僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

僕は今日も真矢に会いにいく。

誰だってLUNA SEAの真矢にレジを打ってもらったら嬉しいはずだ。間違いなく僕はそうだし、妻に聞いても「うん、まあ」と言っていたのできっと間違いない。

 

太っていた方がいい音が出ると容姿へのこだわりを捨てダイエットを諦めた真矢。

モーニング娘石黒彩と結婚してゴルフのショット姿を年賀状にする真矢。

スキンケアやアンチエイジングに造詣が深く美容系のPR記事に登場する真矢。

 

たとえそれがどんな真矢であっても、彼がレジに立っているだけで、彼がカップラーメンのバーコードをスキャンしてくれるだけで、彼が手のひらに小銭をおもりにしてレシートを手渡してくれるだけで、なぜか強くなれた気がする。

 

例えば君がいるだけで心が強くなれる。

何よりも大切な物を、真矢が気付かせてくれた。

 

 

今日は、そんな真矢に関する話だ。

 

 

 

僕は普段3つのスーパーを使い分けているのだけれど、それぞれに用途が異なっている。

 

 1つは会社からの帰り道にあるスーパーだ。

 

ここを使う理由は一つだけしかなく、それは利便性のみである。駅から家まで遠回りせずに行く事ができ、遅い時間まで開いている。

 

しかしここは品揃えもそんなに良くなく、他の2つに比べると価格も高い。特に生鮮関係は高い上にあまり商品の質もよくないので、ほとんど買わない。ここで買うメインの商品はソーセージである。これは僕の好きなえびの高原ロングウィンナーがここでしか買えないから仕方ない。そのついでに夜ご飯に不足している具材や次の日の朝に食べるパン等を少し買う程度だ。

 

質が良くない、と書いたのは僕が個人的に感じているだけなのだけれど、一応裏付けとなるような出来事があるのでひとつ上げさせてもらいたい。

 

ここのスーパーには、パートリーダーとおぼしき人がいる。

 

仕事中は他のパートやアルバイトを見張り、操り、店のトップの店長ですらも店内放送で呼び出しているような、最古参であろうおばちゃんだ。そのきびきびとした動きは軍隊の鬼軍曹を想起させ、私の歩いた跡には草木の1本も残らないわよ、埃の1つも見逃さないわよ、というほどシビアな目線で店内を見渡し、適切な指示と処理をしているスーパーのキーマン的女性だ。

 

その彼女が、別のスーパーで生鮮食品を買っている光景をよく見かけるのだ。

 

カゴには野菜や肉、魚がたっぷりと入り、勤務している店の中では見せない様な朗らかな笑顔で買物をしている。あれほどのプライドを持って仕事をしているのだから、自分のスーパーを盛り上げる為に自分の店で買物をすべきなのでは、という僕の考えは本当に素人のそれで、 「仕事は仕事、家計は家計。やはりいいものをお安く」というのが彼女の本心なのだろう。

 

彼女はオンオフを見事に切り替えるシティガールなのである。

 

そこから上に書いた様な、彼女の働くスーパーにおける生鮮の質の低さと価格の高さが導きだされる。

 

そしてその彼女が生鮮を買うスーパーこそ、僕がよく行く3つのスーパーのうちの1つでもある。

 

このスーパーは家から近いけれど、仕事の帰り道からは少しはずれた場所にある。なのでここを使うのは主に休日などの自宅で大半を過ごす日である。

 

そしてここは我が家の近所のおばちゃん達、いわばジモティも御用達のスーパーだ。焚火に集まる蛾のように、周囲の住人たちが吸い込まれていく。

 

今の家に引っ越した当初、ななめ向かいのおばちゃんにどのスーパーがいいのかを聞いたとき、真っ先に名前を挙げたのがこのスーパーだった。

 

「ああ、魚とかはやっぱりあそこがええわ。鮮度がちゃう」

 

そう笑いながら言うおばちゃんは下の前歯が1本ないけれど、それが逆にとてもチャーミングでもある。

 

月に一度回覧板を持ってくるときには、ピンクの寝間着でやってくる。月初めに雨でよれたバインダーを持って我が家を訪問する、ピンクのババア。

 

髪はいつでもベリーショート。猫が嫌いだといつも愚痴をこぼすけれど、着ている服に猫のイラストがプリントされている事がままある。我が家の猫が窓の外を眺めているときにニヤニヤ見つめていたり、その猫に話しかけたりすることもあるから、猫好きである事は間違いない。

 

しかしそれを言うと決まって「猫なんか嫌いや。実家に猫が追った時なんか、蹴飛ばしてやってたで」と言うが、以前彼女の身内が「野良猫にもご飯あげとったんやで」と言っていたので、中高年によく見受けられる何かの照れ隠しなのだろう。もしかしたら、猫と呼んでいるM属性の男がいたのかもしれないけれど、真実はいつも闇の中だ。

 

ピンクのババアは近所に住んでいる妹達ととても仲が良い。週末になると家の前には自転車が並び、夕食を共に過ごすのだという。もともとピンクババアの家族が3人で暮らしていて、自転車の台数からすると最低でもそこに4人が加わっているはずなので、最低でも7人はあの家にいることになる。

 

我が家と殆ど間取りは違わないはずなのに、どうやってあれほどたくさんの人が入るのだろうといつも余計な心配をしている。もしかしたら秘密の地下室かなにかがあるのかもしれない。ピンク・ババアと秘密の地下室。ハリー・ポッターシリーズには見受けられない様な無駄なやらしさを感じる。

 

そんなピンク・ババアとパートリーダーのおすすめのスーパーは、価格は比較的安価であり扱っている品の質はよい。

 

しかしこのスーパーのネックは店舗自体の小ささである。最初に上げたスーパーと比べると、敷地面積はおよそ半分程度である。なので、明確に「これが欲しい!」と思っていくと、ない場合もある。例えばソーセージ作りに使うハーブ類や大容量の肉類はここでは手に入らない。

 

そう言ったとき、3つ目のスーパーへと向かうことになる。

 

このスーパーは自宅から自転車で15分ほどの場所にある複合商業施設に組み込まれている。地味に遠い距離なのだけれど、敷地面積は最初に書いたスーパーの倍以上もあり、またその施設には様々な専門店もあるので、週末の買い出しは主にここにくることになる。

 

品質はといえば、うちの近所のスーパーのちょうど間くらいだろう。

 

価格は普通、品質も普通。しかし扱う商品の数は抜群に多い。なので色んな物が必要になる場合にはこのスーパーに向かう。

 

そしてこのスーパーに、真矢がいる。

 

もちろん本物の真矢ではない。しかし真矢以上に真矢に似ている。なので僕は彼の事を「真の真矢」と呼んでいる。

 

顔だけではない。体型、身長、たまに見せる笑顔。それら全てがまさに真矢であり、真矢以上に真矢を感じさせるのだ。

 

だから彼こそが真の真矢であるといえるだろう。

 

違いがあるとすれば年齢と服装くらいである。実際の真矢は50手前だけれど、スーパーの真矢は20台の前半だ。しかしその落ち着き様は実際の真矢とほぼ同じだ。彼に弟子がいても僕は驚かないし、むしろ当たり前だと思う。というか弟子入りしたいくらいだ。彼に操ってもらえるなら、僕のドラムスティックはスネアを突き破るほどにカチカチになるだろう。

 

また実際の真矢はゴルフウェアかジャケットを羽織る系のスタイリッシュな出で立ちだけれど、スーパーの真矢は規定のキャップをかぶり、エプロンを付けている。

 

しかしその着こなしは実際の真矢よりもこなれている。

 

例えばキャップ。若い人間ならすぐに鍔を曲げたがるようなものだが、彼のキャップの鍔は彼の愚直さを体現するようにいつでもまっすぐだ。しかしたった1つだけ残念なことがある。

 

キャップが彼の頭のサイズとあっていないことだ。

 

かぶる、というより、のせている、という方が正確であり、なんというか、トトロのお腹の上にのっかっているメイちゃん、と言えば分かってもらえるだろう。チョコン、という擬音が本当にしっくりとくる。

 

しかし彼はそんな些細な事は気にしていない。頭にサイズの合わないキャップをのせながら、淡々と商品をレジに通していく。

 

そしてその所作すら、真矢である。

 

正確に刻まれるピッピッピというリズムはまるでメトロノームのように正確に8ビートを刻み彼の音楽の素養を感じさせるし、隙間なくカゴに詰め込まれていく商品は重厚に音を重ねる初期のツーバスドラムを喚起させる。

 

彼が詰めたカゴの中に広がるのは、デザイア。

 

極めつけは、清算後に放たれる「袋はどういたしますか」という抑圧されたシャウトである。

 

抑圧されすぎていて、だいたい聞き返してしまう。

 

この間に至っては抑圧されすぎて本当に何を言っているのか聞き取れず、いつも通り袋だと思って「お願いします」と言うと、なぜかドライアイスを大量にくれた。

 

その優しさこそ、まさに真矢。

 

今日は平日だけれど、足を伸ばして真矢の待つスーパーに向かう。その時、僕はもうお客ではない。LUNA SEAのファンであるスレイブである。

 

真矢に会う事を週末まで待てない僕は、いつまでたってもルーザー。

 

そして叩かれるのを覚悟で言うが、僕はそもそもLUNA SEAのファンではない。

 

「我が輩は猫である」が「僕は猫だよ」になると、誰も読まない気がする。

昔の小説家の本を読んでいると、例えば今の時代に川端康成がいたら「伊豆の踊子」をどう書いたのだろうか、などど思う時がある。

 

それと同じ様に、今の時代に夏目漱石が「我が輩は猫である」を書いて発表したらどうなるか、というのも考えてみたりするんだけれど、なんとなくだけど最初の方だけを読んで発狂する人が多いのではないだろうか、と思う。

 

今時だから、きっとプロモーションもツイッターがメイン。

 

夏目漱石☆新刊『我が輩は猫である』発売決定!☆

 「皆様のおかげで拙ブログ、我が輩は猫であるの書籍化が決まりました!今は編集の方(本当にいい人で感謝しかない!)と最終チェック中です!!大幅に加筆修正しているので、ブログを読んでくださっている方でも楽しめる出来になっているのではないでしょうか!!ょろしくね! 」

 

みたいなツイートに対し、

 

「猫に名前をつけないのは虐待ではないでしょうか」

「そもそも猫は自分の事を我が輩だなんていわないと思います」

「薄暗いジメジメしたところにいた、と書かれていますが、それはその状況を見ていた、ということですよね。そのまま放置していたのはなぜですか」

「僕は犬が好きなのですが、主人公を猫にするのは犬差別だと思います」

「石が偉そうに文章を書くな」

 

なんてことをツイッターで書かれ、そのストレスで夏目漱石胃潰瘍が酷くなったりするかもしれない。

 

なので彼の胃腸を刺激しないようにする為「我が輩は猫である」の序文を今の時代に合わせて出来る限り書き直してみたい気持ちに駆られたので、書いてみようと思う。

 

はじめに。

 

この文章は「夏目漱石」という名前で書いており、名前に石と入ってはいるけれど石ではないのでご容赦ください。私は人です。「木の実ナナ」が芸名でありまた実際の木の実ではないように、夏目漱石も実際の石ではなく本名は金之助って言うんだけど特定はホント勘弁してください!

 

ちなみにだけど、漱石って名前は敬愛するブロガーの正岡子規さんからもらったハンドルネームです。子規さんには、この場を借りてお礼申し上げます(^o^)

 

あ、子規さんのブログは月間100万PVを越えるモンスターブログで、どの記事もしっかり笑えるものばかりなので(ちなみに一番のおすすめ記事は『今行くべきは法隆寺!柿あり鐘ありの大満足スポットにいかないなんて損してる!』です)皆さんも是非参考にしてみてくださいね。マジ面白いんで!

 

ついでに拡散希望!子規さんのブログ

 

http://sikihaku.lesp.co.jp/

  

ではこれからお話を書いていくけどあくまでも嘘のお話なので、真に受けないでくださいね。

 

■『僕は猫だよ』

(「猫である我が輩が異世界転生して人の言葉を話しちゃう件」より改題した「我が輩は猫である」よりさらに改題)

 

こんにちは!僕は猫だよ。

 

あ、なぜ犬じゃなくて猫なのかっていうと、犬は犬で可愛いんだけど猫にした方がなんとなく自由に書けるんじゃないかって思ったからだよ。それに犬にしちゃうと名前を付けるのが当たり前になって「名前はまだ無い」って書けなくなってしまうから。だってさ『我が輩は犬。名前はぽち。今日も散歩に連れて行ってもらった。ご飯食べた。終わり』ってなっちゃうと1ページも埋まらないじゃん。ね、ごめんね。だから別に犬を差別しているわけじゃないよ。

 

じゃあもう一回始めるね。

 

こんにちは!僕は猫だよ。名前はまだないの。

 

だけどこれは虐待じゃなくって名前を付けてしまうと飼い猫のイメージが強くなってしまうし、もしそうなると室内で飼われてるって印象が強くなってのちのち家の外の世界の話とかも書きたいから仕方なく野良猫っぽく見せる為の手段だよ。だから本当は名前もあるし色々お世話もしてもらってるけど、それを書いてしまうと話が広がらなくなってしまうから仕方ないんだ。だから虐待じゃないよ。本当は室内飼いなんだよ。大家さんにもきちんと飼育許可を取っていて、去勢手術、混合ワクチン(5種)もしてるよ。ノミの予防だってしてもらってる。首の後ろにポチッてするだけで回虫まで駆除出来るレボリューション最高!でもマダニが気になるって人はレボリューションじゃなくてフロントラインの方がいいかも!一度獣医師さんに確認してね。で、これはアフィブログじゃないから商品紹介は入れないよ。安心して読んでね。

 

さて、僕が生まれたのはあんまりきちんと覚えていないんだけれど、気がついたときには家の下の所で、にゃーにゃー鳴いてたよ。なんだかジメジメしているところだったのは覚えていて、そこで初めて人間を見たんだ(でもこれはあくまでもナチュラルボーン(野良のことね)を表現する為の過剰な表現で、本当は毛布や段ボールとかも置いててくれたし、風通しがいい場所でとっても快適だったよ。鳴いてたらミルクとかもくれたし、それも牛乳ではなくてきちんと子猫用のミルクだったみたい。優しいよね)。

 

あとで聞いた話なんだけど、その人は書生っていって今で言うニート、人間の中でもとっても悪い種類の人みたい。ニートは僕たちみたいな猫を捉まえて料理して食べちゃうんだって。でも僕はその時そんなこと知らなかったから、別に怖くなかったよ。そっと持ち上げられたことがあったんだけど、なんだかフワフワとした感じだった。ニートにも良いところがあるから、ニートを差別しないでよね。

 

で、その不思議な感じは今も覚えてるんだ。手のひらにのったままそのニートの顔をみたんだけど、本当なら顔に毛が生えているはずなのに毛が生えてないし、なんだかティファールのケトルみたいにツルツルしてたよ。色んな猫にあったことがあるけどこんな変な顔(本当は片輪(かたわ)って書きたかったけど、それは差別用語だからダメ!絶対!って怒られちゃった)をしているのは見たことがないくらい。別にこれは禿げている人を揶揄している訳じゃないから怒らないでね。

 

で、これもティファールのケトルみたいに顔の真ん中がすんごいとんがっていて、とんがったところにある穴から煙を出すの。すんごい煙たかった。あ、煙草かな、虐待かなって思ったでしょ。でもこれは煙草の煙じゃなくてアイコスで、水蒸気だから大丈夫。あえて猫に煙を吐きかけたりするような虐待じゃないから通報しないでね。

 

 

 

と、こんな感じで延々と続くのだろうけれど、もし本当に夏目漱石がこんなものを書かざるを得なくなったらそれこそストレスで胃潰瘍が発症しかねないと思うのでこのあたりでやめておこう。

 

しかしまあ、なんとも恐ろしい時代になったものだと思う。

 

僕が読書をするようになった切っ掛けに町田康という作家がいるのだけれど、彼の書く時代小説も本当に支離滅裂で時代考証などもあったものではない。

 

最近ツイッターで色々な事に正論をかざして苦言を呈しているような人々が散見されるけれども、そんな人達が彼の小説、例えば「パンク侍、斬られて候」なんかを読んだら、「なんだこれはけしからんあの時代にはイマジンなんて曲は発表されてなかったしプーさんなんて持っての他で腹ふり党なんて宗教は存在しなかった」といい、「というか腹ふり党に入りたくても腹を振れない人だっているんですよ、そういう人達の気持ちを考えた事があるのですか」なんてことも言うだろうし、きっとそう言う人達は凄い粘着質なのでまた別の本を読んだり彼の作っていたINU時代の音楽を引っ張りだしてきて、「『飯食うな』なんてアナーキーなことを叫んだりする人が書いた本なんて人を悪い方に煽動する愚書です」なんて言ったり「ハイカラうどんに天かすを入れないとそれはハイカラではありません」だとか愚痴愚痴言った後、個人個人が勝手にスッキリして次のターゲットを探すんだろう。

 

普段はあまりイライラしないように心がけているにも関わらずこんな気持ちになったのは、もうこれは本当に休日の愚痴を発散する為でしかない。もうごめんなさい。でも仕方ない。イライラはどこかで発散しなければ溜まってしまうのでここで吐き出す。

 

そのイライラの原因は、こちらにはずっとなんの連絡もよこしてこない状態であったにも関わらず「いや、俺は間違いなく週末にお前ん所の人手がこっちに来る様に段取りをしていた」と発狂してコールセンターに電話してきたクライアントと、「あの、なんかクライアントさんめっちゃ怒ってるんですけど、もしかして社内連絡忘れてたとかなんかミスしませんでした?」とイライラしながら連絡してきた現場社員との板挟みになっていたからである。

 

しかしそもそもそんな約束はしておらず、僕が直接クライアントに電話をして「いつ頃の約束で、誰と約束されましたか。担当窓口は僕だけなのですが、御社からそういった連絡はお受けしてません」と誠心誠意平身低頭説得し、今度は作業員に「あのクライアントさん、なんか勘違いしはってたみたいよ。今度缶コーヒーおごるからごめんチョ」と納得してもらいことなきを得たのだけれど、問題が解決しても休日を邪魔されたストレスはなかなか消えない。

 

ゲームをして気分を晴らそうにもスーパーメトロイドゼルダの伝説スーパーマリオワールドは既にクリアしており、超魔界村スターフォックスは余計なストレスがかかてしまうという賢明な判断をくだしたのでゲームは却下。

 

そんな時、そういえば僕はツタヤディスカスで借りっ放しになっていたDVDがあるではないか、と思い出してDVDのディスクをプレーヤーにセットした。借りていたDVDは2本、その内1本は既に視聴済みで「神様の思し召し」というイタリアのコメディだった。

 

この映画は本当によく出来ていて腹を抱えて笑ったのだけれど、その中には若干表現的にグレーゾーンなネタが散見され、今後はこう言った笑いも少なくなっていくのだなあ、とちょっと悲しくなったりもした。

 

しかし笑いも言葉も時代とともに移り変わるものなのでそれは仕方がない。

 

夏目漱石だってもし今の時代に生きていたら「こころ」なんてタイトルをつけずに「TO♡ HAERT」にしたかもしれないし、川端康成も「雪国」なんて言葉は古いっつって「気分はまるで雪の女王!〜アナになりたい貴方に送る感動温泉ストーリー〜」みたいになって、これはもう現代であり移動も新幹線であろうからトンネルを抜けても雪を見る間もなく到着しちゃうし国境とかもよく分からないから「東京から上越新幹線で二時間ちょっと、トンネル抜けたと思ったら、もう駅だったし」みたいになるし、今の時代に芸者じゃダメだなってなって駒子は女子高生の設定に変更、主人公はフランス文学の翻訳家ってなると感情移入がしにくいから新進気鋭ネットで大活躍のラノベ作家で、いつの間にか異世界に入り込んでて駒子は手の先から雪が出ちゃうしなぜか隕石が近づいてきて島村と駒子が「私たち、入れ替わってるぅーーーー?!」となるかもしれない。最後は駒子と入れ替わった島村が隕石をなんだかよくわからないチートパワーでぶっ壊して、

 

「いけーーーー!ズゴーーーーーーン!ドガガガガ!!!!俺は、いえ、アタシは、やった!」

 

つって、その後温泉でラッキースケベに遭遇してハーレムエンド、バスタオルで身体を隠した登場人物が皆でダンスを踊ってそのダンスが大流行になり(米どころの新潟だから米ダンス?)、もちろんポロリもあって川端康成は秒速で億を稼ぐ男となりメディアに引っ張りだこになるだろう。

 

「まあアニメ化するなら主題歌はラッドかな。まあ別にコトリンゴでもいいんだけど、それはプロデューサーに任せます」とかいいながら「じゃあ僕は疲れたんでこれで。ちょっとアレ吸ってきます」みたいにガスの代わりにハッパ吸っていれば今後も安泰。

 

まあそんな乱れた時代に生まれた僕たちはもっと過去から学ばなければならない、みたいな高尚な事を過去の僕は考えたのだろう。借りていたDVDのうち未視聴のもう1本の映画はアメリカの南北戦争の話で、米国初の黒人兵部隊であった第54部隊をテーマにした「グローリー」という映画だった。

 

これはこれでとてもいい映画だったのだけれど、やはり戦争映画であり感情移入していた人達が沢山死んでしまったので、見終わったあとになんとも言えない陰鬱とした空気になってしまった。

 

同じ部屋で別の作業をしていた妻に「なんか陰鬱とした気分になった」と伝えると彼女は「そうやね」とパソコンを見続けながら言った。そして彼女も僕と同様に、仕事の締め切りが目前に迫っていて陰鬱だった。澱んだ沼のような空気をお互いに発しながら、無言の時間が過ぎた。その後、妻はパソコンから手を離したかと思うとグラスを手に取った。

 

その手に持たれたグラスは空であり、その行く先は彼女の口元ではなく僕に差し出された。

 

妻の心情を見事に汲み取った僕は台所に向かい、妻のグラスと自分のグラスにハイボールを注ぎ、猫がオシッコをするので布団をかけていない、かつては炬燵と呼ばれていたにも関わらず今ではただの重たい机に格下げになったテーブルにハイボールを持っていった。

 

お皿に残っていたアーモンドを食べながらハイボールを飲んでいると治療中の歯にアーモンドのカスが挟まってなかなか取れなくなり、余計に陰鬱な気持ちになった。

 

そんな休日を過ごしているとなんとなく古い時代の本が読みたくなったので、僕が昔よく遊んでいた尼崎の出屋敷が舞台になった「赤目四十八滝心中未遂」という車谷長吉の本を読んでいたのだけれど、これは開高健の「日本三文オペラ」と同じ様にホルモンが物凄く食べたくなる小説だなあなんて思いながら、そういえば今通っている歯医者に「この歯が治るまでガムやグミなどは控えて下さい」と言われた時にポイフルはいいかどうかは聞いたけれど(ダメですとの事)ホルモンのミノはどうなのかを聞くのを忘れたと思い出し、結局食べたい物も食べられないので、ずっと陰鬱なままの週末だった。

 

でもこんな日常をツイッターに投稿しても「結婚出来ない人もいるんですよ」だとか「猫がいるだけで幸せですよ。飼いたくても飼えない人がいるんです」だとか「映画見てる自慢ですか」だとか「読書しているから偉いって言われたいんですか」だとか「ハイボールは神戸スタイルですか。私は氷を入れる方が好きです」だとか「いい歳をしてポイフルを食べるな」だとかの有り難い意見が飛び交うんだろうな、なんてことを考えてしまうけれど、実際問題として現在僕のツイッターアカウントはフォロー数286フォロワー数45、そのフォロワーのうち25人は何かのbotか副業おすすめアカウントなので、結局のところ何を投稿してもなんの反応もないことも目に見えている。

 

もうそれが悲しい。陰鬱。

 

最近また手荒れが酷くなってきているので、ソーセージは作っていない。

 

もうそろそろ治って欲しい。おいしいソーセージが食べたい。良く冷えたビールが美味しく感じる季節になって欲しい。寒い。陰鬱。

 

ああ、でももし杉田玄白がインスタグラマーやユーチューバーだったら、みたいなことを考えたら少し明るい気持ちになるかもしれないけれど、面倒くさいので、終わり。

 

♯作ってみた ♯エレキテル ♯電気ヤバい

 

 

 

 

誕生日のプレゼントが喜べない。

今日は僕の誕生日である。

 

通算35回目を迎えるこのイベントの最大の目玉はなんといってもプレゼント大会なのであるけれど、これが最近地味にストレスとなり、既に気が重くなってきている。

 

僕にプレゼントをくれる人間が2人いるのだけれど、内1人はもちろん妻で、彼女から頂くプレゼントはとても喜ばしいものばかりで気が重くなる要素は一つもない。

 

強いて言うなら、今年の分の誕生日プレゼントは去年の末に前払いで貰っているのでもう貰えない、という悲しさが幾分あるくらいだ。

 

その時にもらった鞄は一緒に選んだ物で、もちろん自分好みのとても使いやすい鞄である。もう1つサプライズで貰ったのはスーパーファミコンミニであり、これも毎晩の様に僕の指を筋肉痛に陥れ、毎日のように指をつらせている。

 

なぜスーパーメトロイドはあんなにも指をつる様な仕様になっているのか。

 

特にボス戦ではミサイルを連発する為に親指のみが鍛えられてしまう。このままいけば近いうちに指弾を打てる様になるのではないか、浦飯幽助に勝てるのも遠い未来の話でなないのではないかと思わせるほどに、親指を酷使する。

 

しかしこれは本当に無駄に親指を鍛えていることになり、 例えばこれが中指もしくは人差し指を鍛えられるなら夜の営みの為のトレーニングにもなり、妻に対して感謝のしるしとして、快楽の利益還元祭りができるはずなのに。

 

かの有名な「妻の股間をジャパネット」ができるはずなのに。

 

付け替え用の下着や下シーツもついてきます!分割手数料もジャパネットが持ちます!

 

そんなくだらない明るい話題だけで終わるとなんとも気分がいいのだけれど、それで終われないのが誕生日である。 

 

さて、僕にプレゼントをくれるもう1人の人間、というか、僕の気分を下げる人の話をする。

 

それは妻の父、言い換えれば社長である。

 

彼も毎年律儀にプレゼントをくれるのだけれど、これが何とも気が重たいのだ。

 

その理由は、好みの違いである。

 

彼がくれるプレゼントは、ことごとく僕が好まない物ばかりなのだ。

にもかかわらず、彼は僕の趣味に合わせた風を装って商品を購入している。

 

まず僕がどうしたものか、と思ったのは今の事務所で働きはじめた年にもらった「ぱちんこ CR銀河鉄道の夜999」と書かれたジッポライターだった。

 

僕は漫画を読む事が趣味であり、毎週月曜日には会社のセンターポジションに居座ってジャンプを読みふけっている。その時間が終わるのがあまりにおしく3度ほど読み返すこともあり、そのタイミングで電話がかかってきても取らないくらいに神聖な時間でもあり、その時間を邪魔しようとする人がいたら、精神と時の部屋に押し込めて10倍界王拳を食らわせてその力みの際に出たうんこを投げつけてやりたいくらい、大切にしている時間である。

 

社長はその様子をどこからか見て、僕が漫画が好きだと思い漫画やアニメの何かを与えていれば喜ぶのだろうと考えたのだろう。

 

そしてその結果が「ぱちんこ CR銀河鉄道の夜999」と書かれた、メーテルがメインビジュアルになっているジッポだったのだ。

 

しかし。

 

残念なことに僕はあまり銀河鉄道999が好きではなく(話が悲しいから)、さらに言うとパチンコそのものが嫌いである。しかしそのジッポには明確に「CR」「ぱちんこ」と書かれており、一体そんなものをどこで見つけてきたのだというような代物なのだけれど、きっとどこぞのショップで「ああ、彼はアニメが好きだからこれでいいだろう。喜ぶだろう」と僕がメーテルの顔が刻印されたジッポを手にとって浮かれ踊り狂喜乱舞する姿を勝手に想像し購入に至ったのだろう。

 

僕は言いたい。

 

ズレすぎてはいないか、と。

 

僕の趣味を尊重してくれたのは分かる。わざわざプレゼントを選んでくれた気持ちも嬉しい。

 

しかし、しかしだ。

 

その一つのプレゼントの中に、 なぜ僕の苦手なものが2つも入っているのだ。

 

でも彼にそこまで求めるのはとてもわがままであることも充分に承知している。

なぜならば、それは僕の内面に関することだからだ。

 

だから社長が悪い訳ではない。

 

銀河鉄道999が嫌いな僕が悪いし、ぱちんこが嫌いな僕が悪いのだ。

 

そこまでみて欲しいとは思わないし、むしろ見て欲しくもない。

 

だからこそ僕は彼の希望していた通りの反応、プレゼントの包みをあけてメーテル及びぱちんこの文字と対面し、心で泣きながら身体で喜びを表現した。

 

満足そうな社長を見た。無理をした自分を褒めてあげた。その日の夜、高熱を出した。

 

そしてそのジッポは、CRとぱちんこの文字が見えなくなるまでヤスリで削り一応つかっていたのだけれど、いつのまにかどこかにいってしまったのはまた別の話だ。

 

次に貰ったのはワニのマークが特徴的な長袖のポロシャツだった。

 

しかし僕はポロシャツを着て会社に出勤した事は1度もない。

 

またワニのマークのついた服も1着ももっておらず、そのシャツは薄暗い緑色をしていたのだけれど僕はその色の服を1着も持っておらずどちらかというと嫌いな色で、さらに言うのであればそのポロシャツにはタグがついていて新品ではあろうけれど包まれてはおらず、そのシャツが入っていた袋にはワニのマークはなく、なんだかよく分からない半透明のビニールに入っていて、彼が一体なぜそれを僕にプレゼントしたのかまったく分からなかった。

 

ぶっちゃけ、サイズも違っていた。社長のサイズに酷似していた。

 

彼は一体、何を考えてこれを僕に手渡したのだろう。

 

これでもお前は喜べるのか、という忠誠を誓う儀式だったのだろうか。

 

それとも、俺色に染まれ、という意味合いを持っていたのだろうか。

 

 

 

僕の好みどころか何も考えていないようにすら思われた。

 

しかし折角もらった物なので、次の日にそのシャツを来て会社に行ったのだけれど朝からコーヒーをこぼしてしまい、家に帰ってから猫を抱っこした際に爪が引っかかりほつれが出てしまったので、そのまま洗濯したあとに押し入れの奥にしまい込んだ。最近捨てた。

 

 

そしてその次に貰ったのはキーケースと名刺入れだった。これにもワニのマークが入っていた。

 

しかし。

 

その時の僕はキーケースを妻からもらったばかりであった。その週は昼休みになるたび会社のパソコンで楽天市場を見ながら、結構大きな声で「このキーケースがええわ」等と話をしていたので、僕がキーケースを妻に買ってもらうことはその場にいた社長も絶対に聞いていたはずである。

 

なぜその状態でキーケースを選ぶのだ。

 

僕が自分で選んで妻に買ってもらったキーケースと張りあって、勝つつもりだったのだろうか。

 

「君よりも僕の方が、君の好みを知っているんだよ」とでも言いたかったのだろうか。

 

そもそも最初から好きじゃねーよ、ワニ。名刺入れも気に入ってずっと使っているやつがあるよ。

 

 

しかしとても内気な僕には「いや、妻にちょうど買ってもらったところなんで」とは言えず、そのキーケースを手にとり、満面の笑顔で嬉しいです!と言い、手に取ってワニを眺めていたのだけれど、結局一度も鍵を付ける事なくいつの間にかワニは河に帰ってしまった。

 

そして去年、マフラーを貰った。

 

そのマフラーはカシミアの上等なものなのだけれど、基本的に僕は首元まで締まっているダウンを愛用しておりマフラーは面倒くさいので巻かない。彼も僕がマフラーを巻いている姿は1度もみたことがないはずだ。

 

なぜ社長は僕にマフラーを買おうと思ったのだろう。

 

「彼はいつもマフラーを巻いていないな。寒そうだな。そうだ、ワシがプレゼントしてあげよう。マフラーを巻く度、ワシの事思い出すかな」とでも思ったのだろうか。

 

そこまでして思い出して欲しいのなら、もっと給料を払ってくれるだけでいい。マフラーは要らない。寸志をよこせ。

 

しかしせっかく貰った物を使わないのはわるいと思う良心は僕にもあり、では巻こうではないかとダウンの下にマフラーを巻いていたのだけれど、普段マフラーを巻く習慣がなので通勤も退勤もなにか息苦しい。

 

さらに言うと社長と出勤時間も退勤時間も合わないので巻いていても見てもらう機会もなく、巻く度に社長の顔を思い浮かべてしまうので、すぐに巻くのをやめた。

 

そして今日。

 

未だプレゼントはもらっていないが、僕は既に彼が何を用意しているのかを知っている。

 

なぜ知っているのかと言いうと、朝、社長室(という名の応接室)にコーヒーを持っていった時、何気なく見た机の上に彼の手帳が開いて置いてあったからだ。

 

今日の日付のところに「◯◯(僕の名前) 時計 代一万」と書かれていたのだ。

 

しかし。

 

僕は腕時計が好きではない。社外打ち合わせの時にはしかたなく付けていくけれど、それはあくまでも相手に対しての礼儀であると考えており、むしろ以前社長と腕時計の話をしていた時に僕は「いやー、あんまり腕時計って好きじゃないんですよね」と言ったはずなのだ。

 

そして僕は今、要らない時計を貰った時の喜びをどうやって表現するのかを考えながらこの文章を書いている。

 

一万円代で買える腕時計にどんなものがあるのか僕は知らないのでさっき取り急ぎ調べてみると、チープカシオだのGショックだのが並んでいた。どうにもオシャレなものが並んでいたけれど、やっぱりどれも僕はいらないな、と思った。

 

「今回も僕ぁ本当に喜べるのかね。」と、誰に言うでもなく呟いた。

 

しかしそうは考えながらも、もしかして僕の趣味を反映しているのか、等と少し気になってきている自分もいる。

 

よく分からないアニメのイラストが刻印された時計だったらどうしよう(楽しいかもしれない)。

 

またワニのマークが入っていたらどうしよう(またネタに出来る)。 

 

というか置き時計だったらどうしよう(こうなると嫌がらせに近いかもしれない)。

 

そうこう考えている間にも、刻一刻とプレゼントの時間は近づいている。僕は今年も、誕生日を喜べないのだろうか。

 

ああ、折角の誕生日に仕事もせずにこんなことばかり考えている僕に、誰かおめでとうと言ってくれないか。

 

 

と、ここまで書いているあたりで、事務所を出る時間になっていた。

 

帰る準備をして事務所を出るとき、社長に声をかけられてプレゼントをもらった。

 

電車の時間を気にしながら箱を開けるとやはりそれは時計で、しかもその時計はとても無難で普段から使えそうだと思った。

 

嬉しい。確かにそのときは嬉しく、心からありがとうと思えたのだけれど、今、僕の心の奥には何かモヤモヤとした感情が残っている。

 

この感情はいったいなんなのだろう。

 

喜びでもない。悲しさでもない。もちろん怒りでもなく、かといって楽しいわけでもない。

 

ただ漠然と、どこにも発散できなさそうな中途半端な気持ちが未だに消えない。

 

誰か、このどうにもならない感情に、名前をつけてくれないか。