに画面をみていると、このおれにぶつかってきた奴がいやがった。

 

『ごつん!』

 

だからおれはこう言ってやったぜ。

 

「お前、おれは淫美に感動してギンギンに起っているのにぶつかってくるなんてどういう了見だ。」

 

そしたらぶつかってきたやつが偉そうにこんな事を言ってきやがった。

 

「いや、あなたが歩きスマホをしているから悪いんでは?」

 

そしたらおれはいつも、こう返しているんだ。

 

「おうおう、確かにおれは歩きスマホをしていた。けどお前はどうだ?歩きスマホをしていない。ということは、お前はきちんと前を見ながら歩いていて、かつおれが歩きスマホをしていて前を見ていない状態でありおちんちんが起っていることを知っていながら、ぶつかってきたんだ。だからどういう了見だってきいてるんだ。避けなかったお前が悪いだろ?」

 

そしたらやつはびびって、

 

「ぶるぶる、確かに僕が前を見ていて貴方のおちんちんがバキバキであるのを知っていたにも関わらずぶつかってしまいました。ごめんなさい。」

 

なんて事を言ったから、おれはさらに言ってやった。

 

「お前も歩きスマホをして勃起していれば、前を見ていなかったし注意力散漫ということでお互い様になったのにな。はははは、アデュー。あ、人妻の画像が消されてるじゃねえか。畜生」

 

 

 みたいな事が起こりうるからマジで嫌い。

これ、言い返せます?

 

明らかに歩きスマホをしているやつが悪いんですけど、こういうのは多分昔からあって、だからこそ『無理が通れば道理引っ込む』みたいな諺があるのだと思うけれど、マジで害悪だし歩きスマホは辞めて欲しい。

 

さて、なぜこの話をしたのかといえば、そもそも「僕がシモネタを書かなければ誰もイライラせず、さすれば誰も殺人事件を起こさないのが道理なのでは、無理を通しているのは実は僕なのでは」と考えてしまったからであり、そうなると僕自身のスタンスが歩きスマホをしている人と同じとなってしまうよね、と勘繰ってしまったからである。

 

では一体これはどうすればいいのだ、これは僕こそが社会のクズではないかと考えた後、「そうだ、だったら誰にもぶつからないところでスマホをすればいいのでは」と歩きスマホと同類のクズ人間の僕は気がつき、これはもうこのままはてなブログのはずれで、誰にもぶつからない場所で、延々とシモネタを書いていこう。

 

そう決意したのである。

 

しかし、その決意がどのような作用を及ぼすのかと言えばこれは余り意味がなく基本的に今まで通りであり、というか、このままでは最初の「☆が気軽につけられない」という悩みが何も解決していない。

 

じゃあ他にどうすればいいのかなって考えたのだけれど、これは本当に逆に考えれば、このブログの記事に☆をつけてくれる人になら別に☆を押し返してもいいんではないかってことに今更ながら気がついたんですよね。

 

いわばこっちが道路の端に座りこんでスマホしてる状態であるにも関わらず、後ろから画面覗いて「あ、それがあなたのツイッターアカウントなんですね。今フォローしましたのでリフォロー後、DM開放してください。ちんぽの画像送りますので」みたいに声をかけてきた人、みたいな状態だから。

 

ちなみにはてなブログから送られてくる通知メールには

 

「この記事面白い!」「がんばってね!」「読んでるよ!」

あなたの気持ちを手軽に伝えられるのがはてなスター

 

みたいなことが書いてあり、これは裏をかえすとこのブログに☆をつけてくれる人達というのは「この記事面白い!」「がんばってね!」「読んでるよ!」という意思表明をした方々であるといえ、更に表にかえしてみてもこの☆をつけるという行為は「この記事面白い!」「がんばってね!」「読んでるよ!」「これが俺のちんぽだよ!見てね!」と思っていることの証左であるので、もうそこまで思われているのならば、ここに☆をつけた方々はむしろ僕にちんぽとか陰部を舐められたいのではないか、と勝手に思い込む事も間違いではないはずである。

 

なので今後、僕の記事に☆をつけていただけるということは僕が陰部を舐めにいくこともセットになっているということを了承いただいたと勝手に決めつけることに相成りましたので、できればきちんと下着を履き、ある程度蒸れている状態で☆をつけて頂けると心底うれしく思います。

 

ええ、やはり舐める際には湿り気があると嬉しいので。

 

これは極個人的な趣味であるが、「やだ、汚いよ」と少し顔を隠しながら、でも快楽を得たいがために「蒸れているからホントにやだ」と更に言いながらおどおどし、でもその欲求が我慢出来ずに己の秘部を差し出してしまい、舐められるのを許してしまう、そんな羞恥と快楽が入り交じった状態を見るのが無常の楽しみなので。

 

さらにいえば、事前にご配慮いただき清潔にされていた場合、そのお気持ちはとても有り難いのですが、こう、なんていうのでしょうか、徹底的に滅菌殺菌されている工場で作られた綺麗なおにぎりよりもおばあちゃんが素手で握った素朴なおにぎりが美味しく感じるのと同じように、蒸れているほうが味わいがあるので。

  

果たして、ここまでしつこくこのブログに☆をつける弊害を書いたにも関わらず、こんな僕からでも☆が欲しい、という奇特な方がいるとすれば、是非ともこのブログに☆を沢山つけてみたらよいと思う。

 

もうそうなったら僕も覚悟を決め、☆から辿りついたのち、20個でも30個でも☆を入れ、多分住所の公開とかはお互いの後悔が多くなる事が受け合いであるので、また実際に僕も誰彼構わず舐める訳にはいかないし(舌が1本しかないから)、やっぱり舐めるよりは舐められたいというのも本音(おちんちんも1本しかないけど)なので、そのかわりといってはなんですが、ブログに書かれた文字の一文字一文字、いうならば人体で一番雑菌が多いと言われる足の指の間までも舐めるくらいの覚悟をもってあなたのブログに向かい性欲と☆をばらまきます。

 

自分で書いておきながらなんてひどい決意表明なのだと思うけれど、これがまあ今後に誰かがブログを書くための参考になれば幸いであるし、こんなブログでも今のところはてなブログさんから削除依頼もないみたいなので初心者の方はもっとはっちゃけて☆をばらまき、さらにはモザイク無しのいやらしい写真をあげればいいのではないだろうか。

 

さすれば自ずとブログのPV数も上がるだろうし、僕の性欲も満たされて嬉しいし、とお互いにウィンウィンなのだから。

 

なんせ、はてなブログにおいては、「☆」と「性欲」は無限である。

 

 

家がなくなるんですけど、僕はこれからどこでオナニーをすればいいんですか。

タイトルの通りである。なのでとても悩んでいる。

 

大家が立ち退け、という。家が古いからって。それは分かった。充分に分かった。

 

でもね、じゃあ僕はどこでオナニーをすればいいでしょうかねえ?!!!

 

屋外ですか?捕まってしまいます。それではスーパーのトイレですか?これも捕まってしまいます。ではやはり、やはりあなたの家の庭でしましょうか?

 

そうしましょう。

 

『拝啓 

大家様

あなたの家の家庭菜園の横に、私の種を蒔いてあげましょう。来年の春には、それはそれは可愛いちんぽが咲き誇る事でしょう。赤黒いちんぽ、肌色のちんぽ、勃起したちんぽに半起ちちんぽ、おやおや隅っこには包茎ちんぽも咲き乱れています。そして私は、そのちんぽから出る蜜を探し求める蝶となりましょう。そして、あなたの庭をフワフワと羽ばたきまわりましょう。

 

いいですか大家さん、あなたが私の住んでいる家を取り壊すということは、あなたの庭にちんぽが咲き誇るちんぽ畑ができるということであり、私という名の蝶が舞うことにつながるのです。

 

私の家を取り壊すなら、あなたの家も取り壊すのが筋じゃあないんですか。それをのうのうと、自分の家はそのままにこの平屋を取り壊すなんていうのは、筋が通らないんじゃないでしょうか。築年数は、そちらとこちらでほぼ同じでしょう。いっその事一緒に取り壊し、皆でオナニーをしようではありませんか。オナニー平野を作り上げようではございませんか。

 

そう、ここはコレから大人の観光地となります。色とりどりのちんぽが咲き乱れるオナニー平野の奥にみえるは金玉山脈、そのすそ野にあるオマーン湖が輝かしい朝日を映し出すのです。

 

いやしかし。

 

大家さんに文句はございません。

 

人として底辺の私たち夫婦にとても素敵な住居を提供して頂き、折々には畑で取れた野菜等も頂きました。近所のお祭りの日には、赤飯も頂きました。頂いてばかりの人生でございました。だからこそ、そろそろ恩返しがしたいのです。

 

しかし私にできる恩返しは、あなた様の庭でオナニーをすることしかないのです。

 

私のちんぽの先からは、プリプリとした子供たちが湧き出ます。どうかその様を、見届けてくださいまし。大自然が生み出される瞬間を見逃さずにいてくださいまし。そして、警察への連絡は、ご遠慮くださいまし。これはひとえに、好意の行為の厚意でございます。

 

はなはだ短い手紙ではございますが、ご査収いただけますと幸いでワイワイです。

 

                         平成31年1月16日

                        ゲロ・サリバンショウ 

                           

                                 敬具』

 

 

 

さて、マジでどうしよう。

 

 

 

馴染みの店、というのに憧れている。

馴染みの店、と聞くと、山口瞳における祇園サンボアや中島らもの通った尼崎の大貫ラーメン、織田作之助の愛した自由軒などが思い出されるが、こういったいきつけを持っているというのは何となく大人の風格が感じられてよいものである。

 この文章は、一年ほど前にこのブログの下書きに残されていたものだ。

 

その流れから推測するに過去の僕は自分自身の馴染みの店について書こうとしたのだろうけれど、いったいその頃の僕はどのような思考回路をしていたのだろうか。

 

そのような疑問を持ったのは、どれだけ思い返してみても、過去を辿り今の今に至るまでの自分の人生を詳細に振り返ってみても馴染みの店なんていうものが一軒もないからであり、むしろ馴染みの店の話題をよく書こうと思ったな、と今の自分が考えたからである。

 

強いて、強いて言うのであれば、よく煙草を買いにいくセブンイレブンが馴染みの店といえるのではないかっていうのがギリギリの線で、しかしこれはもう馴染みの店とかでくくってはいけない店(コンビニだから)であるし、もしかしたら嘘か?嘘をつこうとしていたのか?とも深読みしてしまう。

 

なんのために??

 

そもそも我が家は基本的に食事は自炊であり、例えばなんとなく外食に偏りそうな昼食に関しても自炊派、ほぼ家族経営の職場なのでそこでご飯を作る事ができるようになっている。

 

なので昼をまたいで外に出る様な時であっても店では食べず、職場に戻って3時でも4時でもいいから妻の手料理を食べるというようなスタイルをとっている。

 

そんな状態ではあるが、たまに気分転換をかねて外食をすることがある。

 

そう、外食をすることはあるのだけれど、その際にいく店はほぼほぼ決まっており、男らしい気分の時には王将へ、女の子ぶりたい時にはサイゼリアへと向かうのが我が家の定番である。

 

ちょっとまてよ。

 

ということは、もしかして、本当にもしかしてだけれど、昨年の僕はサイゼリアや王将を自分の馴染みの店として紹介しようとしていたのか?

 

山口瞳中島らも織田作之助を引き合いに出して?

 

もしそれが真実ならば、ヤバい。

これはもう人としてヤバいではないか。

そんな見栄を張る意味がわからないし、そもそもそれが見栄にすらなっていないのに気がついていないのがヤバい。

 

虎の威を借る狐、という諺があるが、それは力を持たない狐ちゃんがとっても強い虎ちゃんの力をさも自分の力であるがごとく見せつけていばっちゃうみたいな意味だったと理解しており、しかもそれを覚えた頃、小学校低学年の僕は「へ、狐ちゃんって、だちぇえなあ」なんてことを思ったことを覚えている(神童)のだけれど、しかし今現在30歳を大幅に越えすでに40歳に近づこうかしている、もう人生の半ばを過ぎたかもしれない大の大人が自分の虚栄心を満たす為に文豪の名前を借りるというのは虎の威を借る狐どころか和田アキ子哀川翔の名前を出していればなんとかなると思っている勝俣州和と同じようなものであり、それはそれでまあ面白いしたまにギバちゃんの面白い話とかもたまに聞けるから彼にはこれからも短パンで頑張って欲しいけれど、過去の僕よ、お前はダメだ。

 

しかしながら過去の僕が嘘をつきたくなる気持ちも少しはわかり(だって自分のことだから)、確かにいい歳をした人間が馴染みの店とまでは言わないが、チェーン店ではないいい感じの店やなにかしら自慢できる特徴がある店を知らないというのは少し悲しくもある。

 

が、そもそもそういった店を持っている人というのは、友人知人が多くそのために外に出る機会も多いだろうから同じ場所が続くと飽きる、だからこそ楽しい店を調べたり足を伸ばしたりする中で行きつけの店が見つかったりするのであろうけれど、かたや僕は友人がおらず、また妻とは同じ職場で同じ家、出勤退勤も同じタイミングでこなすので、わざわざよそに出かけることをしなくなっているし、どうせ2人のことなのでそれならば家で気楽に過ごそうではないかという意見の一致のすえ、外食よりも内食を楽しむ為に豚の肉と羊の腸でソーセージを作ったり豚足を煮たり豚の耳を茹でて炙ったり豚の内臓を炒めたりしているのだけれど、よくよく考えるとこれは豚を食い過ぎな気がするが、やっぱり豚は美味しいから仕方ない。

 

そういえば我が家には低温調理機があるので調子に乗って塊肉も料理するのだけれど、先日あまり行かないスーパーに行くといわゆるブランド豚がセールになっており、普段よく食べているカナダ産の豚と同じような値段になっていたので即購入、低温調理を試してみたところマジで美味かったのでおもわず妻に「アレだね、豚の柔さと脂の美味さがちがうよね」と伝えたところ、「豚が偉そうなことを言うな。ブヒブヒとだけ鳴いておけ」ということは言われず、これはただ僕の心が求めている声であり、僕は妻にとっての雌豚になりたいのであり、これはもう同物同治の精神で豚肉を食べているのである。

 

急に同物同治と言われてもピンとこないかもしれないので一応解説しておくと、中国の医学、中医学において、身体に悪い箇所がある場合には同じ部位を食べると良いと言われており、つまり肝臓が疲れていれば肝臓を食べ、胃の調子が悪ければ胃を喰らえという教えなのだけれど、僕はそれを深く信奉しているので豚になりたいから豚を食べているし、そういえばニワトリもよく食べているので記憶力がニワトリ並み。

 

おうふぉ、わわひあ、えううあえう(どうも、私が、雌豚です)。

 

とまあ猿ぐつわをされた状態で自己紹介してみたのは、これは別に猿を食べていたわけではなく僕の性欲が猿並みでありまたそれに伴い普段から猿のように狂ってオナニーにふけっているからであり、猿はなにも悪くないしそもそも猿を食べようと思ったこともないけれど、次の誕生日にはやっぱり猿ぐつわが欲しいしその理由としては雌豚には猿ぐつわがよく似合うから。

 

さて、このような話になると、この後の流れ的には普段食べないような肉類、珍しい肉やジビエに話を持っていくのがスタンダードな、流暢な文章の流れとなるのだろうが、ではこのブログにおいてだれがジビエの美味礼賛を求めるだろうか。

 

少なくても、僕は求めない。

 

猪肉や鹿肉、うさぎやうずら、雉や野鳩が美味しいのは知っている。知ってはいるけれど、ではここにおいてそんなことを書いたとして誰が喜ぶのだろう。

 

ホリエモンが満を持してヌード写真を出しても誰も喜ばないように、このブログで僕がグルメを語っても誰も喜びやしないのだ。

 

なのであえてここは文章の潮流に反発し、川の流れのようではない方に流れを持っていきたい。美空ひばりになんて、誰もなれやしないのだ。

 

さて、そんなこんなで話をすすめるが、先ほどあげた同物同治という概念は果たして肉体的以外にも成立するのだろうか。

 

例えば本を読む時には、落ち込んでいれば明るい本を読むより暗い本を読む方が意外に心が救われたりもする。それは音楽においても同じで精神が病んでいる時に限ってシロップ16gやcoccoを聴いてしまうように、マイナスの状態の時にはマイナスを、まちがってもしんどい時に陽の塊である遊助なんかは聴いてはいけない。

 

そのポジティブさは毒となり余計に死にたくなってしまうこともあるのだ。(もうやべえなこの世界に俺必要ねえな)とか漠然と考えてる時に『ブーンブンシャカブブンブーン!!!』とか耳元で言われたらやっぱり腹がたつし、あの笑顔って暴力的だろう?

 

ちょっと話がズレるけれど、一応ブの数が合っているか遊助のミツバチの歌詞を検索してみたら「ミツバチ(三万人の村人ver.)」というのがあった。本当に遊助のことはよく知らないのだけれどそんな僕にも一つだけわかることがある。

 

これ、3万人も村人がいたらそれはもう村じゃないだろう。

 

町だ、町。

 

と、そこでまあ本当に無駄に気になってしまったのでウィキペディアで調べてみると、「市町村の合併の特例に関する法律平成16年法律第59号の新法では第7条)の規定が適用されれば3万人以上は、市になれる」とのことでした。

 

町以上でした。市ですよ、市。

 

っていうか、そんなことよりもそれだけ村民がいたらミツバチなんかとっくに駆除されてるはず。

 

 

まあ、そんな感じで肝臓が疲れたら肝臓を食べるのと同じ様に、精神的にしんどい時にはしんどくなる音楽を聴くとマジでマシになるっていうのが僕個人的にあるのだけれど、これでもう同物同治は精神でも成立するのではないかって思ってしまうのは間違いない。

 

そういえば最近『ボヘミアン・ラプソディ』という、クイーンを題材にした映画が世間を賑わしているが、僕自身は恥ずかしながら未だ見ておらず、というか昨日妻と映画に向かったのだけれどそこでも『ボへ』は観ず、そこで見たのは『リンダ・リンダ・リンダ』という山下敦弘監督が2005年に撮った映画であった。

 

近所の映画館でたまたま山下敦弘特集をしていたのであるが、『リンダ・リンダ・リンダ』はその昔それこそ妻とまだ結婚する前に山下監督の出身母校である大学での試写を一緒に見て以来であり思い出の映画でもあり大好きな映画の一つでもあり、上映予告を見かけてから昔のことを思い出して本当にドキドキ、でもまあDVDも出ているので別にレンタルでも良いかな?みたいな話をしていたのだけれど、その劇場のサイトを確認すると上映時間は17時45分開始とあり家の用事を済ませてみるとまだ15時頃、あれ、時間に余裕があるんじゃねえかとなり、そうだよやっぱり劇場でみたいよねと意気投合。

 

で、映画館で久しぶりに『リンダ・リンダ・リンダ』を観たのだけれど、この時のぺ・ドゥナがまじで半端なく可愛い。僕の中で映画の2大可愛いはこの時のぺ・ドゥナと『レオン』の時のナタリー・ポートマンであり、これはもう異論は認めない。

 

ちなみに一番好きな映画は『天使にラブソングを2』です。ウェンディ・マッケナ最高。ウーピー・ゴールドバーグこそアメリカの国宝。さらにちなみにですが、好きな海外の男性俳優はスティーブ・ブシェミです。

 

まあそんな感じで映画は一応観に行ったりするタイプではあるのだけれど、これだけ世間を賑わしたボへ及びフレディには未だ触れていない。

 

しかしこれだけフレディが世間を賑わせているということは、これはそもそも世間からフレディが足りていなかったという証左でもある。

 

そして今現在、日本ではフレディ過多となっている気がしないでもない。正月番組の間にもボヘのCMが流れていたし、色んなワイドショーでもボへの熱狂ぶりやフレディの生涯に触れでぃしたりしているし、そうなるとこれだけ僕が注意してフレディを避けていても、いつフレディのほうから僕に触れでぃしてくるかわからず、しかし僕は元来のひねくれ者なのでこれほど賑わっていてはこちらからは意地でもアクションしてやんないかんね!と反抗期の女子校生みたいな心持ちでいるのだけれど、ここまで賑わってしまっていては、もしかしたら満を持して向こうの方からこちらに向かってくるという可能性もないとは言い切れない。

 

そう、それはまるで、学校の怪談のように。

 

始まりは、突然なった電話。

 

 

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。今ね、イングランドのネブワーズ公園にいるの。」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。今ね、ヒースロー空港の近くにいるの。」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。今ね、やっと羽田。疲れた」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。今ね、関空。麻薬犬に嗅がれた」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。関空から梅田って直通のバスか電車どっちがはやかったっけ?」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。南海は混むやろからバスにしたわ。」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。やっと梅田。なんかここもめっちゃ混んでる。」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。コンビニやねんけど、ビールいる?」

 

プルルルルル。

フレディ「もしもし、私フレディ。今あなたの家の前にいるの。」

 

 

そんな、海外からわざわざ来てビールまで用意してくれるフレディに対して、僕は冷たくあしらうような極悪非道な事が出来るだろうか、いや、できない(反語)。出来るはずがない(反復)。

 

そう、フレディが海外から僕の為に来てくれたのだ。

 

そこは受け入れるのみならず、おもてなしをしてこそ日本男児というものだろう。ここまでしてもらっているのに彼に冷淡な態度をとってしまうと、八百万の神が許してたとしても、滝川クリステルが許さない。

 

まあ僕個人的には滝川クリステルに叱責されたいのだけれどこれで失礼こいてしまうと僕個人ではなく日本国の恥となり僕一人のせいでジャパンの評判がジャポンと沈むかもしれず、そんな責任はこの貧弱な背中では背負えない。

 

であれば海外からわざわざ来てくれたフレディの為になにかしら良い店でもてなしたい、とない頭で考えたのであるが、先に書いたように、僕にはおすすめの店や馴染みの店というものがないので、そもそも誰かをおもてなしをすることが出来ないのである。

  

なのでしかたなしに、僕に何かできる事がないか、もし彼の趣味に沿うのであれば、自分にできる限りの料理でもてなそう、そう考えた。

 

例えばブランド豚をつかったローストポークミミガーの中華煮込みや豚足の酢みそなど、豚肉関連ならなんとかすぐに用意出来るし、もし冷凍で良ければ先日作ったソーセージも冷凍庫に残っているよ、それ以外にも近所のスーパーで新鮮な野菜が手に入るから蒸し焼きでもサラダでも煮物でも用意できるし、ちょっと時間がかかってもいいなら燻製料理だってできるよ、みたいなことを考えたけれど結局何を用意していいのかわからず、とりあえずフレディに何か食べたいものがないか聞いてみると、

 

「まあ、きゅうり?」

 

みたいなことを言ってた。

 

 

だから2人できゅうりを食べたよ。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

はなはだ主観的な意見ではございますが、6,000文字くらいのダラダラと長い文章の〆がくだらない駄洒落、というのも、たまには乙なものではないでしょうか。

 

さて、ではそろそろ僕は馴染みの店(セブンイレブン)にでもいって、煙草を買ってきます。

 

あと、途中で少し気になっていたんだけれども、めんどくさくて訂正もしないけれども、誰も『ボヘミアン・ラプソティ』のこと『ボへ』とは略さねえよなあ。馬鹿みてえだもんなあ。

 

しかし何はともあれ、誰かに紹介出来るような馴染みの店があるって本当に幸せなことですなあ、とグルメブログを見て痛感する次第です。

 

なので、誰か関西で美味しくて安くて面白い店があれば教えて貰えると嬉しいです。

 

フレディと一緒に行くので。