僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

耳の遠い祖父の家におつかいに行った話。

週末。

 

耳が遠いと評判の祖父の家に向かい、母から頼まれていた用事を済ました。

 

用事と言っても母の買ってきたお土産を祖父に渡すという、幼稚園児でも出来るような簡単な用事だ。

 

しかし、出来るというのと、したいというのは違う。できる事ならば、僕は祖父の家に行きたくないというのが率直な気持ちだ。

 

行きたくない理由はいくつかあるけれどその中でも一番の理由が、肥大化した自己顕示顕示欲からくる長話を聞かされること、言い換えれば主演、脚本、監督、提供の全てが祖父で行われるワンマン・ショーを見せられる事が苦痛だからだ。

 

最初に書いた通り、祖父は耳が遠いと評判である。なので基本的に自分の話しかせず、しかも殆どが同じ話であり、かつ話が徐々にアップデートされていく。耳が遠いが故にこちらからのアクションは届かず、感情のベクトルはいつも一方通行。

 

今までのアップデートをまとめると、祖父の父(つまり僕のひいじいちゃん)と共に満州の田舎に移り住み、幼少期から少年期はそこで育ち、戦争の関係でそこにいられなくなり、野犬と生死をかけたやり取りをして命からがら街へと辿り着き、家系図を腹巻きに縫い込んで日本に戻ってきた後、長崎から神戸へと移り変わりながら音楽家を志すがいつの間にやらその実力が認められ非常勤ではあるものの大学の非常勤講師を経験したのち高校の指導員になり、そこに通っていたやくざの息子と言い合いになったがその父親であるやくざが懇意にしている実力者が実は自分の音楽のファンであり、後日その息子が謝りにきたけれどそれをおおらかに許したらもう他の教員から拍手喝采、また紆余曲折をへてそういえばこないだ縁があってET-KINGと話したけれどあいつらはほんまにええやつやっただのとなり、今はデイケアに通いながらナンクロ脳トレに精を出している。ごく最近のアップデートでは、自分は赤穂浪士のメンバーの末裔だとのこと。

 

ただ彼が命がけで持って帰って来た家系図を以前見たのだけれど祖父の名前はもちろん祖父の父親の名前もその父親の名前もないから、本当に我が家の家系図なのかどうかは怪しい。赤穂浪士の名前もなかった。

 

最初は満州での生活の辛さだけが彼の語るすべてだったのだけれど、いつの間にか若者文化をも吸収し、千と千尋の神隠しに出てくる河の神がオクサレ様になったのように虚実紛れた情報で、80歳というハードルを軽々と飛び越え今なお確実に成長してきている。 

 

そんな濁流にわざわざ飛び込みにいかねばならぬのは、身内の中で僕が一番祖父の家の近くに住んでいるからだ。

 

祖父とマンツーマンで会話をするのは、無理矢理やらされる風来のシレンみたいな苦痛がある。まじで。終わりがないのに自分の意志では辞められない。恐怖しかない。

 

なのでそうなる前に早々に切り上げようと、家で牛すじ肉の土手煮込みを作ってから、その煮込み作業だけを残した状態で祖父の家へと向かった。

 

「スジを煮込んでる途中やから、すぐに帰るわ」

「そうか、気をつけてな。ありがとう」

 

となるように、事前に算段した訳だ。 

 

 

祖父の家のインターホンを押し、中に入ってお土産を渡す。

 

練習した通り、

 

 「これ、おかんからのお土産な。ほんで今、家でスジ煮込んでるから、早く帰らなあかんねん、ごめんな」と言って家を出ようとしたのだけれど、急に「なんでや!あんな仲良くしとったやないか!」と言ってキレだした。

 

僕は意味が分からなかった。仲良くしとった?誰と誰の話をしているのだ。

 

牛スジだろうか。

 

僕と牛スジのことなのだろうか。

 

彼の中では、僕と牛スジは恋愛関係にあったのだろうか。

 

「そう言えば最近彼女が出来てさ、うん。全体的にプルプルしてて、怒っちゃうと固くなるところも可愛くて。でも仲直りの気持ちを込めて煮込んだら、少しずつ柔らかくなるんだ。アクの強い所もあるけど、僕も素直じゃないところがあるから気にならないよ。味噌で化粧すると抜群に映えるんだよ。唐辛子みたいに真っ赤なルージュも似合うし、ネギみたいな緑のアイシャドウを引いたときには、ドキッとしちゃうくらい魅力的なんだ。自分でいうのもなんだけど、相性がいいと思うんだよね、僕たち。だからこれから先も、ずっと守ってあげたいって思うんだ、牛スジのこと」

 

なんていう会話を彼の前でした事はないし、というかそんな牛スジを褒め讃える話なんて、彼の前以外でもしたことはない。

 

 「とりあえず入って、話きかせえ」

 

祖父はそう言うと、家の奥に引っ込んだ。別にそのまま帰ってもよかったのだけれど、何と何を勘違いしているのかがわからず、またこう言った事を放置しておくとよく分からない方向に話が広がって後々後悔する事になることが多いので、すごすごとその後についていった。

 

椅子に座った祖父は僕の顔を見て「なんで別れるんや」と神妙な顔で聞いてきた。しかし相変わらず、僕には彼が何を言っているのかがよく分からなかった。

 

ついにボケたのかとも思ったが、目はしっかりしているし別に部屋がおかしくなっている訳でもなかったので少し突き詰めて話すと、どうやら「煮込んでる」という言葉を「離婚する」と聞き間違えたらしい。どうやら僕と牛スジは、恋愛関係になかったようだ。よかったよかった。

 

「なんや、急に来て離婚するていうからビックリしたがな」

 

そう言う祖父に「ごめんごめん、だからそろそろ帰らなあかんねん」というと、祖父はあからさまに聞こえない振りをした。こういうところが、耳が遠いと評判になる由縁だ。

 

しばらく俯いたままで無言になり、ナンクロの雑誌をパラパラとめくったかとおもうと、おもむろに引き出しを漁り始め、写真を何枚か取り出してきて机の上においたと思ったら、好きな人の事を素直に見れない女子高生のようにこちらをちらちらと伺ってきた。

 

明らかに、その写真について聞かれたがっている。

 

しかし僕は祖父を甘やかしたりしない。

 

相手が女子高生でくるならこちらも女子高生で対抗するしかないと思い、スマホを取り出してその画面を注視し無言を貫いた。相手が初恋に悩む女子高生なら、こちらは電車で目の前に誰が立とうが頑に気にしないギャル系女子高生である。

 

祖父は写真を見つめ、僕はスマホを見つめる。

 

お互いに意識しながら目を合わせない。そんな甘酸っぱい恋愛のような状態がどれほど続いただろう。

 

そろそろ諦めただろうか、と祖父を携帯越しに上目遣いでみると、彼はいつの間にか寝ていた。好きな人を思う女子高生から授業中の女子高生への見事な転身。

 

よし気付かれないうちに帰ろうかと思ったのだけれど、このまま放置してしまうと大変なことになるかもしれない、と考え直した。

 

椅子から滑りおちて打撲もしくは骨折などを起こそうものなら結果的に介護が必要になるし、もちろんその責任は怪我の切っ掛けになった僕にあり、祖父の介護という身体的な負担が増えてしまう可能性がある。

 

なので僕はやさしく祖父の肩をゆらし、「じいちゃん、眠いんやったらベッドいき、僕ももう帰るから」と声をかけた。

 

しかしその優しさが間違いだった。

 

貴方のその優しさが怖かったというのは神田川の一節だけれど、

あなたのその変わり身が怖かったと思ったのが先日の僕だ。 

 

「ああ、ちょっと寝てた。ありがとうな。そう言えばな、パソコンの調子が悪いんやけど、少し見てくれへんか」と、妙にはっきりした声で祖父は僕に願い事をしてきた。

 

騙された。

 

祖父は寝ていたのではない。寝たふりをしていたのだ。

他人の優しさにつけ込むとは、こういう事を言うのではないか。

 

祖父そう言ったのち身体を起こし、僕の顔を見る事はおろか返答を聞く事すらもなくパソコンに向かって起動スイッチを押した。懐かしいWindowsXPの立ち上げ画面が現れた。

 

「あのな、あそこに写真あるんやけどな、あの写真をフェイスブックプロフィール画像にして欲しいんや」

 

パソコンの悩みと言っておきながら、さっきもじもじして見せようとしていた写真へと繋げる。

 

その華麗な流れはレアル・マドリードのゴール前のパスワークを思わせた。このままだとずるずる引っ張り込まれ、我が家のベンゼマである祖父(CR7は言わずもがな、数年前に亡くなった祖母だ。これまで数々の伝説を作り上げてきた)が着実に得点を重ねていくだろう。

 

これ以上アディショナルタイムが伸びないよう、この作業だけを集中して終わらせて早々に退散する事にした。ちなみにではあるがフェイスブックの更新とDSの脳トレが祖父のライフワーク(命綱)である。

 

「これ、写真のデータはあるんか」

 

僕がそう聞くと「これな、デイケアの◯◯さんが撮ってくれたんや。よう撮れてるやろ。わしは別に撮って欲しいとかはいわんかったんやで。でもな、せっかくやから言うて、ほんなら断られへんやろ。」と写真が撮られたときの情景および自分がいかに他人から好かれているかのアピールを織り交ぜて報告してきたが、画像データに関しては何も教えてくれなかった。

 

「ギター弾けるとな、みんなが教えてくれ教えてくてっていうんや。もう教えるんなんかこりごりやけど、どうしてもっていうから仕方なくな」

 

迷惑に感じているというそぶりをしていたが、その写真には満面の笑みでギターを抱えている祖父がいた。

 

データのありかを聞く事を諦め「スキャナーがないと写真取り込まれへんけど」と言うと「スキャナーっていうのがいるんか。それどんな機械や」とさっきまでと変わらぬ声量であるはずの僕の言葉を捉え、返答してきた。耳が遠い、というのは、なんとも便利な物だ。

 

簡単にスキャナーの説明をすると便利そうだと思ったのか、いかにも買ってきて欲しそうな空気を出してきた。こういうところも地味に腹が立つ。出すのはお金と加齢臭くらいにしておいて欲しい。

 

「スキャナー買おうと思ったら大きい電気屋までいかなあかん。車いるわ」

 

僕がそう言うと、買ってきて欲しい空気は出さなくなったが、そのかわり盛大に屁をこいた。

 

「ほんまになんなん」

 

僕が小声でそう言うと、祖父も僕と同じ様な大きさの声で

 

「ああ、屁が出てしもてるなあ」

 

とすこし笑いながら言ってきた。

 

お前の尻から出てたのだろう、なぜそんなにも他人事なのだ。出すのはお金と加齢臭だけにしておいて欲しい。

 

ほとほと嫌気がさしてきたので早急に解決を計るべく、僕は自分のスマホでその写真を撮影し、そのデータを祖父のパソコンに送るという解決策を試みた。

 

「このパソコンのアドレス教えて。そっちにこの写真の画像送るから」

 

祖父は携帯を取り出して自分のパソコンのメールアドレスを確認し、自分の名前をメインにしたアドレスを提示してきたので、その文字を打ち込んで送付した。

 

しかしどれだけまってもパソコンのメールアドレスに届かなかったので自分のスマホを確認すると、メーラーデーモンさんからのお返事があった。

 

目の前に送りたい相手がいるのにどうにも届かないこのもどかしさはまるで恋のようだ。なんて思いながら(本当は思っていない。これは嘘だ)、

 

「なあ、このアドレス使われてないんとちゃう」

 

そう聞くと祖父は嬉しそうに「わし、メールアドレス2つ持ってるねん」と、そこはかとないドヤ顔をかましてきた。

 

そろそろ鼻のあたりを骨折させてもいいんじゃないか、という思いがよぎったのだけれど、やはり介護の二文字がちらついて冷静さを取り戻し、もう1つのアドレスを聞き出した。

 

そのアドレスの由来を僕の耳元で大声で自慢していたけれど、僕は覚えていない。自分が何々家の何代目でそれをアドレスにしたのだとかいっていたけれど、それも僕の代でなくなるだろうから気にしない。

 

二度目に聞いたアドレスにメールを送ると、無事に画像データが届いた。それをパソコン内に保存し、フェイスブックのプロフィール画面に差し替え、祖父に確認をとる。写真の写真を撮った訳だから多少画像は荒くなっていたけれど、どうせ見分けはつかないだろう。

 

「あああ、これでええ。ありがとうな」

 

祖父はそう言うと、屁の臭いと共に台所に向かい、おもむろに冷蔵庫を開けて何かをとりだした。

 

「せっかく手伝ってくれてんけど、なんもないからこれでも持って帰り」

 

そう言って祖父が取り出したのは、半分にカットされた梨だった。ラップにくるまれて変色した梨。いつから冷蔵庫に入っていたのか分からない梨。

 

僕はそれを丁重に断り、やっとのことで祖父の家を後にした。

 

駐輪場で自転車に乗る前に煙草を吸おうと思い、鞄から煙草を取り出して火をつけた。

口の中に広がる煙とともに、祖父の屁の匂いを感じた気がした。祖父の尻から、屁以外のものが漏れていないといいが。

 

そんな事を考えながら、家で待っている牛スジに思いを馳せる。

 

はやく家に帰って、牛スジを煮込みなおそう。

トロトロに煮込まれたスジをあてに、ビールでも飲もう。

プルプルと震える身体をねぶりまわし、愛を育もう。 

 

僕はすでに暗くなってしまった空を見つめ、せめてもう年内はここには来たくないな、そう思った。

 

終わり。

 

 

 

読者が減ったのもソーセージの皮が破れたのも全て手荒れのせいにしておく。

ソーセージのブログのつもりが最近ソーセージを作っていないのでソーセージについて書いていないのはおろか、うんこを漏らしただどうだかなどのほんとうにどうしようもない文章を書いてしまった。

 

果たしてそれが原因かどうかは分からないが、先日書いたうんこの記事はびっくりするくらいに読まれず、2日間のアクセス数がわずかに「3」という、世界のナベアツにくらいしか反応してもらえない数字になっていた。

 

しかしよくよく考えてみると、それは本当に驚くぐらいにあたりまえの事で、そもそもだれも僕のうんこ事情に興味などあるはずがなく、かつこのブログを読んで下さる方はソーセージについて何か知りたかったりするだろうから、あんな文章を書いても読まれる数が減ってしまうのは当たり前だ。

 

しかしソーセージの話が出来なかったのは、全て手荒れが酷くなってきたことが原因である。手や指が痛いため、ソーセージが作れなかったのだ。そしてそれ故に下記のような循環が生まれてしまった。

 

 

手が痛いからソーセージがつくれない。

 ↓

ソーセージが作れないからソーセージにかかる文章がかけない。

  ↓

ソーセージの文章が書けないからうんこの話を書いてしまう。

  ↓

うんこの話を書く事で読者が離れてしまう。

  ↓

読者がいなくなったストレスで手が荒れてしまう。

  ↓

手が痛いからソーセージがつくれない。

  ↓

ソーセージが作れないから時間が余って自慰ばかりしてしまう。

  ↓

自慰に時間をかけすぎて文章を書く時間がない。

  ↓

記事の更新頻度が遅くなって読者の方がいなくなる。

  ↓

読者がいなくなったストレスで手が荒れてしまう。

  ↓

 自慰出来ないほどに手が荒れ、ブログを書くしかないけれどもネタがない。

  ↓

 なのでやはりソーセージ作りをするしかない。

 

ということで、初心に返りソーセージ作りをするしかないと思い、自分の手を見つめた。

 

パリパリに荒れた感じがなかなかにいい塩梅で、俗にいう働き者のいい手をしていた。これで土埃でもついていようものなら、風の谷のお姫様にだって褒めてもらえるだろう。

 

しかしいくら姫様が褒めてくれたところで、僕の巨神兵が大きくはなっても読者は戻ってこない。荒れ狂った王蟲と同じように、読者というものも一度離れていくともう離れっぱなしなのだ。

 

だからといって文章を書かないとなると、その先は異形の蟲すら近寄ろうとしない腐海しかない。

 

なので文章を書くのを諦めるには早すぎる。あのアルスラーン戦記だって完結するのに30年かかったのだ。

 

最終巻、とても楽しかった。僕はそんなに深い田中芳樹読者ではないのだけれど、もう感涙。また一巻から読み返したい。読み返す。

 

 

そんなこんなでまた適当な文章を書きながらソーセージを作る心づもりなのだけれど、そういえばソーセージ作りのサイトに良く見かける記述に良くある「肉の鮮度」についていくつか書いておきたい。

 

ソーセージで使う肉は結着をよくする為に、鮮度の高いものを選びましょう。そのために出来るだけ信頼のおける精肉店にお願いし、よい肉をミンチにしてもらいましょう。その新鮮なミンチを手早くミキサーでエマルジョン化しましょう。

 

 

とまあ、どんなブログを読んでもこんな感じで書いてある。

 

しかし、このハードルが高過ぎる気がしてならない。

 

まず鮮度の高い肉、というのがよく分からない。

 

ドリップ(肉汁)が出ている出ていない、肉の色が良いか悪いくらいはなんとなく分かる。

しかしそれ以上の判断は素人では無理な気がする。

 

 

僕が普段よくいくスーパーでは、カナダ産と書かれた豚肉と国産豚肉、ブランド豚肉が仲良く並んでいるのだけれど、パッケージに書かれている文字以外でそれらを見分ける事ができるかどうかと言えば、まず出来ないし、鮮度なんてもってのほかだ。

 

というより、元来人見知りである僕はスーパーの店員に話しかける事が出来ない。

 

であればネットで見分け方を調べるしかないと思って確認すると、豚肉はピンク色がいい。脂との境目がはっきりしているのがいい、などと書かれていた。

 

なるほどと思って肉の並んでいる陳列棚を思い返してみたのだけれど、全部ピンク色だし全部境目がはっきりしていた気がする。

 

というかそもそも、スーパーでピンク色以外の豚肉を見た事がない。

 

最近やっと小林薫奥田瑛二の見分けができるようになったくらいの僕に、いい肉の見分けなんて高尚な作業はできないのだ。

 

となると、その精肉店もしくは販売店がどのような商品を出しているかの判断になるけれど、それは消費者にどうこうできる問題ではない。

 

だからこそ次に書いていた「信頼できる肉屋さん」という項目が重要になるのだけれど、これがまさに鬼門である。なぜならば、信頼出来る肉屋とはどういう肉屋なのかが書かれていないからだ。

 

これもまたネットで「信頼」と調べてみると「信頼とは、信じて頼る事だ」みたいな、その言葉を分解して解説しただけの言葉が出てきた。しかしそんなものは調べなくても分かる。

 

というか使われている漢字を説明するだけなら、漢字を使った言葉の殆どがそれで解決してしまうではないか。

 

それに倣えば肉塊とは肉の塊の事で、肉棒は肉の棒の事だ。そんなことでいいのなら、漢字で書かれた人名だって解説出来てしまう。

 

米良美一は良い米の中でも際立って美しい一粒の事で、上戸彩は戸の上を彩るもの、すなわち正月飾りの事であるし、曙太郎に至っては曙の太郎である事だ。

 

なので、いまいちよく分からない解説ブログに頼る事なく、僕は僕の道を行こうと思う。

 

『新鮮な肉が良く結着する。その為に信頼の出来る肉屋を見つける』

 

信頼出来る肉屋が見つけられない今の僕には、この単純なことが出来ないので逆に新鮮でない肉を綺麗に結着させるにはどうすべきなのか、ということを調べる事にした。

 

するといくつかのPDFデータに辿り着いたので、抜粋する。

 

 肉は約75%の水分と,約20%の筋肉タンパク質,約5%の脂質,炭水化物類,可溶性非タンパク態物質,ビタミン類等からできています。水以外,大部分がタンパク質ですので肉がタンパク食品と呼ばれるゆえんです。
 筋肉タンパク質の中で,約60%を占めているのが塩溶性の筋原線維タンパク質で,主にアクチン,ミオシン,アクトミオシンが含まれており,保水性,結着性との関係に重大な役割を演じています。次に約30%を占めているのが筋漿タンパク質で,主なものは解糖系酵素ですが,色素タンパク質であるミオグロビン,ヘモグロビン等も含まれています。残り約10%は結合織タンパク質で,コラーゲン,エラスチン,ミトコンドリア等組織の支持や結合等,肉質の硬さ等に関係しています。
 塩溶性の筋原線維タンパク質は,添加した塩の作用によってミオシンが抽出され,塩漬肉は高い粘度を帯びてきます。とくにと畜直後の肉にはATPアデノシン3リン酸=筋肉の弛緩,収縮等を司る物質)が存在していまずので,その働きによりアクチンとミオシンは別々の状態にあって,ミオシンは効率良く抽出されてきます。しかし,時間の経過とともにアクチンとミオシンは結び付き,アクトミオシンという形で多く抽出されてくるようになり,ミオシンの抽出は少なくなってきます。抽出されたミオシンは時間の経過と共に不安定となり,また,温度に弱く約20℃以上になると変性し,結着効果が失われてしまいます。ソーセージを作るとき,保水,結着を重視する目的で,と畜直後の温かい肉を用いたり,チョッパー,カッター使用の時,肉温上昇防止のため,砕氷を添加するのも,これらの理由の一部なのです。

 

どこの誰が書いたのかすら良くわからない文章なのだけれど、これを端的に説明すれば

 

「肉全体の中の20%を占めるタンパク質の中の60%にあたる塩に溶けるタンパク質の中にあるミオシンが塩と繋がると粘度があがる」ということである。

 

それをもっと簡単に言えば「塩を多く使えば、肉は繋がる」ということである。

 

もう1つ、別の文章では、

 

鶏肉の加熱ゲルは,豚肉および牛肉の 加熱ゲルと比較して,いずれの塩分濃度でもゲルの収縮が ほとんどなく,塩分濃度が増加するにつれて保水性が増し, 2%以上で弾力性があるゲルになることが分かった.一方, 豚肉の加熱ゲルは,塩分濃度が 1%以下では,硬く,弾力 性がなく,塩分濃度が上がるにつれ保水性が増し,柔らかくなることが分かった.牛肉の加熱ゲルは,塩分濃度が上 がるにつれ収量が増加するが,塩分濃度に対するゲルの硬 さの変化は小さかった.従って,塩分濃度に対するゲル強 度の変化は食肉の種類によって異なるが,いずれの食肉も 塩を添加することにより肉汁の溶出を防ぐことが可能であ ることが分かった.

 

とあった。

 

という事は、1%だけの塩では豚肉は柔らかくも弾力が増えもせず、それ以上にすると柔らかくなって弾力も増えるし肉汁も出にくくなるということである。

 

しかしこの塩のパーセンテージというものは以外と侮りがたい。

 

夏。

 

暑い最中に高台から海に勢い及んで飛び込むことを想像してほしい。

 

海水が鼻の穴、耳の穴に口腔と、顔にある穴という穴に入りこんで

 

「え、ちょっとまてt!口の中!めっちゃしょっぱp!ごぼごb!ウが!っぺ!」

 

となるだろう。

 

なので海水はとても塩分が濃いようにおもうけれど、実際には3%位の塩分濃度でしかない。

 

食事として使う為の豚肉に、それほどのしょっぱさを感じる量の塩をぶっ込むのは狂気の沙汰というほかないので、1%以上3%以下というのが基準であり、ちょうど真ん中で2%くらいの肉がやはりいいのではないか。という結論におちつくだろう。

 

ここまで調べていくと、そんなにも鮮度のいい肉ではなくても、2%の塩をぶっ込めばある程度結着してくれるのではないだろうか、というのは想像できる。

 

しかし。

 

もう一度引用した文章を読んでみると、

 

抽出されたミオシンは時間の経過と共に不安定となり,また,温度に弱く約20℃以上になると変性し,結着効果が失われてしまいます。ソーセージを作るとき,保水,結着を重視する目的で,と畜直後の温かい肉を用いたり,チョッパー,カッター使用の時,肉温上昇防止のため,砕氷を添加するのも,これらの理由の一部なのです。

 

 

と最後に書いてある。

 

すなわちこれは、新鮮な肉を使う事でより結着率が上がるということであり、古い肉はどれだけ塩をぶっ込んでも塩と繋がるミオシンが少ないから結着しにくい、ということだ。

 

となると一番いいのはどれだけ新鮮な肉を手に入れるかということであり、その為にどうすべきかを考えるべきである。

 

 

まず肉をおいてある場所。それは肉屋である。

 ↓

しかし、肉の鮮度を見分けることはできない。

 ↓

であれば、信頼のおける肉屋で肉を買うしかない。

 ↓

そのためには、信頼のおける肉屋を探すほか無い。

 

いったいこれはどういう事だろう。

 

新鮮な肉を手に入れなくても美味しいソーセージ作りができるような方法を調べた結果、信頼出来る皮肉屋を探すべき、という結論が出てしまった。

 

 

こんな不条理なことがあってもいいのだろうかともおもうが、結局はそういうことなのだろう。世の中の全ては巡り巡って同じ場所に戻るのだ。

 

僕の好きなマンガに、宇仁田ゆみさんが書いた「スキマスキ」という作品がある。

手元にその本がなくてうろ覚えなのだけれど「人は隙間をこじあけてきて生まれるから、隙間に戻りたがる」的な事を書いていて、なるほどなと感じた事を思い出した。

 

 

ちなみにではあるが、「信頼」を別の辞書、大辞林第3版で調べてみると、

 

〔類義の語に「信用」があるが、「信用」はうそや偽りがなく確かだと信じて疑わない意を表す。それに対して「信頼」は対象を高く評価し、任せられるという気持ちをいだく意を表す〕

 

との注釈があった。

 

となると、別にどんな肉屋でもいいから「高く評価をして任せた」と思えたならそれは信頼したとなる。

 

優しさに包まれたならユーミンで、任せたと思えたなら信頼。

 

遠い回り道をしてしまったが、至極簡単なことだ。

 

という訳で、僕は手軽に寄れる場所にあるという理由から、近所の業務スーパーの精肉部の人を勝手に信頼し、そこで豚肉を買おうと決めた。それ以外にもここを信頼しよう決めた理由はある。

 

とにかく安いからだ。特に安い日などは、グラム当り85円の時だってある。そんな安く肉を売れる=沢山仕入れられる=仕事ができるということにならないだろうか。いや、なる。

 

それだけの仕事ができるのだから、信頼に値するだろう。

 

 とまあごちゃごちゃかいたのだけれど、飽きてきたので肉に関するあれこれはこれで終わります。

 

で、先日意識して肉を古くしたのだけれど、そこまで新鮮な肉を使わなくても、全体量の2%程度の塩を使って低温であることを意識して作業すれば、ある程度結着してプリプリとした食感になったので、あまり鮮度は気にしなくていいと思います。

 

例えばバラ肉は細かくカットしてから半冷凍にするとか、そういうことをすれば一応ソーセージはできます。

 

ただやはり結着しにくいがゆえにミキサーを長めにかけることになるので、肉の温度上昇に気をつける(出来るだけ肉を常温にしないとか、調理器具を冷やすだとか)のは大切です。

 

あと、必然的にミキサーに長くかけることになるので、エマルジョン化しすぎて食感がカマボコみたいになって物足りなくなります。なので粗挽きの肉を最後に混ぜるだとかの対処が出来れば、なかなかいいものが出来ると思います。

 

そんな感じで週末にソーセージを作りました。

 

ちなみに今回はどれだけ使う食材をシンプルにするか、という挑戦をしたので、以前ここに書いたレシピとは違うけれど、成功点、失敗点と合わせて記しておきたいと思う。

 

材料

・豚こま肉       550g

・豚バラ肉スライス   750g

・塩          26g

・セージ        5g

・粗挽きコショウ    4g

ナツメグ       2g

・隠し味        2g

・白ワイン       150cc

・氷          6〜7個

 

成功点

新鮮な肉かどうかは分からないけれど、買ったその日ではなく次の日に調理をしたにも関わらずきちんと結着したので食感はよかった。

以前作ったものと比べ、玉ねぎにんにくが入っていないのでパンチが弱く感じ、甘みも少なく感じたが、これはこれでとてもいい感じの味わいになった。隠し味が本当に隠れ、かつ食材の底上げになっていたからだと思う。

冷蔵庫で吊るしながらの一晩乾燥は必須。これだけで皮がいい感じになる。

燻製用の段ボールを新調したのが使いやすくなっていた。

 

失敗点

豚バラはブロックではなくスライスを使ったので粗めに切っても粗挽き感が出なかった。

塩味のばらつきが少し気になった。小分けしてエマルジョン化させたので、その後の混ぜ合わせが足りなかった。

羊腸の扱いの際に気を抜きすぎた。調子に乗っていた証拠。ほどくのに1時間以上かかってしまった。僕の馬鹿。

羊腸をほどく為に触りすぎたのか、作業スペースが少なすぎたのか、肉を詰めた後、ねじり成形の際に腸の破れが多かった。これは要注意。4m全てをいっきに成形しようとしたのが敗因。まず2m×2にしてからまとめるようにする。

 

ざっくりと書くとこんな感じでした。

 

でもやっぱり、ソーセージ作りは楽しい。

 

以下、適当な画像。

 

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スパイスは先に全部合わせておくと混ざりがいい。次からは塩も水で溶かしてから混ぜようかな。

 

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ミンサーに入れる前に包丁で小間切れに。この時に手を抜くとミンサーにスジが詰まって肉が出てこず、めっちゃイライラする。

 

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バラ肉はスライスの物をつかうより、やっぱりブロックを使った方が美味しかった。

半冷凍くらいの状態で使うのがやはり勝手がいい。

 

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写真がぼけて色も赤いけれど、実際はもっとピンク。

冷たいのを我慢してまぜまくる。

 

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この状態にする為に、羊腸と一時間以上格闘。塩抜きする前、水に漬ける前にほどいてから、棒状の何かに丸めなおしてから水につけておくとやりやすい。これは今度画像付きで書きたい。

 

 

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 腸詰めまではうまくいったのに、ここからの成形で破裂多数。8割くらいの詰めだったけれど、絡まった羊腸をほどくために弄りすぎて皮が破れやすくなったのかもしれない。

 

こんな感じで、ソーセージを作っています。

あ、台所はきちんとアルコールで消毒しような!僕は肉が触れる度にスプレーを使うぞ!お腹壊すのはいやだぞ!お兄さんとの約束だぞ! 

 

 そんな感じで。

 

 

 

過度な結果論に人生を左右されていないか。

今回の文章を要約すれば「人生は、結果論では語ってはいけない」ということである。

いつものように内容はない。

 

このブログにおいて、食に関する話を下品という名のコーティングでまぶしながら書いている身ではあるが、食に関するとなると切り離せない、というか切り離してはいけないと思っている話題が存在する。

 

それは排泄の話である。なので、ここに至ってついに僕は下品を下品でコーティングするという暴挙、いうなればレンタルビデオ屋で借りたいAVを隠す為に別のAVで挟むというような行為に出るということになる。

 

しかし思い返せば中学校ではマイナス×マイナスはプラスに変化すると習い、桃鉄においては財産がマイナスになればなるほど楽しみは増えるしキングボンビーも怖くなくなると習ったし、こと僕の好きなあの行為に関しては、陰部というマイナスの極みの名をもつもの同士をすり合わせるという複合技を是としているので、これはまさにテンションがあがり過ぎるものである。先の比喩だって見られるAVの数が増えるのだからもうこれは万々歳である。

 

なので下品を下品でコーティングする事に恐れはないのだけれど、1歩間違うととんでもない事になることも十分に考えられる。

 

例えばゴリラがうんこを投げるのは笑い話になるが、ゴリラがゴリラを投げた場合どうにも笑えない可能性もあるし、その投げかたは一本背負いなのかジャイアントスイングなのかで評価も別れるし、ゴリラがマイナスなのかというクレームもきてしまう。

 

例えばうんこをした後のお尻を紙で拭けばスッキリするけれども、うんこがついているお尻をうんこで拭くのは狂気の沙汰というよりは滑稽ですらあるというかもう本末転倒。なのでできるだけ汚らしくならないような表現をこころがけようと思う。

 

それだけ気を配ったとしても、そもそも汚らしいからそんな話は読みたくないという方は多いかも知れない。

 

だが食と排泄は普段の生活にも密接に繋がっているものである。ものを食べないと死ぬし、排泄出来ないとこれも死ぬ。それほどまでに生に密着しているものなのだからこそ、普段からフラットな状態で触れておくべきではないかと僕は思っている。

 

とって付けた様な言い方になってしまうけれど、ソーセージに関しても排泄器官の延長線上にある腸が主要材料でもあるし、みんな大好きホルモンもまたそうである。

 

僕個人的な見解としては、食に関する話はするけれど排泄に関する話はしないというのは、例えば魚の刺身や切り身は食べるけれど魚をさばくのは汚いし可哀想だから嫌というようなものであったり、祭りの準備や後片付けは手伝わないけれど当日だけはしゃぎ回るというようないいとこどりをしている気がしてならず、映画やドラマの名シーンをダイジェストをみているだけのような、なんとなく味気ないような気がするのだ。

 

ただ、誰かと会話をする為に話のあらすじだけを知っておきたいという気持ちも分かるし、僕自身も仕事での会話の為に、あまり興味のないスポーツの結果だけをニュースでみる場合もよくあるので偉そうな事は言えない。

 

けれど、ミステリー小説の犯人の名前だけを知っていたって面白くないように、食事の面白さはそれを取り巻く排泄にかかる話を楽しめた方がよほど豊かになるのではないだろうかとも思う。別にそんなのに興味がない、と言われてしまえばそれまでなのだろうけれど。

 

これはデザイン業界で良く言われる「神は細部に宿る」という言葉に似ていて、食は食べる事自体だけではなく、そのバックグランドにこそ美味しさの本質が宿っているのではないだろうか、とも思う。

 

今日の朝に取れた野菜です、と言われるのと、さっきそこのスーパーで買ってきた野菜です、と言われたもの。それが同じ畑の同じ時間に収穫された野菜だったとしても、きっと前者の方を美味しく感じるだろう。それが場の空気であり、言い換えれば言葉のもつ共通認識であり強さでもある。逆にいえば、家でインスタント料理を食べる時でも、面白い蘊蓄をもった人と話しながら食べる、もしくは美味しい空気感を演出できる人と一緒であれば美味しく感じるものでもあるのだ。

 

先日インスタント料理を高級レストランで出したら大半の人は騙されるというテレビ番組をしていた。けれどそれは当たり前で、食事とは場の空気や提供された情報、食材やその店の持つ物語性を食べることでもあるからだ。

 

話を戻す。

 

 排泄と食事、またそれにかかる調理も、循環として繋がっている。

 

排泄物は昔から発酵させて田んぼの栄養として使っていた(寄生虫の問題で今は殆ど使われていないけれど)し、調理の際に出る生ゴミも微生物の力を借りればとても有用なたい肥になる。先にあげたホルモンのテッポウなんていうのは肛門のスグ裏の直腸であるし、東北の方ではウサギの未消化のうんこを食べるような料理だってある。

 

そんな話を知っているだけでも会話は広がるし(その会話がいいか悪いかは僕には判断出来ないけれど、ウサギのうんこの話は大体どこで話しても面白がってもらえたことを付け加えておく。その料理の名前は「ニンゲン」というのだ)、だからこそ排泄であったりを語るのは、食の世界観を知る上でも重要なのだと考えるのだ。

 

また僕はあまりインスタをせず、また見る事もあまりないのだけれど、最近の流行にインスタ映え、なる言葉があることくらいは知っている。料理でも風景でも、綺麗な画像や可愛いものは確かに見ていていい気持ちになるし、それを記憶とともに記録に残しておきたい気持ちも分かる。けれど記録に残す、もしくはその画像をシェアして共感を得るという行為にも、上辺だけで会話をしているように感じてしまうことがある。

 

ソーセージを作っているおっさんとしては、インスタの画像にいいねを押されるより、両方の乳首をそっと押される事を好むのだ。

 

唐突にこんなことを書いてしまったのは、読み返していたらあまりにも真面目すぎて恥ずかしくなったからだ。でもせっかくなので、このまま続けてみよう。

 

例えば可愛いウサギの写真をシェアしたとして、「とても美味しそうですね」というコメントが入ると、人はどんな反応をしめすだろうか。

 

「野性味あるコメント、ありがとうございます」

「もしかして仮面ライダーアマゾンさんですか?」

 

なんて返しをする人はまずいないと思うし、よくてブロック、悪くて通報からのアカウント削除依頼なんて感じになるだろう。

 

しかしフランス料理ではウサギ肉はよく使われ、家畜のウサギはラパン、野ウサギはリエーブルと呼ばれジビエの一種になる。日本でも昔から食用に使われていて、江戸時代の徳川家では正月に食べるものでもあったし、以前も少し書いたのだけれど、ソーセージにもウサギはよく使われる。

 

これはウサギ肉はミンチにすると結着する力がとても強くなるからなのだけれど、それ故につかっていいウサギ肉の量まで規定されているのだ。

 

以前テレビで料理人が牧場を回る、という番組をしていた時、そのシェフが放牧されている豚をみて「とても美味しそうに育った豚ですね」というコメントをしていた。牧場主はもちろん美味しい豚肉になるように育てているので、そのコメントはとても嬉しいものなのだけれど、例えばそれをテレビ画面越しに見ている人達は料理人もしくは牧場主と同じ目線に立てるのだろうか、という疑問も残る。

 

もちろん先に書いたインスタの話はペットであり、方やテレビの話は家畜のものであるから反応の方向性が違うのも十分に承知している。けれど食の周辺を知る事で、なんとなく受け取り方も変わるのでないだろうかとも思っている。

 

インスタのウサギに美味しそうですねと返信する事と、海遊館にいるサンマや蟹を見て空腹感を感じる事、寿司屋の生け簀に泳いでいる魚をその場で活け造りにしてもらう事にどのような差があるのだろう。そしてウサギ肉を使ったフランス料理と、ウサギの排泄物を使った郷土料理に、どのような差があるというのだろう。

 

 対象に対する距離感や価値観が違うと反応は変わる。料理に関しても突き詰めれば生きるため、もしくは美味しいものを食べる為に考え、その末に生まれたものである。でもきっと、フランス料理の方にはいいねがついて、排泄料理には誰も反応しない。

 

排泄物という言葉が先に来てしまう事で、人は拒絶したり嘲笑したりするからだ。

 

しかし多数の人があがめ讃えるウニだって精巣と卵巣であり、大きなくくりで言えば排泄器官であるし、イクラだって排泄物だ。

 

本来食事をするということには、そういった複合的な矛盾も内包されているのだ。そもそもご飯を食べるという行為は食物連鎖であり、循環してきた命の流れの中に身を委ねる行為でもある。

 

とまあ、こんな話をしていては壮大になりすぎて終わりが見えず、読んでくれている人どころか書いている僕ですら何がなんだか良く分からなくなってくる。

   

だからそろそろ本題にはいろうと思うのだけれど、今回書く本題とは最初に上げた通り排泄、もうそのままうんこの話である。

 

そして今回は言葉遣いに気をつけると宣言した手前、食に関する文章の大家である開高健氏の言葉を借り、下品の代名詞である「うんこ」を「雲古」としたい。

 

これは「雲を見ながら古きを落とす」という意味をもつらしく、世界を股にかけて大草原ので排泄を経験した御大だからこその当て字だろう。

 

さて、その雲古なのだけれど、雲古を漏らすということにおいて、判定基準が人それぞれにあるはずだ。

 

ある人はトイレ以外で実が出てしまえばアウトだといい、またある人は床にブツが落ちなければセーフだといい、またある人はどこで出ようとも他人に見つからなければ大丈夫だという。

  

ちなみにではあるが、僕自身が基準にしている漏らしの定義は下着が汚れているか汚れていないかであり、この基準はおおよそ幅広く受け入れられる基準ではないかと自負している。

 

漏れても尻に挟まっているだけならばセーフ、下着についてしまえばアウトだ。

 

なぜならば、雲古がズボン、今風にいうとボトムについてしまうとこれは他人の目につくこともあり、臭いという副産物が周囲に漂って可能性が非常に高い。つまり漏れがバレるからだ。

 

バレるバレないでいえば下着は他人からは見えないしボトムによる覆いの効果があるから大丈夫ではないか、と思われるかもしれないが、漏れたものが液体だった場合、下着からボトムにしみ出してしまうのは自分が思っているより以上にはやく(そう、秋がいつのまにか冬になっているように)、周囲にバレずに処理するには早急な対処が必要となる。

 

それだけ当人を慌てさせているのだから、下着が汚れてしまった時点で問題は山積みであるといえよう。

 

なので僕は「下着が濡れればアウト」という基準を引いている。

 

しかし先日。

 

お腹の調子はすこぶる好調であり、排泄したものも若干緩くはあったが固形のもので、とてもすっきりとした満足感のあるトイレタイムを過ごした。

 

しかしこのトイレ、実は自宅ではなく会社のトイレである。

社内に僕しかいない状態であった。

 

誰もいない社内でトイレという暗がりに隠れての排泄作業、なんとも心がウキウキしますね、なんていいながら、雲古を出していた。

 

自分のお尻から出た見事な排泄を股ぐらから見下して自画自賛、これが本当の陰影礼賛ですねなんて呟きながら、さて次は紙の出番だよとトイレットペーパーを手に取ったところ、急に事務所の電話が鳴り響いた。

 

慌てた僕は手にとったペーパーを急いでお尻にあてて上下に拭いてから下着とボトムをあげ、自分の排泄物を流す事もできずに電話の元に向かった。

 

着信番号に表示されていたのは0120から始まる番号で、これはもう殆どといっていいほど業者の営業電話である。

 

落ち着いて受話器を取り、はいもしもし、とこちらが言うのをほぼ聞いていないようなタイミングで、「こんにちは!マンションの投資に興味はございませんか!今ならとてもいい物件の紹介が出来るのですが!」と言ってきた。

 

本来であれば「そんなにいい物件なのなら、自分で買わないのは何故でしょうか。まずその理由をお聞かせください」と返し、相手がしどろもどろでしてくる返答を楽しむのだけれど、今回は違った。

 

その営業の方の勢いに対して思わず椅子に腰をかけて前のめりになり「今ね、トイレに行ってたんです。まだ流してもないんです。おしりも1回しか拭けてないんです」と返すと、「そ、そうですか」とさっきの半分ぐらいのトーンで言い、そのまま電話を切られてしまった。

 

こちらの話を最後まできかないなんてなんとも失礼な奴だと憤慨しながら(糞だけに!)立ち上がってトイレに戻り、さて先ほど流し忘れていた排泄物を流そうかと思ったのだけれど、どうにもお尻に違和感を感じた。

 

一応確認の為にと、またボトムと下着を下ろして便器に腰掛けて視線を下に落とすと、やはりというかなんというか、どう見ても下着に雲古がついてるのである。

 

ちょっとまってくれ。これではまるで雲古を漏らしてしまったみたいではないか。

 

これはどうなんだ、と先にあげた自分の判断基準に照らし合わせてみたのだけれど、その判断に同席した敷田直人審判員はこの上なく綺麗なマンジを描いて「スットラーーーーッッ!!!!アーーウッツッツツッ!!!!」と言った。

 

「漏らした」という判定だ。

 

こうなると僕は冷静でおれず、その判定はおかしいではないかとベンチという名の便器から立ち上がって乱闘に向かったのだけれど、周りの選手たちは僕の情熱と綺麗に反比例して揃って冷静だった。

 

当人である下着ですら審判の判断に従って漏らしたと申告し、交代の為にこちらへトボトボと歩いてきたのである。

 

いや諦めるにはまだ早いと説得しようと思ったけれど、一度汚れたものは紙だけでは拭い取れないことは長年の経験から知っている。

冷静に対処しようとすればするほど、先は見えなくなってしまうのだ。

 

しかし本当の混乱はここから始まる。

 

ベンチ裏、ブルペンに控えの投手がいないのである。

 

監督はこの火急の事態に立ち向かう事をすでに諦めた様子で、落ち込んでいる下着の肩を抱いて、これ以上身体を冷やさないようにと下着をビニール袋に包もうとしていた。

泣きながら袋に包まれている下着は、いつもより少し重かった。 

 

そんな下着と監督を控え室に送り出し、僕は空になったマウンドを見つめながら監督の代わりに苦渋の決断をし、審判に伝達した。

 

「投手!ボトム!」

 

そう、下着を装着する事無く、そのままボトムを起用したのだ。

明日のスポーツ紙の一面に「狂った判断!!」だとか「狂気の采配!」だとか書かれてしまうことは十分に分かっているけれど、監督も控えの投手もいない今、僕にはその判断しか残されていなかった。

 

若干スースーしている下半身を気にしながら、半身は阪神に通じるね、なんて小粋なつぶやきをしてビニールに入った下着を家にもって帰るために、リュックの奥に詰め込んだ。

 

何故汚れた下着を捨てないのか、という疑問を持たれた人がいるかもしれないけれど、そのまま社内で捨ててしまっては誰かにバレてしまう可能性が高いのがまず最初の理由である。

 

また帰る途中で捨てない理由は、下着なしで帰った際に「ブルセラに下着を売ったのでは?」「変な女と関係を持って下着を取られたのでは?」「もしかしたら雲古を漏らしたのでは?」などと、妻に余計な疑い、あらぬ疑いを持たれてしまうからだ。

 

幸いな事にその日は外に出るような仕事も会社終わりの用事もなく、無事家に下着を持って帰る事ができ、妻にバレないように処理も出来た。 

 

 しかし、僕には未だ納得のいかないことがある。

 

はたしてこの一連の流れは、雲古を漏らした事になるのか、漏らしていないといえるのか、ということである。

 

確かに結果的には、誰の目から見ても漏らしたということになるのだろう。

僕自身が設定している基準に沿っても、漏らしたとなる。

 

しかし、しかしだ。

 

それは、過度な結果論に人生を左右されすぎてはいないだろうか。

確かに下着が汚れたらアウトだという判定基準を決めたのは僕だし、それを守るのもまた僕だ。

 

ただ実際の行為を時系列で並べた時、それは明確に漏らしていないという判断になるはずである。

 

トイレで排便、半固形の雲古、お尻をきちんと紙で拭く。

 

きちんとルールとマナーに則った排便である。誤算があるとすれば、拭きが甘かった事と電話対応の時に椅子に座ってしまったことだ。

 

その誤算のせいで、僕は漏らしのレッテルを貼られる事になった。どれだけ大声で漏らしていない漏らしていないと叫んだところで「でも、下着に雲古がついていたんでしょ」と言われてしまうのだ。

 

この不条理な気持ちを抱えたままではあるが、最後にもう一度言わせていただきたい。

 あなた方は、過度な結果論に人生を左右されすぎてはいないだろうか。と。

 

確かに結果は大切なのかもしれない。

しかし、本当に大切なのはそこに至るまでの過程であり、経験である。

 

僕がした一連の流れは、誰がどう言おうが漏らしの「漏」の字も介入出来ないほど丁寧な排泄だった。にもかかわらず、結果としては漏らしてしまったことになる。何度も言うが結果論で言えば、だ。

 

しかし、これは「結果論という世に蔓延するこの不条理な論調は、人の尊厳をも失わせる側面を持っている」という新たな発見である。

 

となると結果論は、過程や努力を根本から否定する事でもある。

 

どれだけ頑張っても結果が出ていない人に対して「頑張り方が間違っている」「余計な努力」「糞漏らし」「糞便大将」「下着の無駄遣い」などという戯れ言を吐くことが、本当に人として正しいのだろうか。

 

僕はそうは思わない。

 

たとえ結果が出なくても、その過程が間違っているはずがない。

人生は、答えが1つだけしかない計算式とは違う。

正しい公式からでも、間違った答えが出る事もあることもあるのだ。

 

だからこそ間違った答えを出す事を恐れず、自分が正しいと思った道を歩んでいけばいいと思う。

 

間違ったかどうかの判断を下すのは、他人ではない。自分自身なのだ。

 

だからこそ僕は胸を張って言おう。

「決して雲古は漏らしていない」と。

 

とまあ、なんでこんな事を書く為に無駄な時間と労力を使ってしまったのだろうという後悔はあるにはあるけれど、それもまた何かしらの肥やしになるだろう。

 

僕はこの経験から得た「例え電話が鳴っていても、お尻は最後まできちんと拭こう」という誓いを持ち、また今日からの人生を過ごそうと思う。

 

では。