僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

さだまさしの関白宣言を聞きながら焼豚を作ると悔しさに泣くから 〜2019早春〜

最近焼豚作りにハマっている。焼豚と書いてチャーシューと読む。しかしながらチャーシューと書いても焼豚とは読まない。なんとなく不思議に感じるのだけれど、そんなことはまあ別にどうでもいい。

 

そもそも漢字は読み仮名とセットになっているからこそ読めるのだけれど、漢字そのものを読むというのはできないということに気がつきやはり不思議だなと感じるけれどこれも別にどうでもいい。

 

漢字は読みを知らなければそれを文字として認識出来ず、丸や三角と同じように記号でしかないのだけれど、それも今は別にどうでもいい。例えばチャーシューには叉焼と焼豚という表記が散見されるけれどその違いも説明したら長いし別にどうでもいいので説明しない。

 

話を戻すがしかしまあ焼豚を自分で作ってみると安い豚肉が美味くも贅沢な物に変化していく姿が垣間みえ、その様相はまるで家ではジャージしか着ずスッピンでうろうろしている姿しかみていなかったのであまり可愛いと意識していなかったけれど結婚式になって初めて化粧バッチリ衣装ピッタリで今から嫁にいきますよっていう決意ありありの娘の姿を見てそれがすごい綺麗だったみたいな感じであり、それはもう作っていても食べてみてもその行く先には幸せしか見えないよねって雰囲気をまとっているよねって話だ。

 

ああ、素晴らしき哉、焼豚。

 

そしてそのような崇高な目的を持った料理に没頭する為に必要なのは、なにを隠そうBGMである。これは結婚式でも同じで流れる曲によって色々と受ける印象も変わってくるのだけれど実のところ僕は結婚式を挙げていないし友人がいないので行く機会もそもそもないしそもそも娘どころか子供もいないのでそもそも今まで書いた事は全て妄想の話。

 

そもそもそもそもうるせえけれど、でも焼豚を作ったのは本当。こないだはワインで煮込んだので今回は趣向を変えて焼酎で煮込んだのも本当。その焼酎はシンクの下で眠っていたやつで瓶にカビが生えていたのも本当。その横に置いてた米はなんとなく怖くて中が見れなかったのも本当。

 

なので僕は焼豚作りを盛り上げるためと、頭から米の状態確認するというミッションを取り除くため、iPhoneのミュージックリストからさだまさしの関白宣言を選び、それを聞きながら料理を始めたのだけれどこれがまた悔し涙を流すくらいに良かった。悔し泣きをしながら良かったとはどういうことかと問われたとしても別にどうでもいい。他人に口出しされることではない。僕の行動が良かったかどうかといつオナニーするかくらいはは僕自身が決める。家具家電を買うかは妻が決める。それが和平の秘訣だ。

 

さだまさしの語りかけてくるタイミング、その内容、台所にいるにもかかわらず感じられるまるで劇場にいるかのような風情ある情緒。その全てが詩的であり、いつのまにか我が家が精神と時の部屋になっていた。なのでそのさだまさし記念に、以下にその詳細を語る。

 

よしなに。

 

さてでは意識を集中して料理を始めようではないかと焼豚用に用意していた豚肉を冷蔵庫から取り出して下処理をしていると、早速iPhoneからさだまさしが語りかけてきた。

 

「お肉を先に縛る前に 言っておきたい事がある」

 

ああ、凧糸で肉を縛る前に何か注意点があったのか、それを教えてくれようとしたのか、とさだまさしの声に耳をすませると、彼はこう続けた。

 

「かなりかなしい話をするが 豚の本音をきいておけ」

 

出ばなを挫くこの助言。しょっぱなからそれだけは止めてくれ。この状態にある豚の本音なんていうのは「もっと生きたかった」の一言で済まされてしまう。

 

僕だって同じ立場ならそう言うだろう。安易に想像できてしまうが故に、なおさらやめてほしい。悲しくて悲しくて、とてもやりきれない。そんな状態で料理が出来るわけがない。

 

しかし人間は逆境を乗り越えてこそ成長するのであり、やはりいっぱしの大人たるもの簡単に逃げだしてはならぬと自分に強く言い聞かせ、目から溢れ出る涙がまるでイムジン川のようだ、なんてことを思いながらも豚の声に耳を澄まし、なんとか自分に折り合いをつけて先を続けていくと、またさだまさしが歩み寄ってきた。

  

「焼くより先に 煮てはいけない」

 

そう、そういう注意点を教えて欲しかったんだ。知りたいのは調理の注意点であり欲しいのは歌による盛り上がりである。豚の気持ちではない。その時の豚の気持ちを答えよ、なんていうのは小学校のテストだけで十分だ。大人になってからのそのような問いは、点数と引き換えに何か大事な物をなくしてしまいそうになる。

 

まさしの言うように、焼豚を作る時には先に煮るのではなく、焼き目を付ける事でメイラード反応を起こしておくことが重要だ。その焼き目が水分に移って香ばしさになりうま味にもなる。これが焼豚の焼豚たる所以である。でもさだまさしはまだまだ止まらない。

 

「煮るより先に 茹でなきゃいけない」

 

そう、まったく持ってその通り。その通りだけれど、これも至極当たり前の事だ。煮てから茹でても意味がない。下茹でして肉の灰汁をとって味が染み込みやすいようにしてから煮るべきなのだ。逆になるとせっかくつけた味が抜けてしまうから。さすがのさだである。さ(すが)だまさしである。でもまさしの懐の深さはまだまだ底が知れない。

 

「紐はうまくくくれ いつもきれいにしろ 

出来る範囲で構わないから」

 

いきなりの優しさ、ありがとう。焼豚の作りかただけでなく、不器用な僕の事や衛生面にまでも気を配ってくれている。でも最近は、紐を括った状態で冷凍されているバラ肉もあるし、アルコールも常備しているし最初からきれいな状態だから心配しないでほしい。

 

「忘れてくれるな 仕事もできない男に 

家庭を守れるはずなどないってこと」

 

いきなり冷静なって僕の無能を責めてくるさだまさしが、そこにいた。辛い。そもそも仕事が上手くいっていたら家で焼豚作りなんかしないよね。分かっている。でも頑張るから、僕、頑張るから。

 

「お前にはお前にしか できないこともあるから

それ以外は口出しせず 黙って豚になっていろ」

 

さだの口撃はとどまることをしらない。ここまで言われるような事を僕が何かしただろうか。いや、していない。しかし怒られたからには何かしらの理由があるはずだし、それはきっと僕に何かしらの原因があるはずだと思うのでとりあえずあやまりたい。

 

申し訳ございません。僕こそが豚でした。

こんな、優しさに見せかけてからの辛辣さも、さだの魅力の一つである。

 

僕は豚として豚らしく口を縛り身体を縛られ、身を粉にして勉強して精進し、豚として精一杯豚を縛って参ります。無能である僕にできることは、焼豚作りしかございません。胸に刻んでおきます。これが僕の、豚としての決意。

 

「お前の豚と俺の豚 どちらも同じだ大切にしろ

煮豚焼豚かしこくこなせ たやすいはずだ 火で煮ればいい」

 

僕が豚としての決意を秘めている間に、いつの間にかさだが自分の豚を求めだしていた。強欲すぎやしないか。

 

そもそも、さだの為の豚なんて用意していない。

 

こいつはいつもそうだ。結構な昔に僕は別のブログでもさだまさしの事を書いたが、その時もさだは肉じゃがを勝手に食べようとしていた。本当に腹が立つ。

 

その文章を以下に書いておこうかと思ったけれど、それはまたいつかにしておこう。過去のさだより今のさだ、地獄のさだも豚次第だなんて良く言ったものだ。

 

そんな事をぶつぶつ呟きながら焼豚を煮る為の出汁を作っていると、

 

「人の陰口言うな聞くな 

それからつまらぬ味付けするな」

 

なんて言うではないか。やばい。めっさ聞かれてた。陰口めっさ聞かれていた。しかも陰口めっさ聞きながら味付けにまで口出しをしてきていた。これはめんどくさい。まったくもってめんどくさいし、話の持っていきかたが幸楽における泉ピン子のそれ。僕は豚ではあるが角野卓造ではないしもちろんえなりかずきでもなく、もう一度いうがただの豚である。

 

「俺は味見はしない 多分しないと思う

しないんじゃないかな ま、ちょっと様子はみておけ」

 

自分の分の豚を要求しておきながら、自分では味見はしないからお前ががんばって作るんだぞ、という積極的放任主義から垣間見える、息子の背中を見守る父親のごときスタンスを出すさだまさし。この隠れた優しさこそが、さだまさしの真骨頂である。やさしさだまさし

 

そんな優しさに包まれながら、茹で終わった豚肉を鍋に入れ、出汁と合わせて浮いてきた脂をすくったりしているとまたさだが語りかけてきた。 

 

「焼豚は2人で育てるもので

どちらかが苦労して つくろうものではないはず」

 

なんだいきなり。

もしかしてその2人というのは、僕とお前か?もしそうならば、少し前の自分を思い出してみろ。お前は何もしていない。この豚を育てたのは僕である。すなわち苦労しているのも僕だけである。どの口がそんなことをいうのだ。

 

そんなイライラを募らせていると、急にさだまさしの態度が変わった。口調が幾分か厳しいものになり、眼鏡の奥の瞳がみりんを入れた後の煮汁の様に鈍く光っていた。

 

「お前は俺の処へ 家を捨てて来るのだから

 帰る場所は無いと思え だから全部が俺の豚」

 

優しさを出して安心させたかと思うとここで急に方向転換からの関白宣言からのわんぱく宣言。さだまさしから滲みだすジャイアニズム。その切り替えの早さはサイコパスのそれ。

 

というかさっきまでは一応自分の分の豚と言っていたのが、ここにおいて全て自分の物だと言い出したではないか。ワガママもここまでくると清々しいのかもしれないけれど、しかしこれはあくまでも我が家の焼豚であり、そもそもお前の為のものではない。

 

逆に聞かせて頂きたいが「関白宣言は実は僕の作った歌なんで、お前は歌わないでください」みたいなことを僕が言い出したら、なんだこいつ頭がおかしいんじゃないかって思いますよね?そう言う事です。

 

あと、僕の帰る場所がなくなりそうなのは家を捨てたからではなく家を追い出されそうだからです。どちらかといえば家に捨てられたほうの立場です。そこは間違えないでください。 昨日、隣の家が廃墟になりました。

 

僕の答えで少しは冷静さを取り戻すのかと思ったけれど、さだまさしはそんな生易しい人間ではなかった。というか、更に拍車をかけて我が儘をふっかけてきた。

 

「煮豚が冷めて 味が染みたら 俺より先に 食べてはいけない

例えばわずか一口でもだめ 俺より早く食べてはいけない」

 

ここまで来ると僕ももう我慢の限界である。さっき自分から味見をしないと言ったにも関わらず、味見すらも許さない暴虐性。お前はセリヌンティウスを人質に取った邪知暴虐の王か。人を信じる事が出来ない不安という曖昧な感情で人を殺すタイプの人間なのか。せめて味見は許せ。一口ぐらい我慢しろ。

 

「味が足りない からしをつけたい 

涙のしずく2つ以上だしたい」

 

ここに至って、さらに欲求がきつい。というか勝手に食べるな。味見はしないと誓ったばかりだろうが。というか最初に書いたけれどそもそもお前の分の焼豚なんてものは存在しないのだ。っていうか涙のしずく2つ以上だしたいってなんだよ。無理矢理過ぎるだろ。

 

そんな感じでだんだん腹が立ってきたので、さだまさしを無視して(無視まさし)とりあえず焼豚作りに集中しようとしたのだけれど、相手にされない事が寂しくなったのか、いきなり態度を変えてきた。

 

「お肉がおかずで いい人生だったと 

俺が言うから 必ず言うから」

 

別に僕はそこまで求めていない。というかお前ぐらいの稼ぎがあるなら肉くらい普通に食えるだろう。こちとら猫のエサ代がかかり過ぎるから安い豚肉を美味しく食べる為に頑張っているんだ。それをな、イチャモンつけてさらに無理やり横取りしてから優しく褒めるっていうのはあれだ、殴ってから優しく接して洗脳していくDVと同じ手法だからな。そしてお前に言われるまでもなく、僕の人生はいい人生だ。

 

「忘れてくれるな 俺の愛するおかずは

愛するおかずは生涯 ラーメンだけ」

 

いやいやちょっとまて、散々焼豚を欲しがっていたのにそこで裏切るのか、と感情の赴くままに言おうと思ったのだけれど、僕は少し考えた。果たしてあのサイコパスさだまさしサイコパスまさし)がそんな安易な裏切りをしてくるのだろうか、と。

 

さだまさしと言えば、北の国からである。北の国からと言えば、ラーメンである。そうなると自ずとかの名台詞である「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」が思い出されるけれど、もしかしてさだは急にラーメンを出す事でそこに何かしらの真意を込めたのではないだろうか。

 

あのとき純はラーメン屋で「自分は卑怯な事をした」と五郎に告白した。そして五郎はそれを受け止めようとした。そんな親子のやりとりに今の自分を重ねて、さだは強欲すぎた事を恥じたのではないか。

 

しかし話はそう単純ではなく、別の視点も考えられてしまう。

 

もし純に投影していたのであれば、僕としては有難い。なぜならば純は自分を恥じての懺悔をしていたからであり、それは自ずとさだまさしが自分勝手に焼豚を奪おうとした事を反省しているとなるからだ。

 

しかし、しかしだ。

 

もし、さだまさしが五郎に自分を投影していた場合、これは大問題である。

 

なにが問題なのか、五郎はいい親父ではないか、だから五郎に自分を投影しているさだまさしは悪いさだまさしではなくいいさだまさしではないか、と思われるかもしれないけれど、あの五郎という人間は一見大人しそうな見た目をしていながら、自分の都合に合わないとみるとブチギレするという性格をしており、それはまさに今僕の後ろにいるさだまさしと同じなのである。

 

一見易しさを振りまきながら受け入れられたとみると、ありもしない自分の権利(豚肉をもらう権利)を声高に叫び、あたかもこちらが人として出来損ないであるから俺がかわりに豚肉を食ってやる、お前は焼豚を作る事が出来て幸せだろう、だから俺とお前はウィンウィンの関係なのだみたいな屁理屈を並べて豚肉をかすめ取ろうとする男なのだ。

 

さだまさしは「親父の一番長い日」の中で、こう書いている。

 

わかった娘はくれてやる。

そのかわり1度でいい

うばって行く君を殴らせろ

 

 

と。

 

いや、娘と彼氏の相互決定と親父が彼氏をなぐること、まったく関係なくないですか?

 

そもそも結婚相手を選んだのは娘であり、そもそも娘には1人の人間としての人格があり、その娘が結婚したいと思った相手でありそもそも娘は父親の所有物ではないので奪うとかそういう概念は無いはずなのに、勝手に娘を自分の所有物であると宣言した挙げ句、同意の上で結婚を申し込みにきた人間に「奪っていく」と難癖をつけて殴らせろって要求するような人間であるのよ、さだまさしは。そもそもこんな人間、理由なんてなくても人を殴るだろ。それしてもそもそもうるせえな。

 

しかしこれではっきりしたのだけれど、やはりさだまさしは五郎の方に自己投影している、僕はそう結論づけた。

 

なのでこれ以上さだまさしに焼豚を奪われないようにiPhoneから流れる音楽を止めようとしたのだけれどそれを察したのか、いたちの最後っぺのように最後の一節にとても感情を込め、こう語り出した。

 

「忘れてくれるな 俺の愛する煮豚や

 愛する焼豚は元来 ただのタンパク質」

 

 マジでしばくぞ。

 

僕が丹誠込めて作った焼豚をただのタンパク質扱いするな。こう見えて結構な手間ひまがかかってるんだよ。それをな、豚や肉に例えるならまだしも、栄養素でまとめるな。そんなことされたら味気ないどころか今までの作業が空しくなってしまうだろ。

 

さだにせっかく作った焼豚をただのタンパク質と罵られてしまった僕は、悔しくて悔しくてとてもやりきれないと、焼豚が入った鍋を見つめながら悔しさ涙を流していた。

 

すると僕が悔し泣きをしていたのがよほど嬉しかったのか、切り損なったiPhoneからまってましたと言わんばかりのさだまさしの嬉しそうな声が聞こえてきた。

 

「えー、今聞いて頂いたのはね、僕の作った関白宣言のセルフオマージュで『タンパク宣言』でした。なんちゃってね。ありがとうございました」

 

なんちゃって、じゃねえよ。何も面白くねえよ。これだけの手間をかけた文章と焼豚を駄洒落で締められ、僕は涙を拭う事すら出来なくなった。声をあげて泣いた。その涙で、焼豚の煮汁が、少しだけしょっぱくなった。

 

そんな冬の終わりであり、春の始まりだった。

 

 

 

終わり。

 

 

 

以上の話は、先日作った焼豚が少ししょっぱかったことの言い訳です。さだまさしはタンパク宣言なんて歌も出していないし、多分娘の彼氏も殴らないし、他人の焼豚を奪ったりもしません。あとこれは本当なのですが、さだまさしの曲全般、あまり料理にむいていません。なぜならば泣いてしまうので。料理の味が濃くなってしまうので。

 

あとこの歌の他にも、家族に黙って勝手に他人に家を貸して小銭を稼ごうとするあくどいおっさんをモチーフにした歌があるらしいです。

 

『民泊宣言』っていうんですけど、それもまたおいおい紹介したいと思います。

 

 

嘘です。

 

 

以上。 

 

 

 

 

口の中でサッチー(野村幸代)とミッチー(浅香光代)がエッチー(濃密な絡み)になるレシピ。

マジでいきなり勝手に料理の話をする。

 

これは単純に適当に作ってみたら美味かった系の物なので詳細というか詳しい分量は書かないし書けないしもともと無精なので写真とかとってないしそもそも適当に作ってみたら美味かった系の料理なので写真なんて撮る予定すらなかったしこれからも別にないのだけれど、まあ一度やってみてもらいたい。

 

まず肉は豚バラ肉、この豚バラ肉っていうのは僕にとってはもう僕個人のフェイバリット肉であり牛肉のシャトーブリアンが高くて美味いだとか名古屋コーチンのせせりが希少でヤバいだとかもうそう言ったことはまったく気にしないし気にしないのは気にしたとしてもどうせ買えないからであり、例えば道ばたで奥様方が「あなたご存知?大仁田厚が電流爆破を商標登録申請したらしいわよ?」みたいな話をしていたとしてこの奥様方は大仁田が商標登録しようがしまいが電流爆破というものに対して訴えられるような懸念なんてものはサラサラ無いはずでありそもそも大仁田に興味もないだろうしもしあるとしたら家庭内電流爆破を日常的にこなしている家庭に限定されそれはそれとして見たい気持ちはあるけれどどうせ家庭内を見せてもらえるならば奥さんと旦那さんとのベッドでのデスマッチが見たいのが本音であるがそもそもの奥様方が大仁田厚を語っている状況に興味がないのと同じ感じ。

 

それに引き換えバラ肉はなんとも素晴らしく何に使っても美味しいし何より安い。こうなると僕にとってはバラ肉は薔薇肉でありこれはもう次に僕が妻に結婚を申し込むなら10本のバラではなく10kgの薔薇肉をもって告白したいくらいに好き。

 

そう、そのバラ肉を取り合えず塊で買ってきてその全面を熱々のフライパンで焼いて焦げ目をつけておく。で、焼けたら深めの鍋にその豚肉を入れて肉がかぶるくらいの水を入れて煮て欲しい。これはもう弱火で煮たらいい。弱火がどれくらいかって分からない人向けに書いておくけれど、ちんこを舐めてもらう気持ちよさを10と据え置くと乳首は5になるしディープキスは3、指を舐めてもらうのが2くらいなので指をなめてもらう時くらいの火の強さであれば完璧。IHだから火加減がわからないって人がいたらそれはもう説明書読め。そもそも僕はIHを信用していないしIHに関しては女心と同じくらいよく分からない。とりあえずこれも女性と同じで絶対に沸騰させてはいけない。セックスで興奮しすぎて頭が沸騰しちゃうというのはエロ本でしか起こりえない虚構だ。覚えておけ。弱火で一時間ぐらいしたらもうそれで下茹ではいいから肉を取り出して軽く鍋を洗えばいい。

 

そしたら次は同じ鍋に赤ワインを入れて欲しいんだけれどこれはもう「え、こんなに入れんの?」ってくらい、つまりは500mlくらい入れても差し支えなく、女の子の「こんな大きいので初めて。。入んないかも」っていうのはバファリンと同じくらいの優しさだろうし自分のちんこがどれだけ小さいかは自分が1番よく知ってる。傷つくから嘘はつかないで。で、そこに包茎と同じように皮が付いたままでいいんだけど半分にカットしたニンニク5〜6片とショウガも皮が付いたままでいいから3mm程度にカットしたもの10枚くらい、あとはネギの青い部分を2本分くらいいれてとりあえず火にかけておき、余った赤ワインは胃に流し込むべきだ。頭がぽわぽわしてきてチョットした事でも敏感に感じるしそのままちんこを舐められでもしたら気持ちよすぎて頭が沸騰しちゃうけれども興奮しすぎて脳みそが沸騰しちゃっても火から目を離してはいけない。頭と同じ様に鍋が沸騰してきたらしばらく様子をみて味を見ろ。

 

赤ワインはある程度煮ると酸味が飛ぶ。酸味が飛んだら旨味と深みに変わっていくからそこで醤油と水を砂糖を入れて混ぜて、味を見てから好みの濃さにしたらいいんだけれど、舐めてみてちょうどいいくらいがやっぱりベストだから自分の舌を信用しろ。塩分濃度でいえば愛液よりも少し濃いくらい。この濃いがあの恋に繋がってもう肉汁と書いてラブジュースかなって思う。そうなると作ってる方も先走り汁がドバドバでよだれも止まらないんだけれど個人的にあのよだれ鶏ってネーミングは苦手。なんか汚く感じてしまう。どの口が言うんだって思われるかもしれないから先に答えておくと下のお口です。下の口はいつでもビショビショですょ。

 

で、さっき下茹でした豚肉をその愛液に突っ込んで落としぶたして1時間くらい弱火で煮たら出来上がり。マジで簡単。出会って4秒で合体。あとはもう怒張した肉棒をむさぼる様にチャーシューをも貪ればいいんだけれど、でもホントに美味しい状態を食べたいっていうんなら一旦冷ました方がいいのは明白でこれはまさにポリネシアンセックスと一緒で我慢すればするほど快楽っていうのは高まるからチャーシューに対する快楽も我慢に我慢を重ねて冷まして味を染み込ませたほうがマジで味は高まる。

 

で、少し時間を置いておくと、まるでベッドに広がる潮吹きの後のシーツのように赤ワインダレの味が染み込んだチャーシューが目の前にあるはずだ。その染みに染みたチャーシューは食べる前にもう一度弱火で温めなおしてほしいんだけれど、その時にその煮込み汁を別の小鍋に取りだして半分くらいの量になるように煮詰めてもらうとなお良い。2回目のオナニーで出てくる精子くらいのサラサラ感になったらちょうどソースとしていい濃度になってるから。

 

で、もちろんこのまま食べても美味しいんだけど、僕はこれをサラダに載せて食べたんだけどそのサラダっていうのがパクチーと春菊をざく切りにして和えたもの。他に味はいらない。赤ワインソースとチャーシューから出る脂が最高のスパイス。でもどうして他の味が欲しい、やっぱり他人の男根を求めたいし2穴責めされたいっていうんなら、一番合うと僕が思うのはフライドオニオンと少量のごま油と粗挽きのブラックペッパー。それこそがベストフレンド。

 

まるで野村幸代と浅香光代の濃厚な絡み。口の中でサッチーとミッチーがエッチーな感じになる。

 

そんな感じを味わいたければ、一度赤ワインで煮たチャーシューを食べてみればいい。

 

そんだけ。

 

そろそろ吉本新喜劇を勧めるおじさんになりたいし、免許更新センターのカメラはクソだし、僕は間もなく家なき子。

車の免許更新に行き、写真に写った自分の顔の老け具合にビビった。

 

毎日の飲酒により浮腫んだ輪郭と、お酒とは五木ひろしとコロッケのように切っても切れない関係の喫煙によりくすんだ皮膚、その飲酒結果により予定時間に起きれず寝起きすぐ更新センターへ向かった為に腫れぼったくなった目がそうさせたのだ、と思いたい。

 

それに後押しして、そう、おっさんという名の崖キワッキワに僕を追いやったのは、ひとえに更新センターに設置されているカメラの性能である。

 

僕自身のアイデンティティを守る為に最後の砦としてかけていた眼鏡が、砦の役割を果たせなかったのだ。なので砦というよりかは錆びついてグラグラになっている柵。その様相、まるでヤリマンの使う貞操という単語のごとく存在感がなく。

 

仰々しく書いたけれど単に光の反射がひどかったので取らされただけなのだが、僕が考えるにそろそろ眼鏡のレンズが反射しないカメラが生まれたっていいはずなのだ。

 

人は月にだっていけるのに、深海1万メートルに潜れるような科学力だってあるのに、なぜ僕は反射するという理由だけで更新センターの中で眼鏡を取らなければならないのだ。

 

僕が眼鏡をかけるようになって20年以上が経つ。

 

なのでそれはもう顔の一部であり、例えば女性はスッピンを見られることが恥ずかしいというけれど僕にとっての眼鏡はそれ以上、さっきもかいたように顔の一部であるからして眼鏡を取った後に見られているのは顔の表面だけではなく身体の内部、いうなれば内臓を見られているようなものであるからして、眼鏡を取るということは始めての夜を迎える乙女の様に恥ずかしい出来事で、さらに言うと裸を見られる恥ずかしさというよりはクンニにおいて秘部という内臓を見られる恥ずかしさにとても近しいのであるが、そうなると僕ははからずも更新センターのおっさんに秘部を見せたということでもあり、そうなると単に恥ずかしいというかどちらかといえば気持ちいい寄りの恥ずかしいだったのかもしれない。

 

眼鏡を取ることによってもたらされる快楽。

 

そんなこんなで更新センターで撮った写真にはなんだか見慣れない上に快楽に耽っているおっさんが写っていたのだけれど、受け取りの際に他人の目で確認されたらやはりそれは僕の顔だったようだ。

 

見た目は大人、ちんこは子供。永遠のオールドボーイ。それが僕。気持ちわりい。


そういえば先日精神年齢が若いと老けにくいらしいのだと妻に言われたので、僕個人的にはオナニーを覚えたての頃と同じ精神年齢を維持しているつもりであり、またその頃と同じ様に最低一日二回はオナニーをするようにしているけれど、やはり打ち寄せる年齢の波には勝てないらしい。そうなると僕にできることはといえば、吉本新喜劇を進めるおじさんになるしか道はない。

 

突然のことだけれど、僕はあの「吉本新喜劇を勧めるおじさん」にいたく憧れているのだ。

 

ほら、親戚の集まりでちょけた子供に「自分おもろいな、自分やったら吉本新喜劇に入れるで!さっきのもっかいやってみ、ほらめっちゃおもろいやん」とむやみやたらに少年を褒めて吉本新喜劇に勧めるおっさんいたでしょ。それです。だいたい酔っぱらってて、他の親戚からは「あのおじちゃんとあんまり喋ったらあかんよ」と言われるようなタイプのおっさんである。

 

この吉本新喜劇を勧めるおっさんになりたいという気持ちは年頃の女子がアイドルになりたいと思う気持ちとほぼおなじようなものであり、これはもう女子が自分の可愛さを世界に広めたいというのと同様にこの老けたおっさん具合を世界に知らしめたいという感情がそうさせるのであるが、かといって世界に広められてもそれはそれで困る。

 

世の中には飢えて死にかけている子供達が沢山いて、もしそんな死ぬか生きるかの子供達に「君たちは面白いなあ、吉本新喜劇に行くべきやで」なんて言おうものならこれはあのハゲタカに狙われている子供を写真で撮って袋叩きにあって自殺してしまった写真家と同じ運命をたどることになる。

 

彼は名声と引き換えに命を差し出す結果になってしまったけれど、かたや僕は名声どころか罵声と引き換えに命を差し出す事になり、これはあり得ないくらいにハイリスクノーリターン。別にピューリッツァー賞は欲しくない。僕が欲しいのは効率的なxvideoの検索ワードとテンガとローションと部屋とワイシャツと私。

 

 なのでやはり世界に対して吉本新喜劇を勧めるおじさんではなく、近所の少年に対して吉本新喜劇を勧めるおじさんになりたいのだけれど、先日も書いた様に我が家は取り壊しにかかる立ち退きの憂き目にあっており、もう僕の家以外の人達は立ち退いてしまった後なので僕の周囲には年頃の少年はおらずまた引っ越す先の家も見つからないので僕は面白い子を見つける前に家なき子になってしまう懸念しかなく、このような状態で吉本新喜劇を勧めるおっさんになったとしても、「君おもろいな、吉本新喜劇にいったらどうや」と言ったところで当の僕は浮浪者であり、人に吉本新喜劇を勧める時間があるならば家を探せと少年の親やその少年本人に言われてしまうことは目に見えているが、こう見えてぼくだってね、一生懸命家を探しているんですよ、インターネットを駆使したり大家さんに頭をさげたり不動産屋さんと相談したりしているんですよ、ローンだって考えているんですよ、それでもなかなかいい家が見つからないんですよと言い訳を重ねたりしてるのだけれどもし僕が銀行員だったとしてこんなブログを書いてる人間にはお金を貸したいとはこれぽっちも思わないですよ。返ってくる見込みがないですよ。吉本新喜劇をすすめる暇があったら少しでも働いて頭金を溜めろと言いたくもなりますよ。

 

そんな状態であるにも関わらず僕がこんなにも吉本新喜劇をすすめるおじさんになりたいのはやはり過去の体験がそうさせ、その体験とは僕と僕のおじとの蜜月である。

 

僕の母親の弟、その言葉通りのおじこそが僕にとっての「吉本新喜劇を勧めるおじさん」であり、いわば私の足長おじさんでだった。お金はくれないけれど、笑いをくれるステキなおじさんだった。風呂あがりにちんこを股にはさんで笑っているような、無邪気なおじさんだった。母親があまり子供に与えたくないもの、例えば蒲焼さん太郎やスプライトの味を僕に教え、社会に適応できなくしたりもする、諸刃のおっさんだった。

 

「だった」と意味ありげに書いたが、今も普通に生きている。元気に生きているよ。

 

その足長おじさんは僕の人生においてとても重要な位置を占めていたのであり、それに憧れる気持ちはバームクーヘンのごとく年齢を重ねるごとに大きくなっているが、僕のちんこは股に挟めるほどに立派ではないが年齢はそのころのおじさんに到達しようとしており、その焦りがまた僕を吉本新喜劇を勧めるおじさんへと導くのであるが、さっきもかいたように僕の周囲には面白い子がいないし、ましてや面白くない子すらもおらずさらに言うと隣人もおらず、いるのはお腹を空かせた猫のみである。

 

しかるに我が家の猫は我が家の人間よりも良いご飯を食べており、それ相応にご飯にもお金がかかりなぜ人は業務スーパーのフライドポテトやまとめ売りの格安肉ばかりを貪っているのに猫たちはグルテンフリーの高級フードを食べているのだと妻に問うと「猫は可愛いしあの中の1人が穀物アレルギーだからだよ、そしてあの子だけのご飯を変えても他の子のご飯を食べてしまうから全部変えざるをえないのよ、しかもあなたは可愛くないし私もあなたもポテトフライが好きだから別にいいでしょう。そして安い肉を美味しくするのがあなたの腕の見せ所でしょ」と答えたのでなるほどそれはそうだと深く納得。どれだけ頑張っても、ポテトフライは作れても、美味しい豚肉料理は作れても、可愛いは作れないのだ。そう思いながら、ナチュラルボーンカワイイの猫達をみて微笑んでいた。

 

そのように猫たちはいつも僕を笑顔にさせてくれるのであるが、そこで突然僕の心の中に居を構えているマリー・アントワネットがこう囁くではないか。

 

「少年がいなければ、猫を吉本新喜劇に勧めればいいじゃない」

 

と。

 

マリーにそそのかされた僕はとりあえず目の前にいた猫(雌猫9才バリ可愛い)に「君めっちゃおもろいな。吉本新喜劇にいったらどうや」と問うてみたのであるが、尻尾をバシバシと叩いたかと思ったらすぐに立ち去り、トイレに入って立派なうんこをひりだしていた。

 

そもそもなんの面識もないマリー・アントワネットに従うなんて馬鹿げていた。こちらが全精力を傾けて居住地探しをしているのに僕の中に無許可無遠慮無支払いで住まうような人間に、耳を傾けてはいけないのだ。いっそのこと断頭台に送ってしまえ。

 

そう言えば昔に親から「知らない大人のいうことを聞いてはいけないよ、呼ばれたからってついて行ってはいけないよ」と言われていたのを思い出した。やはり親の言う事は偉大だな、それに引き換えマリー・アントワネットは本当に役に立たないしな、なんてことを思い、彼女の無責任な言動に従って猫に無視されるくらいならばなら最近ハマっている携帯のゲームを立ち上げてプレイに興じていたほうがマシだと息巻き、ゲームを立ち上げて落ちゆくボールを操作しながら画面を眺めていたのだけれど、ここで一つの重大な事実に気がついた。

 

その事実とは、僕は吉本新喜劇に勧められるほど面白い子供であったはずなのに、今この時を猫に無視され携帯のゲームに興じるような、全く何も全然ほんのぽっちも極悪的に面白くない人生を歩んでいるという、純然たる事実である。

 

そうなるとゲームにうつつを抜かしている場合では全くなく、あの時僕に吉本新喜劇を勧めてくれたおじに恥じることない人生を全うすべきだと気がつき、やおら立ち上がり1番身近にいる観客である妻に対してかつて少年だったころの僕がこれ以上ないくらい面白いと感じていた、ちんこを股に挟んでから足を開くとちんこが元の位置に戻るというギャグ、「あれ、ビックリしておちんちんが飛び出してきちゃった!」を披露したのであるが、これが本当にびっくりするぐらい受けず、僕の中には一つの感情が産み落とされたのである。

 

その感情とはひとえに虚無であるが、ここで虚無を掘り下げたとて発見できるのはさらなる虚無とトラウマだけであるのでもうこの話はおしまい。

 

 

またそこで勝手に僕に住み着いているパラサイトシングルであるマリー・アントワネットが僕にいった。

 

「家がなければ、お城に住んだらいいじゃない」と。

 

その瞬間僕の心に浮かんだ言葉は「殺すぞ」のワンセンテンスだけ。

 

そもそも日本において住めるお城なんていうのはほぼほぼなく関西で有名なお城である大阪城に至っては上沼恵美子個人の所有物であるし、しかし1番近い城はそこしかなくではその巨大な城に住めというのは勝手な居座りであり、ましてやその無許可な違法行為を裁くのは上沼恵美子と法律という二大権力であり裁かれるのは子猫よりも無力なこの僕、家もなく金もなく吉本新喜劇を勧める少年すらも満足に探せないこの僕である。これはもうなんていうか「渚のシンドバット」と「勝手にシンドバット」という二大シンドバット曲が既に存在しているにも関わらず今更「渚でシンドバットが勝手に」みたいな歌を出してしまうようなものである。

 

渚でシンドバットが勝手に

作詞:ゲロ・サリバンショウ

 

今日も浜辺で開けごま

明日も浜辺で開けごま

たとえ扉が開いても

あの娘の股は開かないまま

いいえ僕ではありません

渚でシンドバッドが勝手に

渚でシンドバッドが勝手に

 

お姉さん今何時かな

なんて言って

僕が長針で君が短針

今日すれ違う運命だったんだ

だからこのまま

貞淑すててアラビアンナイト

だけど結局

顰蹙かってだらしない態度

 

今日も浜辺で開けごま

明日も浜辺で開けごま

たとえ扉が開いても

あの娘の股は開かないまま

いいえ僕ではありません

渚でシンドバッドが勝手に

渚でシンドバッドが勝手に

 

お前さあ今俺の女に

なんかいった?

俺が強靭でお前ひん死

もうひざまずく運命だったんだ

だからこのまま

プライド捨てて謝っとかないと?

だけど結局

1発貰って情けない態度

 

 

今日も浜辺で開けごま

明日は1人で冷やすタマ

たとえ扉が開いても

あの娘の股は開かないまま

いいえ僕ではありません

渚でシンドバッドが勝手に

渚でシンドバッドが勝手に

 

 

 

こんな歌詞しか書けないのに、そもそもサザンにもピンクレディにも上沼恵美子にも法律にも勝てるわけがない。

 

それすら知らずにをさも簡単に家がなければ城に住めなんていうマリー・アントワネットは常識知らずの権化たる存在であるが、しかしそのマリー・アントワネットの生みの親は何を隠そうこの僕であり、これは壮大なマッチポンプなの?

 

マッチが僕でポンプも僕?ということはすなわち、ポンプが僕でマッチも僕?

 

あれ?僕(私)達、入れ替わってる〜〜〜〜〜〜〜〜????

 

なんて本当にくだらなくかつ時代遅れなことを言っている間に立ち退きの期限は今月末に迫っている。

 

君の名はとか聞かれる前に、君の家はと言われてもきちんと答えられるようにしなければならないけれど、もうそんなこと考える体力すらないし、なぜこんなブログを書いているのかと問われればもう完璧に現実逃避でしかないのだけれど、これはこれでまあ現実から目を背けるための捌け口があるというのはなんとも幸せであるしなあ、と思っている次第です。

 

 

同情するなら家をください。

 

 

最後に一応かいておきますけれど、マリー・アントワネットが言った「パンが無ければ〜」のくだりの真意がどうだ、とかいうコメントはいりません。あなた方の知っているマリー・アントワネットと僕の中に住んでいるマリー・アントワネットは別人なので。そもそもパラサイトシングルのマリー・アントワネットっていないはずだし更に書いておくと、例えば現実世界の佐々木望は渡部と結婚しましたが、僕の世界の佐々木望は僕と勝手にシンドバッドしていますから、渚で開けごましてますから。