下ネタをテーマに文章を書いたら下品な文章ができてしまうのは当たり前。
そういえば半年ほど前に、こんな記事を書いた。
母の日に則した「おかあさん」がテーマの、どうしようもない記事である。
その中で僕は「ちんぽ 感謝 プレゼント」で検索して到達出来るのはこの記事くらいだろう、みたいなことを適当にかいたのだけれど、本当にそうなのかとふと思い立ち手元にあるパソコンに向かって上記の言葉を検索してみると、マジでこの記事がトップに躍り出た。
ヤバい。
これが、これこそが頂きか。これが頂きからしか見れない頂点の風景なのか。と、画面の中に写っているもはや頂点としか呼ぶほかない僕がしたためた文字列にいたく感動した。
しかしこれほどの頂点的頂きに存在しているにも関わらず、この頂きの記事に関して閲覧数が増えたのかと問われればまったくといいほど読まれていない。
無理矢理にでも言い換えれば、存在はするのだけれどもそれを誰も見たことがない空想上の島、ラピュタと同じ様なものであろう。
しかもその島から降ってくるのは儚さをはらんだ女の子でもなく、もちろん金銀財宝でもムスカの叫び声でもない。ただのちんぽという言葉の羅列のみである。
これほどに誰も見たがらない、輝きがひとつもない頂きの島があるだろうか。命をとしてそこに向かおうとしたパズーの父親が不憫でならない。この島に比べれば、コンクリートで固められただけの島である沖ノ鳥島ですら観光名所と呼べることだろう。
では逆に、皆から見たいと羨望されている島といって思い出せるのは、沖縄やマルタ島、ムネオハウスのある国後島などがあるけれど、なぜそれらが思い出されるかといえばやはり娯楽としての側面が大きいからである。
沖縄には言わずと知れた観光名所で美しいビーチや豊かな自然が広がり、マルタ島はヨーロッパのへそと呼ばれていることからわかるように西洋の魅力がぎっしりと詰まった島であるし、街全体が世界遺産にもなっている。
国後島にはもちろんムネオハウスがあるしムネオハウスの総工費は4億1685万円らしいけれどそれ以外にもなにかあるかもしれないが僕はあまり興味がないけれどあのムネオがハウスを建てるほどの場所であるしそれは何かしらの娯楽的ムネオもしくムネオ的娯楽があるからだろうしムネオの名を冠するほどのハウスがある場所なのだから娯楽(ムネオ)には困らず、ムネオにとっては極めて素敵な島なのだろう、いうなればムネオ・オブ・ムネオ。なにしろアイヌとかロシアとか日本とかが取り合ってたし、死人も出てる。
でもムネオは生きている。
ムネオはとっても、生きているよ。
しかしまあこのような島は、人々が憧れを持ったり行きたがったり暮らしたがったり関わった人達を起訴したりと賑やかしいかぎりなのだろうけれど、かたや誰にも見られない島というのはなんとも物悲しいものである。
なのでせめて色んな人々に読んでもらいその存在を認知してもらうべく奔走するのがこの島の生みの親である僕の使命であろう。という訳で、どのような文章であれば人は読もうと思うのかを考えてみたいと思う。
そのためまず最初に今現在一番人に読まれている文章とは何かと考えてみたいのだが、まず紙媒体をメインで考えると発行部数で見るのが宜しいと思い検索すると聖書が一番発行されており、その発行数はギネスにも認められているとのことだ。
その内容と言えば人々の救いや指針となるような文章であり、それは僕の記事の真逆の頂きにある。聖書は誰かの心の支えとなり人を救う。
が、僕のちんぽは誰も支えないし救わない。それどころか指針として使った場合向かう先はよくて女性器もしくはテンガであり、またそれ以外の目的地があるとすれば真っ白な地図(ティッシュ)くらいであろうし、これを実際に使用したとしてもその早さの為(時に音速を超える)に誰かを支えることも救うこともできず「え、もう?」という言葉とともに悲しみを生み出すだけの器官に成り下がってしまうがここでは脇によけておこう。そうでもしなければ、悲しくて悲しくてとてもやりきれない。
さてでは紙媒体ではなくネットをメインで考えた場合、総閲覧数がもっとも多いサイトはフェイスブックであるという。そしてその中で一番フォロワー数の多い人はサッカー選手のクリスティアーノ・ロナウドであるとのことだった。
なのでネットで一番見られてるものを取り上げるとするならば、ロナウドのフェイスブックページがもっとも見られているものでありかつそこに書かれている文字列こそが世界で最も読まれている文章なのだろうと見当をつけていざそのページをのぞいてみると、書かれている文章は日本語ではなく英語やスペイン語で無学な僕にはもちろんまったく読めず、ではそこにある写真はどうだろうと思ってスクロールしてみると下着姿のロナウドが半透明のゴムボールに戯れている写真が並んでいたのだけれど、それを見た僕の感想としては「一体これはなんの写真なのだろう」という疑問がわいただけだった。
ロナウド、下着、ゴムボール。
前述の通り英語やスペイン語がわからないのでその画像から推測するに、彼が寝転がっているスペースは子宮であり、白いゴムボールは精子を表現し、下着姿のロナウドは卵子をイメージしているのではないだろうか。
つまりこれはロナウドの姿を借りた性教育の一環であり、精子はこうやって卵子に辿り着くんだよ、新しい命はこのようにして生まれるんだよと、人間の営みの神秘性を表現した一枚であるといえる。
こうやって並べてみるとよく分かる。まさに受精そのものだ。ロナウドだって精子を握りしめながら、とっても嬉しそうだ。
しかしまあそうやって色々見てみると 人が見たくなるもの、読みたくなるものというのは、何かしらの救いがあったり喜びがあったりするのだろう。では翻って自分の書いた記事を見返してみたのだけれどそこには救いや喜びはおろか、役に立つ情報すらひとつもない。何もない。虚無である。
ちんぽにプレゼントを贈る。
言葉の意味としては理解はできるし、またその行為自体も用意に想像出来るだろう。
しかし、しかしだ。
例えそれが想像出来たとして、だれがそれを行動に移すのだろう。行動に移す人がいなければ、それは何も意味がない。
そしてこれがもっとも重要なことなのだが、この記事を書いた僕ですら、自分のちんぽにプレゼントを贈ったことがないのである!!!
これはいけない。
他人が動かないことに対して腹をたてているにも関わらず、自分自身が何も動こうとしないのは愚の骨頂である。色々なカウンセラーが「他人を変えることはできません。だからこそ自分が変わるのです。自分を、変えるのです」なんていうことを声高に叫ぶ昨今において、自分が何もしていないのに文句を言うことはすこぶるださい。
という訳で、まず僕が僕のちんぽに感謝の気持ちを伝えよう、その為にはプレゼントを差し上げよう、と考えたのだけれど、僕の貧困な想像力ではいいプレゼントが思いつかず、検索してみることにした。
目の前に鎮座ましますパソコンに対していくつかのキーワードを入れた。
そのキーワードはもちろん、「ちんぽ」「感謝」「プレゼント」の3つである。
その結果、出てきた記事がこちらだ。
さて、なんとか頭を振り絞りながらここまで書いてきたのだけれど、もうこれ以上はどうしようもない感じになりました。なのでそろそろオナニーでもしながら滅びの道へと進もうと思います。
それでは皆さん、よい一日をおすごしください。
バルス(ドピュピュピュピューーーーー)!!!!!