僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

「これぞ本場の味!」と言われましても。

先日ネットで「本場の味を再現した麻婆豆腐レシピ」なる物を拝見し、なるほどこれをつくると本場の味が食べられるのかと意気揚々、自宅の冷蔵庫やスパイス置きをあさってみればその本場の味が再現出来る材料まで揃っていた。豆豉、花椒、豆板醤、生姜に塩漬け唐辛子、ひき肉等など。

 

であればなおさら作るしかないと思い立ち、深夜12時を超えようという時間帯に完成し、寝かけていた妻を起こしてともに賞味しながら「うほほ、これが本場の味かいな、うまい辛いけれどうまいまた辛い」とハイボールやビールを飲みつつネットレシピの出来映えに満足してしまい酔って昏倒、洗い物その他の家事を放置してそのまま寝てしまったのだけれど、翌日腹痛に苛まれて目を覚ますはめになったのが僕の醜態。

 

トイレでの排泄と台所での洗い物、猫のトイレ掃除をこなしながらなんとか我がの朝の準備をした。

 

しかし辛いものを食べた後の腹痛は大概の時において後を引き、この日もまた多分に洩れず排便は漏れ続け、自宅での排泄のみではらちがあかず、駅構内から電車にのるまで腹痛が断続的に僕を襲い「やはり辛い物を食べると翌日がつらい。なので辛い物は週末にしか食べないようにしよう」などと満員電車で考えながらまだ襲いくる便意と格闘していると、その神聖な戦いに別の相手が交わってきた。

 

その相手とは、満員尾通勤電車の中で僕の隣に立っていたおっさんである。

 

こちらを見ることはしないけれど、身体のはしばしから僕の立っている場所を浸食したい、自分の領地を拡大したいという邪念が立ち上っていた。しかし僕にも譲れないもの(お腹に刺激のない姿勢)があり、また守るべきもの(肛門の安全)もある。

 

三者の戦いは水に浮かんだ豆腐のように極めて静かでありながら、すりつぶされた花椒のように鮮烈さを極めた。

 

昨夜の辛味に刺激され肛門へ肛門へとうんこをおしだそうとする腸。

その肛門を必死で締めようと踏ん張る僕。

その踏ん張る僕の足を踏んだり、ゆるんだ腹を腰で押してくる横暴なおっさん。

横暴なおっさんにうんこをぶちまけてやろうか!といきり立つ腸。

ぶちまけるためには肛門を通過しなければならず、そうなるとやばい僕。

僕に守られているとは知らずさらに執拗に僕の足を踏むおっさん。

 

その三すくみは阪急電車に急遽現れたバミューダトライアンゴー。

 

これ以上足場の確保に拘るならおっさんは臭さと僕の便の中で溺れ死ぬし、僕は社会的に死ぬし、周りの人達もとばっちりで死ぬことになるんだぜ?なんて頭の中でニヒルなやりとりしていたのだけれど、本当にそれが現実になるとニヒルどころか俺の尻からヒネリ出るのは下痢でもなんでもなくただの邪王炎殺黒龍波だしそうなると俺は飛影だしここは阪急電車ではなく首くくり島の暗黒武術会で車掌は戸愚呂チームのオーナー左京だ。

 

「うんこを漏らした奴が勝つ方に、66兆2000億円」

 

と社内アナウンスから流れ、つり革の上で待機している戸愚呂兄が「きひひひひひひ!早く漏らしちまえよ!」といったかと思えば玄海師範は「限界を超えろ、玄海だけに」みたいなくだらない駄洒落をいうし僕は邪王炎殺黒龍波(下痢)は使えるけれど陣のように爆風障壁が使えないので周囲にうんこが散乱してしまう。戸愚呂弟は臭くなった車両の替わりに新しい車両を担いでくるし、うんこを漏らしてしまった僕はDr.イチガキのような笑顔を浮かべ「全て私のシナリオシュミレーション通り」だとかいいながら高笑いするだろう。

 

そんな地獄絵図、いうなれば黒の章の収められてもおかしくない風景がこれ以上広がらないように、痛む腹を腰をぐいぐい押してくるそのおっさんの顔を懇願の表情で見つめ終戦をはかろうと見てみると、なんとなく渡辺正行ににていたのでこれもなんとなく腹がたってしまった。お前はコント赤信号で忙しいかもしらんが、おれは腹痛が赤信号なのだ。

 

結局最低最悪な暗黒武術会はひらかれることなく無事電車から降りることができ、なんとかトイレにも間に合い、便器に股がり唐辛子で痛む肛門をなだめすかし、やはり本場は強いんだなあ、と感嘆していると「そもそも『本場の味』とはいったい何なのだろう」という疑問がまるで肛門からうんこがでてくるかのように湧き出てきた。

 

本場。

 

その言葉の通り、その場所で生まれたものである。僕の肛門を破壊したのは本場四川のレシピという謳い文句がかかれた麻婆豆腐のレシピであり、豆豉や豆板醤、塩漬け唐辛子を使うものだった。確かに美味しく、またふだん中華料理屋で食べるものとはひと味もふた味も違う味わいだったのだけれど、ではそれが本場の味なのかどうか、というものが分からなくなってきたのだ。

 

さらにいうと、また別の麻婆豆腐のレシピを中華の鉄人陳健一氏が書いており、そこには本格的という文字が踊っていた。

 

本場と本格。

 

同じ様な言葉で紹介された2つのレシピではあるけれど、使う食材にも違いがあり、そうなると味も違うことは疑いようがないがそれも考えれば考えるほどに混乱をきたす。

 

同じ四川の麻婆豆腐でありながら本場の味と本格的な味には違いがあることとなり「これは一体どういうことなのだ」と僕の中に潜む海原雄山が顔を出す案件でもあり、東西新聞社帝都新聞社が紙面で火花をちらしあい、本場本格と言葉尻を掴んで振り回す海原雄山に対して富井副部長が「本場が何だーーー!本格が何だーー!」と泥酔しながら叫ぶので双方を収める為、栗田さんにお願いしてなんとか一肌脱いでもらい、僕と海原雄山、富井副部長の3人で彼女のストリップを楽しんでいたところまでは覚えているけれど、山岡さんが急に出てきて「明日の午後、俺に付き合ってもらおう。お前に本物の麻婆豆腐がどんなものか教えてやろう」みたいなことを言われ「本場、本格に続いて今度は本物!!!!????」というまた新たな言葉に発狂して僕は気を失ってしまったけれど、薄れゆく記憶の中でただ1つ覚えているのは山岡さんのポケットから栗田さんのブラジャーの紐が見えていたことくらい。

 

トイレで目を覚ましてからも「本場」と「本格」と「本物」の違いが結局分からず今に至るのだけれど、まあ今までの流れを整理すると「本場」は実際に四川で麻婆豆腐を食べた人がネットにあげたレシピで、「本格」は陳健一が教えてくれたもの、「本物」は山岡士郎の妄想である。

 

となるとここで問題になるのは、陳健一の出身地がどこなのかということになるのだけれど、彼の出身は日本であり、父の陳健民が四川の出身である。が、その父は「私の中華料理、少しウソある。でもこれ、美味しいウソ」と自身の料理は日本風に味を変えていると認めており、その息子である健一もきっとその影響下にあると思われるので、彼のいう本格レシピは本場のレシピではなく日本ナイズされたものと見るべきだろう。

 

かたや山岡のいう「本物」は妄想なので別にどうでもいいのだけれど、では僕の作った本場の味、というのは本当に「本場」なのだろうか。

 

しかし確かめようにも僕自身、四川はおろか中国にすら足を踏み入れたことがなく、また今後の人生設計において明るい家族計画はあっても中国への旅行などはリストにすら入っておらず、したがって先日食べた本場の味とは本当に本場の味なのかを確かめようがなくまた陳健一の麻婆豆腐を食べにいく予定もなければさらにいうと山岡士郎がいう本物の麻婆豆腐には葉にんにくが入っているなんていうことがホントに正しいのかすら検証の仕様がないという袋小路。

 

「麻婆豆腐だけに、まあ、ぼうしましょう!」

 

なんて駄洒落にもならないようなことを考えながら職場につき、そう言えば僕には中国人の知り合いがいた!と思い出したのはちょうど昼休みの時間で、電話を取り出しその中国人に電話をかけて本場の麻婆豆腐と本格的な麻婆豆腐と本当の麻婆豆腐の違いを聞いたところ、

 

「ああ、ワタシ福建省出身よ。四川料理苦手よ、辛いから。だから知らない」

 

という返答だった。

 

結局何がなんだか分からなくなった僕は結局全てを諦め、パソコンでこの文章を打ちながらなんとなしに夢で見たはずの栗田さんの乳首の色を思い出そうとしているけれど、それすらもできないでいる。

 

あの胸をもみながら子供を作った山岡が憎らしい。本物の麻婆豆腐豆腐なんてどうでもいいから、栗田さんの乳首の色を教えて欲しい。海原雄山との軋轢や邂逅なんてどうでもいいから、栗田さんの好きな体位を教えて欲しい。

 

ああ、どれだけ画面に感情をぶちまけようが、いまだにお腹が痛いし肛門も痛い。でもまた週末にでも、次は葉にんにくをいれた麻婆豆腐を作ってみたいなあ。なんて思ったりもしながら、またトイレに駆け込むという日常と週末。

 

 

これが料亭の味だ、みたいな記事はあまり参考にしないほうがいい。

先日、とある御礼にすこぶるよい牛肉を頂いた。

 

一目見ただけで「あ、これ高級な奴だ」と感じる類いのものである。

 

すき焼き用にスライスされていたが、一枚の肉がでかく分厚くしかし持ち上げると柔らかく、と、スタートラインに立った瞬間のウサイン・ボルトのように限界の見えない可能性を秘めた肉だった。

 

机の上に置かれたその肉を夫婦で眺めながら、かような高級肉を食せるのはげにありがたき。こんなものが我が家に存在するというこの瞬間ですらすでに日常を超越しておるがゆえ、これはもう割り下も市販のありきたりなものではなく、専門料理店のものにすべきではないかという議論が我が家で繰り広げられた。

 

当たり前だ。

 

折角ボルトに走ってもらうのだから、ユニフォームやスパイクに相当する調味料はきちんとしたものを選んであげたい。これを端折って、例えばボルトに和服や下駄を着せてしまうような自体になってしまうと走る邪魔になったりするだろうし(ボルトは難波走りができない)、塩こしょうといった最小限の調味料だけではボルトのボルトがブルンブルンしてしまう恐れがある(ボルトのボルトは多分大きい)。

 

なのできちんとしたユニフォームとスパイクを揃え、彼がなんの不備もなく走れる様に整えてこそ、ボルトの本領が発揮されると考えたのだ。

 

そうはいっても通販や店舗で老舗の割下を購入するしようとすると時間がかかりすぎ、到着するまでにボルトが老いてしまう懸念がなされたので、なけなしの折衷案としてインターネッツで調べた老舗のレシピを自家でつくろうではないかとの結論を得た。

 

そのレシピとは、東京の名店「今半」で使われている割下の配合バランスである。

しかもそれが実に簡単で、醤油200cc、みりん150cc、砂糖1/2カップ、水50ccを合わせるだけとのことだ。

 

それにならい、夜半からボルトの為の専用割下を用意し、肉に火が入り過ぎないように気をつけながら調理して食べたのだけれど、これが本当に美味しかった。世界陸上を見ている時の織田裕二の表情よりも、先日の食卓は精神的賑やかさに溢れて煌めきだっていた。

 

まるで風のように口の中を駆け抜けるボルトは「オイシイデショウ……。モットツヨクカミシメテモイイヨ……。」と言い、食道を拡げることなく流れ込むような柔らかさのボルトは「モウノミコンジャウノ……?ボク、マダココニイタイヨ……。」と囁いた。

 

胃の中に到達してもその幻影がスローモーションのように舌にまだ残り続けるボルトの横には美味しすぎたショックで髪の毛が抜けたアルシンドが並び立ち「アルシンドニ、ナッチャウヨ……。」といったかと思えば、そのまま身体の中を駆け巡り僕の口腔や胃腸壁を通りこえ直接脳内にまで語りかけてくる有様で、幸福すぎていつのまにかボビーのような口調になっていた。

 

「メチャメチャキモチイイデショ!オレモキモチイイヨ!アセモナミダモ、サキバシリモ、イッパイデチャウヨ!コレ、シオジャナイヨ!ナンダヨオマエ!ドコサワッテンダヨ!シバクゾ!」

 

 

ああ、ウサインボルトに抱かれると人はこんなにも幸せになれるのか、と脳内で幾多の光景を走馬灯のように駆け巡らせながら、窓の外の深い闇に向かって2人でうまいうまいと呟くこと30分。ほうけながら鍋に目をやると、いつの間にかあれだけいたボルトがいなくなっていた。

 

鍋に残っていたのはボルトの残した汗と少し汚れたユニフォームだけだったけれど、そのユニフォームですら愛おしく、ベッドに残る彼の体温を確かめる様に一口、また一口、とスプーンで汗と涙の結晶である煮汁を白米とともに口に運んでいった。

 

そのような、夏の夜の夢のように儚い時間を満喫したのだけれど、夢の残骸として自家製の今半バランスの割下だけがテーブルに残されていた。

 

常日頃から味付けさえきちんとしていれば料理は美味しいのだと考えている僕は、これほど美味しい割り下があればどのような肉でも美味しいのではと思い立ち、次の日にスーパーで安売りされていた牛肉を購入し、その割り下とこれもまた余っていた高級肉の牛脂を使い、同じ手順ですき焼きを作ったのだけれどこれがどうにもうまくない。

 

ボルトがいないので昨日の味の再現ができないのは当たり前なのだけれど、アルシンドやボビーはおろかエマニエル坊やすら出てこなかった。

 

なんというか、割り下の味が濃すぎたのだ。煮詰めすぎた訳でもなく、肉以外の具材には違いがない。となるとやはり肉の違いが如実にでているという結果になるのだけれど、ここで僕は1つの落とし穴に気がついた。

 

それは高級店のレシピは、同等の高級食材を使うから美味いのではないか、という穴だ。

 

いや、昨日のうちに気付いておくべきだった。

 

この割り下はいうなればボルト専用のユニフォームであり、それを着たからといって速く走れるわけではないのだ。

 

少しわかりにくいかもしれないので別の例えを出すと、XLサイズのコンドームを着けたからといってちんぽの大きさがXLになるのではないのだ。

 

なので料亭の味や高級店の味を家で再現しようと思ったら、やはりそれなりの食材を用意しなければバランスがとれないのだ。

 

またひとつ蛇足で書くと、調味料ひとつとっても家で使う物と店で使う物には差があることも覚えていなければならない。いくら高級料亭の人がテレビで「このバランスで作れば、うちの味が再現出来ますよ」と優しい顔で語っていても、それを鵜呑みにすると後悔することすらある。

 

三州三河本みりんとみりん風調味料はもちろん同じ味ではないし、醤油にしてもまた地域差や作る会社によっても違い、現在でも1500軒以上の醤油メーカーがあるらしいのでそれぞれに特色がある。

 

それが分かりにくければ、味噌で想像してもらえればわかりやすいだろう。赤、白、合わせ、麦味噌、米味噌、豆味噌などひとくくりに出来ない幅の広さがある。

 

そうなると選ぶ調味料によって甘みと塩味のバランスも崩れるだろうし、香りも違ってくるのだ。

 

なのでそもそも論ではあるけれど、僕がネット情報を鵜呑みにしてつくった割り下はあくまでも今半で使われる肉にとって抜群の相性を生み出すための割り下であり、ボルト専用だと思っていたのは大間違いで、ただ単に、たまたまボルトに体型や足のサイズの似た人用の割合だったから美味かったのだ。

 

スーパーで買ったアメリカ産の肩ロース薄切りは、赤身の味が比較的しっかりとしているけれど脂自体にうま味が少ないように感じられた。だからこそ、今半のしっかりした割り下を使うと脂の味が感じられなくなり、味が濃く感じる様になったのだろう。

 

このように、普段と少しちがう食材を使うとまた新たな発見が生み出されるので、料理は何とも面白い物だと痛感する。なのでネットで紹介されているレシピを再現する時には、あまりそのレシピに頼りすぎてはいけないよ、あくまでも指針として使うくらいがいいよ、という話でした。

 

 

 

 

 

 

母や父に感謝する日があるのなら、ちんぽに感謝する日があってもいい。

今週のお題「おかあさん」

 

このお題を読んでから上記のタイトルだけが思いついてもう数時間、何も書くことが思い浮かばず僕はパソコンの前から動けずにいるのだけれど、結局諦め席から立ち上がってトイレに向かった。

 

いつでるか、もうでるかと思いながら力むこと5分少々。しばらく格闘した結果、葡萄一粒ほどのウンコがポチョンという可愛らしい音とともに滑り落ち、潜水艦のように便器の中へと沈んでいった。ポチョンがポチョムキンへと変わった瞬間に立ち会えた。

 

うんこはとても小さな、一粒だけの儚げな存在であったにも関わらず、匂いは一人前のウンコだった。

 

山椒は小粒でもピリリと辛いし、ウンコは一粒でもソコソコ臭い。

 

それが今日一日会社で僕が得ることができた教訓だった。

 

しかしまあ、そもそもこんなタイトルの記事を読みたいと思う人は気が狂っているとしか思えないのだけれど、もしこの記事を本当に読んでくれる人がいるとすれば、それはちんぽの日に何をプレゼントすればいいのか悩みに悩んだ挙げ句、ネットサーフィンの果てにこの記事に辿り着いたであろうことは想像に難くない。

 

「ちんぽ 感謝 プレゼント」で到達出来る検索結果先はきっとここくらいだろう。

 

ということで、母の日にはカーネーション、父の日にはウィスキーみたいな感じで、ちんぽの日には何をプレゼントしてあげればいいのかをここに記載することが全国のさまよえるちんぽ子羊さんたちに対する優しさなのだと思ったので、それを書きたい。

 

そもそも母の日にカーネーションをもらって嬉しく思うのは、母は普段からカーネーションを代表とする「花」をもらう機会が少ないからだろう。

 

しかし少し調べてみると、花を嬉しいと思う人が多い反面、全然嬉しくないという意見も散見される。 ちなみにそのサイトによるとカーネションなどの花も嬉しいけれど一緒にご飯を食べにいったり旅行にいったりするほうがうれしかったり、鞄や財布などの小物をもらうことに喜ぶみたいなことも書かれていた。何とも現実的だ。

 

ただそれらは地味に出費のかかることでもあり、そこまでのプレゼントはどちらかといえば誕生日などにとっておきたい。では何がいいのかといわれれば、母親の好きな色のスカーフなどはいかがだろうか。季節を問わず使えて値段も手頃。また僕自身今までの人生でスカーフが嫌いだという女性に出会ったことがないので、とても現実的な気もする。

 

ちなみにだが、母の日だからといってカーネーションの色に合わせて赤いものを選ぶのはやめた方がいいと個人的には思う。なぜなら、今の時代赤いスカーフを巻いているのは水木一郎くらいしかいなからである。

 

想像してごらん。あなたのせいで、母親が水木一郎とペアルックになってしまうことを。

想像してごらん。あなたのせいで、母親がパート先の打ち上げでマジンガーZを歌わされることを。

 

あなたがジョンレノンと同じ様に平和を愛するのであれば、赤以外のスカーフがよろしいかと思う。

 

他方、父たちがウィスキーをもらって喜ぶのは、世知辛い社会構造が問題となっていることはあまり知られていない。

 

働けども働けども我が暮らし楽にならんなあとじっと手を見つめているお父さんたちが普段飲んでいるのは第3のビールやメチルアルコールである。それらが冷蔵庫に並んでいる様は物悲しくもあり、そのままいくと密造酒作りに手を染めてしまう懸念もある。

 

父を非行に走らせないように、日常でも飲める様に、せっかくだからいいお酒をあげようと鬼殺しやワンカップをあげたとしても、そんな飲酒状況にある父親は手が震えているもしくはメチルが視覚に影響を与えてしまっているので上手いこと飲めずにこぼしてしまう、もしくは癇癪を起こして壁に投げつけてしまいかねない。

 

すると結果的に床にこぼれた中身を臥せって啜るという人として情けない結果になってしまうので、この場合はそのままでも飲みやすく、またある程度アルコール度数の高いウィスキーが喜ばれるのだと僕は床にこぼしたワインを啜りながら考えたのだ。

 

話は変わるが木の床に落ちたワインを直接すすると木樽から直接ワインを飲ませてもらっている気がしてなんともいいものだ。床のテロワールを感じる。またカーペットにこぼした場合は布のテロワールがするけれど、けばけばしさが気になるのであまりお勧めしない。

 

このようにプレゼントは、あげる対象が求めている物を提供すべきである。となればちんぽに対しても、どのような生活をしているのかを良く観察し、何を求めているのかを感じ取ってあげることが重要なのだ。

 

あなたのちんぽが何を思い、何を考え、何をして過ごしているのかをつぶさに観察し、健やかな時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時にも、貧しい時にも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くして見守ってあげる。

 

非行に走る児童の大半の原因は親の無関心といわれているが、それはちんぽも同様である。

 

貴方がちんぽに関心を持つことで、ちんぽが何を欲しがっているのかを理解出来るできるだけでなく、非行の道へと踏み出してしまうことを未然に防ぐことだって出来るのだ。

 

愛するということは包み込むということ。敬うというのは先っぽを刺激してあげること、慰めるのは上下運動、助けるのはティッシュの用意、命ある限りの真心とはご想像にお任せします。

なによりボクが言いたいのは、

 

ゆるすなちんぽの非行

ともせちんぽの希望

 

を合い言葉に、邁進してまいろうではないか、ということだ。

 

さて少し脱線してしまったけれど、母や父が喜ぶようなプレゼントを考えたように、ここからちんぽの喜ぶものを考えようではないか。

 

しかし先に書いておくと、普段からちんぽと近しいパンツやコンドームというのはちんぽの日にプレゼントする物としては最低の部類に入ると考えられる。

 

これは例えば母親にエプロンをあげると「もっとおいしい飯を作れ」というプレッシャーになってしまう懸念があるし、父に財布をあげたとしても入れる中身がないどころか手元にあるお金を全て酒に使うために、財布を見る度に罪悪感を増長させてしまう、なんてことが現代日本では良く起こりえるし、もうそうなるとその結果が自殺大国である日本だともいえる。

 

心ないプレゼントが人を殺すこともあるのだ。

 

なので出来るだけ対象から距離を置きながらも、相手が喜ぶものであり、また需要があるものを見極めることが重要になる。

 

これは順序よく考えると理解出来るかもしれない。

まずなぜパンツがだめなのか。それは、ちんぽから一番近い存在、先にあげた様な母親にとってのエプロンだからである。

 

そんなちんぽに一番近い存在であるパンツをプレゼントするというのは、八百屋さんにキャベツをプレゼントするようなもの、もしくはお坊さんに木魚をプレゼントするようなものだ。

 

いつもスグそばにあるものをわざわざプレゼントされてもなにも嬉しくないし、逆に言えば迷惑にすらなりえる。

 

たとえば魚屋さんがさんまを叩き売りしているその瞬間、「これ受け取って下さい!」鯵を渡したらどうだろうなるだろう。「ありがとうございます」とは答えないし、そもそも気持ち悪がって受け取ってはくれないだろう。

 

またタイミングが悪いと、自分で持ち込んだ鯵であるにも関わらず「あいらっしゃい!鯵一丁ね!」と、そのままレジに通されてお金まで払わされるかもしれない。貴方が持ち込んだ鯵に対して貴方がお金払いそれを貴方が持って帰ることになる。

 

あなたが代金を払って手に入れたもの、それは虚無である。

 

結局の所、あなたは何も手に入れられない。貴方がしたいことが寄付や献金なのであればそれでもいいだろうが、きっと違うだろう。そのように、やはり対象に近しい物はプレゼントにはむいていない。

 

次にコンドームがいけない理由は、これはもう単純にダサイからである。こういった物をプレゼントする俺あるいは私、なかなかにとんがってて面白いだろう、という自意識が垣間見えすぎてしまう。

 

精子をせき止めるコンドームをプレゼントしながら自意識を駄々漏れにするなんていうださい行為は、高校生で卒業しておきましょう。先走るのは、ちんぽだけで十分なのだ。

 

さてここからが本題だが、ではちんぽの日にプレゼントするには何がいいのかを考えると、やはりちんぽからほど遠く、かつちんぽにとって有用である物があげられ、またプレゼントであるがゆえにオシャレであることも重要だろう。

 

そもそもちんぽは隠されることが前提であり、オシャレであることは余り意味をなさないのでは?と考えられがちだけれど、オシャレの上級者は見えないところにこそ拘るものである。勝負下着はその最たる物で、見えない部分に拘ることで強く優しく愛おしくなれる。

 

貴方のちんぽは赤黒いだろうか。それとも青白いだろうか。きちんと毎日確認している人ならばすぐに答えられるけれど、まずここで気にするべきはちんぽを表現する時には「色」が使われるということだ。

 

色はその物体がどれくらい光を反射するかで決まる。リンゴは赤いのではなく、赤い光を反射することで視覚的に赤く見えるのだ。

 

それに倣うと、赤黒いちんぽは白い光を吸収していく「闇属性」のちんぽであり、青白いちんぽは黒さを吸収する「光属性」だと定義できる。

 

であれば、自ずとどのようなプレゼントがいいのか選択肢の幅を狭めることができ、今後どのようなちんぽに育てたいのかによって別の選択も選べるだろう。これはちんぽに対するプレゼント選びでありながら、1つの教育でもあるのだ。教育評論家の尾木ママも、きっとこの意見に賛成してくれることだろう。

 

「あのね、ひとつとして同じちんぽってないのよ。あなたにはあなたのちんぽがあるし、そのちんぽをどうやって育てるのかは、貴方の手にかかっているのよ。まあ、手にかかってるって、なんかヤラシイわね」

 

では、1つのサンプルとして闇属性の赤黒タイプを優しく育てたい時のプレゼントを考えてみたい。

 

先にも書いた様に、赤黒ちんぽの属性は闇だ。であれば、優しく育てたい場合には闇を中和する為に必要になるものを選ぶことになる。

 

となるとやはり柔らかな素材感が重要であり、闇の印象を軽やかに変化させる「パステルカラーの薄手ストール」はいかがだろうか。

 

元来かりくびは敏感な場所であるが、ストールを巻くことで急な温度変化にも対応でき、また早漏対策にもなる。さらに赤黒さを解消する為に、初夏らしい軽やかな色合いを選ぶとバランスがとれる。

 

以前「風俗でモテる為にはちん毛にリンスをすればよい」という話を書いたのだけれど、これもまた風俗でモテる為のエッセンスになるかもしれない。ビキビキに固くなった赤黒ちんぽでも、薄いピンクや水色のストールを合わせることでいっきに優しい雰囲気を纏えるのだ。

 

このようにちんぽに感謝するように考えると、どんなプレゼントがいいのかおのずと見えてくる。例に出した様なストールはもちろん、敏感さに拍車をかけてあげたいならば柔らかさに定評のある「熊野ふで」、ちんぽをブランド化したいならば「穴吸いの香水」、いつ外に出しても恥ずかしくないちんぽに育てたいなら、身だしなみを整える意味も込めて「ヘアアイロン」なども喜ばれます。ストレートなちん毛は、気持ちをストレートに伝えてくれますから。

 

ながながと書いてきましたが、そもそもちんぽの日ってなんでしょうか。それはいつなんでしょうか。この文章を母が読んだら、僕のことをどう思うのでしょうか。色んな疑問が頭をよぎりますが、まあ、書いてしまったものは仕方がないので、今日という日を「ちんぽ記念日」として、この記事を公開したいと思います。

 

ちなみにですが、1966年の今日は、中国で文化大革命が起きた日らしいですね。それにならって、今日という日がいつか、ちんぽ大革命の日になってくれることを願ってやみません。 

 

自分で書いておきながらなんだけれど、プレゼントの選択肢がストールに傾きすぎているのは多分水木一郎ウィキペディアを見すぎたからだろうし、そもそも選択のセンスがださ過ぎることには目をつぶってもらいたい。