僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

エアコンの調子がどうこうよりもお前の笑顔にもう会いたくないという話。

現在我が家には猫が7匹いる。

 

そのため家の中を舞っている猫毛の量は、猫を1匹飼っている人と比べて単純計算で7倍になる。掃除機をかけると集塵パックはすぐ猫の毛でパンパンになるし、洗濯機の埃集めネットも同様であり、いくら掃除をしてもその傍から汚れていくし、僕の靴下や上着にオシッコをするやつもいる。

 

それだけ猫が多いと、生活にも影響を及ぼしてくる。

その影響とは、

 

・服に猫の毛がついてしまう

・服に穴が空く

・服がオシッコ臭くなる

 

などで、それらはどう考えても「お前も私たちと同じように裸で過ごすべきだ」という無言の圧力として受け取れるものでもある。

 

そんな圧力を毎日のようにかけてきているのだけれど、今のところ僕はまだ猫達の圧力には屈さず、しかし最低限の理解を示しておかなければもっと酷い事になるのは目に見えているので、わずかに室内でのみ裸で過ごしているのだけれど、それも最近寒さで厳しくなってきている。

 

という訳で、健康はお金では買えないという祖母の遺言を守るため、風邪などをこじらせる前に電気代を顧みずエアコンを作動させようとしたのだけれど、これがどうにもよろしくない。

 

7匹も猫がいるとエアコンのような空気を循環させる機器にも、とても負担がかかるのだ。

 

7匹分の毛がフィルターにまとわりつき、そのせいでエアコン自体がダニやカビの温床となり、その風が室内を循環し、また毛とともにフィルターに吸い込まれるという負の連鎖が我が家内で繰り広げられてしまうのだ。

 

 その結果、エアコンを作動させる度に妻の鼻の調子が悪くなってしまうのだ。

 

しかしエアコンを付けない状態を続けると、今度は寒さで僕の調子が悪くなってしまう。

 

ではどうしたものかと協議したところ、エアコンのクリーニングをすればよいのではないか、という着地点に落ち着いた。

 

早速調べてみようといきり立ちインターネットで検索すると、なるほど色んな会社が出てくる。

それぞれに値段が違い、なぜ違うか、なにが違うかと、これでもかとアピールポイントを訴求してくるではないか。

 

しかし僕はエアコン清掃の内情や掃除屋さんの実情、もしくはそれに類する情報に疎く、一体何がいいのかが分からないため比較サイトを使ってみようということになった。

 

そのサイトを眺めていると、各社の代表らしき人達の顔写真がズラリと並んでいて、さながら風俗の指名パネルのようであった。

 

やはり顔が見える事で安心する人が多いのだろう。殆どの会社が、モザイクや目隠し線を入れることなく素顔を晒していた。デラペッピン以上にあけっぴろげである。

 

そんなサイトに自宅の住所や希望日時を記入して調べてみると、どうやらいくつかの会社が直近の週末には対応してくれるとのことだった。その中でも比較的安価に作業していただける会社があったので、清掃をお願いした次第なのだけれど、当日来てもらった作業員はわざわざ京都から来たという。

 

作業はとても手早く気遣いの出来る方だったのでとても満足し、その日からエアコンを24時間付けっぱなしにしている。

クリーニングのおかげでエアコンは何とも快調に動いており、妻の鼻の調子も僕の身体の調子もとても良いので感謝感謝の日々を送っている。

 

しかしその日以降今日に至るまで、ずっと悩まされていることがある。

 

うちにエアコンクリーニングをしにきた男が、毎日僕に向かって笑顔を投げかけてくるのだ。

 

その笑顔の正体をあかしておくと、もちろん本人ではなくインターネットにおける広告写真であるのだが、いかんせん先日会ったばかりの彼が画面の向こうからずっと僕に笑いかけてくるのはあまり気持ちがいいものではない。

 

朝パソコンを立ち上げてインターネットを開くと、画面のいたるところに彼の笑顔が見える。

 

「こんにちわ!お宅のエアコン、調子はどうですか?!」

 

家に来た時にはあれほど有り難かった笑顔も、見続けるとだんだん馴れ馴れしく思えてくるし、うっとおしくもなる。 

 

しかしそんな僕の感情とは裏腹に、色んなサイトを覗く度に彼が僕に笑顔を向けてくるのだ。

 

誰かのブログを読もうとしても

「こんにちは!お宅のエアコン、調子はどうですか?!」

 

エロいサイトをみようとしても

「こんにちは!お宅のエアコン、調子はどうですか?!」

 

COOKPADで晩御飯を調べようとしても

「こんにちは!お宅のエアコン、調子はどうですか?!」

 

といったような調子で毎日どころか毎分毎秒の勢いで、挨拶を振り撒きながら我が家のエアコンの調子を伺ってくる。

 

おはようございます。きちんと調子よく動いていますよ。本当にありがとうございました。といくら言ってもその声は相手に届かない。

 

 エロい文章が横にあろうが美味しそうな料理が横に鎮座していようが、おかまいなしに満面の笑みでこんにちは!と投げ掛けてくるあの表情はもはやサイコパスのそれである。

 

見ないように見ないようにと意識しても目に入ってしまうので、文章に興奮しているのか作業員に興奮しているのか段々と分からなくなっていき、僕のパソコンに向かう気力は衰退の一途をたどっている。

 

そんな日常を過ごしているのだけれど、3日ほど前に今度は特別別の事件が起こった。

 

これもまた猫に関する事であるのだが、先に概要を書くと、猫が延長コードにオシッコをしてHDDレコーダーが壊れた、という事件である。

 

万が一の事を考えて一応コンセントの根元にはカバーをしているのだけれど、延長コードにオシッコをかけられてしまい、HDDレコーダーの線がショートしてしまったのだ。

 

家に帰るとまず全裸になってから猫のトイレ掃除をすることが日課なのだけれど、さすがに一糸まとわぬ生まれたままの姿で床と延長コードについたオシッコを拭き取っていると、無性に悲しくなってくる。

 

今はもう動かない、僕のレコーダー。平井堅がそんな僕の姿をみたら、いぬの鳴き真似をして笑わせようとしてくれるだろうか。

 

猫を飼っている人は知っているだろうけれど、猫のオシッコは時間が経てば経つほど臭くなる。「もう、くさいなあ」から「うわ!くっさ!」となり、酷くなると嗅いだ瞬間に言葉ではなく「ヴェンッッッ!!!」という叫びのようなものが出るのだ。

 

まかり間違ってその臭いを直接嗅いでしまうと鼻の穴から入った臭いがそのまま脳みそに直撃し、後頭部をバールのようなもので殴られた様なショックに襲われる。

 

なので怪しい場所がある時は、中学の理科で習ったであろう劇薬を嗅ぐ時にやる、手で仰いで臭いを確かめる動作をすることをお奨めする。

 

幸いにも今回は発見が早く「もう、くさいなあ」程度の臭いだったのだけれど、なにぶん被害額が大きすぎたが故にショックも甚大だった。

 

HDDレコーダーという文明機器は、新たに購入しようと思うと最低でも3〜4万円かかってしまう様な高級な機器である。 僕が全身全霊を込めて路上に落ちている小銭をひろっても3ヶ月はゆうにかかる金額だろう。

 

例えば猫達がそれくらい賄えるようにどこかで外貨を稼いでくるくらいの甲斐性があるのならば、僕は黙って家政婦としての職務を全うし文句も垂れずに「ヴェンッッッ!!!」をするのだけれどそうではない。

 

猫達は無駄飯を食い無駄な作業を増やし 無駄な出費と無駄な「ヴェンッッッ!!!」を生み出すだけなのだ。

 

では猫を飼う事にメリットがないのかといえば、あるにはある。

それは「可愛い」の一言に集約され、逆にいえばそれ以外にメリットはない。

 

だからといって今更猫のいない生活など耐えられる訳もなく、毎日存分にそのメリットを享受しているのだけれど、やはり猫が様々な場所をうろついているのでどうにも家が手狭に感じるようになってきている。

 

なので最近は暇を見つけては色々な物件を見ているのだけれど、なかなか良い物件に巡り会えない。

 

しかしその代わりにまったく関係のないところで幸運に恵まれる事になった。

 

それはサイトを見ている時に「こんにちは!お宅のエアコン、調子はどうですか」と度々聞いてくるサイコパスの顔を見ないで済むようになった事だ。

 

そのかわり、今のパソコン画面は驚くほどの数の平面図と物件写真で埋め尽くされている。

 

しかしそれでも以前の状況に比べれば、すこぶる快適なネット環境である。

 

なるほど見るサイトによって広告が変わるのかと僕は深く納得したのだけれど、同時に1つのアイデアを思いついた。

 

そのアイデアというのは、AVの紹介サイトなどをしばらく見続ければ色んな女優さんが僕の事を見てくれるのではないか、というものだ。

 

思いついたが吉日とは良く言ったもので、僕は早速色々なサイトを巡りながら、平面図や家屋写真が徐々に女優さん達に変化していくことに期待に胸を膨らませてパソコンを操作していたのだけれど、ある事実に気がついてしまった。

 

それならば、別にアダルトサイトを開いていればいいだけではないか、と。

 

しかしよくよく考えると、つい先日自分の想像力を育てる為に動画類は見ないという決意をしたばかりである。

 

その矢先にそんな事をしていては、軟弱な精神しか持ち得ない豚野郎、みみず、ドブの臭いなどと罵られてしまうだろうし、そんな状態では一家の大黒柱としての沽券に関わってしまう。

 

なので僕はマウスをクリックしようとする右手を左手でなんとか制し、事なきをえた。 だから僕のパソコンに映し出される広告は、未だ平面図と物件写真に埋め尽くされている。

 

そんな僕は今、新しいハードディスクレコーダーを探す旅に出ているのだけれど、なかなかいいものが見当たらない。

 

そんなおり、息抜きがてらにツイッターでも見ようかとスマホに目をやると、メールが届いていた。送り主を確認すると例のエアコンクリーニング比較サイトからである。

 

「申し訳ありませんが、そろそろ口コミをしてもらえませんか」

 

そう言えば忘れていた。クリーニング業者が帰り際に「できれば口コミをお願いいたします」と言っていたことを。インターネットを使った集客には口コミがとても重要らしい。

 

さっきも書いたけれど、その業者は京都からきていた。そして僕と妻は、京都人に会ったらいつも同じ質問をするようにしている。

 

その質問とは「京都人は本当にぶぶ漬けを出すのですか」というものなのだけれども、これまで聞いてきた人たちのなかでは誰もぶぶ漬けを出したことがある人はいなかったし、食べたことがある人もいなかった。

 

この質問に答えてもらう度、僕と妻は顔を見合わせ、京都の人は幻想のなかに生きているのだなあ、と深く頷きあうのだけれど、今回も結果的にまた同じ頷きをすることになった。

 

とりあえず比較サイトにアクセスし「せっかくぶぶ漬けを出そうとしたのに断られましたが、それ以外はとても素敵な業者さんでした」と口コミを残しておいた。

 

またしばらくネットをしていると今度は「特別サービスがあります」とまた比較サイトからメールが来たので再びサイトを訪れた。 口コミしていただいたので、もし何かあったときに十万円まで保証します!というサービスを知らせる内容だった。

 

なるほど、こうやってアフターサービスをすることで口コミを増やし、また囲い込みにもなるのか、さすが勉強になるなぁと思っていると、突然すさまじい尿意を覚えた。僕は股間を押さえながらブラウザを閉じ、パソコンの前から離れてトイレへと向かった。

 

ナイアガラの滝ですら引くほどの勢いで放尿を終えたあと、煙草を吸って一息つき、優雅にコーヒーを飲んだ。歯の黄ばみが気になるけれど、煙草とコーヒーは辞められない。一息ついた後、またパソコンに向かい、インターネットの世界にダイブした。

 

ヨドバシをみるか価格ドットコムをみるかで迷いながら、検索窓にとりあえず「HDDレコーダー 安い おすすめ」と入れてエンターボタンを押すと、次に開いた画面にサイコパスの笑顔が写っていた。

 

「こんにちは!お宅のエアコン、調子はどうですか?!」 

 

見慣れた顔がこちらを見ながら、ニコニコと笑っていた。

 

きっと口コミを書くこととアフターサービスの確認のために、何度もあのサイトを訪れてしまったからであろう。

 

見慣れた笑顔に向かって愛想笑いをしながら、

 

「二度とあのサイトは使わないでおこう」

 

そう誓った。

 

そして僕はそっと表示されたブラウザを閉じ、ブログのページを立ち上げ、今この文章を書いている。

 

これを読んでいるあなた、お宅のエアコンの調子はどうですか? 

 

貧困問題(主に想像力)はいつも身近にある。あと、エロ本を高島屋の包装紙に包んで捨てるとすぐになくなる。

ブログが沢山の人に読まれる為にはターゲットの選定が重要であると、以前どこかで読んだ記事に書いてあった。

 

なるほど、確かにそうかもしれない。

 

という訳で読者数が極めて少ないこのブログにおいて、今まで以上に見て頂ける人を増やす為にはターゲットを選定したほうがいいじゃないかと、さっそく先ほどから考えているのだけれどこれがどうもにうまくいかない。

 

このブログは「理想のソーセージを作っていきたい」という理念の元に立ち上げられたブログなので、ブログターゲットがどうなるかといえば「理想のソーセージを作りたいと考えている人」に向けてのブログとなる。

 

しかしてさらにターゲットを突き詰め、ではどんな人が理想のソーセージを求めているのかを考えてみたのだけれど、どれだけ考えてもその答えが見つからないのである。

いつの間にか、探し物はなんですかと、頭のなかで井上陽水が「夢の中へ」を気持ちよさそうに歌っていた。

 

そもそも理想というのはその個人個人で違い、僕の考えている理想は僕にしか通用しない。

 

例えば僕が発見した凄い自慰を自慢げに披露したとしても、それは全然ノーマルプレイの範疇だったりするかもしれないし、反対に多くの人たちが推奨するソーセージを床にこすりつけるプレイを僕個人は気持ちいいと思えなかったりもする。

 

ということは、このブログの理念そのものが間違っているかもしれず、であればターゲットの選定よりも、まず理念から考え直さなければならなくなる。

 

しかしそれはそれでとても苦労するだろうし、今まで丹誠込めて書いてきた記事達も浮かばれない。

 

では今までの記事はそのままに、ソーセージを作りながらも人の目につく様な文章を書いていけばいいのでは、という考えに至ったのであるが、それはそれでまた難しいものである。

 

まず冷静に考えたとき、人目につく、言うなれば注目されるための言葉選定が難しい。

ソーセージというものを何に繋げればいいのか分からないのだ。

今まで書いてきたものは大体において下ネタであり、ソーセージ=肉棒という低俗極まりない、貧困としかいいようのない発想のもとに生み出されてきた。貧困問題は、いつも身近にあるのだ。

 

しかしソーセージという食べ物を下ネタに繋げるという行為は、品性の欠落はもちろんのこと食品を扱っているにも関わらず清潔感がなさすぎるという欠点がある。

 

しかし今更それを変えるとなると、育てた記事云々ではなく今までの人生を変えなければならないくらいの努力が必要となるのは目に見えている。

上の口を開けば下の話がでてきてしまい、例え上の口を開かないようにしても、下のお口が勝手に開いてしまうのが僕なのだ。

 ほら、すでに下のお口がソーセージを欲しがって涎を垂らしている。

 

であれば、そんな人間が食べ物に関するブログを続けていこうと考える方が間違いなのかもしれない。

けれども変態にだって人権はあるはずだと信じ込み、なんとかして解決策を見いだそうと頑張って色々調べていると、とてもいいアイデアを見つけた。

 

発想の転換」というものである。

 

例えば女子大学生がキャバクラで働いていることだけ聞くと「何だ、風紀が乱れている」と多くのおっさんたちが憤慨するのだけれど、逆にキャバクラで働いている女の子が「実は昼間は大学に通っているの」と告白してくると「ええ!頑張っているんだねえ、けなげだねえ」と思ってもらえ、しかもおひねりまで貰える可能性があるとのことだ。

 

なるほど。

 

ではその発想の転換を「ソーセージを作っているのに下品な話ばかりしている」という現状を同じように当てはめると、「下品な話ばかりしているのに、ソーセージ作りだけはうまい」となるのだろう。

 

いい。これはいいではないか。おひねりが貰えそうな響きがする。貧困から脱出できるかもしれない。

 

「ソーセージを作りながら下品な話されたら、食べる気がなくなっちゃう」という感想から「あの人って下品な話しかしてこないのに、ソーセージを作るのだけは上手なのよね」となる。

性格は最悪なのに床上手な竿師みたいな響きだ。

これはもうキャバクラでも人気者一直線になるだろう。

こんな台詞、完全に僕の事を好きになってないと出てこないはずだ。もしかしたら僕のソーセージ(ダブルミーニング)を食べてもらえるかもしれない。

 

そうなると、やはり美味しそうなソーセージのレシピや画像等を挙げ、それをこのブログの礎としたいのだけれど、残念ながら僕には写真の技術がない。

 

しかし先日作ったソーセージは極めて美味しく、もしこれを食べて貰えたなら「下品な話をするソーセージ作りの美味い人」という認識をなんとか持ってもらえるという自負はある。

 

けれど今のインターネットの技術では味はおろか香りすら他人に届ける事は出来ず、もしそれを願うのであればクロネコヤマトや佐川急便に頼るしかないのであるが、実にお金がかかり過ぎる。ここにも貧困問題が顔を出す。

 

ただでさえソーセージ作りに必要な食材の購入費を家庭の財布から出してもらっているにも関わらず、人気者になりたいから郵送費も負担してもらえないだろうか、というようなお願いを妻にしたらどうなるか。

 

きっと僕がソーセージの具になってしまうという、天国へのドアが開くだろう。そんなドアを好んでくぐろうとは、誰も思わないはずだ。

 

この世には、岸部露伴以外にもヘブンズ・ドアの向こう側へと他者を導ける人間が実在することを忘れてはいけない。

 

かといってここで諦めてしまっては人気者にはなれない。

どうにかして発想の転換をしなければ、腐ったままの人生を歩む事になってしまう。

 

そう思ってさらにインターネットの深みへと潜っていくと、他者の利益になることが集客、引いては読者数を伸ばす秘訣なのだ、という一文にぶつかった。

 

他者の利益。

 

簡単にいえば、僕のブログによって誰かが儲かる仕組みを生み出せれば、このブログに存在価値が生まれて広がっていき、いつの間にか僕が人気者になっている、という道筋らしい。

 

ただ発想、金銭ともに元来貧困である僕には誰かを儲けさせるようなアイデアがなく、とりあえずソーセージを元旦の力士のようにばらまく事しか思い浮かばなかった。

 

無料でソーセージが降ってきたら誰だって嬉しいはずだ。僕だって嬉しい。

 

しかしただでさえソーセージ作りに必要な食材の購入費を家庭の財布から出してもらっているにも関わらず、さらに人気者になりたいからソーセージを無為にばらまいてもいいだろうか、と妻に相談したらどうなるか。

 

逆に僕がバラされてしまう将来しか見えてこないし、妻は後悔のあまり反省して時の扉を叩きたくなるだろう。

しかしこの世界に時の扉を叩ける人は、WANDS以外にいない。

 

 そう、時の扉の番人、それがWANDS

 

そんなWANDSに魂を委ねるような人生を妻に送って欲しくはないし、僕もまだバラされたくない。何かを隠匿してくれるビーイングのような後ろ盾もないので諦めた方がいいのだろう。

 

であれば更に別の方向性を考えなければならないと思い、例えば下品でも認められている人達に共通するものがなにかないかと考えながら、録画していたタモリ倶楽部を見ていると安齋肇がなんだか嬉しそうにニヤニヤしながらくっちゃべっていた。

 

イラストレーターやアートディレクターが本業だという彼には、例えば広告代理店で働いている人達のようなクリエイター臭がまったくない。

最近ツイッターなどで良く見かけるイラストレーターやアートディレクターを名乗る方々はオシャレな人達ばかりであるにも関わらず、この人は薄汚さを全面に押し出している。

 

横文字の肩書きがあるにもかかわらずモテようとしない彼を、本当に尊敬している。

オープンテラスのあるカフェで打ち合わせなんかしなさそうだし、股間のチャックはいつでもオープンしてそう。

 

タモリ倶楽部の出演ギャラだけでしばらく食いつないでいたというコメントはとても信憑性があるし、むしろ本当にそうであって欲しいとすら思うし、現実にそうだったのだろう。

 

しかしそんな安齋肇も、いうなれば下品ながらも認められている存在である。

ではなぜ認められているのかといえば、会話の端々に知性が垣間見えるからではないか、と思う。

タモさんとのやりとりやみうらじゅんとの会話を聞いていても、独特の視点があって知識も豊富である。

 

でえあればやはり下品でも認められる為に必要なものは知識や知性であるといえる。

 

というわけで、取り急ぎの対処として知性のある下品なソーセージブログを目指そうと思うのだけれど、知性を身につける為には何をすればいいのかといえば、まず最初に思いついたのは読書である。

 

色々な小説を読み、知識を身につけ、想像力を鍛えるのだ。

そしてその上でそれを反映しながらソーセージを作っていくのだ。

 

これを一言でいえばどうなるか。

 

迷走である。

 

いくら本を沢山読んだからといって美味しいソーセージが出来るわけないし、知性があれば下品でもいいというのは、あくまでも思い込みであり虚構である。

 

知性で品格が生まれる訳でもなく、もちろん付け焼き刃の知性を身につけたからと言って読者が増える訳でもない。

頭のいい人達はこの世の中に沢山いて、そんな方々ですらブログの読者を増やす事に四苦八苦しているのだ。

 

だからといって諦める訳にはいかないのが、人生の辛さである。

 

なので僕は出来る範囲で知性と想像力を育てることにした。以下が僕がそのためにした事の一覧である。

 

・想像力を鍛えるために自慰をする時に動画及び漫画を使わない。

・自慰をする時は小説及び文章を使用し、シチュエーションを徹底的に想像すること。

・その為にエロ本類を捨てること。

 

こうやって僕は知性の獲得と想像力を育てるためにエロ本を捨てた。

ただし単行本はもったいないので、段ボールに詰めたのみである。

本棚の一角を占拠していた雑誌だけを捨てたのだ。

ただ捨てたのではない。

泣く泣く、捨てたのだ。

ごめんなさいアンスリウム、ごめんなさい快楽天、ごめんなさいペンギンクラブ

 

今までお世話になった感謝の気持ちを込め、とっておきのために置いていた高島屋の包装紙に包んで捨てた。

 

20分後に少しもったいなくなってゴミ捨て場に向かうと、既になくなっていたのはまた別の話だけれど、高島屋ブランドは今でも健在なのだと痛感した次第である。

 

そのように、悲しい別れは必ず訪れる。

しかし、別れの後には新しい出会いがまた訪れるのだ。

 

そしてエロ本と引き換えに、新たに手に入れた環境とは「性生活報告」である。

 

中年から壮年、老年世代のバイブル、性生活報告。

博識で知られる評論家の宮崎哲弥が唯一の師としてあがめる、呉智英が著書で取り上げたほど知的な雑誌である。

 

いやはや文章が主体のエロというのは、何物にも代え難いほどのおもむきがあり、想像力を掻き立てられてとても楽しいものである。

しかし、その中にどうしても許しがたいものがあった。

 

ある人はタルタルソースが許せないと叫び倒し、ある人はたこ焼きを食事にするなとデモ行進をし、ある人は酢豚にパイナップルを入れるなと暴動を起こす。

 

僕にとって、そんな許しがたいものの1つが、性生活報告における「チンボ」という表記だ。

 

なぜか年配の人の投稿にかぎって見られる表記なのだけれど(あとメンスだとかアンネだとかもよく見られ、これらも許せない)、どのような経緯を経るとちんぽをチンボと呼ぶようになるのだろう。

松沢呉一氏が書いた「魔羅の肖像」にそこら辺の事情が書いていないか、あとで調べてみるつもりではあるが、なぜそこで許せないのか考えてみると、やはり慣れというものがあるのかもしれない。

 

僕自身は普段から自分の息子を猫可愛がりしているので、家の中では幼年期から慣れ親しんだ言葉「おちんちん」で通している。

また外食等をしている最中は世間一般的な言葉である「ちんぽ」を使い、フォーマルな場所であれば村上春樹氏にならって「僕のレーゾンデートル」と呼ぶようにし、その場に合わせたTPO(チンポ)を意識している。

 

かたや「チンボ」というのはなんとなく下品な、品性が足りない気がするのだ。だから許せない。

 

これは擬音語で考えてもらうと分かりやすいだろう。 

「フリフリ」「プリプリ」「ブリブリ」と並んだとき、どれが一番汚く感じるのかはアンケートをとるまでもない。

 

だからこそ、僕はこれからも「おちんちん」「ちんぽ」「レーゾンデートル」を使い分け、下品な印象の出てしまう「チンボ」をこの世から殲滅し、社会の模範となるブログにしようと心がけようと思う。

 

そして皆で「『チンボ』を許してはならない!!!」と、共にシュプレヒコールをあげようではないか。

 

そういった細かい心がけを続けることが、他人様の気分を阻害することもなく、知性というものに繋がっていくのではないだろうか。

 

名コピーライターの仲畑貴志は、かつてこんなコピーを書いた。

 

「知性の差が 顔に出るらしいよ ・・・・・・困ったね。」

 

さて、今までのような文章を書いている人間の顔は、果たしてどんな顔をしているのだろう。

 

そう思って洗面所に行き鏡を見てみると、そこには品性も知性もない、寝癖まみれで腹が出た、薄汚ないおっさんが立ち尽くしていた。

 

ちょっと中畑さん、差がでるの顔だけじゃねえじゃん。

 

僕はそう思いながら、肩を落として台所に向かい、とりあえずビールを飲んだ。

 

「いつもより苦いな」なんて思いながら、そう言えば今もWANDSは時の扉を叩いているのかな、と調べてみると、2000年というミレニアムの節目に解散していたんですね。こんなところにミレニアム問題が隠れていて、僕はとてもびっくりしました。

 

こんな記事で読者が増えるとは思えないけれど、まあ仕方がない。僕に出来ることは、ソーセージを美味しく作ることだけなのだ。

 

そんな僕のソーセージを、誰か食べてくれないか。

 

終わり。

 

 

 

 

 

幸福のソーセージと言われてもピンとこない。

今、僕には悩みがある。

 

その悩みを簡単に言えば、本当にソーセージ作りをしようと色々考えて、このブログに辿り着いた人がいたらどうしよう、というものだ。

 

「別にそんなことは気にしなくてもいいんではないか」と僕の中にいるもう一人の僕、タッチの達也における和也のような存在がそんな優しい言葉をかけてくれるのだけれど、僕にだって一応良心の呵責というものがある。

 

このままだと「ソーセージに関する事を調べているのになぜ糞みたいな下ネタを読まされなければならないのだ」と思われてしまうようなサイトでしかなく、読んだ人から不幸の手紙が届くという可能性も少なくない。

 

そうなると僕の繊細な神経では耐え切ることは不可能であり、しかも不幸の手紙が届いたとしても次に出すべき友人知人のいない身なので絶え間なく降り掛かってくるであろう不幸を一心に背負ってしまう未来しか無い。そうなってしまえばソーセージを作る為に必要なこの身体がどうなってしまうかもわからない。

 

インターネットという孤独が集約した様な世界において、献身的に僕を支えてくれたり守ってくれたりする朝倉南のような女性は存在しないのだ。

 

だから今回は、きちんと僕なりのソーセージ作りについて書き、ソーセージの普及に尽力するのはもちろんソーセージ作りに役立つ話をしたいと思う。

 

でも、またいつの間にか下ネタになってしまっていたら本当に申し訳なく思う。けれどそれはそれとしてわざわざ僕にぶつけるのではなく、各々の心の中に憤懣や怒号をそっとしまっておいていただきたい。

 

僕にそんないらだちをぶつける暇や余力があるのなら、餅をつくやらコーヒーミルを挽くやらにその体力を使ってもらったほうが少なくとも生産性があるし発散もできるだろう。ついでに美味しい餅を食べたりコーヒーを飲んだり出来るのでとても有意義だと思います。そのままつきたての餅を喉に詰まらせて挽きたてのコーヒーで流し込めばいいんじゃないでしょうか。

 

さて、とりあえずこれで僕の身に降り掛かるであろう不幸をなんとなく遠ざける事が出来たかなと少し満足しているのではあるが、最近どうにも納得いかないことがある。

 

それはもちろんソーセージ作りにまったく関係のない事であり、どちらかといえばそもそも僕の存在と対極にある存在なので語る必要もない気がするのだけれど、ずっと心に引っかかっているからこそ書かざるを得ない、そう、幸福のパンケーキについてである。

  

ふわふわしている、柔らかい、甘い、という往年のゆるふわガールブームを彷彿とさせるワードをこれでもかと詰め込んだ存在、幸福のパンケーキ。食べてる人達もなんとなくゆるふわ。

 

何が納得いかないかを書きたいのだけれど、まず「幸福のパンケーキ」という単語をキーボードで打つ、もしくは口にしてしまっただけで、何となく気持ちがふわっとしてきてしまうところがあげられる。なので幸福のパンケーキと打った時点で、なんだか文句なんてどうでもよくなってしまうし、納得いかないままでも別にいい気がするし、どちらかといえば幸せな気持ちになってしまってもいる。

 

酔っぱらって寝坊した挙げ句風呂も入らず下着も替えずに仕事に来てしまい、そのまま家でパソコンを打っている、普段の倍以上に脂ぎった今の僕ですら、未だ食べた事がないにもかかわらずその言葉を画面に垂れ流しただけで心が軽くなってきている。加齢臭で枕が臭いと自分でも分かるくらいなのに、今は指先から心なしかメープルシロップとホイップの甘い香りがしてきている。

 

このようにその名称を打つだけで人のもつ個性や自我というものを颯爽と取り払ってしまい、さらには嗅覚を狂わしてしまうところがまずおかしい。ハリーポッターに出てくる「あの方」と同じように、名前にすら呪いの効果があるのかもしれない。

 

何故そうなるのかを考えると、やはり「幸福」という言葉が大きいのだろう。

 

これは言うなれば「団地妻」や「女子大生」といった言葉と一緒で、単体ではあまり深い意味を持たないただの単語がその後ろの単語を修飾することによって、一気にエロく感じさせるものと同じ系統を持つものである。

 

すなわち「幸福のパンケーキ」は、文章の構造的に「団地妻の誘惑」や「女子大生の仁美」「エグザイルのATSUSHI」とほぼ同じものなのだということだ。ただのATSUSHIはさしてエロくないけれど、エグザイルのATSUSHIはなにかエロい気がするだろう。

 

であれば、それを求める人達、例えば梅田の外れに建立するあのパンケーキの店に並んでいる人達と信長書店でセクシー女優の握手会に並ぶ人達は同じ人達であるともいえるし、むしろそれだけではなく「阪急百貨店の物産展」というのも「幸福のパンケーキ」と同じような名前の構造をもつものなので、あそこに詰めかけているマダム達もまた同じ人達であり、さらに言えば南堀江にあるエグザイルトライヴステーションに並んでいる人達も同様なのだ。

 

ということは、恐らくこの世の中の人達の殆どは同じ様な種族の人達であるといえるだろう。なのでそういった場所に並んだ経験のある人達は、今一度自分を見つめ直さなければならない。

 

あなたは「コミックのマーケット」に集まる人達を横目にみながら「まんのだらけ」で漫画を物色したりしていないだろうか。「ラーメンの次郎」に並ぶ人達に文句を言いつつ、自分は「スターのバックス」でコーヒーを買う列に並んではいないか。「ドトーのル」でコーヒーを買う人を馬鹿にしながら、自分は「ポッのキー」をシェアハッピーしていないだろうか。「ゲスの極み乙女」を聞きながら「俺の話を聞け」とシャウトしたりもしていないか。

 

僕は大体している。コミックマーケットに行ってみたい。次郎を食べてみたい。ポッキーの口移しがしたい。ゲスになりたい。

 

そうやってお互いに差別をもったり偏見や誹謗中傷でお互いを傷つけるのは、自分自身を傷つけるのと同じ行為なのだと早く気付かなければならない。

 

いわばエグザイルは百貨店の物産でありラズベリーホワイトチョコレートフラペチーノはアブラヤサイニンニクマシマシでありミラノサンドBごろっとアボカドとぷりっとエビはもうポッキーそのもので川谷絵音は横山ケンでありATSUSHIはATSUSHIである。

 

そう考えれば人類皆兄弟まではいかなくても趣味の合う知人友人にはなれるのだから、喜びは皆で分かち合えるし、悲しみは皆でファンファンウィーヒーザスターッテすることが出来るのだ。間違っても、私以外私じゃないの、なんて悲しい事は言わないでいただきたい。

 

相変わらず何を書きたいのかが分からなくなってきたから、最初に戻ろう。

 

ソーセージだ。

 

普段から下品な話を書いている僕だけれど、あえて下品になってしまうようなテーマをマトモに書いていこうと思う。

 

そのテーマとは、ソーセージにおける太さの話だ。

 

まず極めて簡単かつ暴力的にソーセージの種類を分けると、2つに分けられる。口に咥えるのを躊躇うほどに太いのと、ずっと咥えていられるくらい細いものだ。

 

結局下ネタじゃないかと思われたかもしれないが、ちょっと待って欲しい。

 

言葉が過剰だったことは素直に謝る。これから書くことは本当に下ネタではない。使う腸によって太さが変わるという話をしたかったのが、筆が滑ってその筆を口に咥えてしまったのだ。とても美味しいじゃないか。塩が効いてる。

 

そんなことより、腸はソーセージ作りに欠かせないものであり、これによってまず2種類に分類されると説明したかったのだ。僕が求めているのは誹謗中傷ではなく幸福のソーセージなのだ。

 

ソーセージを作るときによく使われるものには、羊の腸と豚の腸がある。

 

本当は牛の腸(ボロニアソーセージなど)や人工ケーシング(魚肉ソーセージとか)などもっと種類があるのだけれど、それを書き出すと本当に長くなってしまうので、今回はその2つに絞って書いていきたい。

 

ソーセージの太さは使う入れ物、俗にいうケーシングによって変わる。

 

まず、普段スーパーで良く見かけるウィンナーと呼ばれるソーセージ、袋詰めになっていてお弁当等に使いやすいあれらは羊の腸を使っていることが多い。直径で言えば2cm未満というのが日本での規格になっている。作る時に比較的細い注入器を使うので、細かくミンチされ、液状化した肉を使う事が多い。

 

もう1つはコンビニや祭りの屋台でよく見かける、フランクフルトというソーセージだ。これは豚の腸を使い、太さは2cm以上3.6cm未満であることが決められている。ぶりっとした食感の大きめ肉が入っていることもある。

 

昔は使う腸によって分けられていたらしいけれど、今は規格サイズに沿っていれば天然の腸を使っていなくてもソーセージを名乗れるらしい。

 

細かい部分は日本農林規格を確認すると面白いと思う。

http://www.maff.go.jp/j/jas/jas_kikaku/pdf/kikaku_04_soseji_160224.pdf

 

特に必読すべきなのは、最初のこの部分。

 

家畜、家きん若しくは家兎の肉を塩漬し又は塩漬しないで、ひき肉したもの(以下単に「原料畜肉類」という。)に、家畜、家きん若しくは家兎の臓器及び可食部分(以下単に「原料臓器類」という。)を塩漬し又は塩漬しないで、ひき肉し又はすり潰したものを加え又は加えないで、調味料及び香辛料で調味し、結着補強剤、酸化防止剤、保存料等を加え又は加えないで練り合わせたものをケーシング等に充塡した後、くん煙し又はくん煙しないで加熱し又は乾燥したもの(原料畜肉類中家畜及び家きんの肉の重量が家兎の肉の重量を超え、かつ、原料畜肉類の重量が原料臓器類の重量を超えるものに限る。)

 

何を書いているのか分かりにく過ぎて逆に面白い。

 

「加え又は加えないで」が執拗に繰り返されるこの文章を見ていると、どれだけ悩みながら規格を考えてきたのか如実に感じられるのが、本当にいいではないか。

 

とりあえずこの文章を平坦に言えば、

 

材料は羊とか牛とか豚とか鳥とかウサギの肉を使って、それを塩漬けにしていても塩漬けにしてなくても別にいいんだけど、とりあえずミンチにしたやつを使うのよ。で、内蔵とかももったいないから使うよね。だからそれも羊とか牛とか豚とか鳥とかウサギの内蔵とか血をミンチにするかすりつぶすかしてね。でも別にそれは入れても入れなくてもどっちでもいいから。で、調味料や香辛料で味付けしてね。決着補助剤とか酸化防止剤とか保存料も使ってもまあいいよ、無理に使わなくても大丈夫だし。ほんで、ケーシング(腸って書いちゃうと人工のやつ使ってるやつをソーセージって言えなくなるからごめんなさいね)に入れてね。そのあと、薫製しながら加熱してもいいし、特に薫製しなくても別に文句は言わないんだけど、とりあえず加熱はして欲しいんだ。でも加熱が無理ならせめて乾燥させて菌が繁殖しないようにしてね(あと、全体の肉の重さの中でウサギの肉が半分以上になるとダメだし、そのうえで臓物の重さが肉の半分以上になってもだめだからね)。

 

という事が書いてある。

 

コレ、ウサギさん不憫すぎない?

 

半分以上ウサギだったらソーセージと認めないからねってわざわざ名指しで宣言されてる。花いちもんめでもドッチボールのチーム分けでも最後まで選ばれなかった過去を思い出して、自分を重ねて悲しくなってしまう。可哀想なウサギと僕。

 

それで、腸じゃないケーシングと言うのは、簡単に想像出来るもので言えば、魚肉ソーセージやポールウィンナーに代表されるような、ビニールみたいな素材で作られたもの。太さが一定なので、大量に作るときにはこちらのほうが良い場合があって、コラーゲンで出来ていてそのまま食べられるものある。

 

コラーゲンケーシングは天然の腸より美味しくない、という人もいるけれど、僕みたいに舌が馬鹿になっているとそう簡単には見分けがつかないので別にどっちでもいいんじゃないでしょうか。ちなみにメートル単位で比べると、人工の方が安い気がします。

 

いつも僕が使っているのはネットで買っている天然羊腸で、4mが540円、1m当り135円になる。

 

僕がソーセージを作るときには大体1キロの肉を使うのだけれど、羊腸を3mくらい使う。色んなブログを見ていると、1キロで4mだとか500gで2mだとか書いていたので、それに倣っていたのだけれど、多分余裕を持って書いているのだろう。でも今の状態だと135円を捨ててしまい兼ねないことになるから僕はこれから1.3キロでソーセージを作る事を誓います。

 

他にも、肉類以外に穀物を入れる時には50%以下にしてよ、だとか細かい規定があるのだけれど、自分で食べるだけだからそこまで細かいことは気にしなくてもいいだろう。

 

ここまで書いてきて分かったのは、いちいち細かい事まで調べて作ると本当にめんどくさい、という事だ。色んなブログを見てきたけれど、規格については太さに軽く触れるくらいで細かく書いていないところが多かった。その理由が少し分かった気がする。

 

で。

 

多分ソーセージを作った事がある人が1度は悩むのが、食べたときのハリがどうやったら出るかなのだけれど、この間作った時に理想的な固さが出来たので、その時にした事を備忘録代わりに書いておく。

 

まずはどれだけ丁寧に捻って吊るすか。捻りが緩いとハリが出ないのだ。理想的な固さは、半勃起の状態でコックリングをつけたときのくらいの固さが理想である。下ネタはやめておこうと深く誓った身ではあるが、適切な比喩というものは自分の経験からしか産み出せないのでもうこれは致し方ない。皆でコックリングをつけよう。

 

次に、ネットでよく見るのだけれど、吊るしてからの乾燥は1時間では足りない。冷蔵庫で1晩くらいが理想。セックスのあとにシャワーにも入らずしばらく放置していた陰部くらいの乾燥具合になっていれば問題ない。

 

塩の量は減らさない方がいい(低塩分で作るのであれば、結着補助剤が無いと厳しい)。舐られたとき、ちょっとしょっぱいねと笑顔で言われることほど嬉しいものはない。

 

薫製はスモークウッドで90分以上と、前戯と同じで長めが基本、ボイルの時間は挿入の理想と同じ20分程度、温度はジースポットを刺激できる角度と近似値の63℃から68℃キープしておく。

 

どうだろう、コレが僕の求める幸福のソーセージだ。これをすることで、僕のソーセージが最初から最後までプリッと感がキープされることになるのだ。

 

さて、久しぶりにマトモな文章を書いた気がするけれど、何となく下半身に違和感がある気がする。

 

冷蔵庫で寝かしてもいないし塩分もそんなに高くないのに、いつの間にか僕のソーセージがプリッとしてきている。コックリングもついていないはずなのに、乾燥とはほど遠い濡れ具合だ。

 

いきなりまともな話をしてしまったからなのか、それとも別の理由があるのは自分でもよくわからない。

 

ああ、誰かこんな僕のわがままなソーセージを、優しく包み込んでボイルしてくれないか。

 

そういえば最初に考えていた不安の解消を忘れていた。

 

ソーセージの美味しい作り方を求めている人へ。 

 

このブログには、なんの解決法もないですよ。