僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

「我が輩は猫である」が「僕は猫だよ」になると、誰も読まない気がする。

昔の小説家の本を読んでいると、例えば今の時代に川端康成がいたら「伊豆の踊子」をどう書いたのだろうか、などど思う時がある。

 

それと同じ様に、今の時代に夏目漱石が「我が輩は猫である」を書いて発表したらどうなるか、というのも考えてみたりするんだけれど、なんとなくだけど最初の方だけを読んで発狂する人が多いのではないだろうか、と思う。

 

今時だから、きっとプロモーションもツイッターがメイン。

 

夏目漱石☆新刊『我が輩は猫である』発売決定!☆

 「皆様のおかげで拙ブログ、我が輩は猫であるの書籍化が決まりました!今は編集の方(本当にいい人で感謝しかない!)と最終チェック中です!!大幅に加筆修正しているので、ブログを読んでくださっている方でも楽しめる出来になっているのではないでしょうか!!ょろしくね! 」

 

みたいなツイートに対し、

 

「猫に名前をつけないのは虐待ではないでしょうか」

「そもそも猫は自分の事を我が輩だなんていわないと思います」

「薄暗いジメジメしたところにいた、と書かれていますが、それはその状況を見ていた、ということですよね。そのまま放置していたのはなぜですか」

「僕は犬が好きなのですが、主人公を猫にするのは犬差別だと思います」

「石が偉そうに文章を書くな」

 

なんてことをツイッターで書かれ、そのストレスで夏目漱石胃潰瘍が酷くなったりするかもしれない。

 

なので彼の胃腸を刺激しないようにする為「我が輩は猫である」の序文を今の時代に合わせて出来る限り書き直してみたい気持ちに駆られたので、書いてみようと思う。

 

はじめに。

 

この文章は「夏目漱石」という名前で書いており、名前に石と入ってはいるけれど石ではないのでご容赦ください。私は人です。「木の実ナナ」が芸名でありまた実際の木の実ではないように、夏目漱石も実際の石ではなく本名は金之助って言うんだけど特定はホント勘弁してください!

 

ちなみにだけど、漱石って名前は敬愛するブロガーの正岡子規さんからもらったハンドルネームです。子規さんには、この場を借りてお礼申し上げます(^o^)

 

あ、子規さんのブログは月間100万PVを越えるモンスターブログで、どの記事もしっかり笑えるものばかりなので(ちなみに一番のおすすめ記事は『今行くべきは法隆寺!柿あり鐘ありの大満足スポットにいかないなんて損してる!』です)皆さんも是非参考にしてみてくださいね。マジ面白いんで!

 

ついでに拡散希望!子規さんのブログ

 

http://sikihaku.lesp.co.jp/

  

ではこれからお話を書いていくけどあくまでも嘘のお話なので、真に受けないでくださいね。

 

■『僕は猫だよ』

(「猫である我が輩が異世界転生して人の言葉を話しちゃう件」より改題した「我が輩は猫である」よりさらに改題)

 

こんにちは!僕は猫だよ。

 

あ、なぜ犬じゃなくて猫なのかっていうと、犬は犬で可愛いんだけど猫にした方がなんとなく自由に書けるんじゃないかって思ったからだよ。それに犬にしちゃうと名前を付けるのが当たり前になって「名前はまだ無い」って書けなくなってしまうから。だってさ『我が輩は犬。名前はぽち。今日も散歩に連れて行ってもらった。ご飯食べた。終わり』ってなっちゃうと1ページも埋まらないじゃん。ね、ごめんね。だから別に犬を差別しているわけじゃないよ。

 

じゃあもう一回始めるね。

 

こんにちは!僕は猫だよ。名前はまだないの。

 

だけどこれは虐待じゃなくって名前を付けてしまうと飼い猫のイメージが強くなってしまうし、もしそうなると室内で飼われてるって印象が強くなってのちのち家の外の世界の話とかも書きたいから仕方なく野良猫っぽく見せる為の手段だよ。だから本当は名前もあるし色々お世話もしてもらってるけど、それを書いてしまうと話が広がらなくなってしまうから仕方ないんだ。だから虐待じゃないよ。本当は室内飼いなんだよ。大家さんにもきちんと飼育許可を取っていて、去勢手術、混合ワクチン(5種)もしてるよ。ノミの予防だってしてもらってる。首の後ろにポチッてするだけで回虫まで駆除出来るレボリューション最高!でもマダニが気になるって人はレボリューションじゃなくてフロントラインの方がいいかも!一度獣医師さんに確認してね。で、これはアフィブログじゃないから商品紹介は入れないよ。安心して読んでね。

 

さて、僕が生まれたのはあんまりきちんと覚えていないんだけれど、気がついたときには家の下の所で、にゃーにゃー鳴いてたよ。なんだかジメジメしているところだったのは覚えていて、そこで初めて人間を見たんだ(でもこれはあくまでもナチュラルボーン(野良のことね)を表現する為の過剰な表現で、本当は毛布や段ボールとかも置いててくれたし、風通しがいい場所でとっても快適だったよ。鳴いてたらミルクとかもくれたし、それも牛乳ではなくてきちんと子猫用のミルクだったみたい。優しいよね)。

 

あとで聞いた話なんだけど、その人は書生っていって今で言うニート、人間の中でもとっても悪い種類の人みたい。ニートは僕たちみたいな猫を捉まえて料理して食べちゃうんだって。でも僕はその時そんなこと知らなかったから、別に怖くなかったよ。そっと持ち上げられたことがあったんだけど、なんだかフワフワとした感じだった。ニートにも良いところがあるから、ニートを差別しないでよね。

 

で、その不思議な感じは今も覚えてるんだ。手のひらにのったままそのニートの顔をみたんだけど、本当なら顔に毛が生えているはずなのに毛が生えてないし、なんだかティファールのケトルみたいにツルツルしてたよ。色んな猫にあったことがあるけどこんな変な顔(本当は片輪(かたわ)って書きたかったけど、それは差別用語だからダメ!絶対!って怒られちゃった)をしているのは見たことがないくらい。別にこれは禿げている人を揶揄している訳じゃないから怒らないでね。

 

で、これもティファールのケトルみたいに顔の真ん中がすんごいとんがっていて、とんがったところにある穴から煙を出すの。すんごい煙たかった。あ、煙草かな、虐待かなって思ったでしょ。でもこれは煙草の煙じゃなくてアイコスで、水蒸気だから大丈夫。あえて猫に煙を吐きかけたりするような虐待じゃないから通報しないでね。

 

 

 

と、こんな感じで延々と続くのだろうけれど、もし本当に夏目漱石がこんなものを書かざるを得なくなったらそれこそストレスで胃潰瘍が発症しかねないと思うのでこのあたりでやめておこう。

 

しかしまあ、なんとも恐ろしい時代になったものだと思う。

 

僕が読書をするようになった切っ掛けに町田康という作家がいるのだけれど、彼の書く時代小説も本当に支離滅裂で時代考証などもあったものではない。

 

最近ツイッターで色々な事に正論をかざして苦言を呈しているような人々が散見されるけれども、そんな人達が彼の小説、例えば「パンク侍、斬られて候」なんかを読んだら、「なんだこれはけしからんあの時代にはイマジンなんて曲は発表されてなかったしプーさんなんて持っての他で腹ふり党なんて宗教は存在しなかった」といい、「というか腹ふり党に入りたくても腹を振れない人だっているんですよ、そういう人達の気持ちを考えた事があるのですか」なんてことも言うだろうし、きっとそう言う人達は凄い粘着質なのでまた別の本を読んだり彼の作っていたINU時代の音楽を引っ張りだしてきて、「『飯食うな』なんてアナーキーなことを叫んだりする人が書いた本なんて人を悪い方に煽動する愚書です」なんて言ったり「ハイカラうどんに天かすを入れないとそれはハイカラではありません」だとか愚痴愚痴言った後、個人個人が勝手にスッキリして次のターゲットを探すんだろう。

 

普段はあまりイライラしないように心がけているにも関わらずこんな気持ちになったのは、もうこれは本当に休日の愚痴を発散する為でしかない。もうごめんなさい。でも仕方ない。イライラはどこかで発散しなければ溜まってしまうのでここで吐き出す。

 

そのイライラの原因は、こちらにはずっとなんの連絡もよこしてこない状態であったにも関わらず「いや、俺は間違いなく週末にお前ん所の人手がこっちに来る様に段取りをしていた」と発狂してコールセンターに電話してきたクライアントと、「あの、なんかクライアントさんめっちゃ怒ってるんですけど、もしかして社内連絡忘れてたとかなんかミスしませんでした?」とイライラしながら連絡してきた現場社員との板挟みになっていたからである。

 

しかしそもそもそんな約束はしておらず、僕が直接クライアントに電話をして「いつ頃の約束で、誰と約束されましたか。担当窓口は僕だけなのですが、御社からそういった連絡はお受けしてません」と誠心誠意平身低頭説得し、今度は作業員に「あのクライアントさん、なんか勘違いしはってたみたいよ。今度缶コーヒーおごるからごめんチョ」と納得してもらいことなきを得たのだけれど、問題が解決しても休日を邪魔されたストレスはなかなか消えない。

 

ゲームをして気分を晴らそうにもスーパーメトロイドゼルダの伝説スーパーマリオワールドは既にクリアしており、超魔界村スターフォックスは余計なストレスがかかてしまうという賢明な判断をくだしたのでゲームは却下。

 

そんな時、そういえば僕はツタヤディスカスで借りっ放しになっていたDVDがあるではないか、と思い出してDVDのディスクをプレーヤーにセットした。借りていたDVDは2本、その内1本は既に視聴済みで「神様の思し召し」というイタリアのコメディだった。

 

この映画は本当によく出来ていて腹を抱えて笑ったのだけれど、その中には若干表現的にグレーゾーンなネタが散見され、今後はこう言った笑いも少なくなっていくのだなあ、とちょっと悲しくなったりもした。

 

しかし笑いも言葉も時代とともに移り変わるものなのでそれは仕方がない。

 

夏目漱石だってもし今の時代に生きていたら「こころ」なんてタイトルをつけずに「TO♡ HAERT」にしたかもしれないし、川端康成も「雪国」なんて言葉は古いっつって「気分はまるで雪の女王!〜アナになりたい貴方に送る感動温泉ストーリー〜」みたいになって、これはもう現代であり移動も新幹線であろうからトンネルを抜けても雪を見る間もなく到着しちゃうし国境とかもよく分からないから「東京から上越新幹線で二時間ちょっと、トンネル抜けたと思ったら、もう駅だったし」みたいになるし、今の時代に芸者じゃダメだなってなって駒子は女子高生の設定に変更、主人公はフランス文学の翻訳家ってなると感情移入がしにくいから新進気鋭ネットで大活躍のラノベ作家で、いつの間にか異世界に入り込んでて駒子は手の先から雪が出ちゃうしなぜか隕石が近づいてきて島村と駒子が「私たち、入れ替わってるぅーーーー?!」となるかもしれない。最後は駒子と入れ替わった島村が隕石をなんだかよくわからないチートパワーでぶっ壊して、

 

「いけーーーー!ズゴーーーーーーン!ドガガガガ!!!!俺は、いえ、アタシは、やった!」

 

つって、その後温泉でラッキースケベに遭遇してハーレムエンド、バスタオルで身体を隠した登場人物が皆でダンスを踊ってそのダンスが大流行になり(米どころの新潟だから米ダンス?)、もちろんポロリもあって川端康成は秒速で億を稼ぐ男となりメディアに引っ張りだこになるだろう。

 

「まあアニメ化するなら主題歌はラッドかな。まあ別にコトリンゴでもいいんだけど、それはプロデューサーに任せます」とかいいながら「じゃあ僕は疲れたんでこれで。ちょっとアレ吸ってきます」みたいにガスの代わりにハッパ吸っていれば今後も安泰。

 

まあそんな乱れた時代に生まれた僕たちはもっと過去から学ばなければならない、みたいな高尚な事を過去の僕は考えたのだろう。借りていたDVDのうち未視聴のもう1本の映画はアメリカの南北戦争の話で、米国初の黒人兵部隊であった第54部隊をテーマにした「グローリー」という映画だった。

 

これはこれでとてもいい映画だったのだけれど、やはり戦争映画であり感情移入していた人達が沢山死んでしまったので、見終わったあとになんとも言えない陰鬱とした空気になってしまった。

 

同じ部屋で別の作業をしていた妻に「なんか陰鬱とした気分になった」と伝えると彼女は「そうやね」とパソコンを見続けながら言った。そして彼女も僕と同様に、仕事の締め切りが目前に迫っていて陰鬱だった。澱んだ沼のような空気をお互いに発しながら、無言の時間が過ぎた。その後、妻はパソコンから手を離したかと思うとグラスを手に取った。

 

その手に持たれたグラスは空であり、その行く先は彼女の口元ではなく僕に差し出された。

 

妻の心情を見事に汲み取った僕は台所に向かい、妻のグラスと自分のグラスにハイボールを注ぎ、猫がオシッコをするので布団をかけていない、かつては炬燵と呼ばれていたにも関わらず今ではただの重たい机に格下げになったテーブルにハイボールを持っていった。

 

お皿に残っていたアーモンドを食べながらハイボールを飲んでいると治療中の歯にアーモンドのカスが挟まってなかなか取れなくなり、余計に陰鬱な気持ちになった。

 

そんな休日を過ごしているとなんとなく古い時代の本が読みたくなったので、僕が昔よく遊んでいた尼崎の出屋敷が舞台になった「赤目四十八滝心中未遂」という車谷長吉の本を読んでいたのだけれど、これは開高健の「日本三文オペラ」と同じ様にホルモンが物凄く食べたくなる小説だなあなんて思いながら、そういえば今通っている歯医者に「この歯が治るまでガムやグミなどは控えて下さい」と言われた時にポイフルはいいかどうかは聞いたけれど(ダメですとの事)ホルモンのミノはどうなのかを聞くのを忘れたと思い出し、結局食べたい物も食べられないので、ずっと陰鬱なままの週末だった。

 

でもこんな日常をツイッターに投稿しても「結婚出来ない人もいるんですよ」だとか「猫がいるだけで幸せですよ。飼いたくても飼えない人がいるんです」だとか「映画見てる自慢ですか」だとか「読書しているから偉いって言われたいんですか」だとか「ハイボールは神戸スタイルですか。私は氷を入れる方が好きです」だとか「いい歳をしてポイフルを食べるな」だとかの有り難い意見が飛び交うんだろうな、なんてことを考えてしまうけれど、実際問題として現在僕のツイッターアカウントはフォロー数286フォロワー数45、そのフォロワーのうち25人は何かのbotか副業おすすめアカウントなので、結局のところ何を投稿してもなんの反応もないことも目に見えている。

 

もうそれが悲しい。陰鬱。

 

最近また手荒れが酷くなってきているので、ソーセージは作っていない。

 

もうそろそろ治って欲しい。おいしいソーセージが食べたい。良く冷えたビールが美味しく感じる季節になって欲しい。寒い。陰鬱。

 

ああ、でももし杉田玄白がインスタグラマーやユーチューバーだったら、みたいなことを考えたら少し明るい気持ちになるかもしれないけれど、面倒くさいので、終わり。

 

♯作ってみた ♯エレキテル ♯電気ヤバい

 

 

 

 

誕生日のプレゼントが喜べない。

今日は僕の誕生日である。

 

通算35回目を迎えるこのイベントの最大の目玉はなんといってもプレゼント大会なのであるけれど、これが最近地味にストレスとなり、既に気が重くなってきている。

 

僕にプレゼントをくれる人間が2人いるのだけれど、内1人はもちろん妻で、彼女から頂くプレゼントはとても喜ばしいものばかりで気が重くなる要素は一つもない。

 

強いて言うなら、今年の分の誕生日プレゼントは去年の末に前払いで貰っているのでもう貰えない、という悲しさが幾分あるくらいだ。

 

その時にもらった鞄は一緒に選んだ物で、もちろん自分好みのとても使いやすい鞄である。もう1つサプライズで貰ったのはスーパーファミコンミニであり、これも毎晩の様に僕の指を筋肉痛に陥れ、毎日のように指をつらせている。

 

なぜスーパーメトロイドはあんなにも指をつる様な仕様になっているのか。

 

特にボス戦ではミサイルを連発する為に親指のみが鍛えられてしまう。このままいけば近いうちに指弾を打てる様になるのではないか、浦飯幽助に勝てるのも遠い未来の話でなないのではないかと思わせるほどに、親指を酷使する。

 

しかしこれは本当に無駄に親指を鍛えていることになり、 例えばこれが中指もしくは人差し指を鍛えられるなら夜の営みの為のトレーニングにもなり、妻に対して感謝のしるしとして、快楽の利益還元祭りができるはずなのに。

 

かの有名な「妻の股間をジャパネット」ができるはずなのに。

 

付け替え用の下着や下シーツもついてきます!分割手数料もジャパネットが持ちます!

 

そんなくだらない明るい話題だけで終わるとなんとも気分がいいのだけれど、それで終われないのが誕生日である。 

 

さて、僕にプレゼントをくれるもう1人の人間、というか、僕の気分を下げる人の話をする。

 

それは妻の父、言い換えれば社長である。

 

彼も毎年律儀にプレゼントをくれるのだけれど、これが何とも気が重たいのだ。

 

その理由は、好みの違いである。

 

彼がくれるプレゼントは、ことごとく僕が好まない物ばかりなのだ。

にもかかわらず、彼は僕の趣味に合わせた風を装って商品を購入している。

 

まず僕がどうしたものか、と思ったのは今の事務所で働きはじめた年にもらった「ぱちんこ CR銀河鉄道の夜999」と書かれたジッポライターだった。

 

僕は漫画を読む事が趣味であり、毎週月曜日には会社のセンターポジションに居座ってジャンプを読みふけっている。その時間が終わるのがあまりにおしく3度ほど読み返すこともあり、そのタイミングで電話がかかってきても取らないくらいに神聖な時間でもあり、その時間を邪魔しようとする人がいたら、精神と時の部屋に押し込めて10倍界王拳を食らわせてその力みの際に出たうんこを投げつけてやりたいくらい、大切にしている時間である。

 

社長はその様子をどこからか見て、僕が漫画が好きだと思い漫画やアニメの何かを与えていれば喜ぶのだろうと考えたのだろう。

 

そしてその結果が「ぱちんこ CR銀河鉄道の夜999」と書かれた、メーテルがメインビジュアルになっているジッポだったのだ。

 

しかし。

 

残念なことに僕はあまり銀河鉄道999が好きではなく(話が悲しいから)、さらに言うとパチンコそのものが嫌いである。しかしそのジッポには明確に「CR」「ぱちんこ」と書かれており、一体そんなものをどこで見つけてきたのだというような代物なのだけれど、きっとどこぞのショップで「ああ、彼はアニメが好きだからこれでいいだろう。喜ぶだろう」と僕がメーテルの顔が刻印されたジッポを手にとって浮かれ踊り狂喜乱舞する姿を勝手に想像し購入に至ったのだろう。

 

僕は言いたい。

 

ズレすぎてはいないか、と。

 

僕の趣味を尊重してくれたのは分かる。わざわざプレゼントを選んでくれた気持ちも嬉しい。

 

しかし、しかしだ。

 

その一つのプレゼントの中に、 なぜ僕の苦手なものが2つも入っているのだ。

 

でも彼にそこまで求めるのはとてもわがままであることも充分に承知している。

なぜならば、それは僕の内面に関することだからだ。

 

だから社長が悪い訳ではない。

 

銀河鉄道999が嫌いな僕が悪いし、ぱちんこが嫌いな僕が悪いのだ。

 

そこまでみて欲しいとは思わないし、むしろ見て欲しくもない。

 

だからこそ僕は彼の希望していた通りの反応、プレゼントの包みをあけてメーテル及びぱちんこの文字と対面し、心で泣きながら身体で喜びを表現した。

 

満足そうな社長を見た。無理をした自分を褒めてあげた。その日の夜、高熱を出した。

 

そしてそのジッポは、CRとぱちんこの文字が見えなくなるまでヤスリで削り一応つかっていたのだけれど、いつのまにかどこかにいってしまったのはまた別の話だ。

 

次に貰ったのはワニのマークが特徴的な長袖のポロシャツだった。

 

しかし僕はポロシャツを着て会社に出勤した事は1度もない。

 

またワニのマークのついた服も1着ももっておらず、そのシャツは薄暗い緑色をしていたのだけれど僕はその色の服を1着も持っておらずどちらかというと嫌いな色で、さらに言うのであればそのポロシャツにはタグがついていて新品ではあろうけれど包まれてはおらず、そのシャツが入っていた袋にはワニのマークはなく、なんだかよく分からない半透明のビニールに入っていて、彼が一体なぜそれを僕にプレゼントしたのかまったく分からなかった。

 

ぶっちゃけ、サイズも違っていた。社長のサイズに酷似していた。

 

彼は一体、何を考えてこれを僕に手渡したのだろう。

 

これでもお前は喜べるのか、という忠誠を誓う儀式だったのだろうか。

 

それとも、俺色に染まれ、という意味合いを持っていたのだろうか。

 

 

 

僕の好みどころか何も考えていないようにすら思われた。

 

しかし折角もらった物なので、次の日にそのシャツを来て会社に行ったのだけれど朝からコーヒーをこぼしてしまい、家に帰ってから猫を抱っこした際に爪が引っかかりほつれが出てしまったので、そのまま洗濯したあとに押し入れの奥にしまい込んだ。最近捨てた。

 

 

そしてその次に貰ったのはキーケースと名刺入れだった。これにもワニのマークが入っていた。

 

しかし。

 

その時の僕はキーケースを妻からもらったばかりであった。その週は昼休みになるたび会社のパソコンで楽天市場を見ながら、結構大きな声で「このキーケースがええわ」等と話をしていたので、僕がキーケースを妻に買ってもらうことはその場にいた社長も絶対に聞いていたはずである。

 

なぜその状態でキーケースを選ぶのだ。

 

僕が自分で選んで妻に買ってもらったキーケースと張りあって、勝つつもりだったのだろうか。

 

「君よりも僕の方が、君の好みを知っているんだよ」とでも言いたかったのだろうか。

 

そもそも最初から好きじゃねーよ、ワニ。名刺入れも気に入ってずっと使っているやつがあるよ。

 

 

しかしとても内気な僕には「いや、妻にちょうど買ってもらったところなんで」とは言えず、そのキーケースを手にとり、満面の笑顔で嬉しいです!と言い、手に取ってワニを眺めていたのだけれど、結局一度も鍵を付ける事なくいつの間にかワニは河に帰ってしまった。

 

そして去年、マフラーを貰った。

 

そのマフラーはカシミアの上等なものなのだけれど、基本的に僕は首元まで締まっているダウンを愛用しておりマフラーは面倒くさいので巻かない。彼も僕がマフラーを巻いている姿は1度もみたことがないはずだ。

 

なぜ社長は僕にマフラーを買おうと思ったのだろう。

 

「彼はいつもマフラーを巻いていないな。寒そうだな。そうだ、ワシがプレゼントしてあげよう。マフラーを巻く度、ワシの事思い出すかな」とでも思ったのだろうか。

 

そこまでして思い出して欲しいのなら、もっと給料を払ってくれるだけでいい。マフラーは要らない。寸志をよこせ。

 

しかしせっかく貰った物を使わないのはわるいと思う良心は僕にもあり、では巻こうではないかとダウンの下にマフラーを巻いていたのだけれど、普段マフラーを巻く習慣がなので通勤も退勤もなにか息苦しい。

 

さらに言うと社長と出勤時間も退勤時間も合わないので巻いていても見てもらう機会もなく、巻く度に社長の顔を思い浮かべてしまうので、すぐに巻くのをやめた。

 

そして今日。

 

未だプレゼントはもらっていないが、僕は既に彼が何を用意しているのかを知っている。

 

なぜ知っているのかと言いうと、朝、社長室(という名の応接室)にコーヒーを持っていった時、何気なく見た机の上に彼の手帳が開いて置いてあったからだ。

 

今日の日付のところに「◯◯(僕の名前) 時計 代一万」と書かれていたのだ。

 

しかし。

 

僕は腕時計が好きではない。社外打ち合わせの時にはしかたなく付けていくけれど、それはあくまでも相手に対しての礼儀であると考えており、むしろ以前社長と腕時計の話をしていた時に僕は「いやー、あんまり腕時計って好きじゃないんですよね」と言ったはずなのだ。

 

そして僕は今、要らない時計を貰った時の喜びをどうやって表現するのかを考えながらこの文章を書いている。

 

一万円代で買える腕時計にどんなものがあるのか僕は知らないのでさっき取り急ぎ調べてみると、チープカシオだのGショックだのが並んでいた。どうにもオシャレなものが並んでいたけれど、やっぱりどれも僕はいらないな、と思った。

 

「今回も僕ぁ本当に喜べるのかね。」と、誰に言うでもなく呟いた。

 

しかしそうは考えながらも、もしかして僕の趣味を反映しているのか、等と少し気になってきている自分もいる。

 

よく分からないアニメのイラストが刻印された時計だったらどうしよう(楽しいかもしれない)。

 

またワニのマークが入っていたらどうしよう(またネタに出来る)。 

 

というか置き時計だったらどうしよう(こうなると嫌がらせに近いかもしれない)。

 

そうこう考えている間にも、刻一刻とプレゼントの時間は近づいている。僕は今年も、誕生日を喜べないのだろうか。

 

ああ、折角の誕生日に仕事もせずにこんなことばかり考えている僕に、誰かおめでとうと言ってくれないか。

 

 

と、ここまで書いているあたりで、事務所を出る時間になっていた。

 

帰る準備をして事務所を出るとき、社長に声をかけられてプレゼントをもらった。

 

電車の時間を気にしながら箱を開けるとやはりそれは時計で、しかもその時計はとても無難で普段から使えそうだと思った。

 

嬉しい。確かにそのときは嬉しく、心からありがとうと思えたのだけれど、今、僕の心の奥には何かモヤモヤとした感情が残っている。

 

この感情はいったいなんなのだろう。

 

喜びでもない。悲しさでもない。もちろん怒りでもなく、かといって楽しいわけでもない。

 

ただ漠然と、どこにも発散できなさそうな中途半端な気持ちが未だに消えない。

 

誰か、このどうにもならない感情に、名前をつけてくれないか。

 

 

 

 

 

 

物に愛着を持つ為のたった一つの方法。

我が家では夜のご飯は僕が作り、昼のご飯は妻が事務所で作るというルーティンが基本になっている。

 

なので家にある調理器具は必然的に僕が使う事が多くなり、そのため僕の好みで選んでいるものが多いのだけれど、その調理器具の中で一際愛着を持っている物がある。

 

それは木べらである。

 

そしてその愛着はただの愛着ではなく特別な愛着である。引き出しを開けてそこに木べらが見当たらなかったらどこに行ったのか心配になるし、炒める時にその木べらがないと落ち込んでしまう(そういうとき、彼女はいつもシンクの隅で自分が洗われるのを静かに待っている。無駄に声を荒げたりしない、大人しい子なのだ)。

 

とはいえこの木べらは特に高い物ではなく、妻が一人暮らししていた頃に百均で買ったものである。もともと自分の物ですらない木べらに、なぜ愛着があるのかというのを理論的に説明するのはとても難しい気がする。別に握りやすいわけでもなく、使いやすいわけでもなく、至って普通のどこにでもある木べらである。

 

元が妻の所有物なので最初がどのような状態だったのかは分からないけれど、一緒に暮らすようになってからの6年間この木べらを使って料理してきているので、当初と比べてとてもちびってきているのは間違いない。あの、なんと呼ぶのかよく分からないのだけれど、木べらの中で「持つ」ではなく「混ぜ」を担当する部分が当初の2/3くらいになっていて、それもまた愛おしい。

 

 それだけ先がちびって古くなってきていると、妻から買い替えればと言われる事があるのだけれど、先にも書いたようこのに木べらに特別な愛着を覚えているので毎回きちんと断っている。

 

そのスリ減りと相反するように、結婚当初から比べて僕のお腹周りは3/2以上の大きさになってしまっているが、木べらが減るということはそのぶん木片が食材に混ざってしまっていることでもあり、このお腹を形成した食事及び栄養成分のうちの何割かは木べらを食べて得たことになるだろう。もしかしたらここに愛着の秘密がある気がしないでもない。

 

しかしそうなると妻も同じ様に木片を食べていることになるが、先に書いた様に木べらを新しい物に変えようと提案してきたりするので、妻は木べらに対して僕の感じている愛着ほどのものがないようにも思われ、そうであれば「食べること=愛着」にはならないことになってしまう。

 

おじいちゃんおばあちゃんが孫を見たときや、動物好きの人が子猫や子犬の動画を見た時に良く言われる台詞として「ああん、可愛すぎて食べちゃいたい」というものがあり、その「可愛すぎる」という気持ちと「それを摂取したい」という欲求に一体どう言う相関関係があるのか僕には分からないけれど、好きだと思っていたものを摂取したい、というのはもしかしたら人間の本能的なものなのかもしれないとも考えてしまう。

 

例えば僕は性行為の際、というか日常生活においても相手を舐める事が好きである。

 

俗にいう舐め専とでもいおうか、出来る事ならば妻の足の指(手の指は匂いが少ないので味気ない)を舐めながら合間にハイボールを啜りテレビゲームをしたいというのが目下の希望であり、毎年誕生日プレゼントは何がいいかと聞かれると上記の旨を伝えたのち、思う存分足の指の間を舐め回させてくださいと伝えている。

 

しかし希望というものは叶えられないからこそ希望として成立するものである。すなわち未だその願いは叶えられたことはない。

 

ただその叶わない状況は、実は幸せなことでもある。

 

もし仮に足の指舐めが毎日の出来事になったならば最初は幸せを感じるのかもしれないけれど、それが日常になってしまうと目新しさがなくなり惰性としての足の指舐めになってしまう。

 

そうなると足指舐めに対するありがたみが薄れてしまうかもしれず、そういった機微に敏感な妻は僕の感謝感動が薄れてきたと感じた瞬間から足を上げる労力もまた無駄に感じるようになり、妻もまた惰性で足をあげるようになるかもしれないからだ。

 

そうなるとかたや惰性で舐め、かたや惰性で足を上げる、惰性対惰性のぶつかり稽古になってしまう。

 

 そんな悲しい稽古、あの貴乃花でも耐えきれないだろう。

 

また惰性で足を上げる、と簡単に書いたけれど、よくよく考えるとテレビゲームをしながら足の指を舐めるというのは、舐められる方にとってそうとうな身体的な苦痛を与えてしまう懸念がある。

 

例えば最近僕はスーパーファミコンミニのスーパーメトロイドをしているのだけれど、その際座椅子に座ってテレビ画面に向かっている。そして妻はといえばその横で寝転びながら同じ画面をみているのであるが、僕に足の指を舐めさせる為には僕の顔の位置まで足を上げなければならない。

 

そうなると妻は内転筋のインナーマッスルを鍛えるときのエクササイズのような姿勢、つまり寝転びながら片足だけを上にあげる姿勢を強いられることになる。これは確実に足がつる体位だ。 そしてこの体位で挿入すると松葉崩しになるのだけれど、これは余談なのでここでは拡げない。

 

なので実際にゲームWith足舐めを敢行したとしても足を舐める時間はわずかしか取れず、そのわずかの時間の為に足がつった妻とわずかな時間しか足の指が舐められなかった僕の両方にフラストレーションがたまり、折角の誕生日は最悪の記念日になってしまう。

 

なので、未だ足舐め誕生日が開催されていないことは、幸せな状況なのである。

 

さてここからは先に書いたように、好きだから食べたいのか、食べたいからこそ好きなのか、という素朴な疑問について書きたいのだけれど、この食べたい、という感情はあくまでも比喩としての食べたいなので、ここでは舐めるとして書いていく。

 

なので、「舐める」事と「好きになる」事の相互関係についての文章となる。

 

果たして人は好きだから舐めるのか、舐めるから好きになるのか、という卵が先かニワトリが先か論争の勃発である。

 

これが決まらない事には僕がなぜ木べらに愛着を持つのかが説明出来ないし、物に愛着を持たせるということについて書けないままとなってしまう。

 

 もしこれを読んでいる人で「いやいや、好きでなければ舐められないではないか」と考える人がいるのであれば、それはまだ経験の少ない青少年もしくはウブで奥手なうら若き女性であろう。

 

あまり他人を舐めた事のない人が陥りやすい罠であり、これは試験でもよく引っ掛け問題として出されるものなので注意して欲しい。

 

基本的に舐めるのが好きな人は、別に好きな人のものでなくても舐められるのだ。

 

これがよく分からない、という人に対して、僕が昔経験した話をしたい。

 

まず前提として、僕は舐め専でありながら、脇好きでもある。

 

別に毛が生えていても毛がはえていなくてもいいけれど、いや、やはり出来れば剃り残しもしくは剃ってから2日くらいたってチクチクとした毛がつくしのように、そう、まるで雪が解けて川になって流れつくしの子が恥ずかしそうに顔を出すような状態、俗にいう「春一番状態の脇」が一番の好みであり、その脇を千歳飴の様に執拗に舐め回す僕こそがキャンディーズである。

 

世間はもうすぐ春なのかも知れないが、僕は頭の中が一年を通して春だ。

 

そしてそのつくしにプラスして、脇から汗が雪解け水のように汗が溢れ出ていようものなら、もうそれは脇を通り越して桃源郷もしくはパラダイス。

 

かの太公望は桃で水をお酒に変えたというけれど僕にとってはその雪解け水こそが酒であり抜群に酔える液体、言うなれば脇から出(いず)ストロングゼロである。

 

そんな液体がスーパーやコンビニで売られていれば速攻で飲むし買い占めるだろうし、それがファミレスのドリンクバーに並んでいようものならまずは素のまま、次はコーラ割で割って刺激を感じ、さらにオレンジで割って柑橘風味との混ざりあいを味わい、最後はメロンソーダで甘く〆るというのが脇汗に対する最低限の礼儀であろう。

 

というかそれくらいに爽やかな汗が湧き出るその脇はお酒を愛する僕にとって樽交換の必要ないビアサーバーのごとき神聖な泉であり、僕は誤って普通のキンタマをその泉に落としてしまい、そこに棲んでいる泉の精に「貴方の落としたのは金のキンタマですか、それとも銀のキンタマですか」と聞かれて少し照れながら「普通のキンタマです」っていいたいし「正直に答えた貴方にはこの金のキンタマを差し上げます」って言われたいし「でもあれですね、金のキンタマってぶっちゃけ普通のキンタマですよね」なんてたわいのない会話をしながら2人で笑い合って泉のそばにある岩に並んで座ってだべりたい。そのついでにその泉の精の脇も舐めたいし、彼女の手に握られている銀のキンタマともともと僕のものだった普通のキンタマを横目で見ながらちょっとドキドキしたい。

 

みたいな感じで脇が好きなのだけれど、以前正月にテレビを見ていたとき、お笑い芸人が並んで大喜利をしていたことがある。

 

その時、答えを思いついた芸人さん(おっさん)が手を挙げた瞬間に着物の裾から脇がちらっと見えたのだけれど、その時僕はなぜか「やっったっっっ!」と叫んでいた。

 

別におっさんが好きな訳ではない。ただ脇が、好きなだけなのだ。

 

もともとさして好きでもなかった芸人さんであるが、その脇を見てしまったあと何となく目で追いかけるようになり、いつの間にかその芸人さんが出ている番組はとりあえず録画し、気がつくとyoutubeのおすすめ動画にもその芸人さんの漫才が並ぶようになってしまった。

 

そのように、脇ありきでその人が好きになる事もあるので例えそれが「脇」でなく「舐め」であっても、どちらが先とは簡単に言いがたいものなのである。

 

さて、先に子どもや子猫に対して保護者が「食べちゃいたい」と思う欲求の源は「可愛い」であると書いたが、ではなぜその対象物を「可愛い」と思うのかと言えば、それもまた一言で書くのは難しい。

 

はなはだ今度は別の次元、恋愛における話になってしまうけれど、例えば女性が男性に感じる感情のうち、一番強力な好意感情の元は「かっこいい」でも「頼れる」でも「お金持ち」でも、ましてや「絶倫」などでもなく「可愛い」なのだという。

 

「かっこいい」はかっこわるいところを見てしまえば幻滅するし「頼れる」は頼りない一面をみてしまうとこれもまた幻滅する。「金持ち」はお金がなくなれば用なしだし「絶倫」を標榜する男はなんとなく気持ち悪い。

 

しかし可愛いの場合、かっこわるくても頼れなくてもそこが可愛いし、お金がなかったら養ってあげたい。そしてもし絶倫で可愛ければそれはもう北斗神拳最後の継承者の資格を持つようなまさに圧倒的な強さらしい。世紀末可愛い継承者。ケンシロウがもっと可愛かったら、シンもサウザーラオウも楽々倒せたはずなのに。なんて言ったって可愛いは正義なのだから。

 

「ほわっちゃーーー♡」

「うわーーー♪やられたーー(>_<)」

 

 

ではその恋愛面からみる「可愛さ」とはなんなのか。

 

それは突き詰めれば「守ってあげたくなる」という気持ちであろう。動物全般において、子どものうちは一人では生きていくことが出来ないし、俗に「可愛い」と思われる女性は儚げであったり幼さの残るようなものであり、誰しもが生きていく強さをGLAYほどに持っているわけではない。

 

なのでそれを見てしまうと、こいつこのままで大丈夫なのか、という幾分不安な気持ちが芽生え(俗にいう母性や父性というものだろうか)、結果的に守ってあげたい、となる。そういえばGLAYのジローもいくつになっても可愛いし。

 

そしてその守るという行為においては、対象物を安全な場所に移動させるというのが最重要かつ最優先事項になるのだが、ここで考えなければならないのが、一番安全な場所はどこなのだ、というものである。

 

安全な場所と聞いて思い浮かぶのは、地下シェルターや自衛隊基地、ペンタゴンや本能寺みたいなものが浮かぶかもしれないけれど、ここではこういった文化的な建造物は省いておく。なぜならば母性という感情に極近いものの話をしているからだ。なのでここで文化を出してしまうと収拾がつかなくなってしまうし、よく分からないけれど人生五十年だとかいって踊りたくなってしまうかもしれないし石田三成はいつまでたっても信用出来ないという議論に発展してしまうおそれがある。

 

で、そういった意味では一番安全なのはもちろん自分が普段生活している基盤、つまりは巣であるけど、男女雇用機会均等法が浸透してきた昨今、男女ともに巣に滞在する時間が短くなってしまっているからして、安全だと思っている巣に籠らせていたとしてもやはり目が届きにくくなる。

 

となれば一番安全な場所は自分の目が届く範囲かつすぐに手を差し伸べられる場所であり、たとえばそれは有袋類であればお腹の袋なのだろうけれど、人類がもっている袋は男性であれば玉袋であり女性であればレジ袋、男女が共通して持っているのは胃袋くらいしかないが、玉袋は熱に弱いしレジ袋はすぐに破れるのでそこに大切なものを入れるにはどうにも心もとなくなる。

 

その心もとなさを解消する為の結果、男女共に守りたいものを胃袋に収めようとするのである。

 

それゆえに「可愛い=守りたい=食べたい(舐めたい)」という図式になるのではないだろうか。

 

どれだけ考えても、もうこれ以外に「可愛い」から「食べたい」に繋がるルートは見つからない。カーナビの最新機種でもきっとこれを最短ルートに設定するだろうし、子ども電話相談室でも同じ答えが返ってくるはずだ。

 

「こんにちは。今日の相談内容をまとまると『可愛すぎて食べちゃいたいとおじいちゃんが言ってくるので、食べられてしまわないか毎日不安に襲われています。でも何よりも不快なのが、おじいちゃんの口臭です』とのことでお間違いないですか?では回答します。おじいちゃんが貴方を食べたいというのは、一種の比喩、たとえ話なので心配しなくてもいいですよ。ただ、口臭に関してはとてもデリケートな問題なので、出来れば口に出す事なく、態度で示す様にしましょう。その昔、おじいちゃんお口臭い、というCMがあったのですが、そのCMのせいで自己嫌悪の念にとらわれたおじいちゃんたちが集団で消息不明になる、という社会問題に発展しました。もし別におじいちゃんが消えてしまってもいいなら、お口臭い、と伝えましょう。わかったかな?」

 

しかし、そのような図式に気付いても、また一つここで別の疑問が生まれてしまう。

 

その疑問の発端となるのは、ツイッターやインスタグラムなどで精巧に作られたチョコレート菓子や彩りの美しい西洋菓子、季節感溢れる和菓子などを見た婦女子およびスイーツ系男子およびお菓子大好きおじさん達がよく言う、「食べるのもったいないくらい可愛い!!!」みたいな文章である。

 

その言葉が嘘偽りのない本心であるならば、彼ら彼女らは可愛いものを見た際に体内に摂取する事を拒否し、ただ傍観することこそが至高であると公言しているといっても過言ではない。

 

だがそうなると、先ほど書いた「可愛い=食べたい」の図式が当てはまらなくなってしまう恐れがある。可愛いのからこそ食べたくない。なんともわがままである。

 

けれどここで諦めてしまうのはまだ早い。忘れてはならないのは、その対象に違いがある、ということだ。その違いとはその相手が「生き物」か「食べ物」かの差である。

 

そしてさらに言えば、ここにおいて件の人々は、そもそも食べ物ではない赤ちゃんや小動物に対して「食べたい」という感情を抱き、逆に食べ物であるお菓子に対して「食べたくない」という感情を持つという、いわば異常な状態に陥ってしまっていることになる。

 

「食べ物ではないものを食べたいという気持ち」と同居する「食べ物を食べたくないという気持ち」。

 

これはいうなれば「可愛い」による本能の破壊、バイオハザードである。なにかを可愛いと思う感情は、理性を狂わせるだけでなく、本能をも破壊してしまうのだ。 

 

これを先の図式に当てはめると、

 

可愛い(生物)=守りたい=舐めたい=可愛い(食べ物)=食べたくない(舐めたくない)=守りたくない

 

となる。

 

これを一言でいえばなんなのかといえば、カオスとしか言いようがない。

 

 

なのでもう以上話を広げても本当に収集がつかなくなり、というかそれだけでは収まらずアンブレラ社から記事の削除要請がでるかもしれないし、ミラ・ジョボビッチが僕の可愛さに発狂してオマタ・ジョボビッチになってしまう懸念がある。

 

なので、今度は逆に愛でられる方から考えてみたい。

 

愛でられる対象としての最高位に君臨するのは、言うまでもなく赤ちゃんだ。

 

その赤ちゃんのもつ感覚の中で一番発達しているのは、触覚でも視覚、嗅覚でもなく味覚であるという。なので未知の物を手に取る、もしくは発見したときに、迷う事なく口にもっていき、それが何なのかを確認するのだ。

 

少し話が脱線するけれど、この率先して舐める、という行為は僕も見習いたいと思っている。

 

しかし今の年齢になってしまうとなんとも難しいもので、34歳の小汚いおっさんが初対面の人に対して「貴方は僕にとって未知の存在なので舐めさせて頂いてよろしいでしょうか」といっても断られるのは目に見えているので先は暗いし、僕が舐められたい部位は先が黒い。

 

ただこの暗闇にはひとつの光明があり、それは自分が可愛いの対象のなること、すなわち赤ちゃんになることが唯一つの解決策となる。

 

相手が赤ちゃんであれば、それが例え34歳のうすらぼけた先の黒いおっさんであっても「あれ、見た目はおっさんだけどそれとなく赤ちゃんみたいだしこれはこれである意味可愛いんじゃないかな」と錯覚させて相手の本能をぶち壊す事が可能である。

 

大胆かつ当たり前のように「自分は34歳ではあるけれども本質は赤ちゃんである」と優しく紳士的に伝えて安心感を与え、さらに見た目もそれに近づけることで予防線を張ることも忘れず、出かける時の必需品を携帯煙草鍵ではなく、よだれかけオムツおしゃぶりに変えることにする。それにより多数の人々は初対面であっても僕が舐める事を許すと思う。

 

なのでどこかでおしゃぶりを咥えてよだれかけを着け、オムツを履いて「あの、初対面ですが舐めさせてくださいませんか」と声をかけている人間をみれば、だいたい僕と思っていただいて間違いないだろう。街の悪そうな奴はだいたい友達、頭の悪そうな赤ちゃんはだいたい俺。

 

さて、話を戻そうと思うけれど、そもそも最初から脱線の一途をたどっている事もあり、ここいらで話をタイトルに繋げたいのだけれど、そもそも物に愛着を持つ為に必要なものは、密接な距離感である気がする。

 

そして人が出来うる限り密接な関係というのは、それが対人関係であれば結婚に代表されるように書類的な法的根拠を除けば、キスであり性行為である。しかしそうなると、相手が人でないもしくは法に触れる場合、密接な関係は築けない。

 

ではどうすればいいのかと言うと、もう答えは出ている。

 

上で赤ちゃんがなぜ物を舐めるのかというのを書いたが、それは別に気の迷いでも何でもない。舌はとても敏感であり、情報を収集する為にはうってつけであるからして、手で触るより舐める方が色々分かることが多い。イチゴを見ているだけでは味は分からないけれど、舐めれば甘いか酸っぱいかがすぐに分かる。

 

なのでその対象物が好きなのかどうかは、先に書いた「脇」のたとえ話のように、舐めればすぐに分かる様になるのだ。

 

そう、物に愛着を持つ為のたった一つの方法とは「舐める」のみである。「食べず嫌い」という言葉がある様に、舐めた事のない物を好きになれるはずがないのである。

 

例えばオフィスで使っているはさみに対して「なんとなく嫌い」「このはさみに愛着が持てない」と思ったとしよう。

 

その時あなたがすべきことは、新しいはさみを探すことでもそのはさみを長い間使う事でもなくすぐさまそのはさみを舐める事である。

 

それが例え人前であっても、恥ずかしがらず惜しげもなく舐める。

 

そうすると他の人からは「ああ、あの人はあのはさみが舐めたくなるほどに好きなのだな」「あの人が舐めたはさみを使いたくないな」「あのはさみが錆びたのはあいつの唾液のせいだな」と思ってもらえ、いつの間にか外堀が埋まってそのはさみはあなた専用のはさみとなり、離れられなくなるだろう。

 

あの素晴らしい愛をもう1度と歌ったのは北山修加藤和彦だけれど、オフィスではさみをなめる貴方は、あの素晴らしい錆をもう1度と呟きながら、はさみを愛でる事になる。

 

これだけ書いていても疑り深い人は「本当か」と疑われるかもしれないので、僕がまず率先してそれを証明し、皆様の今後の生活に活かしたいと思う。

 

誰しも嫌いな物の1つや2つあるはずで、僕もそれにもれず嫌いな物がいくつもある。しかしその嫌いな物でも、毎日舐めるようにすれば愛着が生まれるのは必然となる。

 

ちなみに僕が今現在一番嫌いなのは、妻の父親だ。そこで、毎日妻の父親を舐めるようになれば少しずつ好きになり、愛着が生まれる様になるということを証明出来ればいいわけだ。

 

しかし先ほども書いたけれどこれが人である場合愛着を持つ為には粘膜による結合が不可欠であるのだけれど、こういったことを文章にするだけでも本当に気持ち悪いし腹が立つ。

 

よしんば僕が頑張って妻の父親を舐め続け、その結果として相手に愛着を持ったとしても、その代償として向こうは間違いなく僕の事を嫌いになるだろう。僕だって変なおっさんが毎日舐めてこようとしたら、殺したくなるに決まっているのだから。

 

というかそもそも部下から毎日のように舌を這わされていれば、自ずとこのような言葉を言いたくなるのではないか。

 

「お前、俺の事を舐めているのか」と。

 

まあ、実際問題舐めてるのでそうですよと言うしかないのだけれど、そもそも妻の父親を舐めて愛着を持てたからって何がどうなるというのだ。というかなぜ僕が大嫌いなアイツを舐めなければならないのか。しばきまわすぞ。

 

感情は時として文章を支離滅裂にしてしまうのでここではとても抑えるけれど、部下に馬鹿にされて怒り狂う社長に僕から言える言葉は一つだけだ。

 

「好き嫌いは、舐めてからしか分からないですよ。さ、貴方も僕を舐めてみませんか」

 

まあ、冷静に書いてもこんなものだ。