僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

料理の写真を撮るブロガーはハメ撮りも得意なのでは、という勝手な決めつけ。

人は見た目で選んではいけないというけれど、大半の人は物を見た目で選ぶ。

 

だからこそ物を作る時にはディレクターが大衆に選ばれるような方向性を決めてデザイナーがよいと感じられるデザインを作り出すという流れが存在するし、そうしなければ実際によい物であったとしてもなかなか売れない。漫画だって内容がよくても絵柄が好みじゃないと見ないなんて人もいる。

 

これは食事に関してもそうで、いくら味がよくても盛り付けが汚いとそれを食べるのを躊躇するし、どれだけ美味しいといわれても虫を食べる人は未だ少ない。僕に限って言えば、節足のものはなんとか食べられるけれど幼虫系は苦手であるが、では好んで昆虫を食べるのかと問われれば好んでは食べないけれど海老蟹シャコ類は好物であり、幼虫は苦手であるけれどホタルイカやナマコ、牡蠣などは見るだけで涎を垂らしてしまう。

 

その選択は今までの生活基盤に根付いたものであることも重々承知しているけれど、やはりどう考えても、どれだけ美味しいといわれても幼虫系を率先して食べる日が訪れるとは思えない。 

 

そう言えばまったく関係ないけれど、この間常温で数時間放置していた海老を食べたらなんとなく顔がひりひりとしてかゆくなったので多分何かしらに当たったのだと思う。冷蔵庫は偉大だし、困った時には医大

 

このようにどれほどきれいごとを並べたとしても、実際問題として視覚による選別というものはどのような対象であっても存在するし、たとえば同じ味であったとしても見た目が汚いものよりも綺麗な方を選ぶだろうし、まず見た目が綺麗でなければ選ばれないということでもある。

 

また、人は見た目と中身が違うことにある種の拒否反応を示すこともある。

 

パッケージ写真にイチゴが乗っているにもかかわらずイチゴの味のしないチョコレートがあれば誇大広告だとされて通報されるし、パネルでは細身でメリハリがあって黒髪だったにも関わらず実際に入ってきた人が太ましくあまりメリハリもなく金髪に近い茶髪だったりすると顔で笑って心で泣くだろう。

 

そこからどんなプレイが繰り出され官能の渦に巻き込まれたとしても、心と身体の乖離は免れない。あそこがいくら起っていて先走り汁が溢れ出ていたとしても、心の中では涙が溢れ出るのだ。気持ちいいのに悲しくもある、新たな性癖への入り口がもしかしたらそこにあるのかもしれないが、それはまた別の話である。

 

また機能美という言葉もあるように、その機器の目的にそってシンプルに突き詰めていくとその佇まいは美しくなる、なんてこともある。消しゴムの角が丸くなって使いづらくなるのを解消したカドケシグッドデザイン賞を取ったりニューヨーク近代美術館のデザインコレクションに選定されたりもしているが、それは世の中に存在するものも、その見た目の中に本質を忍ばせている場合がある、ということの証左でもある。 

 

さて、話は変わるが僕は普段から良く料理をする。我が家では夕食はほぼ僕が作り、昼食は妻が作るのが通常のスタンスとなっている。

 

毎日ご飯を作るとなると、レパートリーの限界を感じるようになるのだけれど、そう言った時に助かるのが様々な料理ブロガーの方たちの写真付きブログである。材料から調理過程、出来上がりに至るまで、とても細かく配慮に満ちた記事がいたるところにあるので、何を作るか迷ったらそういったブログを参考に料理をつくることも多い。

 

そんなこんなで常日頃から料理ブロガーの方々には尊敬の念を抱いているのではあるが、そんな生活を続けているとふつふつ沸いてくる気持ちがあり、それは「 普段の食事をそれだけ美しく撮れるのならば、ハメ撮りも綺麗に撮れるのでは?」という疑問である。

 

余計なお世話だ、と思われるかもしれないけれど、これはきっと仮説でありながらまちがいなく立証されるであろう説だと自信を持って提唱するものである。

 

しかしこの説を立証させる為には著名な料理ブロガーにハメ撮りを依頼するしか方法がないのだけれど、

 

「いつもブログを拝見させていただいています。綺麗な写真と美味しそうな料理で勉強させていただき(実際につくっても美味しいものばかりです!)ありがとうございます!ところで今度ハメ撮りを撮ってもらえませんか?」

 

という質問を送ったところでよくて無視、悪くて通報またはsnsで晒されるまたはブログの運営会社から強制退会をさせられるなんてことになり、そうなると僕はもうハメ撮りどころの話ではなく、得られる結果は立証ではなく失笑なんてことになりうる。

 

なのでそこのところは適当に濁しながら、しかし料理を綺麗に飾れる人というのはこれはやはり才能というものがあるとも思われ、そうなると人を撮る場合にもその才能はいかされ、ひいてはハメ撮りを撮るときであってもやはり美しいハメ撮りが撮れるのではないかと思い悩むこと数時間。

 

その時の僕は海外のエロいものが見れるサイトなどを巡回し、「beautiful hamedori」などと豊富な英語能力を駆使して検索をしながらも結局出てくるのは妙齢のパツキン女性で彼女が「オーイエアハーーン」とバンプオブチキンが歌う様な声をあげながら午前二時に黒人の望遠鏡を口にくわえて見えないものを見ようとして天体観測からぬ生態観測している動画を見てしまい何となく悲しい気持ちになったのは僕のものが望遠鏡ではなく土産物屋で売っている様な万華鏡の大きさしかないから。その後にティッシュという名の天の川を泳ぐ億千万の輝ける生命達の輝きはダイヤモンドのそれ。

 

でもいくら自分の万華鏡をいじっくてみても亀頭の先がこんにちはさようならを繰り返すだけの見慣れた風景しかみえないし、万華鏡という言葉には「マンゲ」という素敵なものが入っているなあなんて小学生しか喜ばないことを考え、またその言葉から「餃子一日百万個」という王将のCMが思い出されて百の万個って凄いなあなんて涎を垂らして分身を弄っていた過去の記憶がフラッシュバック。

 

延々と同じことを繰り返すその様はまるでこれもまた万華鏡のようだなあなんてキラキラ輝いていた過去の僕を思い出そうとしてみても輝いていた過去なんて1回もなかったし卒業アルバムに写っている僕はどの写真も短パンからトランクスの生地がはみ出していた。

 

そこで考えてみたのは、等式というものがこの世にあるという事実。

 

A=BならばB=Aであり、その逆もしかり。

 

では綺麗なハメ撮りをしている人が料理を綺麗に撮れるのかと考えたとき「そりゃあお前さんセックスの上手い人が料理が上手いのかいっていやあそんなはずはねえわなあ、そんなこといってたらあよお、栗原はるみちゃんが床上手ってことになっちゃうねえ、上沼恵美子ちゃんの寝技は黒帯級だなんて夢が広がるねえ」なんて江戸っ子が勝手に話の結着をつけてしまい、そうなると料理がうまい人がハメ撮りが上手いっていう説もまたしかりであり、料理上手がハメ撮り上手だっていう説はやっぱり僕の思い過ごしになるし、何事も勝手に決めつけるのはよくないねって反省して僕は今から週刊少年ジャンプを読みます。

 

でも僕は個人的に料理と性戯が混同されてもいいと思うし、料理本コーナーに四十八手の本が並んでいても別にいいとも思います。なぜならば今我が家のコンロの上ではお玉とお鍋がくんずほぐれつしていて洗い場では菜箸とトングが松葉崩しをしたかと思えば引き出しの中ではスプーンとしゃもじが鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)。お茶碗とガラスの平皿が碁盤攻め。ねえねえ、シックスナインって四十八手の中じゃ椋鳥(むくどり)っていうんだよ。

 

とまあジャンプにはまず出てこないようなことを最後に書いたのは、最近台所が汚れているなあなんて思ったのとそれを文章にしてもどうしようもないしなあ、なんてことを考えていたからです。なんて素敵なDDK48(台所四十八手)。

 

そんな我が家の乱れた台所は今でもずっと汚いままです。そろそろ掃除をしなければなりません。あと、料理は本当に盛りつけが難しいです。栗原はるみの今日の料理と上沼恵美子のおしゃべりクッキングSODクリエイトを見てもっと盛りつけの勉強します。僕は靴下を履いたままの行為は好きですが、アクセサリーがじゃらじゃらついたギャルものはあまり好きではありません。何事もシンプルが一番です。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これぞ本場の味!」と言われましても。

先日ネットで「本場の味を再現した麻婆豆腐レシピ」なる物を拝見し、なるほどこれをつくると本場の味が食べられるのかと意気揚々、自宅の冷蔵庫やスパイス置きをあさってみればその本場の味が再現出来る材料まで揃っていた。豆豉、花椒、豆板醤、生姜に塩漬け唐辛子、ひき肉等など。

 

であればなおさら作るしかないと思い立ち、深夜12時を超えようという時間帯に完成し、寝かけていた妻を起こしてともに賞味しながら「うほほ、これが本場の味かいな、うまい辛いけれどうまいまた辛い」とハイボールやビールを飲みつつネットレシピの出来映えに満足してしまい酔って昏倒、洗い物その他の家事を放置してそのまま寝てしまったのだけれど、翌日腹痛に苛まれて目を覚ますはめになったのが僕の醜態。

 

トイレでの排泄と台所での洗い物、猫のトイレ掃除をこなしながらなんとか我がの朝の準備をした。

 

しかし辛いものを食べた後の腹痛は大概の時において後を引き、この日もまた多分に洩れず排便は漏れ続け、自宅での排泄のみではらちがあかず、駅構内から電車にのるまで腹痛が断続的に僕を襲い「やはり辛い物を食べると翌日がつらい。なので辛い物は週末にしか食べないようにしよう」などと満員電車で考えながらまだ襲いくる便意と格闘していると、その神聖な戦いに別の相手が交わってきた。

 

その相手とは、満員尾通勤電車の中で僕の隣に立っていたおっさんである。

 

こちらを見ることはしないけれど、身体のはしばしから僕の立っている場所を浸食したい、自分の領地を拡大したいという邪念が立ち上っていた。しかし僕にも譲れないもの(お腹に刺激のない姿勢)があり、また守るべきもの(肛門の安全)もある。

 

三者の戦いは水に浮かんだ豆腐のように極めて静かでありながら、すりつぶされた花椒のように鮮烈さを極めた。

 

昨夜の辛味に刺激され肛門へ肛門へとうんこをおしだそうとする腸。

その肛門を必死で締めようと踏ん張る僕。

その踏ん張る僕の足を踏んだり、ゆるんだ腹を腰で押してくる横暴なおっさん。

横暴なおっさんにうんこをぶちまけてやろうか!といきり立つ腸。

ぶちまけるためには肛門を通過しなければならず、そうなるとやばい僕。

僕に守られているとは知らずさらに執拗に僕の足を踏むおっさん。

 

その三すくみは阪急電車に急遽現れたバミューダトライアンゴー。

 

これ以上足場の確保に拘るならおっさんは臭さと僕の便の中で溺れ死ぬし、僕は社会的に死ぬし、周りの人達もとばっちりで死ぬことになるんだぜ?なんて頭の中でニヒルなやりとりしていたのだけれど、本当にそれが現実になるとニヒルどころか俺の尻からヒネリ出るのは下痢でもなんでもなくただの邪王炎殺黒龍波だしそうなると俺は飛影だしここは阪急電車ではなく首くくり島の暗黒武術会で車掌は戸愚呂チームのオーナー左京だ。

 

「うんこを漏らした奴が勝つ方に、66兆2000億円」

 

と社内アナウンスから流れ、つり革の上で待機している戸愚呂兄が「きひひひひひひ!早く漏らしちまえよ!」といったかと思えば玄海師範は「限界を超えろ、玄海だけに」みたいなくだらない駄洒落をいうし僕は邪王炎殺黒龍波(下痢)は使えるけれど陣のように爆風障壁が使えないので周囲にうんこが散乱してしまう。戸愚呂弟は臭くなった車両の替わりに新しい車両を担いでくるし、うんこを漏らしてしまった僕はDr.イチガキのような笑顔を浮かべ「全て私のシナリオシュミレーション通り」だとかいいながら高笑いするだろう。

 

そんな地獄絵図、いうなれば黒の章の収められてもおかしくない風景がこれ以上広がらないように、痛む腹を腰をぐいぐい押してくるそのおっさんの顔を懇願の表情で見つめ終戦をはかろうと見てみると、なんとなく渡辺正行ににていたのでこれもなんとなく腹がたってしまった。お前はコント赤信号で忙しいかもしらんが、おれは腹痛が赤信号なのだ。

 

結局最低最悪な暗黒武術会はひらかれることなく無事電車から降りることができ、なんとかトイレにも間に合い、便器に股がり唐辛子で痛む肛門をなだめすかし、やはり本場は強いんだなあ、と感嘆していると「そもそも『本場の味』とはいったい何なのだろう」という疑問がまるで肛門からうんこがでてくるかのように湧き出てきた。

 

本場。

 

その言葉の通り、その場所で生まれたものである。僕の肛門を破壊したのは本場四川のレシピという謳い文句がかかれた麻婆豆腐のレシピであり、豆豉や豆板醤、塩漬け唐辛子を使うものだった。確かに美味しく、またふだん中華料理屋で食べるものとはひと味もふた味も違う味わいだったのだけれど、ではそれが本場の味なのかどうか、というものが分からなくなってきたのだ。

 

さらにいうと、また別の麻婆豆腐のレシピを中華の鉄人陳健一氏が書いており、そこには本格的という文字が踊っていた。

 

本場と本格。

 

同じ様な言葉で紹介された2つのレシピではあるけれど、使う食材にも違いがあり、そうなると味も違うことは疑いようがないがそれも考えれば考えるほどに混乱をきたす。

 

同じ四川の麻婆豆腐でありながら本場の味と本格的な味には違いがあることとなり「これは一体どういうことなのだ」と僕の中に潜む海原雄山が顔を出す案件でもあり、東西新聞社帝都新聞社が紙面で火花をちらしあい、本場本格と言葉尻を掴んで振り回す海原雄山に対して富井副部長が「本場が何だーーー!本格が何だーー!」と泥酔しながら叫ぶので双方を収める為、栗田さんにお願いしてなんとか一肌脱いでもらい、僕と海原雄山、富井副部長の3人で彼女のストリップを楽しんでいたところまでは覚えているけれど、山岡さんが急に出てきて「明日の午後、俺に付き合ってもらおう。お前に本物の麻婆豆腐がどんなものか教えてやろう」みたいなことを言われ「本場、本格に続いて今度は本物!!!!????」というまた新たな言葉に発狂して僕は気を失ってしまったけれど、薄れゆく記憶の中でただ1つ覚えているのは山岡さんのポケットから栗田さんのブラジャーの紐が見えていたことくらい。

 

トイレで目を覚ましてからも「本場」と「本格」と「本物」の違いが結局分からず今に至るのだけれど、まあ今までの流れを整理すると「本場」は実際に四川で麻婆豆腐を食べた人がネットにあげたレシピで、「本格」は陳健一が教えてくれたもの、「本物」は山岡士郎の妄想である。

 

となるとここで問題になるのは、陳健一の出身地がどこなのかということになるのだけれど、彼の出身は日本であり、父の陳健民が四川の出身である。が、その父は「私の中華料理、少しウソある。でもこれ、美味しいウソ」と自身の料理は日本風に味を変えていると認めており、その息子である健一もきっとその影響下にあると思われるので、彼のいう本格レシピは本場のレシピではなく日本ナイズされたものと見るべきだろう。

 

かたや山岡のいう「本物」は妄想なので別にどうでもいいのだけれど、では僕の作った本場の味、というのは本当に「本場」なのだろうか。

 

しかし確かめようにも僕自身、四川はおろか中国にすら足を踏み入れたことがなく、また今後の人生設計において明るい家族計画はあっても中国への旅行などはリストにすら入っておらず、したがって先日食べた本場の味とは本当に本場の味なのかを確かめようがなくまた陳健一の麻婆豆腐を食べにいく予定もなければさらにいうと山岡士郎がいう本物の麻婆豆腐には葉にんにくが入っているなんていうことがホントに正しいのかすら検証の仕様がないという袋小路。

 

「麻婆豆腐だけに、まあ、ぼうしましょう!」

 

なんて駄洒落にもならないようなことを考えながら職場につき、そう言えば僕には中国人の知り合いがいた!と思い出したのはちょうど昼休みの時間で、電話を取り出しその中国人に電話をかけて本場の麻婆豆腐と本格的な麻婆豆腐と本当の麻婆豆腐の違いを聞いたところ、

 

「ああ、ワタシ福建省出身よ。四川料理苦手よ、辛いから。だから知らない」

 

という返答だった。

 

結局何がなんだか分からなくなった僕は結局全てを諦め、パソコンでこの文章を打ちながらなんとなしに夢で見たはずの栗田さんの乳首の色を思い出そうとしているけれど、それすらもできないでいる。

 

あの胸をもみながら子供を作った山岡が憎らしい。本物の麻婆豆腐豆腐なんてどうでもいいから、栗田さんの乳首の色を教えて欲しい。海原雄山との軋轢や邂逅なんてどうでもいいから、栗田さんの好きな体位を教えて欲しい。

 

ああ、どれだけ画面に感情をぶちまけようが、いまだにお腹が痛いし肛門も痛い。でもまた週末にでも、次は葉にんにくをいれた麻婆豆腐を作ってみたいなあ。なんて思ったりもしながら、またトイレに駆け込むという日常と週末。

 

 

これが料亭の味だ、みたいな記事はあまり参考にしないほうがいい。

先日、とある御礼にすこぶるよい牛肉を頂いた。

 

一目見ただけで「あ、これ高級な奴だ」と感じる類いのものである。

 

すき焼き用にスライスされていたが、一枚の肉がでかく分厚くしかし持ち上げると柔らかく、と、スタートラインに立った瞬間のウサイン・ボルトのように限界の見えない可能性を秘めた肉だった。

 

机の上に置かれたその肉を夫婦で眺めながら、かような高級肉を食せるのはげにありがたき。こんなものが我が家に存在するというこの瞬間ですらすでに日常を超越しておるがゆえ、これはもう割り下も市販のありきたりなものではなく、専門料理店のものにすべきではないかという議論が我が家で繰り広げられた。

 

当たり前だ。

 

折角ボルトに走ってもらうのだから、ユニフォームやスパイクに相当する調味料はきちんとしたものを選んであげたい。これを端折って、例えばボルトに和服や下駄を着せてしまうような自体になってしまうと走る邪魔になったりするだろうし(ボルトは難波走りができない)、塩こしょうといった最小限の調味料だけではボルトのボルトがブルンブルンしてしまう恐れがある(ボルトのボルトは多分大きい)。

 

なのできちんとしたユニフォームとスパイクを揃え、彼がなんの不備もなく走れる様に整えてこそ、ボルトの本領が発揮されると考えたのだ。

 

そうはいっても通販や店舗で老舗の割下を購入するしようとすると時間がかかりすぎ、到着するまでにボルトが老いてしまう懸念がなされたので、なけなしの折衷案としてインターネッツで調べた老舗のレシピを自家でつくろうではないかとの結論を得た。

 

そのレシピとは、東京の名店「今半」で使われている割下の配合バランスである。

しかもそれが実に簡単で、醤油200cc、みりん150cc、砂糖1/2カップ、水50ccを合わせるだけとのことだ。

 

それにならい、夜半からボルトの為の専用割下を用意し、肉に火が入り過ぎないように気をつけながら調理して食べたのだけれど、これが本当に美味しかった。世界陸上を見ている時の織田裕二の表情よりも、先日の食卓は精神的賑やかさに溢れて煌めきだっていた。

 

まるで風のように口の中を駆け抜けるボルトは「オイシイデショウ……。モットツヨクカミシメテモイイヨ……。」と言い、食道を拡げることなく流れ込むような柔らかさのボルトは「モウノミコンジャウノ……?ボク、マダココニイタイヨ……。」と囁いた。

 

胃の中に到達してもその幻影がスローモーションのように舌にまだ残り続けるボルトの横には美味しすぎたショックで髪の毛が抜けたアルシンドが並び立ち「アルシンドニ、ナッチャウヨ……。」といったかと思えば、そのまま身体の中を駆け巡り僕の口腔や胃腸壁を通りこえ直接脳内にまで語りかけてくる有様で、幸福すぎていつのまにかボビーのような口調になっていた。

 

「メチャメチャキモチイイデショ!オレモキモチイイヨ!アセモナミダモ、サキバシリモ、イッパイデチャウヨ!コレ、シオジャナイヨ!ナンダヨオマエ!ドコサワッテンダヨ!シバクゾ!」

 

 

ああ、ウサインボルトに抱かれると人はこんなにも幸せになれるのか、と脳内で幾多の光景を走馬灯のように駆け巡らせながら、窓の外の深い闇に向かって2人でうまいうまいと呟くこと30分。ほうけながら鍋に目をやると、いつの間にかあれだけいたボルトがいなくなっていた。

 

鍋に残っていたのはボルトの残した汗と少し汚れたユニフォームだけだったけれど、そのユニフォームですら愛おしく、ベッドに残る彼の体温を確かめる様に一口、また一口、とスプーンで汗と涙の結晶である煮汁を白米とともに口に運んでいった。

 

そのような、夏の夜の夢のように儚い時間を満喫したのだけれど、夢の残骸として自家製の今半バランスの割下だけがテーブルに残されていた。

 

常日頃から味付けさえきちんとしていれば料理は美味しいのだと考えている僕は、これほど美味しい割り下があればどのような肉でも美味しいのではと思い立ち、次の日にスーパーで安売りされていた牛肉を購入し、その割り下とこれもまた余っていた高級肉の牛脂を使い、同じ手順ですき焼きを作ったのだけれどこれがどうにもうまくない。

 

ボルトがいないので昨日の味の再現ができないのは当たり前なのだけれど、アルシンドやボビーはおろかエマニエル坊やすら出てこなかった。

 

なんというか、割り下の味が濃すぎたのだ。煮詰めすぎた訳でもなく、肉以外の具材には違いがない。となるとやはり肉の違いが如実にでているという結果になるのだけれど、ここで僕は1つの落とし穴に気がついた。

 

それは高級店のレシピは、同等の高級食材を使うから美味いのではないか、という穴だ。

 

いや、昨日のうちに気付いておくべきだった。

 

この割り下はいうなればボルト専用のユニフォームであり、それを着たからといって速く走れるわけではないのだ。

 

少しわかりにくいかもしれないので別の例えを出すと、XLサイズのコンドームを着けたからといってちんぽの大きさがXLになるのではないのだ。

 

なので料亭の味や高級店の味を家で再現しようと思ったら、やはりそれなりの食材を用意しなければバランスがとれないのだ。

 

またひとつ蛇足で書くと、調味料ひとつとっても家で使う物と店で使う物には差があることも覚えていなければならない。いくら高級料亭の人がテレビで「このバランスで作れば、うちの味が再現出来ますよ」と優しい顔で語っていても、それを鵜呑みにすると後悔することすらある。

 

三州三河本みりんとみりん風調味料はもちろん同じ味ではないし、醤油にしてもまた地域差や作る会社によっても違い、現在でも1500軒以上の醤油メーカーがあるらしいのでそれぞれに特色がある。

 

それが分かりにくければ、味噌で想像してもらえればわかりやすいだろう。赤、白、合わせ、麦味噌、米味噌、豆味噌などひとくくりに出来ない幅の広さがある。

 

そうなると選ぶ調味料によって甘みと塩味のバランスも崩れるだろうし、香りも違ってくるのだ。

 

なのでそもそも論ではあるけれど、僕がネット情報を鵜呑みにしてつくった割り下はあくまでも今半で使われる肉にとって抜群の相性を生み出すための割り下であり、ボルト専用だと思っていたのは大間違いで、ただ単に、たまたまボルトに体型や足のサイズの似た人用の割合だったから美味かったのだ。

 

スーパーで買ったアメリカ産の肩ロース薄切りは、赤身の味が比較的しっかりとしているけれど脂自体にうま味が少ないように感じられた。だからこそ、今半のしっかりした割り下を使うと脂の味が感じられなくなり、味が濃く感じる様になったのだろう。

 

このように、普段と少しちがう食材を使うとまた新たな発見が生み出されるので、料理は何とも面白い物だと痛感する。なのでネットで紹介されているレシピを再現する時には、あまりそのレシピに頼りすぎてはいけないよ、あくまでも指針として使うくらいがいいよ、という話でした。