貴方には貴方のラブサンバディトゥナイがある。
絵に描いた餅、という言葉がある。
机上の空論、という言葉と同じ様な意味合いであり、いくら餅が美味しそうに描かれていてもそれが絵であるが故に食べられないからお腹が膨れない、すなわち役に立たないもの、というものの例えである。
ここから書く話は、ではどうすれば絵に描いた餅を役にたつものに出来るのかという、絵に描いた餅を絵に描いた餅ではない状態にするための絵に描いた餅のような文章である。
ちなみにではあるが、途中から織田裕二が頻出してくるのでもし織田裕二アレルギーの方がいればここで読むのを辞めた方がいいと思います。まあ本物の織田裕二アレルギーであればタイトルを見た時点でアレルギー反応が出ていると思うのだけれど。
さて、例えばエロ漫画には女性の裸や男女の行為が赤裸々に描かれているが、それらは実際には存在しない、いうなれば絵に描いた女性及び男女である。しかし餅と同じ様に絵で描かれたものであるにも関わらず、性的欲求の解消の為にはとても有為なものである。
なのでエロ本に描かれた絵は絵に描いた餅と同じ立場にありながら、絵に描いた餅と比較しても優位性を持っている。絵に描いた餅と同等であるにも関わらず絵に描いた餅以上の存在である。
ではなぜそれが成立するのかといえば、その対象が食欲ではなく性欲だからである。
食欲は胃袋を満たす為の行為であるが、性欲は玉袋を満たす為の行為である。双方ともに同じ袋ではあるが、言い換えると胃は満腹を欲するが、玉は空であることを欲する、となる。
中にものを入れたいという欲と、外に放出したいという欲。入れるか出すかの違いが、ここにあるのだ。なので1つの仮定としてではあるが、絵は人にとって出す欲を刺激するものであればその存在は成立するとも言える。
では人が性に関することで以外で何か出したいという欲求があるとすれば、それは排泄欲である。
であれば例えそれが男女ではなくとも排泄に関わるもの、排泄を促すものであれば、その紙に描かれたものは絵に描いた餅ではなく実存としての餅、すなわちお腹が一杯になる絵に描いた餅になるのではないか。
なのでここからは排泄欲を促すものをリスト化していきたいのだけれども、まず大前提として気持ち悪いもの、グロいものや精神的にしんどく感じる様なものはまず排除したいと思うが、なぜ排除するのかという説明は無用だ思うけれど、一応書いておく。
「お前はゲロを吐いている人を見て、食欲が進むのか」そう言う事だ。
なのでそれ以外に排泄欲を刺激するものをリスト化していきたいのだけれど、まず挙げられるのは上に書いた様な性的なものである。
またここで余計な口出しをしたい人達が「お前はエロいものを見ながら食欲がわくのか」という文句が聞こえてきそうだから一応註釈しておくけれど、僕は普段からAVを見ながらご飯を食べているし、入れたてのコーヒーを片手にエロ本を読んでいる時が一番落ち着く。だから人のゲロをみて食欲が沸く人はもうそれもリストに入れとけばいいじゃないか。好きにしなよ。知るかよ。
で、次に排泄欲をそそる物と言えばこれはもう便器しかなく、しかも清潔な便器というのはなんとも気持ちがいいものである。
レイモンド・チャンドラーの言葉を借りるとすれば、
「ぼくは便器を磨いたばかりのトイレが好きなんだ。トイレの中の空気がまだきれいで、冷たくて、何もかもぴかぴかに光っていて、ペーパータオルがその晩最初の一枚をそよがせて、きれいな洗面台の上におかれ、折り畳んだトイレットペーパーをそえる。それをゆっくりと味わう。静かなトイレでの最初の静かな一滴ーーこんなすばらしい一滴はないぜ」となるだろう。
その他に排泄欲をそそるものと言えば、もうない。
いや、あれですね。涙。少し前に涙活なんぞというものが少しだけ世に広がりそう、だというようなニュースをみた。泣きたいという欲求は、涙を出したい、という排泄欲の一種だろう。デトックス。
なので排泄に大切なのはお気に入りの異性(同性愛者なら同性でもいいし、無性愛者ならもう興奮出来るものなら何だっていいだろう。とにかく興奮出来る事が大切なのだ)と便器、もし可能ならば少しの涙、それだけが僕のAll my treasuresつまりは織田裕二である。
という事で、絵に描く物は餅と便器と異性とオールマイトレジャーの生みの親である織田裕二に決まったのだけれど、これだけの量を書くとなるとそんじょそこらの紙では大きさが足りないし、技術も必要になる。また、それだけの登場人物が出てくるとやはりストーリー性も重要になるのであるが、これらはまあでかい紙に書けばなんとなく出来そうな気がするし、そこにスパイスとして少年漫画的な努力友情勝利を加えると、もうそこには振り返れば奴がいるから大丈夫だろう。
なのでまずはストーリーを考えたいのだけれど、大きな悩みがある。
それは女性と織田裕二のどちらを便器に座らせるかである。
「便器に座る裕二」と「便器に座る女性」。
この二択、イクラ丼を食べるかウニ丼を食べるかと同じようにこの上なく贅沢な悩みではあるが、やはりここは女性ではなくあえての裕二でいきたい。
もちろん男女どちらかではなく餅を置いてもいいのだけれど、ただやはり便器の上に置かれた餅を織田裕二と女性が眺めているというのは風景としてとてもシュールであり、あまり排泄欲を刺激されないという懸念もある。
なのでここは裕二でいきたい。大切な事なので2回書いた。
で、便器に座る裕二であるけれど、これもまた二択が生まれてしまう。
それは「世界陸上」の時の裕二か「お金がない」の時の裕二なのかという選択だ。
便器に座る裕二が「世界陸上」の裕二であればもちろんそれは大便であるし、その場合は相手の女性は中井美穂である。
また「お金がない」の時の裕二であればそれは座り小便の裕二であるし、そうとなると相手の女性は財前直見しかない。
となると昔から財前直美のファンである僕なので、自ずと座り小便の裕二を選ぶ事となり、便器に座っておしっこをするお金がない裕二とそれを見つめる財前直美が画面に浮かび上がる。
もうそれだけで画面はいっぱいいっぱいであり、視覚的にもおなかいっぱい。そこに餅の存在は必要ないように思われるし、僕も現に今そう考えている。絵に描いた餅なのに、餅が要らない絵面の強さ。
安達祐実の母のヌードと同じくらいの強さを誇るこの絵面だけれど、これは絵に描いた餅を優位にするというテーマで書かれているものであるという特質上、やはり餅は必要になる。
であれば餅がある必然性として「お餅つき」をストーリーに組み込めば問題は解決されるはずなので、ここは排泄中の裕二を見つめる以外に仕事のない財前直見に餅をついてもらうこととし、便器に座る事でちょうどいい高さになっている織田裕二には返し手をやってもらう事になる。
この「たまたま餅つきを始めた財前直見の前に、返し手としてちょうどいい高さの位置に座っている座り小便中の織田裕二がいた」というちょうどいい偶然性は、やはりそうなるストーリーだったのか!と見る人を自然に餅つきへと誘導するのではないだろうか。画面構成としてはこれで統合性がとれたはずだ。
織田裕二が便器に座り、その目の前に臼があり、そこで餅をつく財前直見。
なかなかに迫力のある画面だと思う。
もしこれを、かの名キャメラマン木村大作が撮影でもすれば、2人の相性の良さや息の合い具合といった空気感まで含めその全てに綺麗にピントが合い深作欣二も黒沢明も大興奮。
さらにそこに織田裕二の脱糞音が相まると、現代の「あ、うん(こ)」となる可能性も見受けられるではないか。
そうなると板東英二がゆで卵を食べずに餅ばっか食う様になるかもしれないし、高倉健も「自分、不器用ですから」と言い便器の外に小水が飛ばないように座りしょんを始めるかもしれない。なんて素敵な世界。なんて綺麗な便器。
しかしこのままでは財前直見は未だ餅をついているのみであり、性的興奮するまでに及ばない。極度のドMであれば彼女の持つ杵で殴られるということに興奮を覚えられるのかもしれないけれど、残念ながら僕はまだその境地には達していない。
ではそれを打破する為にはどうすればいいかといえば、興奮を催す為には僕も画面に入り込み直美さんが餅つきによって流している汗を舐める、という行為が必要になる。
なぜそれが必要かと問われれば僕は女性の汗を舐める事が好きだからだし、お金がないの時の財前直見の爽やかな汗は化粧っけが少ない分美味しさが際立つと思うからだ。清掃で流す汗はもうそれだけで美味しい。
となると、また別の方向から「お前は汗を舐めるだけの簡単な仕事をしやがって。いくらきれいな汗を舐めてもお前自体の存在は汚いのだ」というクレームが入るかもしれないけれど、そういう人はきちんと真実を見れていない。
ここで僕はただ単に財前直美の汗を舐めているだけではなく、織田裕二の視線に耐えながら汗を舐めているのだ。しかもそれは言うまでもなく脱糞中の織田裕二である。
「脱糞をしている織田裕二が自分を見ている」
このプレッシャーに耐えられる人がこの世にどれだけいるのだろうか。
というかそもそも脱糞している人に睨まれた事がありますか。
僕はある。
昔、居酒屋に行った時のことだ。
トイレを開けるとそこに酔いと力みで顔の赤いおっさんがいた。僕も少し酔っていたので扉を締めるなどのとっさの判断が出来なかった。
そのおっさんは「すいません」や「閉めてください」等と言わず、僕を睨みながら無言で屁及び糞を出したのだ。
怖かった。
ただのおっさんでもあんなに怖かったのに、その相手が織田裕二であればどうなるか。
これ以上にプレッシャーを感じる状況はないだろう。このプレッシャーはレインボーブリッジ閉鎖の是非を決める時より、きつい。
そんな状態であるにも関わらず、僕は「この重過ぎるプレッシャー、誰か僕をラブサンバディトゥナイしてくれ!」という気持ちと「へえ、これが裕二のオーマイプレジャー?」という気持ちを抱き合わせながら、財前直見の汗を舐めているのだ。
そしてこの「脱糞中の裕二には負けたくない」という気持ちが、見る人に対しての共感を生み出すはずなのだ。
そしてここまでくれば後は言わなくても分かるだろうけれど、画面上には「努力(僕)」、「友情(直美)」、「勝利(裕二)」が揃う事となり、この絵はストーリー性を帯びる事になる。
少年ジャンプのような王道ストーリー、努力と友情が揃って勝利を収めるというカタストロフィ(脱糞)の爆発が生まれ、それを見る人は感涙に浸るのだ。
すなわち「出す」為の欲が生み出されるのである。しかもこの全てのハブになっているのは、なんと「餅」なのである。
餅が生み出したカタストロフィが、世界を包むこととなる。ファイナルファンタジーでもここまで壮大なカタストロフィを生み出す事は出来ないだろう。
これを読んだ人達の中も、いつか「それは絵に描いた餅だ」という言葉で馬鹿にされたりすることがあるかも知れない。
しかし貴方はもう以前の貴方とは違うのだ。
今、その場で貴方の心の中を覗き込んでみて欲しい。
ほら、そこにはお餅がありませんか。
真っ暗な闇の中で輝く、真っ白い餅が。
それはまだ、ほんの小さな餅米でしかないかもしれない。
しかしその餅米は貴方のかいた尊い汗と悲しみを乗り越えた強い涙と我慢しすぎて漏れてしまった小水を吸い込み、それでも諦めない情熱という名の火によって蒸され、いつか大きな餅になるはずだ。
辛いとき、悲しいとき、貴方の中にある餅を思い出して欲しい。
その餅は財前直美がついて織田裕二が返した餅ではなく、貴方が丹誠込めて育てた、貴方だけの餅なのだ。そしてその餅は、ドラゴンクエストを超えるカタストロフィを生み出す可能性を持ち合わせているのだ。
餅にはそれだけの力があることを、忘れてはならない。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。
さて、こう見えて僕は几帳面な正確なので一応読み返してみたんですが、これ、途中で織田裕二が脱糞してしまってるんで、世界陸上の時の織田裕二になっていますね。
謹んで訂正とお詫びを申し上げます。
サンリオのキャラを部門別に紹介したい。
サンリオ男子という深夜アニメを見始めてから、サンリオに対する興味が沸いてきている。
しかしサンリオ男子のよさをここでいくら書いてみても僕が面白いと思っているところをきちんと説明するのはとても難しいし、逆にファンの方々からは批判や顰蹙を買いそうなのでやめておく。
なので今回は趣向を変えて、サンリオのオリジナルキャラで僕が個人的に気になっているキャラをここで紹介したい。
ただ本当に無意味なランキングであることを先に書いておく。マジで無駄だし、キティちゃんやポムポムプリンは出てこないし、気分を害する人もいるかもしれない。
でも僕はこれをみてサンリオの奥深さを感じて欲しいとも思っている。サンリオは、マジで頭がおかしい(褒め言葉)。
では。
「お前、名前もっと頑張れよ」部門
まず「お前、名前もっと頑張れよ」部門から。ここでは3人(匹?)が選出された。
木馬であり、木馬以外ではありえないからなのか。その名も木馬。
君の名は?と問われても、「木馬」としか答えられない悲しさ。
もっと頑張って名前付けてやれと思った。
木馬に木馬と付けるセンス。尖ってる。
「わたし、お鍋にも名前付けてるの。えへ、メルヘンでしょ。え?お鍋の名前?お鍋ちゃんって言うの」
殺したくなる。
ただし木馬自体の可愛さはずば抜けている。木馬可愛い。
他にもまだいる。
ゾウ自転車。
彼は自転車から降りることも許されない可哀想な存在でもある。
なぜなら、自転車から降りてしまうとただのゾウだから。
自転車に乗っていることでしか得られない、彼のアイデンティティ。
悲しき動物、ゾウ自転車。名前、適当すぎる。
この部門の最後は、カモメ。
カモメである。
カモメ以外ではない。
以上。
「お前、ワードで作られたの?」部門
続いては「お前、ワードで作られたの?」部門にただ1人の選出。
ハウストレイン。
その名の通り、家と汽車が合体したキャラクター。これをキャラクターと言っていいかどうか僕には分かりかねるのだけれど、サンリオが「サンリオのキャラクター」として紹介しているので、キャラクターなのだろう。ここまでくると、キャラクターとは何なのかを考えさせられる。彼の存在はある種哲学的な問いかけでもある。
絶対ワードの図形で出来てる。
以上。
「名前負け」部門
次に紹介するのは「名前負け」部門。ここは3グループが選出された。
メインストリーム、主流という名前がついているにも関わらず、低知名度を誇るグループ。名前負けとはこういうことだ、と慣用句にもしたいくらいの存在感を持っている。グループの構成はドリカムスタイルである。多分内輪で恋愛のもめ事が良く起こるんではないだろうか。まあ、余計なお世話だ。
「お前、その位の成績しか残してないのに課長名乗ってるって、ザ・メインストリームみたいだな」
これも悲しき動物たちである。服装はとてもオシャレ。
サンリオから、シティボーイの登場である。
しかし彼からはコーネリアスの香りも小沢健二のニュアンスもサチモスの格好良さも感じられない。
だって彼はゴリラだから。
ゴリラが都会で生きる為は、野生の本能を殺してシティボーイにしかなるしかないのか。しかし野生を忘れたゴリラに、ゴリラとしての存在意義はあるのだろうか。
シティボーイだけど、ヘッドホンもしてるけれど、鼻がハートみたいだけど、でもゴリラだからオシャレにはなれない。
まったく関係ないのだけれど、僕はボゴを見ていて「僕はクマのままでいたかったのに」という絵本を思い出し、なんだか無性に悲しい気分になった。
この部門の最後を締めるのは、ギミーファイブだ。ご覧の通り、2人しかいないのにファイブ。
名前負けもいい所だ。
ギミーファイブの上位互換として、関ジャニ∞が上げられる。7人なのに、エイト。
しかしこの話を拡げるとエイターから恐ろしい報復があるかもしれないので、やめておこう。
以上。
「ほぼコピペ」部門
さて、次の部門紹介である。「ほぼコピペ」部門は1グループのみ。
見ればわかるだろう、この3匹、ほぼコピペだ。
キャラクターというより間違い探しの領域。
いつかこいつらをサイゼリアで見たいと思う。
以上。
これから紹介する部門で最後になるのだけれど、本当のことを言えば僕はこのキャラクターを紹介する為にこの記事を書いたといっても過言ではない。
その素朴な可愛さ、手抜きとも言えそうな図案の簡潔さ、キャッチーな配色、名前の語呂の良さ、その全てが別次元にあると言ってもおかしくないキャラクターである。
僕は今日から、サンリオファンだと公言する。そして僕の推しキャラこそが、こいつである。
それではご覧頂きたい。
「とにかく可愛い」部門
一目見たその時から、僕はこいつのファンになると決めた。
公式のコメントには「元気なヘリコプター君。毎日、楽しい事を探して飛び回っているよ。」とだけ書かれている。
そのコメントから分かる様にオスである。生まれは1988年。今年で30歳になる。
彼の行動はハイパーメディアクリエイターの高城剛と同じである。楽しい事を探して世界を飛び回る。つまり彼は沢尻エリカと結婚出来る可能性も持っている。恐ろしい潜在能力である。
しかも京本政樹や荒木飛呂彦のようにまったく老けない。もしかしたら可愛さを維持する為に整形しているのかもしれない。皺とり。リフトアップ。その他。しかし働いている様子がうかがえないので、パトロンがいる可能性がある。
「ねえ、僕のティルトローターでまたプルプルしたいの?僕のティルトローターはirohaとはちがうんだけどな。そんなに我慢ができないの?まだ触ってないのにビチョビチョじゃないか。しかたないなあ。じゃあ、またお小遣いくれる?」
彼がどれだけ下品なやり取りをしていてもかまわない。彼の可愛さにかかってしまえば、そんなことは些細な出来事でしかない。
色情魔の女性のお金を使って、今日もこの世界のどこかで楽しい事を探してホプティコプティが飛び回っているのか、と想像するだけで一日が明るくなるではないか。
彼が楽しい事を見つけられるように、僕は今日も祈りを捧げている。
以上。
さて、これを読んで頂いた皆様も、サンリオのホームページでお気に入りのキャラを探してみてはいかがでしょうか。
と、ここまで書いたのだけれど、実際のところ僕はキャラクターものが好きではない。
妻と一緒に暮らす時に定めた唯一の決まり事が「タオルであれ食器であれ、キャラクターが描かれた物は一切おかない」というものであり、今のその定めは忠実に守られている。
いくら僕がホプティのファンになったからといって、妻がホプティのグッズを買ってきたとしても、きっとすぐに捨ててしまうだろう。
ではなぜこんな記事を書いたのかといえば、サンリオの狂気に当てられたとしか言いようがない。
それほどまでにサンリオは狂っていて、またサンリオ男子も狂っているのだ(間違えないで欲しいが、これらは全て褒め言葉だ)。ぜひ1度でいいので、機会があればサンリオ男子を見てもらえれば、こんなに嬉しいことはない。
「陰毛がサラサラやとモテるんやで」と浮浪者は言った。
婚活のパーティーなどにおいて、男は自己紹介プレートに年収をかく欄があって女性にはない、という話を聞いたことがある。そして最近また別の場所から、男は年収、女は得意料理を書くこともある、というのを聞いた。
だからといって、僕は別にそれが男女差別だとか不条理だとかとわめきたい訳ではない。むしろ僕がこの話を聞いて思ったのは、参加する人達はもっと自分勝手に書き足せばいいのに、という一点のみである。
僕が中学生のとき、校内では上履きを履く、というルールがあった。その上履きは学校指定のものであり学年毎に色は違っていたのだけれど、それ以外に違いはなくみんな同じ物を履いていた。
もちろん名前を書くことも定められているのだけれど、この時期の子供たちは自分の持ち物に名前を書くことに抵抗がある年代でもある。
その抵抗の元は大体が中学に入る直前にある小学校最後の思い出、修学旅行における風呂場での下着忘れである。
翌日の全体朝礼での「◯◯!風呂場に下着があったので取りにきなさい!」という、優しさという名の公開処刑は、誰もが通過する儀礼であろう。
そして中学生であれば殆どの人間がその優しさの犠牲者もしくは閲覧者になっているからして「自分の持ち物には名前を書かない」という誓いを立てているのである。優しさは時に人の心をも殺すのだ。
しかし持ち物に名前を書かないとなると、必然的に学年集会やクラス単位での移動になった際、どれが自分の上履きなのか分からなくなることが多発する。
なので各々上履きに名前を書くのではなく自分にしか分からない目印をつけたりするようになるのだ。
☆や♡マーク、それに類する分かりやすい可愛い物から米印という無骨な物。また仲の良いグループは共通のマークを上履きに書くことで、その集団の一員であることを提示していたりもした。
ただこういったものは、過剰へ過剰へと流れていくのが必然である。シンナーでは満足出来ずに合法ドラッグに、もっと快楽を求めようとコカインへと至ってしまうように、上履きに対する落書きの上書きは精神的快楽をもたらすのだろう。
マークだけでは満足出来なくなった人達が、段々と文章を書く様になっていった。
彼ら、彼女らの上履きには記号ではあきたらず「俺の上履き」や「誰の物でもない」「布施明Love」といったような自分の名前を出さずに自分の所有をアピールする言葉が散りばめられた。
さらにそれが加速し「一生守る」「純愛」と言ったいきなりの誓いがあったと思えば、「3代目暴走天使」「初代パタリロ」や「喧嘩上等」「君は薔薇より美しい」といったようなヤンキー・暴走族文化に憧れたような文字が並び、また別の集団の上履きには「人生はかけ算だ。君がゼロなら意味がない」といったような326の詩をパクったような文章が書かれていたりもしたし、なんなら上履きに「326」と書いている人もいた。
今だから言うけれど、お前の名前は森岡だ。
ただ僕はと言えばそれらを見ていただけであり、まったく落書きという物をしなかった。というか、上履きに何かを書くこと自体に意味を見いだせなかった。
それだけ皆が落書きをしていたので無地の方が少なかったのと、一度も洗わなかったので汚れの度合いが他の上履きよりも酷く、その黒ずみと匂いだけで自分のものが分かったからというのも、落書きをしなかった理由である。彼らからすればきっとゼロ以下、かける価値すらない存在だったのだろう。パクった所でマジで臭かったし。人生をかけるより漂白剤をかけたいくらいのものだった。
かといって学校がその過剰な落書きを制限しなかったわけではない。先生方は「余計なことは書くな、名前だけをかけ」と口を酸っぱくして言っていたのだけれど、いつの時代にも法の穴をかいくぐろうとする奴はいて、1人の人間が極太ゴシックで上履き全体に自分の名字を書き「名前を大きく書いただけです」と言ったあたりからその制限も緩くなりだした。
落書きは加速度的に増えていき、ある決定が下されるまでに学生たちの上履きは森の貴婦人と呼ばれるオカピの模様のように複雑な柄になっていた。
その決定とは上履きそのものの撤廃である。
撤廃となった理由は、上履きに履き替えたあとにロッカーに置かれていた自前の靴の盗難被害が増加したからである。
奇しくもスニーカー狩りが流行った時代であり、我が中学校でもスニーカーが取られる人が多数いた。その犯罪行為が上履きの過剰装飾を駆逐したのはなんとも皮肉なものだ。というか、ナイキであれば盗まれる、というのも異常だった気がする。
話を戻すがそのように婚活に置けるネームプレートも、個性を全面に出してみてもいいのではないか、と思う次第である。
男性が名前と年収、年齢しか書けないのであれば、名前を極小さく書き、空白部分に個性を光らせる。
「森岡 29歳 年収:250万 ※胸の真ん中にホクロがあって遠くから見ると乳首が3つに見える」
「早乙女 33歳 年収:330万 ※耳の後ろから老婆の匂いがする」
「木村 45歳 年収:1,000万 ※犬と暮らしているが何もしていないのに犬が股間に顔を埋める」
みたいなことを書いておけば自ずと会話が広がり、またお金目当てではない人と繋がれるのではないか。
森岡さんなら「え、乳首が3つに見えるって素敵ですね。今度、私の友達と一緒にないとプールに行きませんか?」みたいに思わぬ誘いがくるかもしれないし、その友達にも笑いを提供出来るかもしれない。その友達が火のついた煙草を押し付けてきて「これでケンシロウになれましたね」なんて笑顔で言ってくればもうそれは世紀末。世も末。広末。
早乙女さんなら「あー、ワタシおばあちゃん子だったんです。1回嗅がせてもらっていいですか?あ、ホントにおばあちゃんの匂いだ!」と言われ、そのままベッドイン出来るかもしれない。きんたまの袋を触られながら「おばあちゃんのほっぺたもこれくらいしわしわで柔らかかった」なんて笑顔で言われたら即昇天。
木村さんはもう「犬が嗅ぎたくなる股間ってどんなのですか」と女性たちが前に行列を作って股間を嗅ぎにくるのは間違いないしむしろ年収をみてそのまま舐めるかもしれないし、そのお返しに女性方の股間の匂いを嗅ぐことだってできるだろう。紳士たるもの、返礼を忘れてはいけないのはどの業界でも一緒である。無臭、チーズ、ザリガニ、たくあん。貴方の前には珍味の香りが並ぶだろう。年収も高いし。
では逆に女性側の個性の光らせ方は、と問われるだろうから、ここに記しておきたい。
以前までの僕であれば、もうエロいことを書くだけだ、と答えただろうけれど、このご時世ではそれはあまりにリスクが大きく、また僕自身も成長していることをアピールするために別のベクトルで返答したいと思う。
そもそも最近の男性が女性に対して何を求めているのか。
最初に書いたように、婚活サイトで得意料理を書かされる、というものからして、今の男性が求めるているものをサイト側がきちんと把握出来ていないことが手に取る様にわかる。
こういう人達は、未だに「毎朝僕にみそ汁を作ってくれないか」が最良のプロポーズだと信じているのだろう。
しかし、今のトレンドは「料理」ではなく「許容度」だと思われる。
許容度、と簡単にかいたが、これは「どれだけ自分の行動を受け入れてもらえるか」というものである。
基本的に男とというものは自分勝手である。
お金が入ったらまず自分が欲しい物を躊躇なく買いながら、デートの際に「お金がない」とのたまう。「食べたいもの何?」と聞いておきながら相手が幸せのパンケーキやスープデリと言おうものなら一気に機嫌が悪くなる。
なぜ機嫌が悪くなるのかと言えば、パンケーキよりもパンクラス、スープデリよりもソープとデリをこよなく愛するのが男というものだからだ。
パンケーキを食べにいく約束をなしにしてパンクラスを見に行くことを許してくれる女性や、一緒にスープを飲みにいくよりデリバリーで届くラブジュースを飲みたいと求めるのが男性なのだ。
一言で言えば、馬鹿なのである。
なので、女性はネームプレートに自分がどれだけの馬鹿を受容出来るかをかけばよいと思う。
「広末:どれだけキャンドルを家に持ち込んでも怒りません」
「 松井:掃除は私がしますが、尾行されるのは怖いので嫌です。」
「八角:どんな行動でも許すと思いますが、報告だけはきちんとして欲しい」
キャンドルをどれだけ持ち込んでも怒らない女子であれば、コレクター趣味のある男性が声をかけるはずだし、尾行が怖いけど掃除を綺麗にしてくれる人であれば一日に5回くらい電話してあげたり居場所を教える為にGPS付きの携帯を持ったりすれば相手も安心してくれて家も綺麗になるのでもう男性は夢中になるはずで、報告だけすればいいのであればもうどんなことも気にしないでいい。何をしても可愛がってくれる人、というのは、全男性の憧れの的になるだろう。かわいがり最高。
このように、ネームプレートには自分の紹介だけではなく、素敵な未来も描きたいものである。
しかし上記の様に自分のことをきちんと理解出来ている人は結構少ない。
自分には何もない、ホクロもないしおばあちゃんの匂いもしない、犬も飼っていないしキャンドルも持っていない。ユーチューバーでもなければ理事長でもないという方もいるかもしれない。
そんな悩みを解消できるように、最後に僕が昔仲の良かった浮浪者に教えてもらった、男女に共通する「モテの極意」を伝えたいと思う。
「あんな、陰毛にリンスしたらな、風俗嬢がめっちゃ喜ぶねんで。あれでワシ、めっちゃモテてん」
ということである。
「ゲロ:35歳。年収240万円。陰毛がリンスでサラサラです」
これで僕もモテモテ。