今週のお題が読書の秋だからって読書体験を書こうと思うのは早計。
今週のお題「読書の秋」
イケメンの由来が「イケてるメンズ」であり、しかしその「メンズ」はマンの複数形であるメンにさらに複数形を意味するSがついているのはメンズノンノという雑誌名が生んだ誤解である、みたいな話を聞き、なるほど面白いものだなあ、と思ったのだけれど、では英語本来が持っているはずの正しい意味合いを持たせたらどうなるのかと問われた場合イケてるマン、すなわち「イケマン」となるのは至極もっともである。
が、そうなるとそもそもイケてるという言葉自体が英語ではないのでそこのんところどうなるのだろう、イケてるは英語でグッド?クール?
となればそれを省略したうえでの言葉としてグッマンorクーマン?みたいな感じとなり、しかしそれはいまいち発音上の語感もよろしくないし、でもまあそういう細かいことに拘っている男はあんまりモテなさそうだしドツボにはまってしまいかねなくなるので小休止。
また、最近では子育てに参加する男性を同じ様な用法に倣って育児に従事するメンズすなわち「イクメン」と読んだりもするらしい。しかし前述の正しい英語に倣うとこれもまた「イクマン」と呼ぶだろうし、育児自体が英語ではないので育児を意味する英語を調べてみたらチャイルドケアだのチャイルドレイジングなどと言うらしく、またそうなるとチャイルドケアの頭文字を略したチャケマンや、同様にチャイルドレイジングを短くしたチャレマンみたいな呼び名が正しいということになり、そうなるとヒッピホップの方々がよくつかう「マイメン」も「マイマン」になりかねない事態に陥ってしまう。
しかし日本語とはなんとも面白いものであり、現代において「マン」と省略されてしまうのは「あげマン」「さげマン」に代表されるように女性器であったりするし、前述したチャケマンは風俗業界で良く使われる生理時の女性器を意味するケチャマン(ケチャップマン◯)に酷似していたりもする。
なので本来であれば正しい用法であるはずの「イケマン」「イクマン」「マイマン」「チャケマン」という言葉には「イケてるマン◯」「すぐイクマ◯コ」「マイルドな◯ンコ」「ケチャッ◯マンコ」みたいな意味合いが含まれてしまう恐れがあり、まかり間違って「パーフェクトにイケてるしパンまで自作するマン」を呼ぶ際にはそれはもちろん「パイパンマンコ」となるだろう(予言)。
少し話を戻してイケメンがメンズノンノの生んだ誤解であるならばメンズノンノはこれ以上の誤解を生み出さない様に改名すべきであるかもしれず、そもそも「メンズ」は男たちである「メン」とそのメンたちに向けてのノンノ、メン’sノンノであるけれどもそれが誤解を生んでいるので分かりやすいように男「達」ではなく男そのものためのノンノ、すなわち先にもあげた通りに「マンズノンノ」にすればいい、と思ったのであるが、こうなると何となく地方じみたタイトルになってしまうなあ、と感じてしまった。
青森だとか、秋田だとかの方言ぽい。
発音で言うと、「マ→ン↑ズ↑ノ→ン→ノ↓」みたいな感じだろうか。
しかし現代は地方創生が叫ばれる時代でもあるので、これはこれで何となくいいと思うし、これがブームになれば地方ごとに地方ごとのノンノがでてくるやもしれず、大阪であればワイのノンノ、という意味合いをこめてワイズノンノとなるだろうし(毎号ヨウジヤマモトの服しか特集されないみたいな尖りかたしそう)、そうなると東北の方では自分のことをワダスなんて呼ぶとも聞き、そうなるとその所有を意味するワダズノンノとなり、毎月の表紙は和田勉が飾るだろう。まあ和田勉はなんとなく見た目がアラーキーにも似ているのでオシャレな感じがでるかも知れないからそれは1つのアイデアとしておいておいても損はない。
方言で思い出したけれど、独特の言葉使いを用いるものに官能小説があげられる。
僕は基本的に自分の息子と対話する際には文章を読みながら1人でいたすことが多いのだけれど、最近のインターネット至上文化では抜くための画像や動画が溢れており、それはそれは便利な時代になっている。
しかしそのぶん情緒というものが欠落しており、これを例えるならば折角風俗にいって恋人気分を味わいたいからという理由でハコヘルではなくホテヘルを選び、折角恋人になれるんだから連れ込み宿のごとき寂れたホテルではなく恋人たちが週末を過ごすような、そう、梅田は兎我野町の界隈で言えばホテヘル御用達の「やま久」ではなくあえて、そうあえて、イルミネーションが輝いている「リトルチャペルクリスマス」や「マンハッタン」へと足を向けていったにも関わらず、部屋に入ってすぐにイソジンを差し出されてしまう時の悲しさに似ている。
ふつう恋人は部屋に入ってすぐにイソジンを差し出さない。
なのでもし初めて一緒の夜を過ごす時にイソジンを手渡されたら、それはもう素人のそれではない、とキモに命じておくべきである。少し悲しい気持ちになるかもしれないけれど、それはプロとしての矜持がイソジンを持たせているのであり、なのでイソジンが出て来た以上、情緒なんてものは心の奥底にしまって彼女が与えてくれるであろう快楽に身を任せる努力をするべきである。彼女のすべてを素直に受け止めるべきである。情緒はないが、長所はある。そういうことだ。
そのように情緒というのはままプレイに関して重要な事項であり、その情緒が多大に含まれているものと言えばやはり素人体験談などであるが、その端々に年配男性の悲哀を含んだ言葉使い、文字使いが垣間見える。
チンボ、メンス、小生、蜜壷、男根。
その言葉からにじみ出てくる情緒というのは、何ものにも代え難いものである。
普段日常生活を送る上であまり耳にしないことはおろか口にすることもなく、またテレビで放送されないのはもちろんのことインターネットでもあまり見ることのない単語が平然と並ぶその紙面は壮観ですらある。
なので最近において僕の読書体験というのはめっきり素人体験談などに集中し、読書の秋は独書の秋なのである。
みたいなくだらないオチのつけかたしか出来ないのは、もう本当に活字離れが進んでいることの証左であり、今のインターネッツ時代が憂うべきもなのだという現れでもあることは間違いない。
しかしここで話を終えると本当にくだらない内容になってしまう恐れがあり、また僕自身はやはりどうしても自己顕示欲を抑えることが出来ず、本当はきちんとした本を読んでいるのだよ、じつはインテリなんですよということをアッピールするために、最近読んでいる本、通勤の時間を満たす為に読んでいる本の題名を挙げておきたいと思うけれど、そういえば先に書いたマンズノンノっていうのは、マンコのためのノンノってことになるんじゃないかと思うんだけど、あなたはどう思いますか。
下ネタをテーマに文章を書いたら下品な文章ができてしまうのは当たり前。
そういえば半年ほど前に、こんな記事を書いた。
母の日に則した「おかあさん」がテーマの、どうしようもない記事である。
その中で僕は「ちんぽ 感謝 プレゼント」で検索して到達出来るのはこの記事くらいだろう、みたいなことを適当にかいたのだけれど、本当にそうなのかとふと思い立ち手元にあるパソコンに向かって上記の言葉を検索してみると、マジでこの記事がトップに躍り出た。
ヤバい。
これが、これこそが頂きか。これが頂きからしか見れない頂点の風景なのか。と、画面の中に写っているもはや頂点としか呼ぶほかない僕がしたためた文字列にいたく感動した。
しかしこれほどの頂点的頂きに存在しているにも関わらず、この頂きの記事に関して閲覧数が増えたのかと問われればまったくといいほど読まれていない。
無理矢理にでも言い換えれば、存在はするのだけれどもそれを誰も見たことがない空想上の島、ラピュタと同じ様なものであろう。
しかもその島から降ってくるのは儚さをはらんだ女の子でもなく、もちろん金銀財宝でもムスカの叫び声でもない。ただのちんぽという言葉の羅列のみである。
これほどに誰も見たがらない、輝きがひとつもない頂きの島があるだろうか。命をとしてそこに向かおうとしたパズーの父親が不憫でならない。この島に比べれば、コンクリートで固められただけの島である沖ノ鳥島ですら観光名所と呼べることだろう。
では逆に、皆から見たいと羨望されている島といって思い出せるのは、沖縄やマルタ島、ムネオハウスのある国後島などがあるけれど、なぜそれらが思い出されるかといえばやはり娯楽としての側面が大きいからである。
沖縄には言わずと知れた観光名所で美しいビーチや豊かな自然が広がり、マルタ島はヨーロッパのへそと呼ばれていることからわかるように西洋の魅力がぎっしりと詰まった島であるし、街全体が世界遺産にもなっている。
国後島にはもちろんムネオハウスがあるしムネオハウスの総工費は4億1685万円らしいけれどそれ以外にもなにかあるかもしれないが僕はあまり興味がないけれどあのムネオがハウスを建てるほどの場所であるしそれは何かしらの娯楽的ムネオもしくムネオ的娯楽があるからだろうしムネオの名を冠するほどのハウスがある場所なのだから娯楽(ムネオ)には困らず、ムネオにとっては極めて素敵な島なのだろう、いうなればムネオ・オブ・ムネオ。なにしろアイヌとかロシアとか日本とかが取り合ってたし、死人も出てる。
でもムネオは生きている。
ムネオはとっても、生きているよ。
しかしまあこのような島は、人々が憧れを持ったり行きたがったり暮らしたがったり関わった人達を起訴したりと賑やかしいかぎりなのだろうけれど、かたや誰にも見られない島というのはなんとも物悲しいものである。
なのでせめて色んな人々に読んでもらいその存在を認知してもらうべく奔走するのがこの島の生みの親である僕の使命であろう。という訳で、どのような文章であれば人は読もうと思うのかを考えてみたいと思う。
そのためまず最初に今現在一番人に読まれている文章とは何かと考えてみたいのだが、まず紙媒体をメインで考えると発行部数で見るのが宜しいと思い検索すると聖書が一番発行されており、その発行数はギネスにも認められているとのことだ。
その内容と言えば人々の救いや指針となるような文章であり、それは僕の記事の真逆の頂きにある。聖書は誰かの心の支えとなり人を救う。
が、僕のちんぽは誰も支えないし救わない。それどころか指針として使った場合向かう先はよくて女性器もしくはテンガであり、またそれ以外の目的地があるとすれば真っ白な地図(ティッシュ)くらいであろうし、これを実際に使用したとしてもその早さの為(時に音速を超える)に誰かを支えることも救うこともできず「え、もう?」という言葉とともに悲しみを生み出すだけの器官に成り下がってしまうがここでは脇によけておこう。そうでもしなければ、悲しくて悲しくてとてもやりきれない。
さてでは紙媒体ではなくネットをメインで考えた場合、総閲覧数がもっとも多いサイトはフェイスブックであるという。そしてその中で一番フォロワー数の多い人はサッカー選手のクリスティアーノ・ロナウドであるとのことだった。
なのでネットで一番見られてるものを取り上げるとするならば、ロナウドのフェイスブックページがもっとも見られているものでありかつそこに書かれている文字列こそが世界で最も読まれている文章なのだろうと見当をつけていざそのページをのぞいてみると、書かれている文章は日本語ではなく英語やスペイン語で無学な僕にはもちろんまったく読めず、ではそこにある写真はどうだろうと思ってスクロールしてみると下着姿のロナウドが半透明のゴムボールに戯れている写真が並んでいたのだけれど、それを見た僕の感想としては「一体これはなんの写真なのだろう」という疑問がわいただけだった。
ロナウド、下着、ゴムボール。
前述の通り英語やスペイン語がわからないのでその画像から推測するに、彼が寝転がっているスペースは子宮であり、白いゴムボールは精子を表現し、下着姿のロナウドは卵子をイメージしているのではないだろうか。
つまりこれはロナウドの姿を借りた性教育の一環であり、精子はこうやって卵子に辿り着くんだよ、新しい命はこのようにして生まれるんだよと、人間の営みの神秘性を表現した一枚であるといえる。
こうやって並べてみるとよく分かる。まさに受精そのものだ。ロナウドだって精子を握りしめながら、とっても嬉しそうだ。
しかしまあそうやって色々見てみると 人が見たくなるもの、読みたくなるものというのは、何かしらの救いがあったり喜びがあったりするのだろう。では翻って自分の書いた記事を見返してみたのだけれどそこには救いや喜びはおろか、役に立つ情報すらひとつもない。何もない。虚無である。
ちんぽにプレゼントを贈る。
言葉の意味としては理解はできるし、またその行為自体も用意に想像出来るだろう。
しかし、しかしだ。
例えそれが想像出来たとして、だれがそれを行動に移すのだろう。行動に移す人がいなければ、それは何も意味がない。
そしてこれがもっとも重要なことなのだが、この記事を書いた僕ですら、自分のちんぽにプレゼントを贈ったことがないのである!!!
これはいけない。
他人が動かないことに対して腹をたてているにも関わらず、自分自身が何も動こうとしないのは愚の骨頂である。色々なカウンセラーが「他人を変えることはできません。だからこそ自分が変わるのです。自分を、変えるのです」なんていうことを声高に叫ぶ昨今において、自分が何もしていないのに文句を言うことはすこぶるださい。
という訳で、まず僕が僕のちんぽに感謝の気持ちを伝えよう、その為にはプレゼントを差し上げよう、と考えたのだけれど、僕の貧困な想像力ではいいプレゼントが思いつかず、検索してみることにした。
目の前に鎮座ましますパソコンに対していくつかのキーワードを入れた。
そのキーワードはもちろん、「ちんぽ」「感謝」「プレゼント」の3つである。
その結果、出てきた記事がこちらだ。
さて、なんとか頭を振り絞りながらここまで書いてきたのだけれど、もうこれ以上はどうしようもない感じになりました。なのでそろそろオナニーでもしながら滅びの道へと進もうと思います。
それでは皆さん、よい一日をおすごしください。
バルス(ドピュピュピュピューーーーー)!!!!!
とどのつまり、僕は餃子が好きです。
■
餃子、知ってる?
そう、その餃子であってる。
いやいや、爆発しない方、そう、そっちだ。
違うって、だからそっちじゃない。背中には張り付かないし、宙にも浮かない。
白いかって?
うん、それは合ってる。
帽子?
だからそっちじゃない。
ひだのある、ニラとニンニクとひき肉と小麦のやつ。
完全栄養食。
そうそう、その餃子の話がしたいんだ。
言い争いはしたくない。
俺は別に君たちと戦いたいわけじゃない。
だからタレの比率についても語ったりはしない。
タレだけで食べようがタレ7割ラー油3割で食べようがラー油7割タレ3割で食べようがお酢に胡椒たっぷりで食べようがおのおのが美味しいと思う方法で食べてくれたらそれでいい。
それでいいんだ。
みんなが美味しいって方法で食べたらみんなそれぞれ幸せになれるんだから。
餃子って、ハッピーな食べ物だからよ。餃子メイクスオールウェイズハッピー、いうなればタカノリ・メイクス・レボリューションの精神だよ覚えとけクソやろう。な、ダイスケ的にもオールオーケー?
そんな博愛きわまりない俺でもな、これだけはゆるせねえってことがあるんだよ。
あれだ。な?
もう分かるだろ?
幸せになれねえ餃子の使い方をしている奴らのことだよ。
分かんねえか?じゃあビシっと言ってやるよ。
「初めてのデートで王将に連れて行った時の彼女の反応で付き合うかどうかを決めるんだ」ってえらそうに講釈たれてるお前のことだよ。
なにが偉そうに彼女の反応だよ。
そんなことで人を判断するお前の浅ましさがまずゆるせねえ。そんなやつはさ、鼻から胡椒突っ込まれてもしかたがねえんだ。
な、お前の涙を誘発してその涙を空に撒いて大きな虹をかけよう。そしたらこの世界も少しは綺麗になるだろ。
なあ、お前の本心はアレだろ?餃子をゆるしてくれる女がいいんじゃなくて、金のかからねえ彼女が欲しいって言う一点だけだろ。
ほら、図星だろ、じゃあ素直にそう言えよ。
「俺はお金がないので2人で餃子2人前とラーメン2杯と酢豚をお腹いっぱい食べて大瓶ビール2本も飲んで3,088円(税込み)の王将にしかつれて来れないド底辺かつ浅ましく厚かましい男ですがどうですか」って問えよ。自分に素直になれよ。
間違っても餃子を試金石に使うなよ。
餃子はな、石は石でも試金石なんて誰かを不幸にする石じゃねえんだよ。石は石でも、それを見た誰もが笑顔になる光り輝く石、つまりはダイヤモンドなんだよ。わかるか?餃子は人を幸福へ導く羅針盤なんだよ。他人の良心を計る為のものじゃあねえんだよ。そこんとこ分かってる?リャンコーテル?
いいかげん大人になれよ。そんなことじゃあ誰もハッピーになれねえんだよ。
いいか。おれが本当の餃子を教えてやるよ。
あのな、まず餃子が食べたいときっていうのはな、心に穴が空いてる時なんだ。
しかもその穴をよく見るとな、ちゃんと餃子の形をしてんだよ。
仕事で疲れ、家庭に追われ、時間に苦しみ、人に傷つけられた時、心を見つめたら「穴」が空いしまっているだろう。
その穴をじっくりと見つめるんだ。そしたらどうだ、そのシルエットがホントに餃子の形をしているんだ。
ほんでな、その餃子の形をした穴にはな、もちろん羽なんかついてないし一口サイズでもないし、プルプルした水餃子でもないんだ。
焼き餃子の、しっかりと「焼き目」のついた餃子の形をしてるんだよ。焦げ付いた心にしっかりと馴染むような「焼き」がうっすらと見えてるんだよ。
そんでさ、その穴はさ、他のもので埋めようとしても埋まらねえんだよ。その穴を埋められるのは餃子しかないってコト。
スピードを求めるものがハードラックとダンスっちまうように、餃子の形にあいた穴は餃子でしか埋められねえんだ。だからさ、例え同じ様な食材を使ったものを食べても埋まらねえんだ。ニンニクとひき肉とニラを炒めたものを食べてもよ、その穴の空いちまった心は満足出来ねえんだよ。
どっちかっていえばさ、餃子を食うってのは、初恋の人との思い出と同じ様なもんなんだよ。汚れちまった悲しみに、今日も小雪が降り掛かるつって。中也関係ねえな。どれだけ色んな人と付き合っても、最初にしたウブで不器用なキスが忘れられない。どれだけ風俗で上手なフェラされても、初めて好きな人とベッドの中で裸で抱き合った感動を超えられない。それと同じ様なものなんだ。
な、分かるだろ?焼き餃子じゃなけりゃあ、この「穴」は埋められないんだよ。なんていうか、心の穴を埋めるものこそが「焼き餃子」なんだよ。これが真理だ。
焦げついた穴にぴったりと餃子がハマるだろ?そしたらビールを流し込むんだ。そのビールがボンドの様に心の穴の隙間と餃子を埋めるんだよ。平穏がさ、甦るんだよ。
そしたらだ、またびしばし身体を痛めつけることができるんだ。餃子とビールが、俺の心を支えてくれてるからよ。心の中でダイヤモンドが輝いてっから、多少の傷が身体についたって全然気にならねえんだよ。回転寿しじゃ、こうはいかねえよ。ベルトコンベアにならんでる寿司が自分に見えて来てしかたがねえからな。回れ回れメリーゴーラウンドじゃねえっつって。俺は久保田利伸でもないし、母ちゃんの奴隷でもねえっつうの。
そんでさ。
この世界で生きてたらさ、誰もがみな、ああ、このまま倒れてしまうんじゃないかって思う瞬間があるんだ。
もうダメだって倒れ込んで、このまま楽になりてえなって目をつぶって、後は諦めることさえできれば試合終了って瞬間がある。
ああ疲れたなあ、俺にしてはよく頑張ったなあ、お母ちゃんありがとうなあ、でももう無理かもしんねえなつって、目をつぶるんだ。
でもな。
そんな時、なぜかあの赤い看板と白い文字がまぶたの裏に思い浮かぶんだ。
稲妻の入ったロゴが、俺の心を立ち上がらせるんだ。
心が震え上がるんだ。
ああ、俺はまだ戦えるかもしんねえって。
まぶたの裏にその看板が見えた瞬間にさ、俺の手は地面をしっかりと掴んでゆっくりと立ち上がって、俺の足は崩れそうな身体をしっかりと支えて、1歩目を踏み出してしてるんだ。
その足の向かう先は、もちろん俺らの為の理想郷(ユートピア)だ。
這々の体で辿り着いたその先で、意識だってギリギリだ。
そしたらよ、そんな俺の状態を知ってか知らずか、椅子に座ったとたん目の前に一杯の水がおかれるんだ。
ああ、これがかの命の水、アクアビットなのかって思うほどに透き通ってるんだ。グラスの周りもさ、スワロフスキーが散りばめられたみたいに、キラキラ光ってるんだ。名中の水を一口含むとさ、さっきまで霞んでた目が見える様になるんだよ。そしたら視界も広がってさ、もう何も聞きたくないって思ってた耳にも言葉が入ってくるんだ。
「リャンコーテル、イーヤナギ、エンザーキー!」ってな。
ああ、天使が囁きってこんなにも胸に沁みるんだなあって思いながらさ、もうダメだ疲れた死んでやるって叫び過ぎて嗄れてしまった、もう使い物にならなくなったはずの喉を振り絞ってこう言うんだ。
「あ、先に瓶ビールもらっていいですか」って。
そしたらさ、無愛想なおっさんや無駄に化粧のこいヤンキーみたいな姉ちゃんが「ドンッ」つって音たててさ、ビールとグラスを脂ぎったテーブルにおくんだよ。
でもここで勘違いしちゃいけないんだ。
その音にきちんと耳を傾けると、ああ、これは無愛想や雑な仕事のせいなんかじゃなくって、「意識をしっかり持てよ」って応援の意味をこめた「ドンッ」だったんだな、いわば尾田栄一郎的な「ドンッ」なんだなって、なぜか分かるんだよ。それはきっとあれだよな、何がいいのかは口でぜんぜん説明出来ないんだけど、その演奏を聞く度になぜか泣きそうになるペルーからきて駅前で民族音楽演奏している人達の故郷を思い出すからだろうな。
そんでさ、エルコンドルパサー、コンドルが飛んでいくが頭の中で流れながらさ、ビールをグラスにゆっくりと注ぐんだ。手は震えてる。なんてたって極限だからな。ナミナミまで注いでさ、それが溢れない様に顎がテーブルギリギリまでくっつくようにしてそれを飲むんだ。それみたことか。喉が復活するんだよ。さっきまではサハラ砂漠みたいな乾きをしていた喉がさ、アマゾン河みたいに潤うんだ。これがイムジン河とかになると、余計な軋轢が生まれるかもしれないからアマゾン河がいいんだ。な?それに俺はこれからピラニアの様に餃子を食うんだから、アマゾンでまちがいない。イーーーーッ!!!!
ビールで喉が潤ったら、やっと食うもんの注文。苦悶と拷問に耐えた末のライドン(ride on)。
基本的に餃子と酢豚が俺の正義だけれど、正義っていうもんは1つじゃない。正義っていうのは夜空に瞬く星みたいなもんだっていってたのはアルスラーン戦記のナルサスだったっけ?まあ、今は関係ない。ただただ自分が食べたいものを選ぶのがいいさ。
あとはもう、待つだけだ。餃子が来る前にタレの調合をしたっていい。料理が来るまでにビールを飲み終えたっていい。そうすればまた追加すればいいだけだ。なにせ餃子2人前ラーメン2杯酢豚1皿大瓶ビール2本を飲んだって3,088円(税込み)なんだから。
そう、コレこそがユートピアのユートピアたる由縁だ。もし食べるのに疲れ果て、安心感に浸ってしまい、疲れてしまったら座ったままで寝てしまってもいい(店員さんに注意されたら起きようね、お兄さんとの約束だぞ?)し、隣のおっさんと盛り上がったっていい。皆それぞれに弧独を抱えているんだから、その孤独を互いの優しさで埋め合ったっていいんだ。
でも忘れないでくれ、それはあくまでも仮の安らぎだ。いくら幸せなユートピアであっても、俯瞰的に眺るとそこは弧独ではなく壺毒、つまりは殺し合いの世界でもあるってことだから。
さあどうだ、ここまで読んでくれたやつなら、分かり合えるよな?
餃子って奴は、いつだってお前のそばにいるんだって、お前を支えてくれる存在なんだって。
お前とおったらおもろいわって、どこのどいつもかなわんわって。100年でも200年でもいく年が過ぎても餃子だけはそばにおってくれるって。
まあ、そんなこんなで、俺は今日も大将にいく。
だって、王将こそが、俺が生きていく為の道標なんやから。めちゃくちゃ好きやっちゅうねん。
だからもし、こんな俺と王将に行ってくれる様な女がおったら、一生一緒にいてくれや。
ええかげんそうな俺でも、しょうもない裏切りとかは嫌いねん。
尊敬してくれる相手と、共に成長したいねん。
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以上が、先週疲れた時に妻と餃子を食べにいった時のレポートです。
終わり。