僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

プロフィール欄をきちんと整理、管理することが読者を増やす事につながります。

「好き」という感情は、人が動く為に、もしくは人を動かす為の強い引力を持つ感情である。

 

例えば好きな人との濃密な30分を過ごす為に世の中のおっさんたちは数枚の万札を握りしめて風俗へと向かうし、好きなバンドのライブに通う為に世の中の女性たちは万札を持ったおっさんたちからお金をむしり取ろうと夜の町へ向かうし、スキニージーンズをはいてチェスターコートを着てマッシュカットをしている男の子は夜の町の女の子の落とすお金を目指して幸せのパンケーキを食べたりタピオカが浮いたミルクティーを飲んだりしてそれをインスタに上げて「ね、僕こんだけ新しくて美味しい店知ってるから一緒に遊ぼう?っていうかそれは建前で本音はヤリたいヤリたいヤリたい」みたいな感情を垂れ流して結果いろんなものをおごってもらってホテルに向かうし、そうなった結果ホテルが儲かる。

 

そのように好きという感情を中心として経済は回り、おっさんは快楽を得て満足、女の子はライブを見る事が出来て満足、マッシュの男たちはやれて満足、ホテルも儲かりと様々な人達が笑顔になっていく。

 

まったく関係ないのだけれど僕は爆笑オンエアバトル世代なので、タピオカの新店が出来る度に喜び勇んで群がる人達の事を尊敬の気持ちをこめて「タピオカ超特Q」と呼んでおります。

 

そのように「好き」という感情は個人の幸福にとっても社会経済にとっても好循環を生み出すものなのでとても素晴らしいと思うのだけれど、では翻って自分の好きなものは何だと考えた時、これだ!と胸を張って言えるほど好きなものがないことに気がついた。

 

例えば普段僕がよく使うインターネッツツイッターはてなブログなのだけれど、それらのプロフィール欄には各々の好きなものが並べられており、また別の人々がそういったプロフィールを確認し、自分と同じ様な趣味嗜好を持った人をフォローしたのち「初めまして!ワタシも◯◯大好きです!フォローさせていただきました!今度のライブ一緒に行きましょう!」みたいなやり取りの後SNS上で仲良くなったりしてグループを成形したりするのだろう。

 

では翻って人様に言えるような好きなものがない僕のプロフィール欄に書かれているのは 「 そうです。私が下品なおじさんです。」という一文のみであり、しかしよく考えるとこのプロフィール自体がすこぶる変であり、なぜかと言えばこういった文章は誰かから「あなたは下品なおじさんですか?」もしくは「あなたは下品なおじさんですね?」と問われた時にのみ成立する文であるからでして、誰にも問われていないのに全世界に対して「そうです。私が下品なおじさんです。」と書いている時点でただのキチガイであり、当たり前であるが誰にも訴求する事ができず、すなわちこのプロフィールは失敗しているとなる。

 

そしてそもそもが志村けんのコントの台詞のパクリであるからなおさらのことたちが悪いし、では僕が志村けんの事をプロフィール欄に書けるほど好きなのかと問われると、別にそうでもないのもたちが悪い。

 

このブログのタイトルである「僕のソーセージを食べてくれないか」に書かれている様に、僕はソーセージを作ることがよくあるのだけれど、では果たして世の中にソーセージが好きな人にとってこのブログが有益かと言われればまったくもってそうでもなく、なので必然的にプロフィールにソーセージが好きです、とは胸を張ってかけず、なおのこと「ソーセージのこと、もっと知りたい」と考えてインターネットの荒波をかき分けてきたピュアな方々がこんなブログに辿り着いてしまったら、逆にソーセージのことを知りたいのにこんな下品なものを読ませやがってと逆上されることの方が多い気もする。

 

これは例えば船の上から落ちてしまって海を延々と泳いだのち、命からがら陸地にたどり着いたと思ったらそこに松岡修造と張本勲が並んで立っていて「なんでそこで陸に登ろうとするんだ!もっとやれる!死ぬ気で頑張れば死なない!もっとおおきく腕を使ってもっと泳ごう!な!」「そうだ!そんな中途半端なままじゃ、喝だ!喝っ!」と唾を飛ばされながら罵倒された挙げ句そのままターンして海へと引き返さなければならないような状態だろう。

 

ポジティブは時に人を殺す。

 

そう、ポジティブは時に凶器にもなりうる「恐ろしさ」があることを忘れてはならない。

 

 

と、何か意味があるようなことを書いてみたけれど先が続かない。なぜなら、別に意味がないから。

 

 

みたいなことを延々と考えていたのだけれど、そう言えば、前に書いた記事で大々的に「餃子が好きです」「平野レミが好きです」みたいなことを書いていたので本当に僕の記憶力はどうにかしているのだけど、この餃子に対する好きって言うのは、なんていうのかな、旦那のことは好きだけど、でもやっぱり長い間一緒にいるとトキメキとかないし、だからちょっと刺激が欲しいっていうか、いつもと違う感じを味わいたいっていうか、だから彼は好きだけど不倫とかは全然考えてなくて、いうなればセカンドパートナー的な好きっていうか?みたいな感じの好きなので、もう別物として考えてください。

 

よしんばこれで僕のプロフィールが、「そうです。私が下品なおじさんです。好きなもの:餃子」になったら、ただでさえ下品なのにそのうえ口臭もきつい、みたいになってしまうし、そうなると下品なだけのはずのブログが「下品で臭いブログ」になってしまい、その頭文字を並べるとGKBになりこれは1歩間違えるとソ連時代の諜報組織みたいになってしまい、もしそれが拡散されてしまうと僕が実は共産主義のスパイなのでは?というあらぬ疑いをかけられることにもなり、しかし僕自身はそんなことになってるとは気がつかず、いつも通り仕事をさぼって家に帰って呑気に自慰に耽っている最中に逮捕投獄みたいになってしまうかも知れず、下半身剥き出しのままで「お前はあんな意味のないブログを延々と60数本も書いている。これは諸外国に向けた暗号なんだろ」みたいな尋問を受け、「いや、本当に意味のないブログなんです」といっても信用してもらえず、そんな状態であるにも関わらず非日常的な情景に興奮してしまい勃起することも可能性としては多大にあり「なぜお前は尋問を受けている最中に勃起しているのだ」と問われた際には胸をはって「ええ、なぜなら私はMだからです」と答えるだろう。信じるか信じないかは、貴方次第です。あと平野レミは普通に好きなのだけれど、レミはきっと僕みたいな人間に好かれたくないだろうからプロフィール欄には書かないでおきたい。

 

なので現実的に考えてプロフィール欄に「好きなもの:餃子」と書く事で逮捕される可能性があるならそんな危ない箸を渡る必要はことさらないのは明らかであるし、また僕の餃子好きもセカンドパートナー的好きであり、つまりは外で食べるのは好きだけれど家で毎週餃子を作って、今回は前回の反省を活かして具のバランスを変えてみましただの今回は具に紫蘇を混ぜてみましただの自家製の皮にほうれん草のペーストを練り込んで翡翠餃子にしてみましただのといった餃子ガチ勢からすれば僕の餃子好きというのはもう本当にミジンコやカンピロバクターのごとき小さな好きであり、本当に餃子が好きな方々は心が広いので「全然そんなの関係ないよ!好きっていう気持ちがあれば全然大丈夫だよ!ね、だからコレからもヨロシク!」なんて嬉しい言葉を言ってくれるでしょうけれど、僕自身が自分を矮小な餃子好きである事を自覚している以上、そんな輝きのある方々の中に入ろうとはおもいますまい、こんな状態で餃子が好きと名乗るのはおこがましいのでとりあえずプロフィール欄は今のままでいこうと思います。

 

しかしそう考えるとプロフィール欄に自分の好きなものを並べるのには覚悟が必要だな、と思うのとともに、そういった好きなものを並べている人達は凄いなあ、と思うし、またブログ内で色々な好きなものを書き連ねている人達の知識と愛情にも感服する。

 

では逆に考えたとき、好きなものの裏返しとして例えば僕が人様から感服されるようなもの、いうなれば知識及び愛情をもっているものが本当にないのかと問われると、僕自身の性格上触れ合ってきたもののどれもが中途半端であり、そうなると僕は「中途半端なものが好きってこと?」と自問自答したけれど、では中途半端について何か書けるのかと言えばなにも書けないので決して中途半端が好きにあらず、ではそれはそれとして、普段からよく触れるものはなんだろうと考えた時にでてきたのは古本であった。

 

そう、古本は毎週のように買っているしなにか語れるものがあるのではないか、と考えたところ、そう言えば先日古本屋にて僕は僕の星座である水瓶座の占いの本を買ったのだ。

 

ただその本は「2015〜2017年の水瓶座の運命」みたいなタイトルで、その本を僕が買った理由は「おうおう、なんぞこれは。このように未来を占ってあるようなちょこざいな本、ホンマに当たってたんかいな。おっしゃ、今は2019年、過去の自分に照らし合わせてこの占いの通りに人生が進んだかみてこましたろやないかい。外れとったら承知せんど」などとジャリン子チエに出てくるテツのごとき自身の性格のわるさを煮詰めたような購入動機であったことを報告しておく。

 

しかしこういった他人を貶めるような言動は殆どの場合自分に還ってくるのが世の定め、先に書いた様に僕には記憶力というものがニワトリの次くらいになく、また色々無精であるため日記的なものもつけておらずさらには予定表みたいものもなく、自分が2015年から2017年までどのような生活をしていたのかとんと見当がつかないことを見落としていた。

 

そのためその占いの本を読みながら「へえ、この時期は星の重なりかたが悪かったんだあ。このときなんかあったかなぁ?わかんないや。あ、このタイミングで財布を買うとよかったんだあ。なるほどねー、勉強になるー。じゃあ今年はどうなんだろぉ?」とただ単に過去の星の動きに関する情報を読みあさるだけになってしまい、口調もいつの間にかVERY読者のそれ。その占いが本当に当たっていたのかどうかも分からず、ただただ無駄な時間が流れたのみであった。

 

 

少し話を戻すけれど、例えば他の方々(僕以外の民)は、どの程度の好きを「好き」として話をしているのだろうか。好きの数値化、というか感情の数値化というのは不可能なのだと思うし、あくまでも形而上的に話をすすめるが、広く浅くでも好きだし狭く深くでも好き、では狭く浅くの人は果たして好きを名乗る素地はあるのだろうかという疑問だ。

 

とりあえず僕に話の基準を置き、分かりやすい様に比較対象を出して話を続けたい。

 

まず、僕と妻はどちらが漫画が好きであるのか?という比較。

 

僕は少年ジャンプを毎週かっており、あとにあげるのは立ち読みあるけれどマガジンはいくつか拾い読みしながら並行して単行本を買っているし、青年誌はヤンジャンとモーニングは軽く目を通す程度でありビックコミックは先が気になる漫画を少し読み、これもその漫画の単行本を揃えているような状態だ。また、昔好きだった少女漫画をネットで漁って買ったりもするし(ご近所物語天使なんかじゃない彼氏彼女の事情はもはや手放せない状態になっている)、これとは別に作家によって過去作も揃えていこう、という気概もある(お金が追いついていないので、そこは目をつぶってほしい)。

 

かたや妻の趣味は偏っており、最近の漫画にはあまり興味を示さず、棚にある漫画もほとんど増えてはいないが、AKIRA、ハイスクール奇面組コジコジなどを好んで読み、どの本も大切に読み返したりしている。

 

これは両方とも漫画が好きであり、また2人で漫画喫茶に行ったりもするので行動としても漫画が好きだといえるはずなのだけれど、しかしではもし2人で「どちらが漫画が好きか」と言い争いをしたとして、そこにあるのはどれだけの時間及びお金をかけたかという基準で勝敗をつけようとした際には僕の勝ちだけれど、どれだけその本を大切にしているかという判断基準であれば妻に軍配があがるだろう。

 

そうなるとひと言で好きといってもどのように好きなのか、という詳細が分からなければお互いに話し合いが出来なくなってしまう。

 

また、狭い、浅い、広い、深いということも数値的な線引きが無ければ判断が難しいものでもある。

 

たとえば「僕はね、漫画が凄い好きなんだけれど狭く深くタイプの好き者でね」みたいな人がいて、では何が好きなんですかと問うたところ「頭文字Dの4巻です。あとの巻は読んだ事もないですけどね。うふふ」みたいな本当に狭く深いタイプの奴がいた場合、僕が思うのは「ああこの人は本当に狭く深くの人なんだなあ」という当人の意見を素直に汲んだ意見などではなく「これはただの頭おかしいやつや」という判断になってしまうのは当然である。

 

しかし明確な判断基準が用意されていない好きという概念で考えた場合には彼の好きは極めて真っ当な好きであるし、誰もその好きを止めることなんて出来ないし、もし何かしらのタイミングがあって奇跡的に彼の葬式に立ち会う日が来たならば僕は僕の独断で彼の棺桶の中に頭文字Dの4巻を入れてあげたいとは思うけれど、しかしでは日常的に彼と漫画の話がしたいかと言えば絶対にしたくない。

 

だって、いやでしょう。こちらが最近のジャンプの新連載の話を振ったにもかかわらず、「おや、その話は頭文字Dの4巻における11ぺージの左上の台詞でいうところの『本当にスタートしちまいやがった・・ァ』ですね!!分かるーーー!右腕テープでとめてステアリングしてたあのスリリングな感じですよねーーーー!!分かりまくるーーーー!!」とか言われるのだろう。

 

僕には何も分からないから。

 

このような話は極端かもしれないけれど、しかし実際問題として僕と妻の間でも同じようなやり取りがあるし、だからこそ好きという感情に対して、というか、好きという感情を外に出すことに対して、僕はどちらかといえば消極的なスタンスを取るようになってしまうのだ。

 

だからといってこれは他人の好きをバカにしている訳ではなく、ただ好きという気持ちで素直に動ける人達は凄いな、という感想とともに、好きという気持ちに素直に動ける人達に対して憧れを持っている、というのに近い。

 

とここまで書いたのだけれど普段よりも幾分か頭を使ったのでもう限界、そろそろ頭と身体をスッキリさせるために自慰がしたいな、なんて思考が頭をよぎったんだけれど、あれ、そう言えば僕、好きなものがありました。

 

 

そう、オナニーが好き!

 

 

もう一度言ってみよう。

 

 

そう、オナニーが好き!

 

 

さて、ではここからは僕が自身をもって好きと言えるもの、ずばりオナニーについて書きたいと思うのだけれど、そういえばオナニーをするっていうのと同じ意味の言葉を知っていますか?

 

「マスをかく」っていうんです。

 

そして、このようなブログによくあるような、自分語りが過多の文章を何というかご存知ですか?

 

「オナニーみたいな文章」っていうんです。

 

なのでこのような文章を書いているということは、マスをかいてることとほぼ同じであり、この文章を読んでいるということは、僕のオナニーを見ているというの同じなのである。

 

そしてこの僕はMであるので、このように自分のオナニーがパソコン越しという間接的な状態であれ、見られている、という事にいたく興奮するのだけれど、これだけ興奮出来るのであれば、これはもう「好き」といってもいいですよね。

 

なので僕の好きな事は、オナニーを見られることです。なんてことを書いていると、本当に自分が下品な人間なのだな、と痛感する次第であるが、それを繕ってもどうしようもないのでこの下品な状態を保ったまま、今後も邁進させていただきます。

 

 

そうです。私が下品なおじさんです。

 

 

そう、全ては僕が悪いんです。

歳を取ると、普段聴く音楽ですら気をつけなければならない。

 

いや、ならないというと語弊がある。正確にいうのであれば、別に何を聴こうがそれは個人の自由なのだけれど、それを対外的に出す時には、ある程度気をつけないと「ただ気持ちだけの悪い人」になってしまう可能性がある、ということだ。

 

先に書いておくけれど、別に音楽は誰かから強制されるものではなく自分の聞きたいものを聞くのが一番だと思っているし、今聴いているものがなんであれ、それは誰からも否定されるべきではないというのが、僕自身のスタンスである。

 

また今回は普段と毛色の違う話になるのですが、そもそもこのブログにシモネタを期待している人がいるはずないと思っているのだけれど、もしそんな奇特な人がいるとすれば本当に申し訳ないので最初に謝っておきたい。ごめんね。

 

そして実際にこの謝罪を真に受ける人がいたとしたら、そういう人は何かの病気なのかも知れないので病院にいった方がいいと思いますよ。そこでもらえる処方箋の中身は多分ペニスリンとかそういうくだらないものだとは思うけれど。

 

さて、この話の発端は、先日妻と話していた時におっさんがあいみょんを聴くのはどうなのか、という話になったことである。そこでの着地点は先に書いた様に「別に好きならそれでいいんじゃないか」というものだった。

 

その次にお題にあがったのは西野カナである。おっさんが西野カナを聴いていたら、どう思われるのだろうか、というものである。

 

ここで1つ気をつけなければならないのは、あいみょんの時には「聴くのはどうか」というものだったのが、西野カナの場合には「聴いていたらどう思われるか」となっている点である。

 

まず西野カナの特性について書いておくと「主に女性をターゲットにした女性のパーソナルに則した女性の為の恋愛観」があげられ、その歌詞作成にはインターネットを利用したマーケティング手法が使われていたりするので共感性が多大にあり結果として若い女性が聴くようになる、というのが、ごく簡単にかいつまんだ説明になると思う。

 

さて、その共感性をメインにおいた西野カナであるが、さてではおっさんが西野カナを聴いていた場合、どのような反応が出てくるかといえば「なぜおっさんが女子目線の曲を聴いているのだ」「お前は何に共感しているのだ」「若い女の子との会話の為に聴いているのだろう」というようなものが予想されるし、この予想は僕が僕自身に思うものであるから信頼度は言わずもがな100%。

 

ここでもう1人、女性から共感されるアーティストにご登場願いたいのだけれど、何を隠そうというか何も隠さずにそれはaikoである。

 

あるサイトでは恋愛曲の巨匠、なんていうキダ・タローもビックリしてポックリ逝くような呼ばれかたをしていたけれど、しかし男性、というかおっさんがaikoを聴いているといっても、別に違和感は覚えないのではないだろうか。なんせ恋愛の巨匠だから。ナイトスクープではキダ・タローに恋する中学生だっていたんだから。

 

そしてそれとは別に、おっさんだって恋愛したっていい。誰にだって恋する資格はある。だからこそ、おっさんにも恋愛の曲を聴く資格はあるのだ。

 

そう、おっさんだって恋愛してaikoに涙してもいいのである。しかし、恋愛してaikoに共感してもいい、というのと、恋愛していいけどそこで西野カナを聴く、というのには、例えるならばおすぎとピーコと同じくらいの差がある。

 

少し脱線するが、比喩には物事を分かりやすく伝えるという役割がある。天使のように可愛い、悪魔のように残酷など、なにかと物事を分かりやすく伝えるために使うのが理想である。なので、ここでおすぎとピーコを比喩に出すのは、あまりに間違っている。分かりにく過ぎるし、その分かりにくさ以上に、この話の流れでいくとどちらかが気持ち悪い、という結末しか待っていないように思われるからだ。

 

それがおすぎになってしまうのか、ピーコになってしまうのか、書いている僕ですらも今からドキドキしている。ああ、どっちだ、どっちが気持ち悪い役割を担ってしまうのだ。その緊張感を維持したまま、先に進もうではないか。

 

おすぎは映画の評論家であり、ピーコは服飾評論家である。

 

そして、また話が複雑になるのが承知ですすめさせてもらうが、恋愛を語る際には2つの面があり、それは客観でみるか主観でみるかの違いである。

 

恋愛の客観というのは矛盾している感じがしないでもないが、実はそうではなく、ただ相手の事をどう思っているか、もしくは相手の感情に対して自分がどうであるかを見ることができている状態である。いわば2人及び2人を取り巻く環境、いうなれば情景を描いているので、客観で見ているというのはある意味で映画的である。

 

そして恋愛の主観とは、自分の気持ちはこうなのだ、というある種の一方通行の感情をメインに据えた状態である。これを無理矢理例えると、だれかが可愛いといったものではなく、自分が可愛いと思ったものを身につけたいというような状態、ファッション的なものではないだろうか。

 

さてこれでお分かりいただけたどと思うけれどaikoがおすぎであり西野カナがピーコになってしまった。

 

 

どうだ、どちらが気持ち悪いのだ?

 

しかし!

 

ここで勘違いして欲しくないのは、実はそのどちらが気持ち悪いというものではなく、西野カナ的ピーコを聴いているおっさんが気持ち悪く感じる、という点である。

 

なので、真に気持ち悪いのは、おすぎでもなくピーコでもなく、客観だの主観だの偉そうな御託を並べてさも含蓄のありそうなことを話しながら、実は自分のことだと話すのを恥ずかしがっていた、この僕である。

 

それはそうだ。結婚をしていながら「もし運命の人がいるのなら」とかほざいてたら殴り倒したくなるしこれが私の「トリセツ」だといいながらオナニーの頻度とか好きな体位だとか欲しいお小遣いの金額だとか書いた紙を渡されたら殴りたくなるしこれが僕が君に捧げる「bedtime story」だよとかほざいてゲロのパヒュームのする口から全然興味のない卑猥な単語を聴かされたりしたら殴り倒したくなるだろう。

 

それだけにあらず。

 

恥を承知で書くけれど、僕は家で西野カナを歌っているのだ。

 

どうかみなさん、ちょっと妻の立場になってみてください。

そして想像してみてください。

 

ラジオから西野カナがかかると、旦那がおもむろに立ち上がり「あなたの好きなところ」のサビの部分を歌いだしたところを。そして、我が妻が思っているであろう事を。

 

いつも一生懸命なとこ

 

きちんと働いてもいないくせに偉そうな事をいうな

 

意外と男らしいとこ

 

全てにおいて女々しい

 

友達想いなとこ トマトが嫌いなとこ

 

友達なんていたことないしトマトは好きだろ

 

たまにバカなとこ

 

いつもだ

 

 

このような状態が、ラジオから西野カナが流れる度に繰り返されるのだ。オノ・ヨーコジョン・レノンですら、僕がいなくなることが世界平和につながるんだって想像(イマジン)してしまうんじゃないかな。

 

だからそもそも、いい歳こいて西野カナを聴いてる僕が悪いんです。別に恋愛はしていませんが、なんとなく歌いたくなる感じにポップじゃない?カナやんって。

 

でも本当に問題なのは、きちんと西野カナを聴いた事がないのにうろ覚えで知ってる曲のサビだけ歌うような僕みたいな人間が「カナやん」とか呼んで調子にのって若者ぶっているという、許されない事実ではないでしょうか。 

 

はい、そういうことです。僕が全部悪いんです。

 

 

 

 

社交辞令は社交辞令として受け取ってもらわないと困る。

俗にホルモンと呼ばれる、内臓類が好きだ。

 

味はもちろん、見た目とか触感がなんとなく女性の陰部のように思えてエロいので好きなのだ。

 

しかしグロいのは苦手なので映画とかで内臓ブシャーとかは苦手である。録画していたアンナチュラルも、ご遺体を触るシーンはいつも薄目で見ている。だいたいのシーンを薄目で見ているので井浦新の目は余り見えていないが石原さとみの唇はきちんと見えているし、窪田正孝の唇はいつも不健康そうだと思っている。

 

もっというなら赤貝とアワビも大好きである。さらにもっというと観音開きという響きも好き好き大好きちょう愛してるなので、だれか観音様を見せてくださいと思うとともに蜜壷という言葉もさらにさらに大好きなので、だれか蜂蜜(比喩)を舐めさせてください。僕はプーさん以上に蜂蜜(比喩)が好きだと断言出来る。

 

しかし今日はそんな僕の趣味嗜好を書くのではなく、久しぶりに料理の事を書きたい気分なので、最近美味しかったもの、内臓のことを書こうと思う。

 

そう、それだ。その話だ。内臓の話だ。最近食べて美味しかったのは豚のハツ、つまりは豚の心臓である。

 

僕は日常的に料理するのだけれど、そう言えば普段から喜び勇んでシモネタを書いているような人間がいくらきちんと料理をしているといっても、僕個人的には信用できない気がしている。つまりは僕が僕を信用出来ないという構図となり、なんとなく自己分裂の人間みたい書きかたですが、それがなんと現実なのです。

 

シモネタばかり言っている人間の料理を想像すると、なんとなくではあるが全部が汚く見えてしまう気がする。お前はちんこを触った手でそのまま料理しているんじゃないか、という疑念が拭えないのである。自分で調理しているにも関わらず。

 

しかしながら、ちんこが汚いもの、というのも思い込みの1つである。僕は舐め専なのでそういった場面にでくわえすことがあれば喜んで女体の全て、そう全てを舐め尽くしますが「ちょっと、、そんなところ、、、汚い、か、、ら、、だめだよ」と言われると余計に興奮してしまい「全然汚くないよ。むしろ綺麗だよ、というか美味しいよ」という風に返答しますし、現に言葉にするだけでなく心底そのように思っているしできれば行為の後には汗ばんだ脇でおにぎりを握って欲しいくらいだ。

 

さて、そんな僕ではあるが料理をする際にはもちろんきちんと手を洗う。当たり前である。ちんこなど以前に、この世界は汚いのだ。うす汚れている。目に見えないウィルスもいっぱい存在するし、目に見えるものであれば一番汚いのは人間。そしてその数もいっぱい。なにより私もその汚い人間の1人であるので、汚い人間が料理をする前に手を洗うのは極めて当然の行為である。

 

なにより、僕はお腹が弱いのだ。冬に冷たいものを食べればお腹をこわし、辛いものを食べてはお腹を壊すのを繰り返している。なので衛生面には余計に気を使うようになっている。更に言うと、頭も少し弱い。なので本来であればきちんとした料理のブログ、読んだ人が思わず作りたくなってしまうようなレシピや食欲をそそるような情景を書こうとしているにも関わらず、なぜか変な言葉が入ってしまいいつの間にかうんこちんこが画面を装飾してしまっているような体たらくである。僕にとっては、陰毛がエディブルフラワーのごときものである。

 

そんな人間なのでもう一度言うが人一倍衛生面には気を使う。爪はいつも短くしているし、肉類や魚類を触る時には調理に使える使い捨てのゴム手袋を使う。

 

爪を切る。

ゴムを使う。

 

そう、まるでセックスの心構えと同じである。なので僕はいつの間にか「セックス=料理」と頭の中で変換している節がある。なので別に夫婦間でセックスが無かったとしても僕が作った料理を妻がおいしいと食べてくれたのならば、それはもうセックスをしたのと同等なのである。極めて手軽。

 

なのでもしセックスをしたいけれど相手がいない、という人がいれば、誰かに手料理をつくってあげればよいと思う。しかしこれが弁当になるとなんとなく味気ない気もしてしまう。というか弁当になるとそれはセックスではなく「テンガに自分の裸の写真を添えて渡した」くらいのものではないだろうか。

 

なので出来れば、自分のテリトリーにおびき寄せた上で手料理をごちそうする、というのが、やはりセックスである。

 

食卓という名のベッドの上で繰り広げられる官能。

 

まずは相手の上着を脱がすために温かいスープを提供し、次は身体の温もりを求めさせるためにあえて冷たいサラダを食べてもらう。少しとろみのついたシーザードレッシングはいやらしさを身にまとい、想像力を刺激する。少し黄色かかった白ワインで喉を潤すと、開放的になった気持ちと反比例する様に徐々に固くなってくるフォークが貴方を狙いにくるでしょう。ですがそこはパンで軽くいなして焦らす事を忘れずに。相手が今、心から求めているのはあなたのお肉なのです。でもそこで服を簡単に脱いで見せてしまっては折角のコース料理も台無しです。簡単に貴方のサーロインに到達出来ないように、魚介類を挟んできちんと魚の小骨が取れる相手なのか様子を見てみましょう。魚の食べ方が綺麗な人は、下着を脱がすのもスマートなのです。

 

ね、これは何?

まあいい。そもそもであるが、例えば前戯をおろそかにして即挿入を求めるような人間は、料理もへたくそだ、という勝手な持論を僕はもっている。セックスも料理も、相手が求めているものをいかに提供出来る事が重要である。

 

少し脱線したので話を戻す。

 

豚のハツである。ハツに限らず内臓類には少し臭みがありそれが苦手な人も多い。なので煮込み料理にする際にはその臭みを取る為に下茹でしたのちにまたハーブや香味野菜で煮込んだりもするのだけれど、いかんせんコレがめんどくさいのだ。そして僕はその臭みが苦手ではないので、塩水で揉んで洗ってそのまま煮込んでしまうこともある

 

が、昨日は煮込みすらもめんどくさかったので何かいいものがないか、と冷蔵庫を漁っていると昨年に作っていたニンニク醤油があったので、一口大に切って塩揉みして水洗いしたハツを、それに軽くつけこんで焼く事にしたのだ。

 

そして一切れ焼いて味を確認したところ、なんともいえず美味かったのである。

 

そんでね、もうね、一口食べて美味しかったら、なぜか身体が動きだすよね。

 

仕事で疲れてるからもうあとは寝るだけなのつって布団に寝転がったのにいたずらで首筋にキスされたらすぐに高ぶってしまって頭の中から睡眠がいなくなって「僕も舐めたいですぅぅ」つって急にタラちゃんが目を覚ましてしまうのと同じような感じ。ね、「だめ!かつおに聞こえちゃう!ワカメが起きちゃう!ああ、あああ!三河屋でーーーす!!!!」つってね。

 

まあそんな感じで僕の身体がサブちゃん全開になったので原付並みのスピードで身体を動かして、もうこれはあれ、「いこうぜピリオドの向こうへ」つってね。

 

漬け込みハツに合わせるにはこれしかないでしょっていうので、冷凍庫から凍らしてたご飯取り出して水とウェイパーとすりおろし生姜で簡易的に中華粥つくって、野菜室にキャベツがあったので千切りにしてジップロックに入れてすりおろしにんにくと醤油とみりんとすりゴマとごま油入れて振って箸休めに、そんでもう、大きめの器にさっきの中華粥を入れて焼いたハツのせて、ごま油かけて刻んだネギ散らして、食ろうた。

 

想像以上に上手かった。妻も満足していた。これ、すなわちセックス。サザエとマスの異種間行為。「ああ、フネこいじゃう!!波にのっちゃう!!!あああ!!こんっっちわーーーーーーーーーー!!!!!」つってね。

 

ああ、そういえば世間は七草粥の時期なのに、我が家はハツ入りの中華粥かと思いながら、でもまあ何にせよ美味しいは正義だよね、と言いながら、お粥とハイボールの飲み過ぎでお腹たぷたぷ。

 

そんな感じで、次はハツと豚の耳と豚足を大鍋に突っ込んで、アホみたいな味噌煮込みを作ってみたいなあ、なんてことを思っているのですが、暇な方、誰か食べにきません?

 

ええ、これはもちろん社交辞令です。本当に来られても困るので。うちの猫がビビるので。社交辞令は社交辞令として受け取ってもらわなければ、困るので。