僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

「陰毛がサラサラやとモテるんやで」と浮浪者は言った。

婚活のパーティーなどにおいて、男は自己紹介プレートに年収をかく欄があって女性にはない、という話を聞いたことがある。そして最近また別の場所から、男は年収、女は得意料理を書くこともある、というのを聞いた。

 

だからといって、僕は別にそれが男女差別だとか不条理だとかとわめきたい訳ではない。むしろ僕がこの話を聞いて思ったのは、参加する人達はもっと自分勝手に書き足せばいいのに、という一点のみである。

 

僕が中学生のとき、校内では上履きを履く、というルールがあった。その上履きは学校指定のものであり学年毎に色は違っていたのだけれど、それ以外に違いはなくみんな同じ物を履いていた。

 

もちろん名前を書くことも定められているのだけれど、この時期の子供たちは自分の持ち物に名前を書くことに抵抗がある年代でもある。

 

その抵抗の元は大体が中学に入る直前にある小学校最後の思い出、修学旅行における風呂場での下着忘れである。

 

翌日の全体朝礼での「◯◯!風呂場に下着があったので取りにきなさい!」という、優しさという名の公開処刑は、誰もが通過する儀礼であろう。

 

そして中学生であれば殆どの人間がその優しさの犠牲者もしくは閲覧者になっているからして「自分の持ち物には名前を書かない」という誓いを立てているのである。優しさは時に人の心をも殺すのだ。

 

しかし持ち物に名前を書かないとなると、必然的に学年集会やクラス単位での移動になった際、どれが自分の上履きなのか分からなくなることが多発する。

 

なので各々上履きに名前を書くのではなく自分にしか分からない目印をつけたりするようになるのだ。

 

☆や♡マーク、それに類する分かりやすい可愛い物から米印という無骨な物。また仲の良いグループは共通のマークを上履きに書くことで、その集団の一員であることを提示していたりもした。

 

ただこういったものは、過剰へ過剰へと流れていくのが必然である。シンナーでは満足出来ずに合法ドラッグに、もっと快楽を求めようとコカインへと至ってしまうように、上履きに対する落書きの上書きは精神的快楽をもたらすのだろう。

 

マークだけでは満足出来なくなった人達が、段々と文章を書く様になっていった。

 

彼ら、彼女らの上履きには記号ではあきたらず「俺の上履き」や「誰の物でもない」「布施明Love」といったような自分の名前を出さずに自分の所有をアピールする言葉が散りばめられた。

 

さらにそれが加速し「一生守る」「純愛」と言ったいきなりの誓いがあったと思えば、「3代目暴走天使」「初代パタリロ」や「喧嘩上等」「君は薔薇より美しい」といったようなヤンキー・暴走族文化に憧れたような文字が並び、また別の集団の上履きには「人生はかけ算だ。君がゼロなら意味がない」といったような326の詩をパクったような文章が書かれていたりもしたし、なんなら上履きに「326」と書いている人もいた。

 

今だから言うけれど、お前の名前は森岡だ。

 

ただ僕はと言えばそれらを見ていただけであり、まったく落書きという物をしなかった。というか、上履きに何かを書くこと自体に意味を見いだせなかった。

 

それだけ皆が落書きをしていたので無地の方が少なかったのと、一度も洗わなかったので汚れの度合いが他の上履きよりも酷く、その黒ずみと匂いだけで自分のものが分かったからというのも、落書きをしなかった理由である。彼らからすればきっとゼロ以下、かける価値すらない存在だったのだろう。パクった所でマジで臭かったし。人生をかけるより漂白剤をかけたいくらいのものだった。

 

かといって学校がその過剰な落書きを制限しなかったわけではない。先生方は「余計なことは書くな、名前だけをかけ」と口を酸っぱくして言っていたのだけれど、いつの時代にも法の穴をかいくぐろうとする奴はいて、1人の人間が極太ゴシックで上履き全体に自分の名字を書き「名前を大きく書いただけです」と言ったあたりからその制限も緩くなりだした。

 

落書きは加速度的に増えていき、ある決定が下されるまでに学生たちの上履きは森の貴婦人と呼ばれるオカピの模様のように複雑な柄になっていた。

 

その決定とは上履きそのものの撤廃である。

 

撤廃となった理由は、上履きに履き替えたあとにロッカーに置かれていた自前の靴の盗難被害が増加したからである。

 

奇しくもスニーカー狩りが流行った時代であり、我が中学校でもスニーカーが取られる人が多数いた。その犯罪行為が上履きの過剰装飾を駆逐したのはなんとも皮肉なものだ。というか、ナイキであれば盗まれる、というのも異常だった気がする。

 

話を戻すがそのように婚活に置けるネームプレートも、個性を全面に出してみてもいいのではないか、と思う次第である。

 

男性が名前と年収、年齢しか書けないのであれば、名前を極小さく書き、空白部分に個性を光らせる。

 

「森岡 29歳 年収:250万 ※胸の真ん中にホクロがあって遠くから見ると乳首が3つに見える」

 

「早乙女 33歳 年収:330万 ※耳の後ろから老婆の匂いがする」

 

「木村 45歳 年収:1,000万 ※犬と暮らしているが何もしていないのに犬が股間に顔を埋める」

 

みたいなことを書いておけば自ずと会話が広がり、またお金目当てではない人と繋がれるのではないか。

 

森岡さんなら「え、乳首が3つに見えるって素敵ですね。今度、私の友達と一緒にないとプールに行きませんか?」みたいに思わぬ誘いがくるかもしれないし、その友達にも笑いを提供出来るかもしれない。その友達が火のついた煙草を押し付けてきて「これでケンシロウになれましたね」なんて笑顔で言ってくればもうそれは世紀末。世も末。広末。

 

早乙女さんなら「あー、ワタシおばあちゃん子だったんです。1回嗅がせてもらっていいですか?あ、ホントにおばあちゃんの匂いだ!」と言われ、そのままベッドイン出来るかもしれない。きんたまの袋を触られながら「おばあちゃんのほっぺたもこれくらいしわしわで柔らかかった」なんて笑顔で言われたら即昇天。

 

木村さんはもう「犬が嗅ぎたくなる股間ってどんなのですか」と女性たちが前に行列を作って股間を嗅ぎにくるのは間違いないしむしろ年収をみてそのまま舐めるかもしれないし、そのお返しに女性方の股間の匂いを嗅ぐことだってできるだろう。紳士たるもの、返礼を忘れてはいけないのはどの業界でも一緒である。無臭、チーズ、ザリガニ、たくあん。貴方の前には珍味の香りが並ぶだろう。年収も高いし。

 

では逆に女性側の個性の光らせ方は、と問われるだろうから、ここに記しておきたい。

 

以前までの僕であれば、もうエロいことを書くだけだ、と答えただろうけれど、このご時世ではそれはあまりにリスクが大きく、また僕自身も成長していることをアピールするために別のベクトルで返答したいと思う。

 

そもそも最近の男性が女性に対して何を求めているのか。

 

最初に書いたように、婚活サイトで得意料理を書かされる、というものからして、今の男性が求めるているものをサイト側がきちんと把握出来ていないことが手に取る様にわかる。

 

こういう人達は、未だに「毎朝僕にみそ汁を作ってくれないか」が最良のプロポーズだと信じているのだろう。

 

しかし、今のトレンドは「料理」ではなく「許容度」だと思われる。

 

許容度、と簡単にかいたが、これは「どれだけ自分の行動を受け入れてもらえるか」というものである。

 

基本的に男とというものは自分勝手である。

 

お金が入ったらまず自分が欲しい物を躊躇なく買いながら、デートの際に「お金がない」とのたまう。「食べたいもの何?」と聞いておきながら相手が幸せのパンケーキやスープデリと言おうものなら一気に機嫌が悪くなる。

 

なぜ機嫌が悪くなるのかと言えば、パンケーキよりもパンクラス、スープデリよりもソープとデリをこよなく愛するのが男というものだからだ。

 

パンケーキを食べにいく約束をなしにしてパンクラスを見に行くことを許してくれる女性や、一緒にスープを飲みにいくよりデリバリーで届くラブジュースを飲みたいと求めるのが男性なのだ。

 

一言で言えば、馬鹿なのである。

 

なので、女性はネームプレートに自分がどれだけの馬鹿を受容出来るかをかけばよいと思う。

 

「広末:どれだけキャンドルを家に持ち込んでも怒りません」

 

「 松井:掃除は私がしますが、尾行されるのは怖いので嫌です。」

 

八角:どんな行動でも許すと思いますが、報告だけはきちんとして欲しい」

 

キャンドルをどれだけ持ち込んでも怒らない女子であれば、コレクター趣味のある男性が声をかけるはずだし、尾行が怖いけど掃除を綺麗にしてくれる人であれば一日に5回くらい電話してあげたり居場所を教える為にGPS付きの携帯を持ったりすれば相手も安心してくれて家も綺麗になるのでもう男性は夢中になるはずで、報告だけすればいいのであればもうどんなことも気にしないでいい。何をしても可愛がってくれる人、というのは、全男性の憧れの的になるだろう。かわいがり最高。

 

このように、ネームプレートには自分の紹介だけではなく、素敵な未来も描きたいものである。

 

 

しかし上記の様に自分のことをきちんと理解出来ている人は結構少ない。

 

自分には何もない、ホクロもないしおばあちゃんの匂いもしない、犬も飼っていないしキャンドルも持っていない。ユーチューバーでもなければ理事長でもないという方もいるかもしれない。

 

そんな悩みを解消できるように、最後に僕が昔仲の良かった浮浪者に教えてもらった、男女に共通する「モテの極意」を伝えたいと思う。

 

 

「あんな、陰毛にリンスしたらな、風俗嬢がめっちゃ喜ぶねんで。あれでワシ、めっちゃモテてん」

 

ということである。

 

 

 

「ゲロ:35歳。年収240万円。陰毛がリンスでサラサラです」

 

 

これで僕もモテモテ。

 

 

 

僕は今日も真矢に会いにいく。

誰だってLUNA SEAの真矢にレジを打ってもらったら嬉しいはずだ。間違いなく僕はそうだし、妻に聞いても「うん、まあ」と言っていたのできっと間違いない。

 

太っていた方がいい音が出ると容姿へのこだわりを捨てダイエットを諦めた真矢。

モーニング娘石黒彩と結婚してゴルフのショット姿を年賀状にする真矢。

スキンケアやアンチエイジングに造詣が深く美容系のPR記事に登場する真矢。

 

たとえそれがどんな真矢であっても、彼がレジに立っているだけで、彼がカップラーメンのバーコードをスキャンしてくれるだけで、彼が手のひらに小銭をおもりにしてレシートを手渡してくれるだけで、なぜか強くなれた気がする。

 

例えば君がいるだけで心が強くなれる。

何よりも大切な物を、真矢が気付かせてくれた。

 

 

今日は、そんな真矢に関する話だ。

 

 

 

僕は普段3つのスーパーを使い分けているのだけれど、それぞれに用途が異なっている。

 

 1つは会社からの帰り道にあるスーパーだ。

 

ここを使う理由は一つだけしかなく、それは利便性のみである。駅から家まで遠回りせずに行く事ができ、遅い時間まで開いている。

 

しかしここは品揃えもそんなに良くなく、他の2つに比べると価格も高い。特に生鮮関係は高い上にあまり商品の質もよくないので、ほとんど買わない。ここで買うメインの商品はソーセージである。これは僕の好きなえびの高原ロングウィンナーがここでしか買えないから仕方ない。そのついでに夜ご飯に不足している具材や次の日の朝に食べるパン等を少し買う程度だ。

 

質が良くない、と書いたのは僕が個人的に感じているだけなのだけれど、一応裏付けとなるような出来事があるのでひとつ上げさせてもらいたい。

 

ここのスーパーには、パートリーダーとおぼしき人がいる。

 

仕事中は他のパートやアルバイトを見張り、操り、店のトップの店長ですらも店内放送で呼び出しているような、最古参であろうおばちゃんだ。そのきびきびとした動きは軍隊の鬼軍曹を想起させ、私の歩いた跡には草木の1本も残らないわよ、埃の1つも見逃さないわよ、というほどシビアな目線で店内を見渡し、適切な指示と処理をしているスーパーのキーマン的女性だ。

 

その彼女が、別のスーパーで生鮮食品を買っている光景をよく見かけるのだ。

 

カゴには野菜や肉、魚がたっぷりと入り、勤務している店の中では見せない様な朗らかな笑顔で買物をしている。あれほどのプライドを持って仕事をしているのだから、自分のスーパーを盛り上げる為に自分の店で買物をすべきなのでは、という僕の考えは本当に素人のそれで、 「仕事は仕事、家計は家計。やはりいいものをお安く」というのが彼女の本心なのだろう。

 

彼女はオンオフを見事に切り替えるシティガールなのである。

 

そこから上に書いた様な、彼女の働くスーパーにおける生鮮の質の低さと価格の高さが導きだされる。

 

そしてその彼女が生鮮を買うスーパーこそ、僕がよく行く3つのスーパーのうちの1つでもある。

 

このスーパーは家から近いけれど、仕事の帰り道からは少しはずれた場所にある。なのでここを使うのは主に休日などの自宅で大半を過ごす日である。

 

そしてここは我が家の近所のおばちゃん達、いわばジモティも御用達のスーパーだ。焚火に集まる蛾のように、周囲の住人たちが吸い込まれていく。

 

今の家に引っ越した当初、ななめ向かいのおばちゃんにどのスーパーがいいのかを聞いたとき、真っ先に名前を挙げたのがこのスーパーだった。

 

「ああ、魚とかはやっぱりあそこがええわ。鮮度がちゃう」

 

そう笑いながら言うおばちゃんは下の前歯が1本ないけれど、それが逆にとてもチャーミングでもある。

 

月に一度回覧板を持ってくるときには、ピンクの寝間着でやってくる。月初めに雨でよれたバインダーを持って我が家を訪問する、ピンクのババア。

 

髪はいつでもベリーショート。猫が嫌いだといつも愚痴をこぼすけれど、着ている服に猫のイラストがプリントされている事がままある。我が家の猫が窓の外を眺めているときにニヤニヤ見つめていたり、その猫に話しかけたりすることもあるから、猫好きである事は間違いない。

 

しかしそれを言うと決まって「猫なんか嫌いや。実家に猫が追った時なんか、蹴飛ばしてやってたで」と言うが、以前彼女の身内が「野良猫にもご飯あげとったんやで」と言っていたので、中高年によく見受けられる何かの照れ隠しなのだろう。もしかしたら、猫と呼んでいるM属性の男がいたのかもしれないけれど、真実はいつも闇の中だ。

 

ピンクのババアは近所に住んでいる妹達ととても仲が良い。週末になると家の前には自転車が並び、夕食を共に過ごすのだという。もともとピンクババアの家族が3人で暮らしていて、自転車の台数からすると最低でもそこに4人が加わっているはずなので、最低でも7人はあの家にいることになる。

 

我が家と殆ど間取りは違わないはずなのに、どうやってあれほどたくさんの人が入るのだろうといつも余計な心配をしている。もしかしたら秘密の地下室かなにかがあるのかもしれない。ピンク・ババアと秘密の地下室。ハリー・ポッターシリーズには見受けられない様な無駄なやらしさを感じる。

 

そんなピンク・ババアとパートリーダーのおすすめのスーパーは、価格は比較的安価であり扱っている品の質はよい。

 

しかしこのスーパーのネックは店舗自体の小ささである。最初に上げたスーパーと比べると、敷地面積はおよそ半分程度である。なので、明確に「これが欲しい!」と思っていくと、ない場合もある。例えばソーセージ作りに使うハーブ類や大容量の肉類はここでは手に入らない。

 

そう言ったとき、3つ目のスーパーへと向かうことになる。

 

このスーパーは自宅から自転車で15分ほどの場所にある複合商業施設に組み込まれている。地味に遠い距離なのだけれど、敷地面積は最初に書いたスーパーの倍以上もあり、またその施設には様々な専門店もあるので、週末の買い出しは主にここにくることになる。

 

品質はといえば、うちの近所のスーパーのちょうど間くらいだろう。

 

価格は普通、品質も普通。しかし扱う商品の数は抜群に多い。なので色んな物が必要になる場合にはこのスーパーに向かう。

 

そしてこのスーパーに、真矢がいる。

 

もちろん本物の真矢ではない。しかし真矢以上に真矢に似ている。なので僕は彼の事を「真の真矢」と呼んでいる。

 

顔だけではない。体型、身長、たまに見せる笑顔。それら全てがまさに真矢であり、真矢以上に真矢を感じさせるのだ。

 

だから彼こそが真の真矢であるといえるだろう。

 

違いがあるとすれば年齢と服装くらいである。実際の真矢は50手前だけれど、スーパーの真矢は20台の前半だ。しかしその落ち着き様は実際の真矢とほぼ同じだ。彼に弟子がいても僕は驚かないし、むしろ当たり前だと思う。というか弟子入りしたいくらいだ。彼に操ってもらえるなら、僕のドラムスティックはスネアを突き破るほどにカチカチになるだろう。

 

また実際の真矢はゴルフウェアかジャケットを羽織る系のスタイリッシュな出で立ちだけれど、スーパーの真矢は規定のキャップをかぶり、エプロンを付けている。

 

しかしその着こなしは実際の真矢よりもこなれている。

 

例えばキャップ。若い人間ならすぐに鍔を曲げたがるようなものだが、彼のキャップの鍔は彼の愚直さを体現するようにいつでもまっすぐだ。しかしたった1つだけ残念なことがある。

 

キャップが彼の頭のサイズとあっていないことだ。

 

かぶる、というより、のせている、という方が正確であり、なんというか、トトロのお腹の上にのっかっているメイちゃん、と言えば分かってもらえるだろう。チョコン、という擬音が本当にしっくりとくる。

 

しかし彼はそんな些細な事は気にしていない。頭にサイズの合わないキャップをのせながら、淡々と商品をレジに通していく。

 

そしてその所作すら、真矢である。

 

正確に刻まれるピッピッピというリズムはまるでメトロノームのように正確に8ビートを刻み彼の音楽の素養を感じさせるし、隙間なくカゴに詰め込まれていく商品は重厚に音を重ねる初期のツーバスドラムを喚起させる。

 

彼が詰めたカゴの中に広がるのは、デザイア。

 

極めつけは、清算後に放たれる「袋はどういたしますか」という抑圧されたシャウトである。

 

抑圧されすぎていて、だいたい聞き返してしまう。

 

この間に至っては抑圧されすぎて本当に何を言っているのか聞き取れず、いつも通り袋だと思って「お願いします」と言うと、なぜかドライアイスを大量にくれた。

 

その優しさこそ、まさに真矢。

 

今日は平日だけれど、足を伸ばして真矢の待つスーパーに向かう。その時、僕はもうお客ではない。LUNA SEAのファンであるスレイブである。

 

真矢に会う事を週末まで待てない僕は、いつまでたってもルーザー。

 

そして叩かれるのを覚悟で言うが、僕はそもそもLUNA SEAのファンではない。

 

「我が輩は猫である」が「僕は猫だよ」になると、誰も読まない気がする。

昔の小説家の本を読んでいると、例えば今の時代に川端康成がいたら「伊豆の踊子」をどう書いたのだろうか、などど思う時がある。

 

それと同じ様に、今の時代に夏目漱石が「我が輩は猫である」を書いて発表したらどうなるか、というのも考えてみたりするんだけれど、なんとなくだけど最初の方だけを読んで発狂する人が多いのではないだろうか、と思う。

 

今時だから、きっとプロモーションもツイッターがメイン。

 

夏目漱石☆新刊『我が輩は猫である』発売決定!☆

 「皆様のおかげで拙ブログ、我が輩は猫であるの書籍化が決まりました!今は編集の方(本当にいい人で感謝しかない!)と最終チェック中です!!大幅に加筆修正しているので、ブログを読んでくださっている方でも楽しめる出来になっているのではないでしょうか!!ょろしくね! 」

 

みたいなツイートに対し、

 

「猫に名前をつけないのは虐待ではないでしょうか」

「そもそも猫は自分の事を我が輩だなんていわないと思います」

「薄暗いジメジメしたところにいた、と書かれていますが、それはその状況を見ていた、ということですよね。そのまま放置していたのはなぜですか」

「僕は犬が好きなのですが、主人公を猫にするのは犬差別だと思います」

「石が偉そうに文章を書くな」

 

なんてことをツイッターで書かれ、そのストレスで夏目漱石胃潰瘍が酷くなったりするかもしれない。

 

なので彼の胃腸を刺激しないようにする為「我が輩は猫である」の序文を今の時代に合わせて出来る限り書き直してみたい気持ちに駆られたので、書いてみようと思う。

 

はじめに。

 

この文章は「夏目漱石」という名前で書いており、名前に石と入ってはいるけれど石ではないのでご容赦ください。私は人です。「木の実ナナ」が芸名でありまた実際の木の実ではないように、夏目漱石も実際の石ではなく本名は金之助って言うんだけど特定はホント勘弁してください!

 

ちなみにだけど、漱石って名前は敬愛するブロガーの正岡子規さんからもらったハンドルネームです。子規さんには、この場を借りてお礼申し上げます(^o^)

 

あ、子規さんのブログは月間100万PVを越えるモンスターブログで、どの記事もしっかり笑えるものばかりなので(ちなみに一番のおすすめ記事は『今行くべきは法隆寺!柿あり鐘ありの大満足スポットにいかないなんて損してる!』です)皆さんも是非参考にしてみてくださいね。マジ面白いんで!

 

ついでに拡散希望!子規さんのブログ

 

http://sikihaku.lesp.co.jp/

  

ではこれからお話を書いていくけどあくまでも嘘のお話なので、真に受けないでくださいね。

 

■『僕は猫だよ』

(「猫である我が輩が異世界転生して人の言葉を話しちゃう件」より改題した「我が輩は猫である」よりさらに改題)

 

こんにちは!僕は猫だよ。

 

あ、なぜ犬じゃなくて猫なのかっていうと、犬は犬で可愛いんだけど猫にした方がなんとなく自由に書けるんじゃないかって思ったからだよ。それに犬にしちゃうと名前を付けるのが当たり前になって「名前はまだ無い」って書けなくなってしまうから。だってさ『我が輩は犬。名前はぽち。今日も散歩に連れて行ってもらった。ご飯食べた。終わり』ってなっちゃうと1ページも埋まらないじゃん。ね、ごめんね。だから別に犬を差別しているわけじゃないよ。

 

じゃあもう一回始めるね。

 

こんにちは!僕は猫だよ。名前はまだないの。

 

だけどこれは虐待じゃなくって名前を付けてしまうと飼い猫のイメージが強くなってしまうし、もしそうなると室内で飼われてるって印象が強くなってのちのち家の外の世界の話とかも書きたいから仕方なく野良猫っぽく見せる為の手段だよ。だから本当は名前もあるし色々お世話もしてもらってるけど、それを書いてしまうと話が広がらなくなってしまうから仕方ないんだ。だから虐待じゃないよ。本当は室内飼いなんだよ。大家さんにもきちんと飼育許可を取っていて、去勢手術、混合ワクチン(5種)もしてるよ。ノミの予防だってしてもらってる。首の後ろにポチッてするだけで回虫まで駆除出来るレボリューション最高!でもマダニが気になるって人はレボリューションじゃなくてフロントラインの方がいいかも!一度獣医師さんに確認してね。で、これはアフィブログじゃないから商品紹介は入れないよ。安心して読んでね。

 

さて、僕が生まれたのはあんまりきちんと覚えていないんだけれど、気がついたときには家の下の所で、にゃーにゃー鳴いてたよ。なんだかジメジメしているところだったのは覚えていて、そこで初めて人間を見たんだ(でもこれはあくまでもナチュラルボーン(野良のことね)を表現する為の過剰な表現で、本当は毛布や段ボールとかも置いててくれたし、風通しがいい場所でとっても快適だったよ。鳴いてたらミルクとかもくれたし、それも牛乳ではなくてきちんと子猫用のミルクだったみたい。優しいよね)。

 

あとで聞いた話なんだけど、その人は書生っていって今で言うニート、人間の中でもとっても悪い種類の人みたい。ニートは僕たちみたいな猫を捉まえて料理して食べちゃうんだって。でも僕はその時そんなこと知らなかったから、別に怖くなかったよ。そっと持ち上げられたことがあったんだけど、なんだかフワフワとした感じだった。ニートにも良いところがあるから、ニートを差別しないでよね。

 

で、その不思議な感じは今も覚えてるんだ。手のひらにのったままそのニートの顔をみたんだけど、本当なら顔に毛が生えているはずなのに毛が生えてないし、なんだかティファールのケトルみたいにツルツルしてたよ。色んな猫にあったことがあるけどこんな変な顔(本当は片輪(かたわ)って書きたかったけど、それは差別用語だからダメ!絶対!って怒られちゃった)をしているのは見たことがないくらい。別にこれは禿げている人を揶揄している訳じゃないから怒らないでね。

 

で、これもティファールのケトルみたいに顔の真ん中がすんごいとんがっていて、とんがったところにある穴から煙を出すの。すんごい煙たかった。あ、煙草かな、虐待かなって思ったでしょ。でもこれは煙草の煙じゃなくてアイコスで、水蒸気だから大丈夫。あえて猫に煙を吐きかけたりするような虐待じゃないから通報しないでね。

 

 

 

と、こんな感じで延々と続くのだろうけれど、もし本当に夏目漱石がこんなものを書かざるを得なくなったらそれこそストレスで胃潰瘍が発症しかねないと思うのでこのあたりでやめておこう。

 

しかしまあ、なんとも恐ろしい時代になったものだと思う。

 

僕が読書をするようになった切っ掛けに町田康という作家がいるのだけれど、彼の書く時代小説も本当に支離滅裂で時代考証などもあったものではない。

 

最近ツイッターで色々な事に正論をかざして苦言を呈しているような人々が散見されるけれども、そんな人達が彼の小説、例えば「パンク侍、斬られて候」なんかを読んだら、「なんだこれはけしからんあの時代にはイマジンなんて曲は発表されてなかったしプーさんなんて持っての他で腹ふり党なんて宗教は存在しなかった」といい、「というか腹ふり党に入りたくても腹を振れない人だっているんですよ、そういう人達の気持ちを考えた事があるのですか」なんてことも言うだろうし、きっとそう言う人達は凄い粘着質なのでまた別の本を読んだり彼の作っていたINU時代の音楽を引っ張りだしてきて、「『飯食うな』なんてアナーキーなことを叫んだりする人が書いた本なんて人を悪い方に煽動する愚書です」なんて言ったり「ハイカラうどんに天かすを入れないとそれはハイカラではありません」だとか愚痴愚痴言った後、個人個人が勝手にスッキリして次のターゲットを探すんだろう。

 

普段はあまりイライラしないように心がけているにも関わらずこんな気持ちになったのは、もうこれは本当に休日の愚痴を発散する為でしかない。もうごめんなさい。でも仕方ない。イライラはどこかで発散しなければ溜まってしまうのでここで吐き出す。

 

そのイライラの原因は、こちらにはずっとなんの連絡もよこしてこない状態であったにも関わらず「いや、俺は間違いなく週末にお前ん所の人手がこっちに来る様に段取りをしていた」と発狂してコールセンターに電話してきたクライアントと、「あの、なんかクライアントさんめっちゃ怒ってるんですけど、もしかして社内連絡忘れてたとかなんかミスしませんでした?」とイライラしながら連絡してきた現場社員との板挟みになっていたからである。

 

しかしそもそもそんな約束はしておらず、僕が直接クライアントに電話をして「いつ頃の約束で、誰と約束されましたか。担当窓口は僕だけなのですが、御社からそういった連絡はお受けしてません」と誠心誠意平身低頭説得し、今度は作業員に「あのクライアントさん、なんか勘違いしはってたみたいよ。今度缶コーヒーおごるからごめんチョ」と納得してもらいことなきを得たのだけれど、問題が解決しても休日を邪魔されたストレスはなかなか消えない。

 

ゲームをして気分を晴らそうにもスーパーメトロイドゼルダの伝説スーパーマリオワールドは既にクリアしており、超魔界村スターフォックスは余計なストレスがかかてしまうという賢明な判断をくだしたのでゲームは却下。

 

そんな時、そういえば僕はツタヤディスカスで借りっ放しになっていたDVDがあるではないか、と思い出してDVDのディスクをプレーヤーにセットした。借りていたDVDは2本、その内1本は既に視聴済みで「神様の思し召し」というイタリアのコメディだった。

 

この映画は本当によく出来ていて腹を抱えて笑ったのだけれど、その中には若干表現的にグレーゾーンなネタが散見され、今後はこう言った笑いも少なくなっていくのだなあ、とちょっと悲しくなったりもした。

 

しかし笑いも言葉も時代とともに移り変わるものなのでそれは仕方がない。

 

夏目漱石だってもし今の時代に生きていたら「こころ」なんてタイトルをつけずに「TO♡ HAERT」にしたかもしれないし、川端康成も「雪国」なんて言葉は古いっつって「気分はまるで雪の女王!〜アナになりたい貴方に送る感動温泉ストーリー〜」みたいになって、これはもう現代であり移動も新幹線であろうからトンネルを抜けても雪を見る間もなく到着しちゃうし国境とかもよく分からないから「東京から上越新幹線で二時間ちょっと、トンネル抜けたと思ったら、もう駅だったし」みたいになるし、今の時代に芸者じゃダメだなってなって駒子は女子高生の設定に変更、主人公はフランス文学の翻訳家ってなると感情移入がしにくいから新進気鋭ネットで大活躍のラノベ作家で、いつの間にか異世界に入り込んでて駒子は手の先から雪が出ちゃうしなぜか隕石が近づいてきて島村と駒子が「私たち、入れ替わってるぅーーーー?!」となるかもしれない。最後は駒子と入れ替わった島村が隕石をなんだかよくわからないチートパワーでぶっ壊して、

 

「いけーーーー!ズゴーーーーーーン!ドガガガガ!!!!俺は、いえ、アタシは、やった!」

 

つって、その後温泉でラッキースケベに遭遇してハーレムエンド、バスタオルで身体を隠した登場人物が皆でダンスを踊ってそのダンスが大流行になり(米どころの新潟だから米ダンス?)、もちろんポロリもあって川端康成は秒速で億を稼ぐ男となりメディアに引っ張りだこになるだろう。

 

「まあアニメ化するなら主題歌はラッドかな。まあ別にコトリンゴでもいいんだけど、それはプロデューサーに任せます」とかいいながら「じゃあ僕は疲れたんでこれで。ちょっとアレ吸ってきます」みたいにガスの代わりにハッパ吸っていれば今後も安泰。

 

まあそんな乱れた時代に生まれた僕たちはもっと過去から学ばなければならない、みたいな高尚な事を過去の僕は考えたのだろう。借りていたDVDのうち未視聴のもう1本の映画はアメリカの南北戦争の話で、米国初の黒人兵部隊であった第54部隊をテーマにした「グローリー」という映画だった。

 

これはこれでとてもいい映画だったのだけれど、やはり戦争映画であり感情移入していた人達が沢山死んでしまったので、見終わったあとになんとも言えない陰鬱とした空気になってしまった。

 

同じ部屋で別の作業をしていた妻に「なんか陰鬱とした気分になった」と伝えると彼女は「そうやね」とパソコンを見続けながら言った。そして彼女も僕と同様に、仕事の締め切りが目前に迫っていて陰鬱だった。澱んだ沼のような空気をお互いに発しながら、無言の時間が過ぎた。その後、妻はパソコンから手を離したかと思うとグラスを手に取った。

 

その手に持たれたグラスは空であり、その行く先は彼女の口元ではなく僕に差し出された。

 

妻の心情を見事に汲み取った僕は台所に向かい、妻のグラスと自分のグラスにハイボールを注ぎ、猫がオシッコをするので布団をかけていない、かつては炬燵と呼ばれていたにも関わらず今ではただの重たい机に格下げになったテーブルにハイボールを持っていった。

 

お皿に残っていたアーモンドを食べながらハイボールを飲んでいると治療中の歯にアーモンドのカスが挟まってなかなか取れなくなり、余計に陰鬱な気持ちになった。

 

そんな休日を過ごしているとなんとなく古い時代の本が読みたくなったので、僕が昔よく遊んでいた尼崎の出屋敷が舞台になった「赤目四十八滝心中未遂」という車谷長吉の本を読んでいたのだけれど、これは開高健の「日本三文オペラ」と同じ様にホルモンが物凄く食べたくなる小説だなあなんて思いながら、そういえば今通っている歯医者に「この歯が治るまでガムやグミなどは控えて下さい」と言われた時にポイフルはいいかどうかは聞いたけれど(ダメですとの事)ホルモンのミノはどうなのかを聞くのを忘れたと思い出し、結局食べたい物も食べられないので、ずっと陰鬱なままの週末だった。

 

でもこんな日常をツイッターに投稿しても「結婚出来ない人もいるんですよ」だとか「猫がいるだけで幸せですよ。飼いたくても飼えない人がいるんです」だとか「映画見てる自慢ですか」だとか「読書しているから偉いって言われたいんですか」だとか「ハイボールは神戸スタイルですか。私は氷を入れる方が好きです」だとか「いい歳をしてポイフルを食べるな」だとかの有り難い意見が飛び交うんだろうな、なんてことを考えてしまうけれど、実際問題として現在僕のツイッターアカウントはフォロー数286フォロワー数45、そのフォロワーのうち25人は何かのbotか副業おすすめアカウントなので、結局のところ何を投稿してもなんの反応もないことも目に見えている。

 

もうそれが悲しい。陰鬱。

 

最近また手荒れが酷くなってきているので、ソーセージは作っていない。

 

もうそろそろ治って欲しい。おいしいソーセージが食べたい。良く冷えたビールが美味しく感じる季節になって欲しい。寒い。陰鬱。

 

ああ、でももし杉田玄白がインスタグラマーやユーチューバーだったら、みたいなことを考えたら少し明るい気持ちになるかもしれないけれど、面倒くさいので、終わり。

 

♯作ってみた ♯エレキテル ♯電気ヤバい